語呂で覚える世界史年号語呂合わせ・世界史暗記
一覧 / 国民国家と帝国主義 / 青年トルコ革命が起こる
青年トルコ革命が起こるのイラスト
高校/政治
1908

青年トルコ革命が起こる

統一と進歩委員会(青年トルコ)の将校たち
語呂
覚え方
行く追は(1908)青年トルコ革命
いくおは(1908)青年トルコ革命

1908年、オスマン帝国では「統一と進歩委員会」(通称・青年トルコ)に属する若い将校たちが、専制君主スルタン・アブデュルハミト2世に対して蜂起しました。1876年に発布されながら停止されていたミドハト憲法の復活を求める彼らの運動は、みるみる帝国全土に広がり、スルタンは憲法の復活と議会の再開を認めざるを得なくなりました。翌1909年にはスルタン自身も廃位されて青年トルコが実権を握りましたが、やがて彼らはトルコ民族主義を強め、第一次世界大戦でドイツ側について敗北。オスマン帝国の解体へとつながり、最終的にはムスタファ・ケマル(アタテュルク)によるトルコ共和国樹立(1923年)の道を開いた、帝国の命運を決定づけた革命でした。

この記事のポイント

  • 1908年、統一と進歩委員会(青年トルコ)の将校らが蜂起し、停止されていたミドハト憲法の復活を要求
  • スルタン・アブデュルハミト2世は圧力に屈して憲法を復活させ、議会を再開(第二次立憲政体)
  • 1909年、スルタンは廃位されて青年トルコが実権を掌握したが、その後しだいに強権化・民族主義化
  • 革命の混乱に乗じてオーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを正式併合し、バルカン情勢を不安定化
  • 第一次世界大戦でドイツ側に立ち敗北したオスマン帝国は解体へ向かい、のちにトルコ共和国(1923年)が建国された
ここが面白い

「ヨーロッパの病人」と呼ばれたオスマン帝国で、軍人たちが銃を手に憲法の復活を叫んだ――帝国最後の変革をかけた革命が、1908年の夏に幕を開けた。

ここに至るまでの流れ
背景

青年トルコ革命は突然起きたものではありません。19世紀から続くオスマン帝国の衰退と近代化の摩擦、そしてスルタンの専制に対する長年の反発が積み重なって爆発した出来事です。その背景を順を追って見ていきましょう。

「ヨーロッパの病人」オスマン帝国の衰退

17世紀以降、オスマン帝国はハプスブルク家やロシアとの戦争で領土を失い続けた。19世紀にはギリシャ(1829年独立)・セルビア・ルーマニアなどバルカンの民族運動が相次いで独立を勝ち取り、帝国の版図は急速に縮小。1856年のパリ条約以降、西洋列強の内政干渉も常態化し、帝国の経済は事実上列強の管理下に置かれた。こうした状況を西洋諸国が「ヨーロッパの病人」と呼んだ。

タンジマートとミドハト憲法の挫折

帝国は1839年から「タンジマート(恩恵改革)」と呼ばれる近代化路線を進め、1876年には宰相ミドハト・パシャの主導でオスマン帝国初の憲法(ミドハト憲法)が制定された。しかし同年即位したアブデュルハミト2世は、1877〜78年の露土戦争を口実に翌年憲法を停止し、議会を解散。以後30年にわたって専制支配を敷き、秘密警察を使って反対派を徹底的に弾圧した。

統一と進歩委員会(青年トルコ)の形成

専制に反発する将校・医師・官僚・知識人らは秘密結社を結成し、国外のパリやジュネーヴを拠点に活動を続けた。これらの組織が1889年以降に統合されて生まれたのが「統一と進歩委員会(İttihat ve Terakki Cemiyeti)」、通称「青年トルコ」である。彼らの主要な要求は憲法の復活と立憲政体の実現であった。

1908年の蜂起と憲法の復活

1908年7月、マケドニアに駐屯していた統一と進歩委員会の将校たちが武装蜂起し、憲法復活を要求。運動は軍の広い層に支持され、ロシアとイギリスがマケドニア問題に介入しようとする動きへの危機感もあって、民衆の支持も集めた。アブデュルハミト2世は鎮圧に失敗し、7月23日に憲法の復活と議会の再開を宣言。この「第二次立憲政体」の開始が青年トルコ革命の核心である。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

