高校/政治
1907
三国協商が成立する
エドワード7世(イギリス王)、ニコライ2世(ロシア皇帝)、アンリ・カンボン(フランス外交官)
語呂
覚え方
行く追な(1907)三国協商
いくおな(1907)三国協商
1907年、イギリスとロシアがアフガニスタン・ペルシア・チベットをめぐる勢力圏を協定で画定したことで、英露協商が成立しました。これにより、1894年の露仏同盟、1904年の英仏協商と合わせた「三国協商(トリプル・アンタント)」の枠組みが完成します。三国協商は正式な軍事同盟条約ではなく、複数の二国間協定が積み重なった緩やかな協力関係でしたが、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882年成立)と対峙する陣営として、ヨーロッパをふたつの巨大な勢力圏に分断しました。その対立構造が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島の緊張と結びつき、1914年の第一次世界大戦を引き起こす遠因となります。
この記事のポイント 1907年の英露協商成立により、露仏同盟(1894年)・英仏協商(1904年)と合わせて三国協商の枠組みが完成した 三国協商はドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882年)に対抗する勢力として、ヨーロッパを二つの陣営に分けた 三国協商は正式な軍事同盟条約ではなく、複数の二国間協定の集合体であり、各国の義務は三国同盟ほど強固ではなかった 背景にはドイツの「世界政策」と海軍増強があり、特にイギリスは海軍力への脅威感から対独接近を進めた バルカン半島をめぐる列強の対立と組み合わさり、1914年の第一次世界大戦の対立構造の基盤となった
ここが面白い 「敵の敵は友だ」――19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツの急速な台頭を前に、かつて競い合っていたイギリス・フランス・ロシアが次々と手を結んでいった。
三国協商は一夜にして生まれたわけではありません。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツの膨張主義に対する各国の警戒感が高まる中で、段階的に形成されていきました。その過程を順に見ていきましょう。
ドイツの台頭と「世界政策」 1871年のドイツ帝国統一後、初代宰相ビスマルクは巧みな外交でヨーロッパの均衡を保ち、孤立するフランスを封じ込めました。しかし1890年にヴィルヘルム2世がビスマルクを更迭すると、対外政策は大きく転換します。皇帝は「世界政策(ヴェルトポリティク)」を唱えて海外植民地の拡大と強大な海軍の建設を推進しました。特に1898年に始まった海軍増強計画(ティルピッツ計画)は、世界最強の海軍国イギリスを強く刺激しました。
露仏同盟(1894年)――対独包囲の第一歩 ビスマルクの後継者たちが再保障条約(独露間の秘密条約)の更新を拒否すると、孤立を恐れたロシアはフランスに接近しました。1891〜1894年にかけて露仏同盟が締結され、ドイツが仏露いずれかを攻撃した場合の相互援助が約束されました。これはビスマルク外交が崩れた最初の象徴であり、フランスが長年の孤立から脱した画期的な出来事でした。
英仏協商(1904年)――長年のライバルが和解 イギリスは19世紀を通じてフランスと植民地をめぐって激しく対立してきました。しかし1898年のファショダ事件(スーダンをめぐる対立)を経て両国は冷静な現実主義へと向かい、1904年に英仏協商(アンタント・コルディアル)を締結しました。これはモロッコにおけるフランスの優越とエジプトにおけるイギリスの優越を相互に認め合う植民地協定です。軍事同盟ではありませんでしたが、モロッコ事件(1905年・1911年)を通じて両国の協力は強化されていきました。
