高校/政治
1960
アフリカで17か国が独立する(アフリカの年)
アフリカの新興独立国の指導者たち
語呂
覚え方
行く群れ(いくむれ)(1960)アフリカの年
いくむれ(1960)アフリカの年
1960年、アフリカ大陸では17か国が一斉に独立を宣言し、この年は「アフリカの年」と呼ばれるようになりました。第二次世界大戦後に広まった民族自決の理念と、1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が打ち出した反植民地主義の流れを受け、フランス領・イギリス領・ベルギー領のアフリカ植民地が次々と独立を果たしたのです。セネガル、マリ、ナイジェリア、コンゴ(旧ベルギー領)、マダガスカルなど多様な地域の国々が国家として歩み始めましたが、その一方で独立後の国境問題・民族対立・経済的困難という深刻な課題も浮かび上がりました。
この記事のポイント
- 1960年にアフリカ大陸で17か国が独立し、「アフリカの年」と呼ばれる
- 第二次世界大戦後の民族自決・脱植民地化の流れと、1955年のバンドン会議の理念が背景にある
- 独立した国々は主にフランス領・イギリス領・ベルギー領の旧植民地
- 独立直後のコンゴではコンゴ動乱が起き、内戦と国際干渉が重なる深刻な混乱が生じた
- 1963年にはアフリカ統一機構(OAU)が結成され、アフリカ諸国の連帯が制度化された
ここが面白い1960年、一つの大陸が地図を塗り替えた。わずか1年のうちに17の国旗が国連に新たに掲げられ、世界はアフリカを「植民地の大陸」から「独立国の大陸」へと認識し直すことになった。
「アフリカの年」はある日突然生まれたわけではありません。第二次世界大戦後の国際秩序の変化と、アフリカ各地で積み上がった独立運動の歴史という二つの流れが1960年に一気に結実した出来事です。その背景を順に見ていきましょう。
植民地支配とアフリカ分割の歴史
19世紀後半のベルリン会議(1884〜1885年)で欧米列強はアフリカを民族・文化を無視して分割しました。イギリス・フランス・ベルギー・ポルトガルなどが植民地を設け、資源を搾取し続けました。20世紀初頭には、エチオピアとリベリアを除くアフリカ全土がヨーロッパの支配下に置かれていました。
第二次世界大戦と民族自決の機運
第二次世界大戦(1939〜1945年)では、多くのアフリカ人が宗主国の兵士として戦場に動員されました。戦後、国連憲章(1945年)は「民族自決」の原則を掲げ、植民地支配の正当性は大きく揺らぎました。アジアでは1947年にインドが独立するなど、脱植民地化の動きが先行しました。
バンドン会議と反植民地主義の連帯
1955年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ29か国が集まり「バンドン会議(アジア・アフリカ会議)」が開かれました。ここで植民地主義の終結と平和共存の原則が宣言され、アフリカの指導者たちは国際舞台での連帯を確認しました。この会議の精神は、翌年代のアフリカ独立ラッシュを後押しする大きな力となりました。
フランス共同体とサハラ以南の一斉独立
フランスは1958年の新憲法で旧植民地を「フランス共同体」という緩やかな連合体に再編しました。しかしギニアがすぐに離脱して完全独立を選択すると、他の仏領アフリカ諸国も相次いで独立の道を選びました。1960年、フランスは旧植民地14か国の独立を一括承認し、イギリス・ベルギー領の独立も重なって17か国が同年中に独立を果たしました。
17か国の一斉独立
≒ 一年で17もの新しい国ができるということ1960年中に独立した17か国はすべてアフリカ大陸の国々で、その数は国連加盟国を一気に増やし、国際政治の力学を大きく変えた。
脱植民地化の象徴的転換点
≒ 「支配される側」から「独立した主権国家」への転換アフリカ諸国が次々と国連に加盟したことで、発展途上国・非同盟諸国の発言力が国際機関の中で高まり、冷戦構造にも影響を与えた。
コンゴ動乱に見る独立後の課題
≒ 独立したからといって安定が保証されるわけではないという現実旧ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)は1960年6月に独立したが、直後にカタンガ州が分離独立を宣言し、ベルギー軍が介入するコンゴ動乱が勃発した。国連軍が派遣され、東西冷戦の代理戦争的様相も帯びた複雑な内戦となった。
1884ベルリン会議欧米列強がアフリカを民族・文化を無視して分割する「アフリカ分割」を取り決める。
1945国連憲章採択第二次世界大戦終結と国連設立。民族自決の原則が国際規範として掲げられる。
1947インド独立イギリス領インドが独立。アジアの脱植民地化が先行し、アフリカの運動にも影響を与える。