憲法の復活と「第二次立憲政体」の開始

≒ 軍部・官僚主導で憲法を取り戻す政治変革

30年間停止されていたミドハト憲法が復活し、オスマン帝国議会が再開された。近代的な立憲政体を目指す第一歩となったが、実権は青年トルコの指導部に集中していった。

スルタン専制の終わりとスルタンの廃位

≒ 独裁者を退場させる政変

1909年4月、保守・宗教勢力が反革命クーデタ(3月31日事件)を起こしたが、青年トルコ軍が鎮圧し、アブデュルハミト2世を廃位してメフメト5世を擁立。スルタンの専制は終わり、以後の皇帝は名目的な存在となった。

バルカン情勢の不安定化とボスニア併合問題

≒ 大国が隣国の混乱に乗じて領土を広げる構図

革命による帝国内の混乱に乗じてオーストリア=ハンガリー帝国が1908年10月にボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合。これはセルビアやロシアの強い反発を招き、第一次世界大戦の遠因の一つとなった。

前後のできごと
年表
1839
タンジマート開始オスマン帝国が「ギュルハーネ勅令」を発して近代化改革(タンジマート)を始動。法の下の平等・生命・財産の保護などを宣言。
1876
ミドハト憲法制定・アブデュルハミト2世即位宰相ミドハト・パシャが主導してオスマン帝国初の憲法を制定。同年、アブデュルハミト2世が即位。
1878
憲法停止露土戦争(1877〜78年)を口実にアブデュルハミト2世が憲法を停止し議会を解散。30年間の専制が始まる。
1889
統一と進歩委員会の前身結成イスタンブルの軍医学校生徒らが秘密結社を結成。その後、国外の組織と統合されて「統一と進歩委員会(青年トルコ)」へ発展。
1908
青年トルコ革命7月、マケドニア駐屯の将校が蜂起。7月23日にアブデュルハミト2世が憲法復活と議会再開を宣言(第二次立憲政体の開始)。
1908
ボスニア・ヘルツェゴビナ併合10月、帝国内混乱に乗じてオーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを正式併合。バルカン危機が深刻化。
1909
スルタン廃位4月の反革命クーデタ(3月31日事件)を青年トルコ軍が鎮圧し、アブデュルハミト2世を廃位。メフメト5世を擁立して青年トルコが実権を掌握。
1912
第一次バルカン戦争バルカン同盟(セルビア・ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロ)がオスマン帝国に宣戦。帝国はバルカン半島の残存領土の大部分を失った。
1914
第一次世界大戦参戦10月、統一と進歩委員会の主導でオスマン帝国がドイツ・オーストリア側(同盟国)として第一次世界大戦に参戦。
1918
敗戦・帝国の崩壊へ大戦で敗北したオスマン帝国は10月にムドロス休戦協定を締結。統一と進歩委員会の指導者たちは国外に逃亡し、委員会は解散。
1923
トルコ共和国建国ムスタファ・ケマル(アタテュルク)がトルコ大国民議会を率いてオスマン帝国を廃し、トルコ共和国を建国。初代大統領に就任。
結果とその後
結果
30年間停止されていたミドハト憲法が復活し、立憲政体・議会政治が再開された。スルタンの専制支配が終わり、帝国の近代化を推進する政治的土台が生まれた。
青年トルコはしだいに一党独裁・トルコ民族主義化し、アルメニア人やアラブ人ら少数民族への弾圧を強めた。第一次世界大戦への無謀な参戦判断がオスマン帝国の解体を招いた点、また革命の混乱がボスニア併合危機とバルカン不安定化を助長した点は否定できない。
登場人物
人物

アブデュルハミト2世

オスマン帝国スルタン(在位1876〜1909年)

憲法を停止して30年間の専制支配を行い「赤いスルタン」とも呼ばれた。青年トルコ革命の圧力に屈して憲法を復活させたが、翌年廃位された。

エンヴェル・パシャ

統一と進歩委員会の最高指導者の一人・陸軍大臣

青年トルコのなかで最も権力を持った軍人政治家の一人。ドイツとの同盟を主導し、第一次世界大戦参戦の決断に大きく関わった。敗戦後に国外逃亡し、1922年に中央アジアで死亡した。

タラート・パシャ

統一と進歩委員会の指導者・大宰相

エンヴェル、ジェマルとともに「三頭政治」と呼ばれる寡頭支配の一角。第一次世界大戦中のアルメニア人強制移送に関与したとされ、戦後亡命先のベルリンで暗殺された。

ミドハト・パシャ

オスマン帝国宰相(1876年憲法の主導者)

