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1299

オスマン帝国が成立する

オスマン1世
語呂
覚え方
一二憎く(いにくく)(1299)オスマン帝国成立
いにくく(1299)オスマン帝国の成立

1299年ごろ、小アジア(アナトリア)の西北部で、オスマン1世(オスマン=ベイ)が独立した君侯国を興したとされます。これがオスマン帝国の始まりとされる年です。ただし建国年は伝承によるものであり、厳密には「1299年ごろ」と理解するのが正確です。当初は小さな遊牧民の集団に過ぎませんでしたが、その後わずか200年足らずで三大陸にまたがる大帝国へと成長し、1922年の滅亡まで600年以上にわたって存続しました。イスラーム世界の盟主として、またヨーロッパ・アジア・アフリカをつなぐ帝国として、オスマン帝国の成立は世界史上もっとも重要な出来事のひとつです。

この記事のポイント

  • 1299年ごろ、オスマン1世がアナトリア西北部に小さな君侯国(ベイリク)を創設。これがオスマン帝国の始まりとされる
  • セルジューク朝(ルーム=セルジューク朝)の衰退とモンゴルの侵攻が、オスマン家台頭の大きな背景となった
  • 建国年「1299年」は伝承であり厳密には不確かだが、受験・教科書では1299年として扱われる
  • 1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、コンスタンティノープルを都(イスタンブル)とした
  • 16世紀スレイマン1世の時代に最盛期を迎え、アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる大帝国となった
ここが面白い

小さな遊牧民の集団が、600年以上も続く大帝国をどのように築いたのか――すべては1299年ごろ、アナトリアの片隅から始まった。

ここに至るまでの流れ
背景

オスマン帝国の成立は突然の出来事ではありません。セルジューク朝の衰退、モンゴルの侵攻、そして国境地帯で活躍するガーズィー(聖戦の戦士)たちの台頭という大きな歴史の流れの中で生まれました。その背景を順に見ていきましょう。

ルーム=セルジューク朝の衰退

11世紀末から中央アナトリアを支配したセルジューク朝の分枝であるルーム=セルジューク朝は、13世紀に入るとモンゴルの侵攻に苦しみました。1243年のキョセダーの戦いでモンゴル(イルハン朝)に敗れ、以後は属国として弱体化が進みます。これにより、アナトリア各地に多数のトルコ系小君侯国(ベイリク)が自立するようになりました。

オスマン家の出自と境界地帯での台頭

オスマン家の祖先はトルコ系の遊牧民集団で、中央アジアから移動してきたとされます。オスマン1世の父エルトゥールルの時代からアナトリア西北部に定住し、ビザンツ帝国との境界地帯(ウチ)に根を張りました。国境地帯ではイスラーム教の拡大を担うガーズィー(聖戦の戦士)が活躍しており、オスマン家はその中心的な存在として名声を高めていきました。

1299年の独立宣言と君侯国の成立

1299年ごろ、オスマン1世はルーム=セルジューク朝の支配から独立し、自らの名(オスマン)を冠した君侯国を創設したと伝えられます。この年が「オスマン帝国の成立年」として教科書に記載されていますが、建国年は後世の伝承に基づくものであり、歴史家によっては異なる年代を挙げることもあります。当初の領域はアナトリア西北部の小さな地域に過ぎませんでした。

ビザンツ帝国への圧迫と急速な拡大

オスマン1世の後を継いだオルハン(在位1326年ごろ〜1362年ごろ)の時代に、ブルサを占領して最初の首都とし、バルカン半島への進出も開始しました。イェニチェリ(歩兵軍団)の創設など軍制整備も進み、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は急速に領土を失っていきました。そして1453年、第7代スルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国は滅亡します。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

ガーズィー国家としての成立

≒ 「聖戦の戦士の国」として始まった建国

オスマン帝国はビザンツ帝国との国境地帯でイスラームの拡大を担うガーズィー(聖戦の戦士)集団を核として成立した。異なる民族・宗教の人々も柔軟に受け入れた点が急成長の秘訣だった。

イェニチェリの創設

≒ 常備軍・精鋭部隊の誕生

デヴシルメ制度(キリスト教徒の子弟を集め改宗・訓練する制度)によって編成されたイェニチェリ(新軍)は、スルタン直属の精鋭歩兵部隊として帝国拡大を支えた。当時のヨーロッパに例を見ない強力な常備軍だった。

ミッレト制による多民族統治

≒ 宗教ごとに自治を認める共存の仕組み

オスマン帝国は征服した地域の住民をイスラーム・キリスト教・ユダヤ教などの宗教共同体(ミッレト)単位で自治を認めて統治した。強制改宗を原則としなかったことで多民族・多宗教の帝国を安定的に維持した。

