高校/宗教
1979
イラン革命が起こる
ホメイニ
語呂
覚え方
行く泣く(1979)イラン革命
いくなく(1979)イランかくめい
1979年、中東の大国イランで歴史的な政変が起きました。親米路線で急速な西欧化を推進していたパフレヴィー朝のモハンマド・レザー・シャー(国王)が民衆の大規模な反政府運動によって退位・亡命に追い込まれ、フランスに亡命していたシーア派の最高宗教指導者ルーホッラー・ホメイニーが帰国して最高指導者となりました。新たに樹立されたイラン・イスラム共和国は、宗教指導者が政治の最高権威を握る政教一致体制をとり、現在まで続いています。この革命は第二次石油危機を引き起こして世界経済を直撃し、その後のイラン・アメリカ関係にも深刻な影を落としました。
この記事のポイント
- 1979年、パフレヴィー朝のシャー(国王)が民衆の反政府運動で退位・亡命
- ホメイニーが帰国し、イラン・イスラム共和国を樹立
- 宗教指導者が政治の最高権威を握る政教一致体制が成立
- 第二次石油危機(原油価格の急騰)が引き起こされ、世界経済に打撃
- 同年秋にはイラン・アメリカ大使館人質事件が発生し、対米関係が断絶
ここが面白い国王が進めた「近代化」が、なぜ宗教指導者による革命を招いたのか。石油大国イランの政変は、世界の石油価格と冷戦の構図まで揺るがした。
イラン革命は突然起きたわけではありません。1950〜70年代のイランが歩んだ歴史を理解することが、革命の背景を読み解く鍵になります。
パフレヴィー朝と親米路線
1941年に即位したモハンマド・レザー・シャーは、冷戦構造のなかで親米・反共路線をとりました。1953年には首相モサッデクが石油国有化を進め一時的に権力を握りましたが、アメリカ・イギリスの支援を受けたクーデタによってシャーが権力を回復。この経緯はイラン国民の間に「欧米が国内政治に介入した」という強い記憶を残しました。
白色革命と急速な近代化
1963年、シャーは「白色革命」と呼ばれる近代化改革を断行しました。農地改革・女性への参政権付与・教育の普及などを含む一連の施策は、欧米からは評価された一方、土地を失った農民の都市流入による貧困層の拡大や、イスラムの伝統・宗教指導者の権威を軽視するものとして聖職者層から強く反発されました。ホメイニーはこの時期から公然とシャーへの批判を強め、国外追放されました(1964年)。
サヴァク(秘密警察)による弾圧
シャー政権を支えた秘密警察サヴァクは、政治的反対勢力を徹底的に監視・拘束・弾圧しました。拷問や法外な拘禁が横行したとされており、知識人・学生・宗教指導者を中心に反体制感情が高まりました。
石油景気と格差の拡大
1973年の第一次石油危機後の石油価格高騰でイランは空前の石油収益を得ました。しかし恩恵は王族・特権層に偏り、農村から都市へ流入した貧困層との格差は縮まらず、むしろ拡大しました。急激な物価上昇も加わり、民衆の不満は頂点に達しました。
大規模な反体制デモと国王亡命
≒ 政府への大規模な抗議運動が政権交代を引き起こす1978年から全国各地で大規模なストライキと反政府デモが頻発。1979年1月、シャーが「療養」名目でイランを離れ、そのまま亡命した。
ホメイニーの帰国と共和国樹立
≒ 亡命指導者が帰国して新体制を樹立1979年2月1日、約15年間亡命生活を送っていたホメイニーがパリからテヘランに帰国。国民投票でイラン・イスラム共和国の樹立が承認された。
アメリカ大使館人質事件
≒ 外交施設の占拠による国家間の緊張1979年11月、学生グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し外交官ら約60名を人質に。444日間続き、アメリカとイランは国交を断絶した。
1953クーデタ欧米支援のクーデタでモサッデク政権が倒れ、シャーが権力を回復。欧米介入への不満が国民に根付く。
1963白色革命シャーが農地改革・女性参政権を含む近代化改革を断行。宗教指導者層と対立が深まる。
1964ホメイニー国外追放改革に反発し政権を批判したホメイニーがイラクへ追放。のちにフランス・パリへ移った。
1978大規模デモ勃発全国各地でストライキと反政府デモが相次ぐ。石油労働者のストで生産が急落し輸出が停止。
