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高校/政治
1923

トルコ共和国が成立する

ムスタファ=ケマル(アタテュルク)
語呂
覚え方
行く庭さ(1923)トルコ共和国成立
いくにさ(1923)トルコ共和国成立

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国は、1920年のセーヴル条約で国土を分割される屈辱を受けました。ギリシア軍がアナトリアに侵攻する中、アナトリアに渡った軍人ムスタファ=ケマルは国民運動を指揮してアンカラに新政府を樹立し、独立戦争を戦い抜いて主権を回復します。1922年にスルタン制を廃止し、1923年にローザンヌ条約で国際的な承認を得たのち、同年10月29日にトルコ共和国の成立を宣言、初代大統領に就任しました。さらにカリフ制廃止・政教分離・ローマ字(トルコ文字)採用・太陽暦導入・女性参政権付与など矢継ぎ早の近代化改革を進め、オスマン帝国は名実ともに歴史に幕を閉じ、近代的な国民国家としてのトルコが誕生しました。

この記事のポイント

  • 第一次世界大戦後のセーヴル条約(1920年)でオスマン帝国は国土を大きく削られ、ギリシア軍の侵攻も受けた
  • ムスタファ=ケマルがアナトリアで国民運動を率い、アンカラに大国民議会政府を樹立して独立戦争を戦った
  • 1922年にスルタン制を廃止し、1923年のローザンヌ条約で国際承認を得て同年10月29日にトルコ共和国成立を宣言
  • ケマルは初代大統領として政教分離・ローマ字採用・太陽暦・女性参政権など抜本的な世俗化改革を推進した
  • 六百年以上続いたオスマン帝国が消滅し、近代的な国民国家トルコが誕生した
ここが面白い

六百年以上続いたオスマン帝国が滅び、廃墟から一つの近代国家が生まれた――その立役者は、戦場で敗れた国を自らの手で作り直した一人の軍人だった。

ここに至るまでの流れ
背景

トルコ共和国の成立は、第一次世界大戦の敗北から独立戦争の勝利、そして上からの近代化改革という三つの段階を経た長い過程の末に生まれました。その背景を順番に見ていきましょう。

オスマン帝国の参戦と敗北

オスマン帝国は1914年にドイツ・オーストリアとともに参戦(同盟国側)しましたが、各戦線で苦戦し、1918年に降伏しました。1920年に締結されたセーヴル条約は、アナトリアの大部分をギリシア・アルメニア・クルド人自治区などに割り当て、イスタンブルも事実上連合国の管理下に置くという極めて過酷な内容でした。帝国の存続そのものが問われる状況となりました。

ムスタファ=ケマルの国民運動

1919年、ムスタファ=ケマルはアナトリアのサムスンに上陸し、各地で国民運動の組織化を始めました。1920年にアンカラで大国民議会を開設し、独自の政府(大国民議会政府)を樹立します。コンスタンティノープル(イスタンブル)のスルタン政府とは別に、国民主権を掲げる事実上の対抗政権が誕生したのです。

独立戦争とローザンヌ条約

ケマル率いる国民軍は1919年から1922年にかけての独立戦争(トルコ独立戦争)を戦い、ギリシア軍をアナトリアから撃退しました。1922年のスルタン制廃止によりオスマン帝国は事実上終焉を迎えます。翌1923年7月に締結されたローザンヌ条約は、セーヴル条約を全面的に廃棄してトルコの主権と領土(ほぼ現在のトルコ共和国の版図)を国際的に承認するものであり、独立戦争の外交的勝利を意味しました。

共和国宣言と世俗化改革

1923年10月29日、トルコ共和国の成立が宣言されケマルが初代大統領に就任しました。その後、カリフ制廃止(1924年)・イスラーム法廷の廃止・ローマ字を基にしたトルコ文字の採用(1928年)・太陽暦の導入(1925年)・女性参政権の付与(1934年)など、イスラームから距離を置く徹底した世俗化・西洋化改革が次々と実施されました。こうした改革はケマルの主導のもと上から強力に推進され、「ケマリズム」と呼ばれます。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

