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高校/政治
1928

パリ不戦条約が結ばれる

ケロッグ(米国務長官)/ブリアン(仏外相)
語呂
覚え方
行く庭は(1928)不戦条約
いくには(1928)パリ不戦条約

1928年8月27日、パリで「パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)」が調印されました。アメリカの国務長官フランク・ケロッグとフランスの外相アリスティード・ブリアンが提唱し、最終的に日本を含む63か国が参加した画期的な条約です。その内容は「国際紛争を解決する手段として、また国家政策の手段としての戦争を放棄する」という宣言で、戦争の違法化という理念を国際法に初めて明文化しました。ただし自衛のための戦争は除外され、違反国への制裁規定もなかったため実効性は乏しく、満州事変(1931年)などを防ぐことはできませんでした。しかしこの条約が示した戦争違法化の理念は、後の国際連合憲章や日本国憲法第9条に受け継がれ、現代国際法の礎の一つとなっています。

この記事のポイント

  • 1928年、アメリカのケロッグ国務長官とフランスのブリアン外相の提唱でパリ不戦条約が調印された
  • 国際紛争解決の手段・国家政策の手段としての戦争を放棄すると宣言した画期的な条約
  • 当初15か国が調印し、後に日本を含む63か国が参加した
  • 自衛戦争の除外と制裁規定のなさから実効性に乏しく、満州事変(1931年)などを防げなかった
  • 戦争違法化の理念は国際連合憲章・日本国憲法第9条の源流の一つとなった
ここが面白い

「戦争を法律で禁止する」――第一次世界大戦の惨禍を経て、1928年、ついに国際社会が戦争そのものを違法と宣言する条約を結んだ。しかし、わずか3年後に満州事変が勃発する。

ここに至るまでの流れ
背景

パリ不戦条約は突然生まれたわけではありません。第一次世界大戦の惨禍・国際連盟の限界・戦間期の平和運動という積み重ねの末に生まれた条約です。その背景を順に見ていきましょう。

第一次世界大戦の衝撃と平和希求の高まり

1914〜1918年の第一次世界大戦は、塹壕戦・毒ガス・無差別爆撃など近代兵器による未曾有の破壊をもたらし、戦死者は約1000万人に達した。この経験が「二度と戦争を起こしてはならない」という国際世論を強め、戦争そのものを法的に禁止する動きへとつながった。

国際連盟の設立とその限界

1920年、ウィルソン米大統領の提唱で国際連盟が発足した。集団安全保障による平和維持を目指したが、提唱国アメリカが議会の反対で不参加となり、制裁手段も軍事力を持たないなど限界があった。こうした限界を補う形で、より踏み込んだ平和条約を求める声が高まった。

ブリアンの提唱からケロッグの多国間条約案へ

フランス外相ブリアンは1927年、アメリカとの二国間不戦協定をケロッグ国務長官に提案した。当初アメリカは警戒したが、ケロッグはこれを二国間ではなく多国間の条約に発展させることを逆提案。この転換により条約は国際的な広がりを持つものとなった。

日本の参加と「人民ノ名ニ於テ」問題

日本も条約に参加したが、条約の前文にある「人民ノ名ニ於テ(in the name of their respective peoples)」という文言が問題になった。天皇主権を定めた当時の大日本帝国憲法のもとでは、「人民の名において」条約を結ぶのは天皇大権に抵触するという議論が起き、政府は苦慮した末に「人民」を「国民」と解釈して参加した。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

戦争の違法化を国際条約として明文化

≒ 武力行使を禁止した国連憲章の先駆け

「国家政策の手段としての戦争を放棄する」と明記した点が画期的。それまで戦争は国家の合法的な手段とされてきたが、この条約が初めて法的禁止の枠組みを作った。

63か国が参加した多国間条約

≒ 現代の国際条約・多国間協定の原型

当初15か国で調印し、後に日本・ソ連・中国など63か国が参加。ほぼ全世界規模の国際合意として当時の人々に大きな希望を与えた。

実効性の限界と「自衛」の抜け穴

≒ 条約に制裁規定がなければ守られないという教訓

自衛戦争は条約から除外され、違反国への制裁手段も規定されなかった。このため各国が自衛を名目に戦争を続けることが可能であり、1931年の満州事変でその限界が露わになった。

