高校/政治
1947
インドが独立する
ガンディー/ネルー
語呂
覚え方
行くよな(1947)インド独立
いくよな(1947)インド独立
1947年8月15日、インドはイギリスの植民地支配から独立を果たしました。ガンディーの非暴力・不服従運動と、ネルーをはじめとする国民会議派の長年の民族運動が実を結んだ瞬間です。しかし独立は手放しで喜べるものではありませんでした。宗教対立が激化した結果、ヒンドゥー教徒中心のインドとイスラム教徒中心のパキスタンに分離独立(印パ分離)することになり、1000万人を超える人々が難民となり、数十万人が命を落とす凄惨な混乱が起きたのです。現代でいうなら「植民地からの独立と、それに伴う国家の分裂」という二面性を持つ出来事です。
この記事のポイント
- 1947年8月15日、インドがイギリスから独立(初代首相はネルー)
- ガンディーの非暴力・不服従運動が独立運動の精神的支柱となった
- 宗教対立からインドとパキスタンに分離独立(印パ分離)
- 1000万人超が難民化し、数十万人が宗教間暴力で死亡する混乱が発生
- ガンディーは分離独立を悲しみ、翌1948年1月に過激なヒンドゥー教徒に暗殺された
ここが面白い独立を勝ち取った夜、ガンディーは祝わなかった。国が二つに割れたことを嘆き、一人で断食していたという。
インドの独立は突然訪れたわけではありません。19世紀から続く植民地支配への抵抗と、20世紀に入ってから加速した民族運動の積み重ねがありました。
イギリス植民地支配の確立
17世紀にインドに進出したイギリス東インド会社は、1757年のプラッシーの戦いを機にベンガル地方を支配下に置き、インド各地への支配を拡大しました。1857年にインド大反乱(シパーヒーの乱)が起きると、翌1858年にイギリス東インド会社は解散し、インドはイギリス本国政府の直轄統治下に移行しました。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任するインド帝国が成立し、インドはイギリス帝国の「王冠の宝石」と呼ばれるほど重要な植民地となりました。
国民会議派とインド独立運動の始まり
1885年にインド国民会議が創設され、当初はイギリス統治に協力する穏健な組織でしたが、20世紀に入ると独立を求める声が強まりました。特に1905年のベンガル分割令(イギリスによる分割統治策)は反英運動の火に油を注ぎ、国産品愛用運動(スワデーシー)が広まりました。第一次世界大戦後には「自治」を求める動きがさらに加速しました。
ガンディーの登場と非暴力・不服従運動
南アフリカで弁護士として活動していたモーハンダース・ガンディーは1915年に帰国し、インド独立運動の指導者となりました。ガンディーが掲げた「サティヤーグラハ(真理の把持)」に基づく非暴力・不服従運動は、植民地支配への抵抗として世界的に注目されました。1930年の「塩の行進」はその象徴で、ガンディーは240マイルを徒歩で行進し、塩税に抗議しました。この運動はイギリス当局に大きな打撃を与えました。
第二次世界大戦とイギリスの国力低下
第二次世界大戦(1939〜1945年)はインド独立の最大の契機となりました。イギリスは戦争で国力を大きく消耗し、インドの広大な植民地を維持することが財政的にも軍事的にも困難になりました。また、戦時中に国民会議派は「クイット・インディア(インドを去れ)」運動を起こし、独立の圧力をかけ続けました。インド兵がイギリス軍に反乱を起こした「インド国民軍」の存在も、イギリス統治の限界を示しました。
ヒンドゥー・イスラム対立と分離独立の決定
独立の機運が高まる中、インド国内の宗教的分断も深刻化しました。ムハンマド・アリー・ジンナーが率いるムスリム連盟は「ヒンドゥー教徒が多数派の統一インドでは、イスラム教徒の権利が守られない」として独立したイスラム国家の創設を要求しました。長年の交渉が決裂し、最終的にイギリスのマウントバッテン総督が「マウントバッテン計画」によりインドとパキスタンへの分離独立を決定しました。
インドとパキスタンの分離独立
≒ 国の分割と同時進行した独立1947年8月14日にパキスタンが、翌15日にインドがそれぞれ独立を宣言。ジンナーがパキスタン初代総督に、ネルーがインド初代首相に就任した。
印パ分離に伴う大規模移住と暴力
≒ 1000万人超が国境を越えた人類史上最大級の難民危機分離独立に伴い、ヒンドゥー教徒・シク教徒がインドへ、イスラム教徒がパキスタンへと大移動した。移動中に宗教間暴力が頻発し、数十万人(推計20〜100万人)が命を落とした。
ガンディーの抗議と暗殺
≒ 独立を勝ち取った指導者が自国民に殺された悲劇ガンディーは分離独立に反対し、独立の夜も断食して抗議した。翌1948年1月30日、ヒンドゥー過激派のナートゥーラーム・ゴードセーに暗殺された。
1857インド大反乱インド大反乱(シパーヒーの乱)が起きる。翌1858年にイギリス東インド会社が解散し、インドはイギリス本国の直轄統治下に移行した。