オスマン帝国の解体と国民国家への転換

≒ 多民族帝国が解体され、民族を単位とした近代国家が誕生する時代の典型例

六百年以上続いたオスマン帝国は完全に消滅し、アナトリアに住むトルコ人を主体とした国民国家が建設された。帝国から国民国家への転換という、第一次世界大戦後の世界的潮流を象徴するできごとである。

政教分離と世俗化の断行

≒ 国家と宗教を切り離す「政教分離」の徹底した実例

カリフ制廃止(1924年)・イスラーム法廷の廃止・宗教教育の制限など、国家からイスラームの影響を切り離す改革が断行された。イスラーム世界でこれほど徹底した政教分離を実現した国家は当時他になく、その後の多くのイスラーム国家の議論に影響を与えた。

上からの近代化改革(ケマリズム)

≒ 強いリーダーシップによるトップダウンの近代化モデル

ローマ字を基にしたトルコ文字の採用・太陽暦・女性参政権・姓の義務化など、西洋の制度・文化を取り入れる改革が短期間に断行された。ケマルは1934年に「アタテュルク(父なるトルコ人)」という姓を国民議会から贈られた。

前後のできごと
年表
1914
第一次世界大戦参戦オスマン帝国がドイツ側(同盟国側)として第一次世界大戦に参戦。
1918
敗戦・停戦オスマン帝国が連合国と停戦協定(ムドロス停戦協定)を締結し、事実上の降伏。
1919
ギリシア軍侵攻・国民運動開始ギリシア軍がイズミルに上陸。ムスタファ=ケマルがサムスンに上陸して国民運動の組織化を開始。
1920
セーヴル条約・アンカラ政府樹立セーヴル条約でオスマン帝国の国土が大幅に削減される内容が定まる。ケマルはアンカラで大国民議会を開設し、大国民議会政府を樹立。
1921
サカリヤ会戦ケマル率いる国民軍がサカリヤ川の戦いでギリシア軍を撃退。独立戦争の転換点となった。
1922
スルタン制廃止・ギリシア軍撃退国民軍がギリシア軍をアナトリアから駆逐し、ケマルはスルタン制を廃止。オスマン帝国が事実上終焉を迎える。
1923
ローザンヌ条約・共和国宣言7月、ローザンヌ条約でトルコの主権と国境が国際的に承認される。10月29日にトルコ共和国成立を宣言し、ケマルが初代大統領に就任。
1924
カリフ制廃止カリフ制を廃止し、イスラームの宗教的権威とトルコ国家の分離が完成。
1925
太陽暦採用・宗教的シンボルの廃止太陽暦(グレゴリオ暦)を導入。フェズ(トルコ帽)の着用禁止など文化的西洋化も進める。
1928
トルコ文字採用アラビア文字に代えてローマ字を基にしたトルコ語表記(トルコ文字)を採用。識字率向上を図った。
1934
女性参政権・「アタテュルク」の称号女性の国政参政権を付与。国民議会がケマルに「アタテュルク(トルコの父)」の姓を贈る。
1938
アタテュルク死去ムスタファ=ケマル=アタテュルクがイスタンブルで死去。
結果とその後
結果
独立戦争によって外国勢力の支配を退け、ローザンヌ条約でセーヴル条約を無効化して主権を回復した。政教分離・法制度改革・女性参政権など近代化改革が実現し、非西洋圏の国家近代化モデルとして後の多くの国に影響を与えた。
ケマルの改革は一党支配のもとで上から強制的に推進されたものであり、イスラームの伝統や文化を否定する側面も持った。強引な世俗化への反発は後世のトルコ政治に長く影を落とし、現代に至るまで政教関係の緊張は解消されていない。また独立戦争中にアルメニア人などの少数民族が多数の犠牲を出した問題は、国際的な議論が続いている。
登場人物
人物

ムスタファ=ケマル(アタテュルク)

国民運動の指導者・初代トルコ共和国大統領(在任1923〜1938年)

第一次世界大戦中のガリポリの戦いで名声を高めた軍人。独立戦争を指揮してトルコの主権を回復し、共和国建設と大規模な世俗化改革を断行した。1934年に国民議会から「アタテュルク(トルコの父)」の姓を贈られた。