1979シャー亡命・ホメイニー帰国1月にシャーが出国・亡命。2月1日にホメイニーがパリからテヘランへ帰国し、政権掌握が始まる。
1979イスラム共和国樹立4月の国民投票でイラン・イスラム共和国が正式に樹立。ホメイニーが最高指導者に就任。
1979大使館人質事件11月、学生グループがアメリカ大使館を占拠。人質444日間、アメリカとの国交断絶へ。
1980イラン・イラク戦争開始隣国イラクのフセイン政権がイランに侵攻し、約8年間にわたる消耗戦が始まる。
△イラン・イスラム共和国が成立し、最高指導者(法学者)が政治の最終権威を持つ政教一致体制が構築された。この体制は現在まで継続している。
△イランの石油輸出停止が第二次石油危機を引き起こし、原油価格が急騰。日本を含む世界経済にスタグフレーション(物価上昇と景気停滞の併存)をもたらした。
△アメリカ大使館人質事件によりアメリカとイランは国交を断絶し、以後40年以上にわたり対立関係が続いている。
△中東における「イスラム共和国」モデルは周辺国や他のイスラム世界に影響を与え、政教関係をめぐる議論を活発化させた。
ルーホッラー・ホメイニー
シーア派の最高宗教指導者シャーへの批判で1964年に国外追放。イラク・フランスを経て1979年2月に帰国し、革命後のイラン・イスラム共和国の最高指導者に就任。1989年死去。
モハンマド・レザー・シャー(パフレヴィー2世)
イラン国王(在位1941〜1979年)親米路線と白色革命で近代化を推進。民衆の反発と大規模デモにより1979年1月に出国・亡命し、1980年7月に亡命先のエジプトで死去。
モハンマド・モサッデク
元イラン首相1951〜53年に首相として石油国有化を推進。1953年のクーデタで失脚。後の革命の遠因となった欧米介入への反感を形成した人物として記憶されている。
ジミー・カーター
アメリカ大統領(在任1977〜81年)革命直後のイランと対峙し、大使館人質事件への対応に苦慮。解放作戦の失敗もあり再選を果たせなかった。
- 白色革命
- 1963年にシャーが断行した近代化改革の総称。農地改革・女性参政権の付与・識字率向上などが柱。急速な西欧化として宗教指導者層から強く批判された。
- サヴァク
- パフレヴィー朝の秘密警察組織。政府への反対運動を監視・弾圧し、拷問の横行で国際的にも批判された。シャーへの民衆の不満を高める一因となった。
- 政教一致
- 宗教と国家政治が一体化した体制。イラン・イスラム共和国では最高宗教指導者(法学者)が国家の最終的な政治権威を持つ。現代でいえば「宗教の最高指導者が国の政治の最終決定権を持つ体制」にあたる。
- 第二次石油危機
- 1979年のイラン革命によるイランの石油輸出停止を契機とした原油価格の急騰。第一次(1973年)に続く石油危機で、世界経済に広くスタグフレーションをもたらした。
- イラン・アメリカ大使館人質事件
- 1979年11月から1981年1月まで続いた事件。テヘランのアメリカ大使館がイランの学生グループに占拠され、外交官ら約60名が444日間にわたって拘束された。
- シーア派
- イスラムの一派。イランの国民の多数派を占める。スンナ派と並ぶイスラム教の二大宗派であり、宗教的権威(聖職者)の役割を重視する傾向がある。
1ホメイニーはパリから革命を指導した
国外追放中のホメイニーはイラク・ナジャフに約13年間滞在したが、イラクのフセイン政権からの圧力で1978年にフランス・パリ郊外のヌフル=シュル=セーヌに移住。テープに吹き込んだ講話や声明をイランへ密輸して支持者に拡散させるという方法で、遠く離れたヨーロッパから革命運動を指導した。
2シャーを受け入れた国はほぼなかった
1979年1月にイランを去ったシャーはエジプト・モロッコ・バハマ・メキシコ・アメリカ・パナマ・エジプトと転々と渡り歩いた。各国はイランとの外交摩擦を恐れ受け入れを渋り、シャーは故国に戻ることなく1980年7月にエジプトのカイロで死去した。
3人質解放はカーター退任の直後だった
アメリカ大使館の人質52名が解放されたのは1981年1月20日。この日はロナルド・レーガンが大統領に就任した当日であり、カーター政権最後の数分間まで交渉が続いたとされる。人質危機への対応の失敗がカーターの再選を阻んだとも言われる。
4「イスラム共和国」は国民投票で決まった