1876年の憲法制定を主導した近代化派の代表的政治家。アブデュルハミト2世によって追放・処刑された。青年トルコ革命はミドハト憲法の復活を旗印の一つとした。

ムスタファ・ケマル(アタテュルク)

トルコ共和国初代大統領

青年トルコの将校として活動し、第一次世界大戦の戦闘でも活躍した。帝国崩壊後に独立運動を指導し、1923年にトルコ共和国を建国。「アタテュルク(トルコの父)」の称号を持つ。

キーワード解説
用語
統一と進歩委員会(青年トルコ)
オスマン帝国の近代化・憲法復活を求めた秘密結社系の政治団体。1908年革命を主導し、その後1918年まで帝国の実権を握った。トルコ語の頭文字から「イッティハト」とも呼ばれる。
ミドハト憲法
1876年に制定されたオスマン帝国初の憲法。宰相ミドハト・パシャが主導し、二院制議会や法の下の平等などを定めた。翌年停止され、1908年の青年トルコ革命で復活した。
第二次立憲政体
1908年に憲法が復活して議会が再開された体制のこと。1876年の第一次立憲政体(ミドハト憲法制定)に対する呼称。青年トルコ革命の直接の成果。
アブデュルハミト2世
在位1876〜1909年のオスマン帝国スルタン。憲法を停止して専制支配を行い、秘密警察を使って反対派を弾圧した。青年トルコ革命によって憲法復活を強いられ、翌年廃位された。
バルカン問題
19世紀後半から20世紀初頭にかけてのバルカン半島をめぐる複雑な民族・宗教・列強の利害の対立。青年トルコ革命後のオーストリアによるボスニア併合(1908年)がさらに情勢を悪化させ、最終的に第一次世界大戦の導火線となった。
タンジマート
アラビア語・トルコ語で「恩恵改革」「再編」を意味する。1839〜1876年のオスマン帝国による一連の近代化改革の総称。法の下の平等・近代的法制度・教育改革などを推進した。
もっと知りたい
豆知識

1「行く追は(1908)」の語呂は革命の勢いを象徴

青年トルコ革命の語呂合わせ「行く追は(1908)」の「追う」は、専制スルタンを追い詰めた将校たちのイメージにぴったり。1908年という年号と革命のダイナミズムを同時に覚えられる。

2革命からわずか2か月でオーストリアが動いた

青年トルコ革命が7月に成功するや、オーストリア=ハンガリー帝国は同年10月にボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合した。ベルリン条約(1878年)で同地を「管理」していたオーストリアが、帝国の混乱を好機と見て正式領有に踏み切ったのである。これはセルビアの強い反発を招き、第一次世界大戦の伏線の一つとなった。

3スルタン廃位の引き金は「反革命」だった

1909年4月、イスタンブルで宗教的保守勢力や一部の兵士がシャリーア(イスラーム法)の復権を求めて反乱(3月31日事件)を起こした。青年トルコはマケドニアから「行動軍」を送り込んで反乱を鎮圧し、この機にアブデュルハミト2世を廃位した。「反革命の鎮圧」がスルタン退位の直接の口実となったのである。

4「三頭政治」の末路

第一次世界大戦後、エンヴェル・タラート・ジェマルの「三頭」はいずれも非業の死を遂げた。タラートは1921年にベルリンで暗殺(アルメニア人による復讐運動「ネメシス作戦」)、エンヴェルは1922年に中央アジアでの戦闘で死亡、ジェマルも1922年にティフリスで暗殺された。

