高校/政治
1948
イスラエルが建国される
(シオニズム運動の指導者ら)
語呂
覚え方
行くよは(1948)イスラエル建国
いくよは(1948)イスラエル建国
1948年5月14日、ユダヤ人指導部はパレスチナの地にイスラエル国家の独立を宣言しました。シオニズム運動による「ユダヤ人の祖国再建」という長年の悲願が実現した瞬間でした。しかし同じ土地には長くアラブ系パレスチナ人が暮らしており、建国宣言の翌日には周辺アラブ諸国が軍事介入して第一次中東戦争が勃発しました。多数のパレスチナ人が故郷を追われ難民となり、この「一つの土地をめぐる二つの民族の対立」はその後も続く中東問題の原点となりました。
この記事のポイント
- 1948年5月14日、ユダヤ人指導部がイスラエル国家の独立を宣言
- 背景にはシオニズム運動とホロコーストによるユダヤ人国家建設の機運
- 1947年、国連がパレスチナをユダヤ・アラブ二国に分割する決議を採択
- 建国翌日に周辺アラブ諸国が介入し、第一次中東戦争が勃発
- 70万人を超えるパレスチナ人が難民となり(ナクバ)、以後も中東紛争が続く
ここが面白い「約束の地」をめぐって二つの民族が激しく対立した。同じ土地に、二つの国家を建てようとした国連の提案が、中東紛争の火種となった。
イスラエル建国は突然起きたわけではありません。19世紀末から続くユダヤ人の民族運動、パレスチナに暮らすアラブ系住民との関係、二つの大戦にまたがる国際政治の動きが複雑に絡み合っていました。
シオニズム運動の興隆
19世紀末のヨーロッパでは反ユダヤ主義(ユダヤ人への差別・迫害)が根強く存在していました。オーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルは1896年に著書『ユダヤ人国家』を発表し、ユダヤ人が自らの国家を持つべきだと主張しました。「シオン(エルサレムの丘)への帰還」を意味するシオニズム運動は、移住を奨励し、パレスチナへのユダヤ人入植を進めていきました。しかし、この地には当時すでに多くのアラブ系住民が定住していました。
バルフォア宣言と委任統治
第一次世界大戦中の1917年、イギリスはユダヤ人の支持を得るため「バルフォア宣言」を発表し、パレスチナにおけるユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設を支持すると表明しました。一方でイギリスはアラブ人にも独立支援を約束しており(フサイン・マクマホン協定)、後にその矛盾が問題化しました。大戦後、イギリスはパレスチナを国際連盟の委任統治領として管理することになりました。
ホロコーストと国際的支持の高まり
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはヨーロッパのユダヤ人を組織的に迫害・虐殺しました。ホロコースト(ショア)と呼ばれるこの大量虐殺では、600万人以上のユダヤ人が命を失ったとされています。戦後、生き残ったユダヤ人たちを受け入れる場所の必要性が広く認識され、ユダヤ人国家の建設を支持する国際的な機運が高まりました。
国連のパレスチナ分割決議(1947年)
ユダヤ人とアラブ人の対立が激化し、統治に行き詰まったイギリスは問題を国連に委ねました。1947年11月、国連総会はパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割し、エルサレムを国際管理とする「パレスチナ分割決議(決議181号)」を賛成33・反対13・棄権10で採択しました。ユダヤ人側はこれを受け入れましたが、アラブ側はパレスチナ全域がアラブ人の土地だとしてこれを拒否しました。
イスラエル独立宣言
≒ 長年の民族運動が国家という形を得た瞬間1948年5月14日、イギリスの委任統治が終了する当日、ユダヤ人指導部のダヴィド・ベン=グリオンがテルアビブでイスラエルの独立を宣言した。アメリカは11分後に承認を発表した。
第一次中東戦争の勃発
≒ 独立を認めないアラブ諸国との全面衝突翌5月15日、エジプト・シリア・ヨルダン・イラクなど周辺アラブ諸国がイスラエルに侵攻し、第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)が始まった。イスラエルは戦争を生き延びたが、戦線の経緯によって国連分割案より広い領土を確保することになった。
パレスチナ人の大量難民化(ナクバ)
≒ 一方の「独立」がもう一方の「追放」となった現実戦争の過程で、70万人を超えるアラブ系パレスチナ人が故郷を離れ難民となった。アラビア語で「大災害」を意味する「ナクバ」と呼ばれるこの出来事は、パレスチナ人にとって民族的な喪失の象徴として現在も記憶されている。