前後のできごと
年表
1914
第一次世界大戦勃発サラエボ事件を機に第一次世界大戦が勃発。4年間で約1000万人の戦死者を出す未曾有の惨禍となる。
1918
第一次世界大戦終結ドイツが降伏し第一次世界大戦が終結。戦後処理とともに、戦争を防ぐ国際的な枠組み作りの議論が始まる。
1919
ヴェルサイユ条約調印パリ講和会議でヴェルサイユ条約が調印。ウィルソン米大統領の14か条の原則に基づき、国際連盟の設立が決まる。
1920
国際連盟発足国際連盟が発足。ただし提唱国のアメリカは議会の反対で不参加。集団安全保障の実効性に限界が生じる。
1925
ロカルノ条約ドイツ・フランス・ベルギーなどがロカルノ条約を締結。ヨーロッパの現状維持と安全保障を約束し、国際的な緊張緩和の機運が高まる。
1927
ブリアンの提唱フランス外相ブリアンが米仏二国間の不戦協定をケロッグ国務長官に提唱。ケロッグはこれを多国間条約に発展させることを逆提案する。
1928
パリ不戦条約調印8月27日、パリで不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)が調印。当初15か国が署名。
1929
条約発効・追加加盟1929年7月に条約が発効。その後も加盟国が増え、最終的に日本を含む63か国が参加した。
1931
満州事変で限界露呈日本軍が満州事変を起こす。不戦条約の違反と見なされたが、制裁規定がないため実効的な対応ができず、条約の限界が明らかになった。
1945
国連憲章へ理念が受け継がれる第二次世界大戦後、国際連合憲章(第2条4項)が武力行使の一般的禁止を規定。不戦条約の理念がより強固な形で国際法に組み込まれた。
結果とその後
結果
戦争の違法化という理念を国際条約として初めて明文化した点は画期的であり、後の国際連合憲章(武力行使の禁止)や日本国憲法第9条(戦争放棄)の源流の一つとなった。
自衛戦争の除外と制裁規定の欠如から実効性に乏しく、1931年の満州事変・1939年の第二次世界大戦勃発を防げなかった。理念の先進性と制度的な空洞化という二面性を持つ条約として評価する必要がある。
登場人物
人物

フランク・ケロッグ

アメリカ国務長官

ブリアン外相の二国間条約提案を多国間条約に発展させた立役者。条約締結の功績により1929年にノーベル平和賞を受賞した。

アリスティード・ブリアン

フランス外相

米仏二国間の不戦協定を最初に提唱した人物。外交的な手腕でロカルノ条約にも関与し、1926年にノーベル平和賞を受賞している。

ジェームズ・ショットウェル

アメリカの歴史家・国際法思想家

戦争違法化の理念を提唱した知識人の一人で、ブリアン外相への不戦協定提案の着想にも関与したとされる。条約の起草・議論の段階では自衛戦争除外の問題をめぐって多くの論者の議論が続いた。

田中義一

日本の首相兼外務大臣(調印当時)

パリ不戦条約への日本の調印・批准を担った当時の首相兼外相。「人民ノ名ニ於テ」の文言が天皇主権と抵触するとして国内で大きな議論を呼び、政府は「人民」を「国民」と解釈する留保を付して参加した。

キーワード解説
用語
不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)
1928年にパリで調印された国際条約。正式名称は「戦争放棄ニ関スル条約」。国家政策の手段としての戦争放棄を宣言し、63か国が参加した。
国際連盟
1920年に発足した最初の世界的な国際平和機構。ウィルソン米大統領の提唱によるが、アメリカ自身は議会の反対で不参加。集団安全保障の手段が限られ、実効性に課題があった。
戦争の違法化
戦争を国際法上の違法行為とする考え方。不戦条約がその理念を初めて国際条約に明文化し、後の国連憲章・武力行使禁止原則へと発展した。
自衛権
外国からの攻撃に対して自国を守るための武力行使を認める権利。不戦条約では自衛のための戦争は放棄の対象外とされ、これが条約の大きな抜け穴になった。
ロカルノ条約
1925年に締結されたヨーロッパの安全保障条約。ドイツ・フランス・ベルギー・イギリス・イタリアなどが参加し、国境の現状維持と相互不可侵を約束。不戦条約の前段階となる国際緊張緩和の流れを作った。
もっと知りたい
豆知識

1ケロッグはノーベル平和賞を受賞した

条約締結の翌1929年、アメリカの国務長官フランク・ケロッグはその功績が認められノーベル平和賞を受賞した。フランスのブリアン外相も1926年にノーベル平和賞を受賞しており、二人のノーベル平和賞受賞者が提唱した条約として歴史に刻まれている。

2日本で「人民ノ名ニ於テ」が大問題になった

条約の前文にある「人民の名において」という文言が、天皇主権を定めた大日本帝国憲法と抵触するとして国内で大きな議論を呼んだ。政府は「人民」を「国民」と解釈して参加したが、この問題は日本の近代外交における主権概念の葛藤を象徴する出来事として知られる。

