高校/政治
1959
キューバ革命が起こる
フィデル=カストロ/チェ=ゲバラ
語呂
覚え方
ひどく号泣(1959)キューバ革命
ひどくごうきゅう(1959)キューバ革命
1959年1月1日、キューバのバティスタ独裁政権が崩壊し、フィデル=カストロ率いるゲリラ軍が首都ハバナを制圧しました。カストロ政権は農地改革やアメリカ系企業の国有化を断行し、アメリカとの対立を深めます。やがてソ連に接近して社会主義を宣言したキューバは、1961年のピッグス湾事件と1962年のキューバ危機を経て冷戦の最前線となりました。チェ=ゲバラはその後も世界各地で革命運動に参加し続け、「ゲリラの英雄」として語り継がれています。
この記事のポイント
- カリブ海の島国キューバでは、アメリカが支援するバティスタ独裁政権が国民を抑圧していた
- フィデル=カストロ・チェ=ゲバラらがシエラ=マエストラ山中でゲリラ戦を展開し、1959年1月に革命成功
- 農地改革・アメリカ系企業の国有化によりアメリカと対立、1961年に国交断絶
- ソ連に接近して社会主義を宣言し、1961年のピッグス湾事件・1962年のキューバ危機を招いた
- キューバ危機はソ米が核戦争の瀬戸際まで追い詰められた冷戦最大の危機であり、その後の核軍縮外交に影響した
ここが面白い「カリブ海の小さな島が、超大国アメリカに立ち向かい、社会主義国家を打ち立てた」――1959年の革命は、冷戦を核戦争の瀬戸際まで追い込んだ震源地となった。
キューバ革命は突然起きたわけではありません。アメリカによる経済支配・バティスタ独裁の腐敗という長年の蓄積と、カストロたちの粘り強いゲリラ闘争の末に生まれた革命です。その流れを順に見ていきましょう。
アメリカとキューバの深い関係
キューバは1898年の米西戦争を経てスペインの支配を脱し、1902年に共和国として独立しましたが、実質的にアメリカの強い影響下に置かれました。プラット修正条項によりアメリカはキューバへの干渉権を持ち、砂糖農園や鉄道・電力などのインフラはアメリカ資本が支配しました。こうした半植民地的な状況が、反米ナショナリズムの温床となりました。
バティスタ政権の独裁と腐敗
フルヘンシオ=バティスタは1952年にクーデタで政権を奪い、アメリカの支持を受けながら独裁体制を固めました。政治的反対派への弾圧・贈収賄の横行・カジノ経済による格差拡大が続き、国民の怒りが高まりました。この不満こそが革命運動の原動力となりました。
モンカダ兵営襲撃から山岳ゲリラへ
1953年7月26日、カストロらは武装蜂起してモンカダ兵営を襲撃しますが失敗し、カストロは投獄されます。特赦を経てメキシコに亡命したカストロは、アルゼンチン出身の医師チェ=ゲバラと出会い、「7月26日運動」を結成します。1956年12月に武装グループでキューバへ上陸し、シエラ=マエストラ山中でゲリラ戦を開始しました。
革命の成功とバティスタ政権の崩壊
政府軍の掃討作戦にもかかわらず、カストロらのゲリラは農民の支持を集めながら勢力を拡大しました。1958年末にゲバラ率いる部隊がサンタ=クラーラを制圧すると、バティスタは国外に脱出。1959年1月1日に革命は成功し、カストロが実権を握りました。
農地改革とアメリカ資本の国有化
≒ 外国企業の資産を国が接収する政策カストロ政権は大土地所有を制限して農地を農民に再分配し、アメリカ系企業の砂糖農園・石油精製所・電話会社などを次々と国有化した。これがアメリカとの決定的な対立を招いた。
社会主義国家の宣言とソ連への接近
≒ 冷戦構造に新たな火種を投入した地政学上の転換アメリカからの経済封鎖(禁輸措置)を受けたキューバはソ連と経済協定を結び、1961年にカストロが社会主義を宣言。西半球初の社会主義国が誕生し、冷戦の構図を激変させた。
ゲリラ戦という革命モデルの確立
≒ 小規模な武装集団が正規軍に勝てることを示した戦略の先例山岳地帯での民衆支持を基盤としたゲリラ戦は、チェ=ゲバラが『ゲリラ戦争』として体系化し、その後のラテンアメリカ・アジア・アフリカの解放運動に広く影響を与えた。
1898米西戦争米西戦争でスペインが敗北し、キューバは1902年に共和国として独立するが、プラット修正条項によりアメリカの介入権が認められた。
1952バティスタのクーデタフルヘンシオ=バティスタが軍事クーデタで政権掌握。アメリカの支援のもと独裁体制を確立した。