1877インド帝国成立ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任するインド帝国が成立。インドはイギリス帝国の「王冠の宝石」となる。
1885国民会議派創設インド国民会議が創設される。当初は穏健派組織だったが、20世紀に入り独立運動の中核となる。
1915ガンディー帰国南アフリカから帰国したガンディーが独立運動の指導者として台頭する。
1930塩の行進ガンディーが塩税に抗議する「塩の行進」を敢行。非暴力・不服従運動の象徴となる。
1942クイット・インディア運動国民会議派が「インドを去れ(クイット・インディア)」運動を開始。ガンディーら指導者が投獄される。
1945第二次世界大戦終結第二次世界大戦が終結。国力を消耗したイギリスはインド統治の維持が困難になる。
1947独立8月14日にパキスタン、8月15日にインドが独立。分離独立に伴い大規模な難民移動と宗教間暴力が発生した。
1948ガンディー暗殺1月30日、ガンディーがヒンドゥー過激派のゴードセーに暗殺される。享年78歳。
◎インドは200年近いイギリス植民地支配から独立し、世界最大の民主主義国家の基礎を築いた。第三世界の独立運動の先例となり、アジア・アフリカの脱植民地化を後押しした。
△分離独立(印パ分離)により1000万人を超える人々が難民となり、数十万人が宗教間暴力で命を落とした。カシミール地方の帰属問題は現在も未解決のまま、インドとパキスタンの対立の火種となっている。
△ガンディーは分離独立に強く反対し、独立の翌年1948年に過激なヒンドゥー教徒に暗殺された。非暴力で独立を牽引した指導者が、自国民に殺されるという悲劇的な結末を迎えた。
モーハンダース・ガンディー(マハトマ・ガンディー)
インド独立運動の精神的指導者非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)を提唱。「マハトマ(偉大な魂)」の称号で知られる。分離独立に反対し、1948年1月に暗殺された。
ジャワーハルラール・ネルー
インド初代首相(在任1947〜1964年)インド国民会議派の指導者。独立後17年にわたりインドを率い、非同盟運動の旗手としても活躍した。
ムハンマド・アリー・ジンナー
パキスタン建国の父・初代総督ムスリム連盟の指導者として独立したイスラム国家「パキスタン」の創設を主導した。パキスタンでは「国父(カーイデ・アーザム)」と呼ばれる。
ルイス・マウントバッテン
インド総督(最後のインド総督)イギリス政府の命を受け、インドとパキスタンへの分離独立計画(マウントバッテン計画)を立案・実施した。
ナートゥーラーム・ゴードセー
ガンディーの暗殺者ヒンドゥー民族主義の過激派。分離独立でイスラム教徒に譲歩したとしてガンディーを憎み、1948年1月30日に銃撃した。後に処刑された。
- 非暴力・不服従運動
- ガンディーが提唱した運動。暴力を用いずに植民地支配への協力を拒否し、抵抗することで独立を目指した。「サティヤーグラハ(真理の把持)」とも呼ばれる。
- 印パ分離(インド・パキスタン分離)
- 1947年の独立時に、ヒンドゥー教徒が多数派のインドとイスラム教徒が多数派のパキスタンに分かれて独立した出来事。大規模な難民移動と宗教間暴力を引き起こした。
- 国民会議派(インド国民会議)
- 1885年創設のインドの政党・政治組織。ガンディー・ネルーらが指導し、インド独立運動の中心となった。独立後も長くインドの政権与党を務めた。
- ムスリム連盟
- インドのイスラム教徒の権利擁護を目的に1906年に創設された組織。ジンナーの指導下でパキスタン創設を主導した。
- 塩の行進
- 1930年にガンディーが行った抵抗運動。イギリスの塩税(インド人が自ら塩を採取することを禁じた法律)に抗議し、240マイル(約388キロ)を徒歩で行進した。非暴力運動の象徴として国際的に注目された。
- カシミール問題
- インドとパキスタンの国境地帯にあるカシミール地方の帰属をめぐる紛争。1947年の分離独立時に決着がつかず、現在も両国の対立の根本原因となっている。
1独立の夜、ガンディーはコルカタで断食していた
インド独立の日、多くの国民が歓喜に沸く中、ガンディーはコルカタ(カルカッタ)でヒンドゥー・イスラム間の暴力に抗議する断食を行っていた。国を二つに割る形での独立に深く傷ついており、独立を祝う気持ちにはなれなかったという。
2「マハトマ」の称号を贈ったのはタゴールだった
ガンディーに「マハトマ(偉大な魂)」の称号を与えたのは、ノーベル文学賞を受賞したインドの詩人ラビンドラナート・タゴールとされる。ガンディー自身はこの称号を好まず「私はただの人間だ」と言ったとも伝わる。
38月15日はインドと韓国の共通の記念日
インドの独立記念日は8月15日。奇しくも日本の太平洋戦争終戦(ポツダム宣言受諾)の日であり、韓国の光復節(日本からの解放記念日)も8月15日である。インドとパキスタン、韓国はいずれも1945〜1947年の「植民地からの独立ラッシュ」の時期に独立した。