1896シオニズムテオドール・ヘルツルが『ユダヤ人国家』を発表。組織的なシオニズム運動が始まる。
1917バルフォア宣言イギリスがパレスチナにおけるユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設支持を表明。
1933ナチス台頭ドイツでヒトラーが政権掌握。ユダヤ人への組織的迫害が本格化し、パレスチナへの移住が急増。
1945大戦終結第二次世界大戦終結。ホロコーストで600万人以上のユダヤ人が犠牲になったことが明らかに。
1947分割決議国連総会がパレスチナ分割決議(181号)を採択。ユダヤ側は受諾、アラブ側は拒否。
1948独立宣言5月14日、ベン=グリオンがイスラエルの独立を宣言。アメリカがただちに承認。
1948第一次中東戦争5月15日、エジプト・シリア・ヨルダン・イラクなどがイスラエルに侵攻。戦争が始まる。
1949停戦協定国連調停のもとでイスラエルとアラブ諸国が停戦協定を締結。イスラエルは国連加盟を果たす。
◎ユダヤ人にとっては、迫害の歴史の末に自らの国家を持つという長年の目標が実現した歴史的な出来事となった。
△アラブ系パレスチナ人にとっては、70万人以上が難民となる「ナクバ(大災害)」となった。難民とその子孫は現在も帰還を求め続けており、この問題は未解決のまま続いている。
△その後、1956年(第二次)、1967年(第三次・六日戦争)、1973年(第四次・ヨム・キプール戦争)と中東戦争が繰り返され、地域の不安定が長く続くことになった。
ダヴィド・ベン=グリオン
イスラエル初代首相1948年5月14日の独立宣言を読み上げた。「建国の父」とも呼ばれる。ポーランド出身のユダヤ人で、シオニズム運動の中心的指導者として活動した。
テオドール・ヘルツル
シオニズム運動の創始者オーストリアのジャーナリスト。1896年に『ユダヤ人国家』を著し、ユダヤ人国家の必要性を訴えた。シオニズム運動を国際的に組織した。1904年に死去。
チャイム・ワイツマン
イスラエル初代大統領化学者でシオニズム運動の指導者。バルフォア宣言の実現に貢献し、イスラエル建国後に初代大統領に就任した。
ハッジ・アミン・アル=フサイニー
パレスチナ・アラブ人の指導者(大ムフティー)エルサレムのムフティー(イスラム法学者)。パレスチナにおけるアラブ民族主義を主導し、ユダヤ人移住・分割案への反対運動を指揮した。
フォルケ・ベルナドッテ
国連調停官スウェーデンの外交官。国連の要請でアラブ・イスラエル間の調停を担ったが、1948年9月に暗殺された。後任の調停を経て1949年に停戦協定が締結された。
- シオニズム
- 19世紀末にヨーロッパのユダヤ人の間で広まった民族運動。「シオン(エルサレム)への帰還」を掲げ、パレスチナにユダヤ人の国家を建設することを目標とした。
- ホロコースト(ショア)
- 第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったユダヤ人の組織的大量虐殺。600万人以上が命を失ったとされる。この悲劇がユダヤ人国家建設への国際的支持を大きく高めた。
- バルフォア宣言
- 1917年、イギリスのバルフォア外相がユダヤ系指導者に送った書簡で、パレスチナにおけるユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設への支持を表明したもの。
- パレスチナ分割決議(国連決議181号)
- 1947年11月に国連総会が採択した決議。パレスチナをユダヤ人国家・アラブ人国家・エルサレム国際管理区域に分割する案。ユダヤ側は受諾、アラブ側は拒否した。
- ナクバ
- アラビア語で「大災害」の意。1948年の戦争でアラブ系パレスチナ人が大量に故郷を失った出来事を指す言葉。70万人超が難民となった。パレスチナ人にとっての民族的喪失の象徴。
- 中東戦争
- イスラエルと周辺アラブ諸国の間で繰り返された武力衝突の総称。1948年(第一次)、1956年(第二次)、1967年(第三次・六日戦争)、1973年(第四次)の4回が主要なもの。
1独立宣言からわずか11分でアメリカが承認
1948年5月14日の独立宣言は現地時間の午後4時に行われた。その11分後、米国務省の一部が反対する中、トルーマン大統領が承認を発表した。冷戦初期の文脈でソ連も3日後に承認し、イスラエルはすぐに国際的認知を得た。
2「パレスチナ」という地名はアラブ人の前からあった
「パレスチナ」という地名はローマ帝国時代に起源を持ち、かつてその地にいた「ペリシテ人」に由来するとされる。ユダヤ人・アラブ人双方が歴史的に暮らし、双方がこの地への帰属意識を持っているため、地名の問題も含め帰属の主張が複雑に絡み合っている。
3国連分割案が示した土地の配分