3調印からわずか3年で満州事変が起きた

1928年の調印からわずか3年後の1931年、日本軍は満州事変を引き起こした。国際連盟は調査団(リットン調査団)を派遣して日本の行動を批判したが、不戦条約に制裁規定がないため実効的な対応はできなかった。条約の理念と現実の落差を示す象徴的な出来事である。

4日本国憲法第9条の源流の一つとされる

不戦条約が宣言した「戦争放棄」の理念は、1945年の国際連合憲章(武力行使の一般的禁止)を経て、1946年に制定された日本国憲法第9条に受け継がれたとされる。憲法第9条が世界史の潮流の中に位置づけられることを示す重要なつながりである。

5条約は今も法的に失効していない

パリ不戦条約は第二次世界大戦後も正式に廃棄・失効された記録がなく、法的にはいまも有効な条約として存続しているとされる。国連憲章がより強固な武力行使禁止規範を確立したため実質的な意義は薄れているが、国際法の歴史的文書として参照され続けている。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1928年。語呂は「行く庭は(1928)不戦条約」。
提唱者はアメリカの国務長官ケロッグとフランスの外相ブリアン。条約名はこの二人の名を取った「ケロッグ・ブリアン協定」とも呼ばれる。
内容の核心:国際紛争解決の手段・国家政策の手段としての戦争を放棄。当初15か国調印、最終63か国参加(日本含む)。
限界として問われる点:①自衛戦争は除外、②違反国への制裁規定なし→1931年満州事変を防げなかった。
後世への影響:国際連合憲章(武力行使の禁止)・日本国憲法第9条(戦争放棄)の源流の一つとして問われることがある。
語呂クイズ
「行く庭は(1928)不戦条約」= パリ不戦条約が結ばれるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. パリ不戦条約とケロッグ・ブリアン協定は同じものですか?
A. はい、同じ条約の異なる呼び名です。正式名称は「戦争放棄ニ関スル条約」で、パリで調印されたことから「パリ不戦条約」、提唱者二人の名から「ケロッグ・ブリアン協定」とも呼ばれます。
Q. なぜ不戦条約は満州事変を防げなかったのですか?
A. 条約に違反国への制裁規定がなかったうえ、自衛のための戦争は対象外とされていたためです。日本は満州事変を自衛的行動と主張し、国際社会も実効的な対応手段を持っていませんでした。
Q. 日本が参加する際に問題になった「人民ノ名ニ於テ」とは何ですか?
A. 条約の前文にある「人民の名において(in the name of their respective peoples)」という文言が、天皇主権を定めた当時の日本の憲法と矛盾するとして議論になりました。政府は「人民」を「国民」と解釈して参加しました。
Q. 不戦条約はどのように現代に影響していますか?
A. 戦争の違法化という理念は、第二次世界大戦後に設立された国際連合の憲章(第2条4項・武力行使の禁止)に受け継がれました。また日本国憲法第9条の戦争放棄規定の源流の一つともされています。
Q. 不戦条約と国際連盟の関係は何ですか?
A. 国際連盟は1920年に設立された国際平和機構ですが、アメリカが不参加で実効性に限界がありました。不戦条約はその限界を補う形で提唱され、アメリカも参加する多国間の戦争禁止宣言として注目されました。ただし両者ともに制裁手段の乏しさという共通の課題を抱えていました。
まとめ

パリ不戦条約は、「戦争を国際法で禁止する」という理念を史上初めて国際条約として明文化した歴史的文書です。63か国が参加した画期的な取り組みでしたが、自衛戦争の除外と制裁規定の欠如から実効性は限られ、満州事変や第二次世界大戦を防ぐことはできませんでした。しかし条約が示した戦争違法化の理念は国際連合憲章や日本国憲法第9条に受け継がれ、現代国際法の礎の一つとなっています。「行く庭は(1928)不戦条約」の語呂とともに、理念の先進性と制度的限界という二面性を理解しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
当初記載の『ウォルター・ロジャース』は史料上確認できない人名であったため、戦争違法化の理念提唱者として実在するジェームズ・ショットウェルに差し替えた。入試では主にケロッグとブリアンの二人が問われる。
日本側の外相は、調印(1928年8月)および「人民ノ名ニ於テ」問題が争点化した1929年前半の批准時ともに田中義一(首相兼外相)であったため、当初記載の幣原喜重郎(外相在任1924〜1927年・1929〜1931年)を田中義一に修正した。
「条約は今も法的に失効していない」のtriviaは国際法学界での通説的見解に基づく。
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