4分離国境線を引いたのは、インドを見たことのない人物だった
インドとパキスタンの国境線(ラドクリフ線)を引いたシリル・ラドクリフは、インドに来たことが一度もない弁護士だった。独立まで約6週間という短期間で数百万人の運命を左右する国境線を決定し、その混乱が大規模な難民移動と暴力を招いたとして批判されている。
5パキスタンはその後さらに分裂した
1947年に誕生したパキスタンは、地理的に東西に分断されており(西パキスタンと東パキスタン)、両者の間には深刻な経済的・文化的格差があった。1971年に東パキスタンがバングラデシュとして独立し、パキスタンも事実上分裂した。

ここが出る博士のワンポイント
独立年は1947年。語呂は「行くよな(1947)インド独立」。
1857年(インド大反乱)・1877年(インド帝国成立)・1947年(独立)を区別して覚える。
初代首相はネルー(国民会議派)。ガンディーは政治的指導者ではなく精神的指導者であり首相にはなっていない。
独立はインドとパキスタンへの分離独立(印パ分離)であり、単純な独立ではない点が頻出。
ガンディーは独立の翌年1948年に暗殺された。ヒンドゥー過激派による暗殺である点も押さえる。
非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)・塩の行進はガンディーの代表的な運動として頻出。
語呂クイズ
「行くよな(1947)インド独立」= インドが独立するは西暦何年?
- Q. インドが独立できた一番の理由は何ですか?
- A. 複数の要因が重なりました。第二次世界大戦でイギリスが国力を消耗したこと、ガンディーの非暴力・不服従運動によりインド国内の抵抗が高まったこと、戦後の国際的な脱植民地化の潮流が加速したことが主な理由です。
- Q. なぜインドとパキスタンに分かれて独立したのですか?
- A. ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間の宗教的対立が根本原因です。ジンナー率いるムスリム連盟が「ヒンドゥー多数派のインドではイスラム教徒の権利が守られない」として独立したイスラム国家の創設を主張し、長年の交渉が決裂したため分離独立となりました。
- Q. ガンディーはなぜ暗殺されたのですか?
- A. 分離独立の際にイスラム教徒への暴力を止めようとしたガンディーを、過激なヒンドゥー民族主義者が「イスラム教徒に肩入れしている」と憎んだためです。暗殺したゴードセーはヒンドゥー過激派の一員でした。
- Q. ネルーとガンディーはどう違うのですか?
- A. ガンディーは精神的・道徳的指導者で、非暴力運動を主導しましたが政治的な役職にはつきませんでした。ネルーは国民会議派の政治指導者として独立後にインド初代首相に就任し、実際の国家運営を担いました。二人は師弟関係に近い間柄でした。
- Q. インドの独立は世界にどんな影響を与えましたか?
- A. アジア最大の植民地インドの独立は、アジア・アフリカの脱植民地化運動に大きな勇気を与えました。1955年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)でネルーが主導した非同盟運動につながり、冷戦下の第三世界の連帯に影響しました。
- Q. カシミール問題は今も続いているのですか?
- A. はい、続いています。1947年の分離独立時にカシミール地方の帰属が決まらず、インドとパキスタンは複数回にわたって戦争を行いました。現在も両国が一部を実効支配しており、核保有国同士の紛争の火種となっています。
1947年のインド独立は、ガンディーの非暴力・不服従運動とネルーら国民会議派の長年の闘争、そして第二次世界大戦後のイギリスの国力低下が重なって実現しました。しかし独立は同時に、ヒンドゥー・イスラムの宗教対立による「分裂」をもたらし、数十万人が命を落とす混乱を引き起こしました。独立を勝ち取った精神的指導者ガンディーは、翌1948年に自国民に暗殺されるという悲劇的な最期を迎えています。「行くよな(1947)インド独立」の語呂とともに、初代首相ネルー・印パ分離・ガンディーの暗殺という三点をセットで押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
分離独立に伴う死者数は研究者によって推計が大きく異なる(20万〜100万人以上)ため、「数十万人」として幅を持たせた表現を採用した。
ガンディーの称号「マハトマ」の由来はタゴール説が有力だが異論もあるため、「とされる」と留保した。
1857年はインド大反乱(シパーヒーの乱)、1877年はインド帝国成立、1947年は独立と、年号が混同されやすいため、timelineとexam_pointsで明示的に区別した。
ガンディーは首相ではなく精神的指導者であり、政治権力は持っていなかった点を明確にした。