革命後の新国家体制は独裁的に押しつけられたものではなく、1979年3月31日・4月1日に行われた国民投票で「イスラム共和国」の樹立が問われた。投票率・賛成率ともに非常に高かったと伝えられているが、選択肢が限定的だったとの批判も当時からあった。
5石油危機でガソリンの長蛇の列が世界中に
第二次石油危機の影響はアメリカや日本でも深刻だった。アメリカではガソリンスタンドに数時間待ちの行列ができ、奇数・偶数ナンバーで給油日を分ける「奇偶数給油制」が導入された都市もあった。日本でも物価高騰が再び懸念され、省エネ意識の高まりにつながった。

ここが出る博士のワンポイント
年は1979年。語呂は「行く泣く(1979)イラン革命」。
国王の名前はモハンマド・レザー・シャー(パフレヴィー2世)。革命指導者はホメイニー(ルーホッラー・ホメイニー)。
革命の背景として「白色革命(急速な西欧化)への反発」「貧富の差・秘密警察への不満」「シーア派の伝統」の三点を押さえる。
結果として「イラン・イスラム共和国(政教一致体制)の成立」「第二次石油危機の誘発」「アメリカ大使館人質事件と米イラン国交断絶」をセットで覚える。
第二次石油危機は1979年のイラン革命が直接の引き金。第一次(1973年・第四次中東戦争)と年代・原因を混同しないよう注意。
語呂クイズ
「行く泣く(1979)イラン革命」= イラン革命が起こるは西暦何年?
- Q. イラン革命はなぜ起きたのですか?
- A. 国王(シャー)が推進した急速な西欧化政策への反発、貧富の格差の拡大、秘密警察による弾圧、シーア派イスラムの伝統軽視への不満が重なり、大規模な反政府運動に発展しました。
- Q. ホメイニーとは何者ですか?
- A. イランのシーア派最高宗教指導者です。シャーへの批判で国外追放されていましたが、1979年の革命後に帰国し、イラン・イスラム共和国の最高指導者に就任しました。
- Q. 政教一致とはどういう意味ですか?
- A. 宗教と政治が一体化した体制のことです。イラン・イスラム共和国では最高宗教指導者(法学者)が国家の政治的な最終権威を持ち、大統領や議会よりも上位に位置します。
- Q. 第二次石油危機はイラン革命とどう関係しますか?
- A. 革命による混乱でイランの石油生産・輸出が大幅に落ち込み、国際的な原油供給が不足して価格が急騰しました。これが第二次石油危機の直接の引き金となりました。
- Q. アメリカ大使館人質事件とは何ですか?
- A. 1979年11月、テヘランのアメリカ大使館がイランの学生グループに占拠され、外交官ら約60名が444日間拘束された事件です。この事件でアメリカとイランは国交を断絶しました。
- Q. イラン革命は第一次石油危機と同じですか?
- A. 異なります。第一次石油危機は1973年の第四次中東戦争を機にアラブ産油国が石油輸出を制限したことが原因です。第二次石油危機は1979年のイラン革命によるイランの石油輸出停止が原因です。
1979年のイラン革命は、親米・近代化路線への民衆の反発が宗教指導者主導の政変につながった歴史的事件です。ホメイニーを最高指導者とするイラン・イスラム共和国は政教一致体制を採用し、現在に至るまで継続しています。第二次石油危機とアメリカとの国交断絶は現代の中東・エネルギー問題の原点ともいえます。「行く泣く(1979)イラン革命」の語呂とともに、革命の三大背景(西欧化への反発・格差・秘密警察)と三大結果(イスラム共和国成立・第二次石油危機・人質事件)をセットで押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
宗教的・政治的な評価(革命の正当性、イスラム共和国体制の是非など)には踏み込まず、史実として中立的に記述した。
「ホメイニー」はアラビア語・ペルシャ語の転写でいくつか表記が存在するが(ホメイニ/ホメイニー)、本JSONでは見出しに指定された「ホメイニ」を使用し、本文では「ホメイニー」(長音あり)の慣用表記を採用した。
人質事件の人質数については「約60名」「52名」など資料によって若干の差異があるため、概数で記述した。
国民投票の投票率・賛成率の具体的数字は資料によって差異があるため数値を明示せず「非常に高かった」と表現した。