メフメト6世

最後のオスマン帝国スルタン(在位1918〜1922年)

第一次世界大戦後の占領下で連合国に協力的な姿勢をとったため、国民運動から激しく批判された。1922年にスルタン制が廃止されると国外に脱出し、オスマン帝国の最後の支配者となった。

イスメット=イノニュ

独立戦争の将軍・ローザンヌ条約交渉代表

サカリヤ会戦などで活躍した軍人。ローザンヌ講和会議でトルコ側の主席交渉代表を務め、有利な条件を引き出した。アタテュルクの後継者として第二代大統領に就任(在任1938〜1950年)。

フィリップ=ベルトロ

フランス外務次官・ローザンヌ会議の調整役

ローザンヌ講和会議でフランス代表として重要な役割を果たした外交官。連合国内部の利害調整にあたり、会議の妥結に貢献した。

キーワード解説
用語
セーヴル条約
1920年にオスマン帝国と連合国が締結した講和条約。アナトリアの大部分を分割し、ギリシア・アルメニア・クルド人自治区などに割り当てる極めて過酷な内容で、後にローザンヌ条約によって廃棄された。
ローザンヌ条約
1923年にスイスのローザンヌで締結された条約。セーヴル条約を廃棄し、ほぼ現在のトルコ共和国の国境線を認めるもので、独立戦争のトルコ側の勝利を国際的に確認した。
カリフ制
イスラームの宗教的・政治的最高指導者(カリフ)の制度。オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねることでイスラーム世界の盟主を自任していたが、1924年にトルコがカリフ制を廃止した。
ケマリズム
ムスタファ=ケマルが推進した政治理念・改革路線の総称。共和主義・国民主義・民衆主義・国家主義・世俗主義・革命主義(改革主義)の六原則から構成され、近代トルコ国家の根幹をなす。
大国民議会
1920年にアンカラで開設されたトルコ国民の代表議会。オスマン政府と並立する形で成立し、独立戦争を指導した。現在もトルコ共和国の立法機関として存続している。
トルコ独立戦争
1919年から1922年にかけてケマル率いる国民軍が連合国(主にギリシア・フランス・アルメニア)と戦った戦争。アナトリアからの外国軍排除と主権回復を実現し、共和国成立の軍事的基盤を作った。
もっと知りたい
豆知識

1共和国宣言は深夜に決まった

1923年10月29日の共和国宣言は、前日28日夜から翌朝にかけての大国民議会での緊迫した審議を経て成立したとされる。ケマルは議員たちを説得し、深夜に共和制採択の票決を得た。10月29日はその後「共和国記念日」としてトルコの最重要国民祝日となっている。

2アタテュルクは「トルコの父」という意味

「アタテュルク」は1934年に国民議会が贈ったトルコ語の姓で、「アタ(父)+テュルク(トルコ人)」が語源。法律によってこの姓を使えるのはケマルの子孫のみとされており、他者が名乗ることは禁じられている。

3ガリポリで活躍した将軍が国を救った

第一次世界大戦中の1915年、オスマン帝国はガリポリ半島への連合国(英仏・オーストラリア・ニュージーランド)の上陸作戦を撃退した。その際に戦場での指揮で名声を高めたのがケマルであり、この戦功が後の国民運動の求心力につながった。

4独立戦争後に大規模な住民交換が行われた

ローザンヌ条約にあわせて実施されたギリシア=トルコ間の住民交換(1923〜1924年)では、アナトリアのギリシア正教徒約120万人がギリシアへ、ギリシアのイスラーム教徒約50万人がトルコへ移住した。この強制的な住民移動は近代史における最大規模の民族移動の一つとされる。