5青年トルコは「青年」ばかりではなかった

「青年トルコ(Jöntürkler)」という呼称はフランス語の「Jeunes Turcs」に由来し、当初は「若いトルコ人改革派」を指す外部からの呼び名だった。実際には中堅の将校・官僚・知識人が中核であり、40代以上の指導者も少なくなかった。「青年」という語が持つ改革・進取のニュアンスが広まった。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1908年。語呂は「行く追は(1908)青年トルコ革命」。
革命の主体は「統一と進歩委員会」(青年トルコ)の将校たち。スルタンはアブデュルハミト2世。
要求の核心:1876年に停止されていたミドハト憲法の復活と議会の再開(第二次立憲政体)。
翌1909年にスルタンが廃位され、青年トルコが実権を握ったが、その後民族主義化・一党独裁化した点に注意。
革命の混乱に乗じてオーストリア=ハンガリー帝国が1908年にボスニア・ヘルツェゴビナを併合→バルカン不安定化→第一次世界大戦の伏線という流れを押さえる。
オスマン帝国は第一次世界大戦でドイツ側(同盟国)として参戦して敗北し、帝国は解体。のちにケマル=アタテュルクによるトルコ革命・共和国建国(1923年)につながる。
関連語句:タンジマート(1839〜)・ミドハト憲法(1876年)・青年トルコ・第二次立憲政体・ボスニア併合・アタテュルク。
語呂クイズ
「行く追は(1908)青年トルコ革命」= 青年トルコ革命が起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 青年トルコ革命とは何ですか?
A. 1908年にオスマン帝国の「統一と進歩委員会」(青年トルコ)の将校たちが蜂起し、スルタン・アブデュルハミト2世に停止されていたミドハト憲法の復活と議会の再開を認めさせた政治変革です。帝国近代化の転換点となりました。
Q. なぜミドハト憲法は停止されていたのですか?
A. 1876年に制定されましたが、翌年に起きた露土戦争(1877〜78年)をアブデュルハミト2世が口実に用いて憲法を停止し、議会を解散しました。以後30年間、秘密警察を使った専制政治が続きました。
Q. 青年トルコ革命はなぜバルカン情勢に影響を与えたのですか?
A. 帝国内の混乱と権力の空白に乗じて、オーストリア=ハンガリー帝国が1908年10月にボスニア・ヘルツェゴビナを正式に併合しました。これはセルビアやロシアの強い反発を招き、バルカン半島の緊張を高めて第一次世界大戦の遠因の一つとなりました。
Q. 青年トルコはその後どうなりましたか?
A. 1909年にスルタンを廃位して実権を握りましたが、しだいにトルコ民族主義を強め、少数民族を弾圧するようになりました。第一次世界大戦でドイツ側に立って参戦しましたが敗北し、指導者たちは海外に逃亡。1918年に組織は解散しました。
Q. 青年トルコ革命とトルコ共和国建国はどうつながりますか?
A. 青年トルコ革命はオスマン帝国の専制を終わらせ、近代化への道を開きましたが、帝国そのものは第一次世界大戦の敗北で解体されました。その後、ムスタファ・ケマル(アタテュルク)が独立戦争を指導してオスマン帝国を廃止し、1923年にトルコ共和国を建国しました。青年トルコ革命は帝国終焉とトルコ共和国成立への流れを加速させた歴史的転換点です。
Q. アブデュルハミト2世はなぜ「赤いスルタン」と呼ばれましたか?
A. アルメニア人やその他の少数民族に対する弾圧・虐殺を行ったことから、欧米諸国から「赤いスルタン(Bloody Sultan)」と呼ばれました。秘密警察による反対派の取り締まりも苛烈であったため、広く専制の象徴とされました。
まとめ

青年トルコ革命は、30年間凍結されてきた憲法を軍の力で取り戻した「下からの近代化」の試みでした。しかし革命の後継者たちは民族主義と一党支配に傾き、帝国を第一次世界大戦の惨禍へと引き込みました。オスマン帝国は解体され、その廃墟の上にアタテュルクがトルコ共和国を建てます。「行く追は(1908)青年トルコ革命」の語呂とともに、ミドハト憲法の停止・復活という流れ、そしてボスニア併合からバルカン危機・第一次世界大戦へとつながる連鎖を押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
蜂起の「7月23日」という日付は通説として広く用いられているが、具体的な経緯には若干の異説もあるため、本文では「1908年7月」として記述した。
アブデュルハミト2世の「赤いスルタン」という呼称はアルメニア人弾圧への欧米側の批判的呼び名であり、本文ではコラム的文脈のみで言及した。
タラート・パシャのアルメニア人強制移送への関与については、トルコ政府と国際社会の間で歴史認識に相違があるため「関与したとされる」という表現にとどめた。
「三頭政治」の表現(エンヴェル・タラート・ジェマル)は一般的な通称として使用している。実際には委員会内部の権力構造はより複雑であった。
related に指定された「1299-ottoman-empire」「1919-versailles」の両IDを使用した。サイト内に実在しない場合は削除すること。