1947年の国連分割案では、当時パレスチナ人口の約3分の1だったユダヤ人に全土の約56%を、人口の約3分の2だったアラブ人に約44%を割り当てた。この配分比率はアラブ側が受け入れられない不公平だと主張した一因となった。
4「帰還法」と難民問題の非対称性
イスラエルは1950年に「帰還法」を制定し、世界中のユダヤ人がイスラエルに移住・市民権を得る権利を認めた。一方でナクバで故郷を失ったパレスチナ人難民の帰還権については、イスラエルとパレスチナの間で現在も合意が存在せず、和平交渉の最大の難題の一つとなっている。
5エルサレムは国連決議では「国際管理」だった
1947年の分割決議では、ユダヤ・キリスト・イスラムの三大宗教の聖地が集中するエルサレムを、どちらの国にも属さない「国際管理地区」とする案だった。しかし第一次中東戦争を経て、西エルサレムはイスラエルに、東エルサレムはヨルダンに分割統治された。その後1967年の六日戦争でイスラエルが東エルサレムを占領し、現在も帰属が国際的な争点となっている。

ここが出る博士のワンポイント
建国年は1948年。語呂は「行くよは(1948)イスラエル建国」。
背景としてシオニズム運動・ホロコースト・1947年の国連パレスチナ分割決議の3点を押さえる。
建国翌日に第一次中東戦争が勃発したこと、周辺アラブ諸国(エジプト・シリア・ヨルダン・イラクなど)が介入したことが頻出。
ナクバ(パレスチナ人の大量難民化)とイスラエル建国が同じ1948年に起きた表裏一体の出来事であることを理解する。
中東戦争は4回(1948・1956・1967・1973年)が主要で、特に1967年の六日戦争でイスラエルが領土を大幅拡大した点も重要。
語呂クイズ
「行くよは(1948)イスラエル建国」= イスラエルが建国されるは西暦何年?
- Q. イスラエルはどのようにして建国されたのですか?
- A. 1947年の国連パレスチナ分割決議を受け、1948年5月14日にユダヤ人指導部が独立を宣言しました。背景には19世紀末から続くシオニズム運動と、ホロコーストによるユダヤ人国家建設への国際的支持の高まりがありました。
- Q. シオニズムとはどういう運動ですか?
- A. 19世紀末のヨーロッパで生まれた、ユダヤ人が自らの国家(祖国)を持つべきだという民族運動です。「シオン(エルサレム)への帰還」を掲げ、パレスチナへのユダヤ人移住・定住を推進しました。
- Q. パレスチナ人はなぜ故郷を追われたのですか?
- A. 1948年の第一次中東戦争の過程で、70万人以上のアラブ系パレスチナ人が故郷を離れました。追放・脱出の経緯についてはイスラエル側とパレスチナ側で見解が異なります。この出来事はアラビア語で「ナクバ(大災害)」と呼ばれています。
- Q. なぜアラブ諸国は分割決議を拒否したのですか?
- A. アラブ側はパレスチナ全域がアラブ人の土地であるという立場をとり、他民族のための国家建設に反対しました。また分割案の土地配分がアラブ人人口の割合に見合わないとして不公平だとも主張しました。
- Q. 中東戦争は何回ありましたか?
- A. 主要なものとして4回あります。第一次(1948年・イスラエル独立戦争)、第二次(1956年・スエズ戦争)、第三次(1967年・六日戦争)、第四次(1973年・ヨム・キプール戦争)です。
- Q. エルサレムはどちらの国の首都ですか?
- A. イスラエルはエルサレムを首都と主張しています。一方、パレスチナも東エルサレムを将来国家の首都と主張しており、国際社会でも帰属に関して意見が分かれています。国連はエルサレムの帰属については立場を留保しています。
1948年のイスラエル建国は、シオニズム運動・ホロコースト・国連分割決議という複数の歴史の流れが重なった結果です。ユダヤ人にとっての「悲願の実現」は、同じ土地に暮らしていたアラブ系パレスチナ人にとっての「ナクバ(大災害)」と同時に起きた出来事でもあります。「行くよは(1948)イスラエル建国」の語呂とともに、建国の背景・第一次中東戦争の勃発・ナクバによる難民問題の発生という3点を軸に整理し、どちらか一方の視点だけでなく双方の立場から理解することが重要です。
編集メモ(ファクト)
本記事は政治・宗教・民族に関する事柄を含むため、イスラエル側・パレスチナ側のいずれにも偏らない中立的記述を徹底した。
難民の数「70万人超」は複数の研究・国連機関が示す一般的な数字を採用した。正確な数については研究者間で諸説あることをお断りする。
ホロコーストの犠牲者数「600万人以上」は国際的に広く認められた数字を採用した。
「追放」か「自発的避難」かというナクバをめぐる歴史的論争は現在も続いており、本記事では事実として「大量の難民が発生した」と記述し、その原因・経緯については双方の見解の相違があることに留意した記述とした。