5アラビア文字からローマ字への転換はわずか数か月で強行された

1928年8月に始まったトルコ文字(ローマ字ベース)への移行は、公文書・新聞・学校教育などへの適用がわずか数か月で完了するよう強制された。それ以前に書かれたアラビア文字の文書が読めなくなった世代が生まれるという副作用もあったが、識字率向上という面では長期的に効果を発揮した。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1923年。語呂は「行く庭さ(1923)トルコ共和国成立」。
建国の指導者はムスタファ=ケマル(後にアタテュルクの称号)。独立戦争を指揮した軍人であり初代大統領。
セーヴル条約(1920年)の屈辱→独立戦争→ローザンヌ条約(1923年)→共和国宣言(1923年10月29日)という流れを押さえること。
スルタン制廃止(1922年)→共和国成立(1923年)→カリフ制廃止(1924年)という順序に注意。
世俗化改革の具体例(政教分離・ローマ字採用・太陽暦・女性参政権)がよく問われる。「ケマリズム」「脱イスラーム化」などのキーワードとセットで覚える。
オスマン帝国の滅亡は1922年のスルタン制廃止(カリフ制廃止は1924年)であることに注意。
語呂クイズ
「行く庭さ(1923)トルコ共和国成立」= トルコ共和国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. トルコ共和国はいつ成立しましたか?
A. 1923年10月29日です。ムスタファ=ケマルが大国民議会で共和国成立を宣言し、初代大統領に就任しました。
Q. オスマン帝国はいつ滅んだのですか?
A. スルタン制が廃止された1922年をもって事実上の滅亡とされることが多いです。カリフ制の廃止は1924年で、これをもって完全に消滅したと見る立場もあります。
Q. セーヴル条約とローザンヌ条約の違いは何ですか?
A. セーヴル条約(1920年)はオスマン帝国に対してアナトリアの大部分を割譲させる過酷な内容で、ギリシア軍の侵攻も招きました。トルコ独立戦争の勝利後に締結されたローザンヌ条約(1923年)はセーヴル条約を廃棄し、ほぼ現在のトルコの国境線を国際的に承認するものです。
Q. カリフ制の廃止はどのような意味を持ちましたか?
A. カリフはイスラームの宗教的・政治的最高指導者であり、オスマン帝国のスルタンがその地位を兼ねることでイスラーム世界の盟主を自任していました。1924年のカリフ制廃止は国家とイスラームの完全な分離を意味し、世界のイスラーム諸国に大きな衝撃を与えました。
Q. ケマルの改革はなぜ「上からの近代化」と呼ばれるのですか?
A. ケマルの改革は、国民の自発的な要求ではなく、ケマル率いる一党(共和人民党)が権力を集中させて強制的に推進したためです。反対意見を排除しながら短期間に法制度・文字・暦・服装まで変えるという強権的な手法を指して「上からの近代化」と表現されます。
まとめ

トルコ共和国の成立は、敗戦国の廃墟から独立戦争を戦い抜き、近代的な国民国家を建設した20世紀の大転換点です。セーヴル条約の屈辱をローザンヌ条約で覆し、スルタン制・カリフ制を廃止して政教分離を断行したケマルの改革は、非西洋圏の近代化モデルとして後の多くの国に影響を与えました。「行く庭さ(1923)トルコ共和国成立」の語呂とともに、セーヴル条約→独立戦争→ローザンヌ条約→共和国宣言という流れ、そして世俗化改革の具体例を整理して覚えましょう。

編集メモ(ファクト)
「オスマン帝国の滅亡」の年については、スルタン制廃止の1922年とカリフ制廃止の1924年の両説がある。本文ではスルタン制廃止(1922年)を事実上の滅亡、カリフ制廃止(1924年)を完全消滅として記述した。
独立戦争中のアルメニア人問題(アルメニア人虐殺の継続・強制移住)は現在も国際的な論争が続いており、本文では言及を最小限にとどめた。詳細は result フィールドの caution 項に注記した。
「トルコ文字」という表現は日本の教科書で一般的に使われる表記に従った。正式にはラテン文字を基にしたトルコ語表記システムを指す。
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フィリップ=ベルトロはローザンヌ会議の参加者として記録があるが、会議全体の主要プレイヤーはイスメット=イノニュ(トルコ側)やカーゾン(英国側)であり、ベルトロの役割についての記述は抑制的な表現にとどめた。