英露協商(1907年)――三国協商の完成 日露戦争(1904〜1905年)でロシアは日本に敗北し、東アジアでの南下政策が行き詰まりました。一方、ドイツの膨張を警戒するイギリスも対露関係の改善を必要としていました。1907年にはペルシア(現イラン)を北部(露)・南部(英)・中立地帯に三分割し、アフガニスタンをイギリスの勢力圏とし、チベットでは両国が中国の宗主権を認めることで合意しました。この英露協商の締結により、三国協商の枠組みが完成しました。
ヨーロッパの二極化 ≒ 冷戦期の東西陣営のような「ブロック政治」 三国協商と三国同盟によって、ヨーロッパの主要国がふたつの陣営に分かれた。これはいわゆる「同盟のジレンマ」を生み出し、局地的な紛争が大陸規模の戦争に拡大しやすい構造を作った。
「正式な同盟」ではない点 ≒ NATOのような集団的自衛条約とは異なる緩やかな協力関係 三国協商は軍事的義務を定めた条約ではなく、複数の二国間協定の集積にすぎなかった。各国は参戦を強制されるわけではなく、1914年の開戦時にもイタリアが三国同盟から離脱・中立を保ったことと好対照をなす。
植民地問題の解決が接近を促した ≒ 国境紛争を外交交渉で棚上げし、より大きな脅威に対処する現実主義外交 英仏はエジプト・モロッコをめぐる対立を協定で処理し、英露はペルシア・アフガニスタン・チベットで勢力圏を分割した。共通の脅威(ドイツ)への対応のため、過去の植民地競争を棚上げしたのが三国協商形成の実態だった。
1871 ドイツ帝国成立 普仏戦争の勝利後、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国が成立。ビスマルクが宰相として均衡外交を展開し、フランスの孤立を図る。
1882 三国同盟成立 ドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を締結。のちの三国協商と対峙する陣営の形成。
1890 ビスマルク辞任 ヴィルヘルム2世がビスマルクを更迭。再保障条約の更新を拒否し、ロシアとの関係が悪化。
1894 露仏同盟成立 ロシアとフランスが軍事同盟を締結。ドイツによる攻撃に対する相互援助を約束し、対独包囲網の第一歩となる。
1898 ファショダ事件 スーダンのファショダでイギリスとフランスが衝突。一触即発の後、フランスが撤退し、英仏間の植民地問題の解決への動きが始まる。
1904 英仏協商成立 イギリスとフランスがモロッコ・エジプトなどの植民地問題を協定で処理。「光栄ある孤立」を捨てたイギリスの外交転換を示す。
1905 第一次モロッコ事件 ドイツがモロッコへの影響力をめぐって英仏に挑戦。英仏の連携が試されたが、両国の結束が強まる結果に。
1905 日露戦争終結 日本がロシアに勝利し、ロシアのアジア進出が頓挫。ロシアはバルカン方面へと目を向け、イギリスとの協調に応じやすくなる。
1907 英露協商成立 ペルシア・アフガニスタン・チベットをめぐる協定が締結され、英露協商が成立。三国協商の枠組みが完成。
1911 第二次モロッコ事件 ドイツが再びモロッコ問題で英仏に揺さぶりをかける。英仏協商の絆がさらに強化され、軍事参謀協議も進む。
1914 第一次世界大戦勃発 サラエヴォ事件を発端に、三国協商と三国同盟の対立が全面戦争へと発展。
◎ ドイツの一方的な覇権確立を抑止し、ヨーロッパの勢力均衡を維持しようとする枠組みとして機能した。英仏露の協調関係は第一次世界大戦における連合国側の基盤となった。
△ ヨーロッパの「二極化」は局地紛争が大陸規模の戦争に連鎖する構造を生み出し、1914年のサラエヴォ事件を第一次世界大戦へと拡大させる遠因となった。また三国協商はあくまで協定の集合体であり、正式な軍事同盟とは区別して理解する必要がある。
ヴィルヘルム2世 ドイツ皇帝(在位1888〜1918年) 1890年にビスマルクを更迭し「世界政策」を掲げた。海軍増強と積極的な対外膨張でイギリスを刺激し、三国協商形成を促した最大の間接的要因。
エドワード7世 イギリス王(在位1901〜1910年) フランス・ロシアとの協調促進に個人的に熱心で、1903年のパリ訪問が英仏協商の雰囲気づくりに貢献したとされる。「外交官王」とも呼ばれた。