1955バンドン会議インドネシアでアジア・アフリカ会議が開催され、反植民地主義・平和共存の原則が宣言される。
1957ガーナ独立サハラ以南のアフリカで初めてガーナが独立し、エンクルマ大統領がアフリカ統一の象徴となる。
1958フランス共同体発足フランスが新憲法で旧植民地を「フランス共同体」に再編。ギニアはただちに離脱し完全独立を選択。
1960アフリカの年カメルーン・セネガル・マリ・マダガスカル・コンゴ(旧ベルギー領)・ソマリア・ベナン・ニジェール・ブルキナファソ・コートジボワール・チャド・中央アフリカ・ガボン・コンゴ(旧仏領)・モーリタニア・トーゴ・ナイジェリアなど17か国が独立。
1960コンゴ動乱旧ベルギー領コンゴで独立直後にカタンガ州が分離独立を宣言。国連軍が派遣される複雑な内戦となる。
1963アフリカ統一機構(OAU)結成アジス・アベバでアフリカ32か国がOAUを結成。アフリカ諸国の連帯・植民地主義撤廃・不干渉原則を掲げる。
2002アフリカ連合(AU)に改組OAUが発展的に解消され、より統合的な地域機構であるアフリカ連合(AU)が発足。
◎17か国の独立により国際社会における非欧米国家の発言力が高まり、脱植民地化という歴史の流れを決定的に前進させた。1963年のOAU結成へとつながり、アフリカ大陸の連帯・主権尊重の枠組みが整備された。
△独立後の国境はほぼすべて旧宗主国が植民地時代に引いた直線的な境界をそのまま引き継いだため、民族・言語・文化をまたぐ国境問題と民族対立が今日まで続く原因となった。コンゴ動乱に代表される内戦、経済的自立の困難、旧宗主国への経済依存(新植民地主義とも呼ばれる)など、政治的独立が即座に「真の自立」を意味しない問題も残った。
クワメ・エンクルマ
ガーナ初代大統領1957年にサハラ以南アフリカ初の独立を実現し「アフリカの解放の父」と呼ばれた。アフリカ統一を強く訴え、OAU結成に大きく貢献した。
パトリス・ルムンバ
コンゴ共和国(旧ベルギー領)初代首相1960年の独立を主導した英雄的指導者。コンゴ動乱の混乱の中でクーデターにより失脚し、1961年に殺害された。その死は植民地主義の残滓と冷戦の暗部を象徴する事件とされる。
レオポール・セダール・サンゴール
セネガル初代大統領詩人・思想家でもあり「ネグリチュード(黒人性)」運動を主導。フランス文化との対話を重視しつつセネガルの独立を平和的に実現した。
アフマドゥ・アヒジョ
カメルーン初代大統領1960年1月に独立したカメルーンの初代大統領。アフリカの年の最初を告げる独立国の指導者として象徴的な存在。
- 民族自決
- 各民族が自らの政治的地位と発展の方向を自由に決める権利のこと。第一次世界大戦後にウィルソン米大統領が提唱し、第二次世界大戦後は国連憲章に盛り込まれてアジア・アフリカの独立運動の理念的基盤となった。
- 脱植民地化(デコロニゼーション)
- 帝国主義列強による植民地支配から独立を勝ち取るプロセス全体を指す。第二次世界大戦後にアジア・アフリカで急速に進み、1960年代に最高潮に達した。
- バンドン会議(アジア・アフリカ会議)
- 1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ29か国の会議。植民地主義の終結・民族自決・平和共存の「バンドン10原則」を採択し、後の非同盟運動の出発点となった。
- アフリカ統一機構(OAU)
- 1963年にエチオピアのアジス・アベバで結成されたアフリカ諸国の地域機構。植民地主義の終結・加盟国の主権と領土保全の尊重・内政不干渉を基本原則とした。2002年にアフリカ連合(AU)に改組された。
- コンゴ動乱
- 1960年の独立直後に旧ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国)で起きた内戦・政治混乱。カタンガ州の分離独立宣言、ベルギー軍の介入、東西冷戦の代理戦争的側面が絡み合い、初代首相ルムンバが殺害されるなど深刻な混乱が続いた。
1「アフリカの年」に独立した国の数は諸説ある
「17か国」が最も一般的な数字だが、数え方によって16〜18か国とする資料もある。同年末のモーリタニアの独立(12月)を含めるかどうか、また独立宣言と国連加盟の時期のずれなどで集計が異なることがある。
2国境線の大半はベルリン会議の直線をそのまま踏襲した
1884〜1885年のベルリン会議でヨーロッパ列強が引いた国境線は、アフリカの民族・言語・文化を無視した直線や河川が多かった。独立後も隣国との民族紛争や領土問題が絶えない理由の一つが、この植民地時代の境界線の継承にある。
3国連でアフリカの議席が一気に増えた
1960年に17か国が国連に加盟したことで、国連総会におけるアフリカ諸国の発言力が急上昇した。冷戦下では米ソどちらにも属さない「第三世界」のブロックとして、国連決議の形成に影響を与えるようになった。