前後のできごと
年表
1243
キョセダーの戦いルーム=セルジューク朝がモンゴル(イルハン朝)に敗北。アナトリアでモンゴルの支配が強まり、セルジューク朝は弱体化する。
1281
オスマン1世が家督を継ぐオスマン1世が父エルトゥールルの死後、アナトリア西北部の小集団の長となる。
1299
オスマン帝国の成立(伝承)オスマン1世がルーム=セルジューク朝から自立し、君侯国(ベイリク)を創設したとされる年。受験では1299年として覚える。
1326
ブルサを占領オルハン(オスマン1世の子)がビザンツ帝国からブルサを奪い、最初の首都とする。帝国の基盤が固まる。
1354
バルカン半島へ進出ガリポリを占領し、ヨーロッパ側への足がかりを得る。以後バルカン半島での拡大が加速。
1389
コソボの戦いバルカン半島のセルビアなどキリスト教勢力連合軍に勝利し、バルカン支配を確立。
1453
コンスタンティノープル陥落第7代スルタン・メフメト2世がビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略。東ローマ帝国が滅亡し、都をイスタンブルと改称。
1517
カリフの称号を獲得エジプトのマムルーク朝を滅ぼし、スルタンがカリフの称号も兼ねるスルタン=カリフ制が確立。イスラーム世界の盟主となる。
1520
スレイマン1世の即位と最盛期スレイマン1世(在位1520〜1566年)のもとで帝国は最盛期を迎え、ウィーン包囲(1529年)や地中海制覇を達成。アジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる大帝国となる。
1922
帝国の滅亡第一次世界大戦の敗北とトルコ革命によりスルタン制が廃止され、約600年の歴史に幕を閉じる。
結果とその後
結果
オスマン帝国の成立は、イスラーム世界に600年以上続く強大な帝国をもたらした。多民族・多宗教を柔軟に統治するミッレト制は独自の共存モデルを作り、アジア・ヨーロッパ・アフリカをつなぐ交易と文化の拠点となった。
「1299年の成立」は伝承に基づく年代であり、建国の正確な年月は史料上不確かである点に注意。また当初は小さな君侯国に過ぎず、帝国として認識されたのはその後の拡大を経てからのことであるため、1299年時点を即「大帝国の誕生」と表現するのは正確ではない。
登場人物
人物

オスマン1世

オスマン帝国の初代君主(在位1299年ごろ〜1326年ごろ)

帝国の名の由来となった人物。ガーズィー(聖戦の戦士)としての権威と柔軟な統治で小さな集団を君侯国へと発展させた。建国の詳細は後世の伝承が多く、史料的には不明な部分も多い。

オルハン

第2代スルタン(在位1326年ごろ〜1362年ごろ)

父オスマン1世の後を継ぎ、ブルサを首都としてヨーロッパへの進出を開始。イェニチェリの前身となる軍制を整備し、帝国の基礎を固めた。

メフメト2世(征服王)

第7代スルタン(在位1444〜1446年、1451〜1481年)

1453年にコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼした。「征服王(ファーティフ)」の称号を持つ。コンスタンティノープルをイスタンブルと改称して帝都とした。

スレイマン1世(壮麗王)

第10代スルタン(在位1520〜1566年)

オスマン帝国の最盛期を築いた君主。ウィーン包囲(1529年)や地中海制覇など対外拡大を達成する一方、国内法を整備して「立法者」とも呼ばれた。ヨーロッパでは「壮麗王(マニフィセント)」として知られる。

キーワード解説
用語
ガーズィー
イスラームの拡大のために戦う「聖戦の戦士」。オスマン帝国はビザンツ帝国との境界地帯でガーズィーとしての権威を帯びることで支持を集め、急成長した。
イェニチェリ
オスマン帝国のスルタン直属の精鋭歩兵軍団。デヴシルメ制度(キリスト教徒の子弟を集めて改宗・訓練する制度)によって編成され、当時最強の常備軍のひとつとされた。
ミッレト制
オスマン帝国が採用した、宗教共同体(ミッレト)ごとに自治を認める統治制度。イスラーム・キリスト教・ユダヤ教などの共同体がそれぞれ内部の法や教育を自治し、多民族帝国の安定を支えた。
スルタン=カリフ制
スルタン(世俗的な政治・軍事の支配者)とカリフ(イスラーム共同体の宗教的指導者)の称号を一人の君主が兼ねる体制。1517年にマムルーク朝を滅ぼした後、オスマン皇帝がカリフ位を得て確立した。
ベイリク(君侯国)
オスマン帝国成立前後のアナトリアで乱立した、トルコ系小君侯国のこと。ルーム=セルジューク朝の解体後、各地の有力者が自立して建てた。オスマン家もその一つとして出発した。
もっと知りたい
豆知識

1建国年「1299年」は後世に定められた伝承

オスマン帝国の成立年として教科書に記載される「1299年」は、厳密には後世の年代記に基づく伝承である。オスマン1世が実際に独立を宣言した文書や同時代の史料は残っておらず、歴史家によっては1302年説など別の年代を主張することもある。ただし受験では「1299年」として覚えるのが基本。