1953モンカダ兵営襲撃7月26日、カストロらがサンティアゴ=デ=クーバのモンカダ兵営を襲撃するが失敗。カストロは逮捕・投獄された。
1955亡命とゲバラとの出会い特赦後にメキシコへ亡命したカストロが、チェ=ゲバラと合流して「7月26日運動」を組織した。
1956ゲリラ上陸開始12月、カストロ・ゲバラら82名がグランマ号でキューバ東部に上陸し、シエラ=マエストラでゲリラ戦を開始。
1959革命成功1月1日、バティスタが国外脱出。1月8日にカストロがハバナ入城し、革命政府を樹立した。
1960アメリカ系企業の国有化農地改革に加え、アメリカ系石油・砂糖・電話・電力各社を国有化。アメリカはキューバへの砂糖輸入削減と石油禁輸で対抗した。
1961ピッグス湾事件・国交断絶1月にアメリカがキューバと国交断絶。4月、CIAが訓練した亡命キューバ人部隊がピッグス湾から上陸作戦を敢行するが失敗した。カストロはこの年、社会主義を正式に宣言した。
1962キューバ危機10月、アメリカがキューバにソ連のミサイル基地建設を確認し、海上封鎖を実施。ソ米両首脳の交渉で核戦争を回避し、ソ連はミサイルを撤去した。
1967ゲバラ死去ボリビアで武装革命活動中にゲバラが政府軍に捕らえられ、処刑された。
◎キューバは農地改革・医療・教育の無償化などで社会的平等を一定程度実現し、識字率の向上や乳幼児死亡率の低下が評価される側面もある。
△一党独裁体制のもとで政治的自由は大きく制限され、大量の亡命者が生まれた。アメリカによる経済封鎖(エンバーゴ)は長期にわたり経済を圧迫し、国民生活への影響も大きかった。革命の評価は今日も立場によって大きく異なる。
フィデル=カストロ
キューバ革命指導者・初代首相(のち国家評議会議長)弁護士出身。モンカダ兵営襲撃の失敗を経てゲリラ戦で政権を奪取。2008年まで約半世紀にわたりキューバを指導し、2016年に死去した。
チェ=ゲバラ
革命家・キューバ政府高官アルゼンチン出身の医師。カストロとともに革命を達成し、キューバ国立銀行総裁・工業相を務めた後、コンゴやボリビアでの革命運動に参加。1967年にボリビアで処刑された。
フルヘンシオ=バティスタ
キューバ大統領(独裁者)1952年のクーデタで権力を握り、アメリカの支援を受けながら独裁体制を維持した。1959年1月に国外へ脱出した。
ラウル=カストロ
キューバ革命家・国防相(のち国家評議会議長)フィデルの実弟。共にゲリラ戦を戦い、フィデル引退後は2018年まで国家評議会議長を務めた。
- ゲリラ戦
- 正規軍に対して小規模な武装集団が山岳・密林などを拠点に奇襲・撤退を繰り返す非対称的な戦い方。キューバ革命の成功によりその有効性が広く知られるようになった。
- プラット修正条項
- 1901年にアメリカがキューバ憲法に組み込ませた条項。アメリカにキューバへの軍事介入権・内政干渉権を与えるもので、1934年に廃止された。
- 国有化
- 外国資本や民間企業の資産を国家が接収して国の管理下に置く政策。カストロ政権がアメリカ系企業に対して行い、米キューバ関係悪化の直接の原因となった。
- ピッグス湾事件
- 1961年4月、アメリカのCIAが訓練した亡命キューバ人部隊がキューバ南海岸のピッグス湾に上陸してカストロ政権転覆を図ったが失敗した事件。アメリカの威信を大きく傷つけた。
- キューバ危機
- 1962年10月、アメリカがキューバにソ連の核ミサイル基地建設を確認したことで始まった米ソ間の危機。海上封鎖・外交交渉の末にソ連がミサイルを撤去し、核戦争を間一髪で回避した。冷戦最大の危機とされる。
- 7月26日運動
- フィデル=カストロが1953年のモンカダ兵営襲撃(7月26日)を記念して命名した革命組織。メキシコで再建され、ゲリラ戦によってキューバ革命を成功させた。
1革命成功の日はバティスタの脱出した元日
バティスタが国外に逃亡したのは1959年1月1日の深夜で、元日の夜明けとともに革命政権の樹立が告げられた。年の初日に政権が崩壊したという劇的な偶然が、この革命に伝説的な印象を与えている。
2ゲバラの顔はなぜ世界中に広まったのか
チェ=ゲバラの有名な肖像写真は、1960年にキューバ人カメラマンのアルベルト=コルダが撮影したもの。ゲバラ死後に反戦・反体制運動のシンボルとして世界中に拡散し、今もTシャツや壁画に描かれ続けている。
3キューバ危機の13日間