4ガーナ独立(1957年)が火付け役だった
エンクルマが率いるガーナの独立はアフリカ全土に大きな衝撃を与えた。「ガーナが独立できるなら、我々も」という気運が一気に高まり、3年後の「アフリカの年」の爆発的な独立ラッシュへとつながったとされる。
5「アフリカの年」という呼称はいつ生まれたか
「アフリカの年(Year of Africa)」という表現は、独立国が相次いだ1960年当時から国際メディアや国連関係者が使い始めたもので、当時の国際社会がいかに1960年のアフリカの変化に注目していたかを示している。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1960年。語呂は「行く群れ(いくむれ)(1960)アフリカの年」。
1960年に独立した国の数は「17か国」。この年が「アフリカの年」と呼ばれる理由と合わせて押さえる。
背景として①第二次世界大戦後の民族自決の理念、②1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)の反植民地主義宣言、③宗主国(特にフランス)の植民地政策転換を覚えておく。
独立後の課題として「旧植民地の国境(民族無視の直線国境)がそのまま引き継がれたことによる民族対立」と「コンゴ動乱(独立直後の内戦・国際干渉)」が頻出。
1963年のアフリカ統一機構(OAU)結成とセットで覚える。OAUは2002年にアフリカ連合(AU)に改組されたことも確認しておく。
語呂クイズ
「行く群れ(いくむれ)(1960)アフリカの年」= アフリカで17か国が独立する(アフリカの年)は西暦何年?
- Q. なぜ1960年だけでこれほど多くのアフリカ諸国が独立できたのですか?
- A. 第二次世界大戦で宗主国(特にフランス・イギリス・ベルギー)が疲弊したこと、国連憲章の「民族自決」原則が広まったこと、1955年のバンドン会議で反植民地主義が国際的に宣言されたことが重なりました。特にフランスは1960年に旧植民地14か国の独立を一括承認したため、同年の独立数が一気に増えました。
- Q. 「アフリカの年」に独立した国はどのくらいありますか?
- A. 最もよく用いられる数字は17か国です。カメルーン・セネガル・マリ・マダガスカル・コンゴ(旧ベルギー領)・ソマリア・ベナン・ニジェール・ブルキナファソ・コートジボワール・チャド・中央アフリカ・ガボン・コンゴ(旧仏領)・トーゴ・モーリタニア・ナイジェリアなどが含まれます。
- Q. バンドン会議との関係は何ですか?
- A. 1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)はアジア・アフリカ29か国が植民地主義の終結と民族自決を宣言した歴史的な会議です。この会議の理念がアフリカ独立運動の精神的な支えとなり、5年後の「アフリカの年」を後押ししました。
- Q. 独立後にアフリカはうまくいったのですか?
- A. 政治的独立は達成されましたが、多くの国で旧植民地の国境を引き継いだことによる民族対立、経済的自立の困難、内戦などの問題が起きました。旧ベルギー領コンゴでは独立直後にコンゴ動乱が発生し、首相ルムンバが殺害されるなど深刻な混乱が続きました。
- Q. アフリカ統一機構(OAU)とは何ですか?
- A. 1963年にアフリカ32か国が結成した地域機構です。植民地主義の完全な撤廃、加盟国の主権・領土保全の尊重、内政不干渉を基本原則としました。2002年にはより統合的なアフリカ連合(AU)に改組されています。
1960年のアフリカの年は、何百年にもわたるヨーロッパの植民地支配がついに大きく崩れ始めた歴史的転換点です。わずか一年で17か国が独立するという前例のない出来事は、第二次世界大戦後の民族自決の理念とバンドン会議の精神が結実したものでした。しかし同時に、独立後の民族対立・内戦・経済的従属という新たな試練もはじまりました。「行く群れ(1960)アフリカの年」の語呂とともに、17か国の独立・バンドン会議との関係・OAU結成(1963年)という三点セットを押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
17か国の数え方は資料によって16〜18か国とする場合があるため、本文では「17か国」を用いつつtriviaで注記した。
コンゴ動乱についてはルムンバ殺害の経緯が複雑(米CIAの関与が指摘される)なため、事実関係の記述は確認済みの部分にとどめた。
people欄のサンゴール項でkeyが重複してしまわないよう注意(noteのみ使用する形が正解)。
relatedは指定された1955-bandung-conferenceと1947-indian-independenceのIDのみ使用。