2「オスマン」という名前の由来

「オスマン」はアラビア語の「ウスマーン」のトルコ語読みで、イスラームの第3代カリフ・ウスマーン(オスマン)に由来するとされる。帝国名「オスマン帝国」は英語ではしばしば「オットマン帝国(Ottoman Empire)」と表記されるが、これも同じ名前のヨーロッパ語形である。

3コンスタンティノープル陥落の衝撃

1453年のコンスタンティノープル陥落は、約1000年続いた東ローマ帝国の終焉としてヨーロッパ全土に衝撃を与えた。この出来事は多くのビザンツの学者をイタリアへ亡命させ、ルネサンスの進展に間接的に貢献したとする説もある。

4600年以上続いた長命な帝国

1299年ごろの成立から1922年のスルタン制廃止まで、オスマン帝国は約620年以上にわたって存続した。これはモンゴル帝国やローマ帝国と並ぶ世界史上屈指の長命帝国のひとつである。20世紀まで存在したことから、近代外交史・第一次世界大戦とも深く関わる。

5ウィーン包囲と「クロワッサン」の伝説

1529年にスレイマン1世がウィーンを包囲したとき、夜間に地下道を掘り進むオスマン軍をウィーンのパン職人が気づいて撃退したという伝説がある。その勝利を記念してオスマン帝国の旗の三日月をかたどったパンを作ったのが「クロワッサン」の起源という説があるが、史学的には証明されていない俗説とされる。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1299年。語呂は「一二憎く(いにくく)(1299)オスマン帝国成立」。
建国者はオスマン1世(オスマン=ベイ)。場所はアナトリア(小アジア)西北部。
成立の背景:ルーム=セルジューク朝の衰退とモンゴルの侵攻により、アナトリアでベイリク(小君侯国)が乱立する中で自立した。
1453年にメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させてビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブルを都とした(1453年の出来事もセットで覚える)。
重要制度:イェニチェリ(スルタン直属の精鋭歩兵)、ミッレト制(宗教共同体ごとの自治)、スルタン=カリフ制(1517年確立)。
語呂クイズ
「一二憎く(いにくく)(1299)オスマン帝国成立」= オスマン帝国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. オスマン帝国はどこで、誰が建国しましたか?
A. アナトリア(小アジア)の西北部で、オスマン1世(オスマン=ベイ)が1299年ごろに建国したとされます。当初は小さな君侯国(ベイリク)でした。
Q. なぜオスマン帝国はこんなに急速に大きくなれたのですか?
A. ビザンツ帝国との国境地帯でガーズィー(聖戦の戦士)として名声を高めたこと、多民族・多宗教の人々を柔軟に受け入れたこと、そしてイェニチェリという強力な常備軍を整えたことが主な理由として挙げられます。
Q. 「1299年」はなぜ不確かなのですか?
A. オスマン帝国の建国を記した同時代の史料がほとんど残っておらず、後世の年代記に基づく伝承であるためです。そのため、歴史家によって別の年代を主張することもあります。受験では「1299年」として覚えます。
Q. ビザンツ帝国はいつ滅びましたか?
A. 1453年に、オスマン帝国の第7代スルタン・メフメト2世がコンスタンティノープルを攻略したときです。約1000年続いた東ローマ帝国がここで終わりを迎えました。都はイスタンブルと改称されました。
Q. ミッレト制とは何ですか?
A. オスマン帝国が採用した、宗教共同体(ミッレト)ごとに内部の自治を認める統治制度です。イスラーム・キリスト教・ユダヤ教などの共同体がそれぞれ法や教育を自治したため、多民族・多宗教の帝国を長期間安定して維持することができました。
まとめ

オスマン帝国の成立は、13世紀末のアナトリアという小さな舞台から始まりました。ルーム=セルジューク朝の衰退とモンゴルの侵攻が生み出した空白に、オスマン1世率いるガーズィーの集団が根を張り、1299年ごろに独立した君侯国を創設したのです。その後わずか200年足らずで東ローマ帝国を滅ぼし、さらに16世紀には三大陸にまたがる大帝国へと成長しました。イェニチェリ・ミッレト制・スルタン=カリフ制という独自の制度が帝国の骨格を支え、1922年まで約600年以上存続したのです。「一二憎く(1299)オスマン帝国成立」の語呂とともに、成立の背景・重要制度・1453年のコンスタンティノープル陥落をセットで押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
建国年「1299年」は伝承に基づくものであり、同時代史料による確定年ではないため、本文中では「1299年ごろ」と留保を付けて記述した。
「オスマン帝国」という呼称は後世に定まったものであり、創設時は「小さな君侯国(ベイリク)」の規模であったことを background および result の caution で注記した。
スレイマン1世の「立法者」の側面は trivia および people に収め、本文の主軸は成立(1299年)の背景と意義に絞った。
related は指示された 1453-fall-constantinople・1258-fall-of-baghdad の2件のみ記載した。