1962年10月16日にアメリカが偵察写真でミサイル基地を確認してから、ソ連が撤去に合意した10月28日までの13日間、ケネディ大統領とフルシチョフ書記長は水面下で交渉を続けた。この期間、世界が核戦争の瀬戸際にあったとされる。
4CIAによるカストロ暗殺計画は600回以上とも
アメリカのCIAがカストロ暗殺を計画した回数については、600回以上という数字がキューバ側の証言などで語られてきた。毒入りシガー・爆発するシェルなど奇想天外な方法も含まれていたとされ、その実態はいまだ完全には公開されていない。
5ゲバラが最後の戦地に選んだのはボリビア
キューバを離れてアフリカ(コンゴ)での革命運動に失敗したゲバラは、1966年にボリビアへ潜入。民衆の支持を得られないまま政府軍とCIAに追い詰められ、1967年10月9日に処刑された。享年39歳だった。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1959年。語呂は「ひどく号泣(1959)キューバ革命」。
革命の主導者はフィデル=カストロ。ゲリラ戦の実行部隊の中心にチェ=ゲバラがいた。
打倒したのはアメリカの支援を受けたバティスタ独裁政権。
革命後の流れ:農地改革・国有化→アメリカと対立・国交断絶→ソ連に接近・社会主義宣言→ピッグス湾事件(1961)→キューバ危機(1962)の順を押さえる。
キューバ危機は冷戦で核戦争の瀬戸際まで達した最大の危機。ソ連がミサイルを撤去し解決した。
キューバはラテンアメリカで初めて社会主義を宣言した国として、冷戦史の重要事例である。
語呂クイズ
「ひどく号泣(1959)キューバ革命」= キューバ革命が起こるは西暦何年?
- Q. キューバ革命とはどのような革命ですか?
- A. アメリカが支援するバティスタ独裁政権に対し、フィデル=カストロ・チェ=ゲバラらがゲリラ戦を展開して1959年に政権を打倒した革命です。その後、社会主義国家を建設してソ連陣営に加わりました。
- Q. なぜキューバはアメリカと対立したのですか?
- A. 革命後のカストロ政権がアメリカ系企業の農園や工場を国有化したためです。アメリカは経済封鎖(禁輸措置)で対抗し、1961年に国交を断絶しました。
- Q. ピッグス湾事件とキューバ危機はどう違いますか?
- A. ピッグス湾事件(1961年)はアメリカが訓練した亡命キューバ人部隊がカストロ政権打倒を図った上陸作戦の失敗です。キューバ危機(1962年)はソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しているとアメリカが発見し、米ソが直接対立した核戦争の危機で、別の出来事です。
- Q. チェ=ゲバラはキューバ革命の後どうなりましたか?
- A. 革命後のキューバ政府で要職を務めましたが、のちに世界各地の革命運動に参加するためキューバを去りました。コンゴでの活動ののちボリビアへ潜入し、1967年に政府軍に捕らえられて処刑されました。
- Q. キューバ危機はどのように解決しましたか?
- A. アメリカのケネディ大統領がキューバへの海上封鎖を実施し、ソ連のフルシチョフ書記長と水面下で交渉しました。ソ連がキューバのミサイルを撤去する代わりに、アメリカはキューバへの侵攻をしないことを約束(トルコのミサイル撤去も密約された)して解決しました。
カリブ海の小国キューバが起こした革命は、アメリカとソ連が核戦争の瀬戸際まで対立するキューバ危機へと連鎖し、冷戦全体の流れを大きく揺るがしました。「ひどく号泣(1959)キューバ革命」の語呂とともに、革命成功→国有化→国交断絶→社会主義宣言→ピッグス湾事件→キューバ危機という一連の流れを押さえておくことが冷戦史の理解に欠かせません。
編集メモ(ファクト)
カストロが公式に社会主義を宣言したのはピッグス湾事件直前の1961年4月16日とされるが、社会主義路線への傾斜は1960年から顕著であった。
キューバ危機でアメリカがトルコのNATOミサイル撤去をソ連に密約した点は、長らく非公表であったため、教科書によって記述の有無が異なる。
チェ=ゲバラの肖像写真の撮影者・著作権については法的争いの歴史があるため、商業利用には別途確認が必要。
ピッグス湾はスペイン語でプラヤ=ヒロン(Playa Girón)とも呼ばれ、キューバではこの名称が一般的に使われている。
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