テオフィル・デルカッセ フランス外務大臣(在任1898〜1905年) 英仏協商締結の立役者。露仏同盟の維持とイギリスとの接近を同時に進め、対独包囲網の構築を主導した。第一次モロッコ事件でドイツの圧力に屈して辞任した。
アレクサンドル・イズヴォルスキー ロシア外務大臣(在任1906〜1910年) 英露協商締結を主導したロシア側の交渉担当者。日露戦争後にロシアの外交方針を東アジアからバルカン半島・ヨーロッパへと転換させた。
アルフレート・フォン・ティルピッツ ドイツ海軍大臣(在任1897〜1916年) ドイツの大規模な海軍建設計画(ティルピッツ計画)を立案・推進した。この海軍増強こそがイギリスの対独警戒を決定的に高め、英仏・英露の接近を後押しした。
三国協商(トリプル・アンタント) イギリス・フランス・ロシアが結んだ協力関係の総称。露仏同盟(1894年)・英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)の三つの二国間協定から成り、正式な軍事同盟ではなかった。
三国同盟(トリプル・アライアンス) 1882年にドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアが結んだ軍事同盟。三国協商と対峙する陣営。ただしイタリアは1915年に三国同盟を離脱して連合国側で参戦した。
世界政策(ヴェルトポリティク) ヴィルヘルム2世が1890年代から推進した積極的な海外進出・植民地拡大・海軍増強を柱とするドイツの対外政策。ビスマルクの現状維持外交とは正反対の方向を向いており、周辺列強の警戒を招いた。
英仏協商(アンタント・コルディアル) 1904年にイギリスとフランスが締結した植民地協定。「アンタント・コルディアル」はフランス語で「心からの協調」の意味。モロッコへのフランスの優越とエジプトへのイギリスの優越を相互に認め合った。
光栄ある孤立 19世紀を通じてイギリスがとってきた外交方針で、大陸ヨーロッパの同盟関係に巻き込まれず独自の立場を保つ政策。英仏協商(1904年)の締結によって実質的に終焉を迎えた。
バルカン半島(ヨーロッパの火薬庫) オスマン帝国の衰退後、民族独立運動や列強の利害が交錯した不安定地帯。オーストリア=ハンガリーとロシアが対立し、三国協商・三国同盟の対決の主戦場となった。1914年のサラエヴォ事件はここで起きた。
1 三国協商は「同盟」ではなかった三国同盟(独・墺・伊)が明確な軍事条項を持つ正式な同盟条約であったのに対し、三国協商は植民地問題の処理を目的とした二国間協定の積み重ねにすぎなかった。このため1914年の開戦時、イギリスは当初「義務がない」として参戦を迷ったほどである。最終的にはドイツのベルギー侵犯を口実に参戦を決断した。
2 イタリアは三国同盟を裏切った三国同盟の一員だったイタリアは、1914年の開戦時に「防衛的同盟であり今回の戦争は自衛的でない」として中立を宣言した。さらに1915年にはロンドン秘密条約で領土を約束されて連合国(三国協商側)に参戦した。これは三国同盟が三国協商ほどの結束力を持っていなかったことを示している。
3 エドワード7世は「ヨーロッパの叔父さん」エドワード7世はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世とそれぞれ親族関係にあった(ヴィルヘルム2世はエドワード7世の甥、ニコライ2世はエドワード7世の姪アレクサンドラ(皇后)の夫にあたる)。この「ヨーロッパの叔父さん」とも呼ばれた国王が外交的な親英感情の醸成に貢献した一方、第一次世界大戦では「親族同士の戦争」という皮肉な事態を招いた。
4 英露の「仮想敵」は長くイギリス自身だった19世紀、イギリスとロシアは中央アジア・インド・ペルシアをめぐって「グレート・ゲーム」と呼ばれる覇権争いを繰り広げていた。1907年の英露協商は、この長年の対立を棚上げしてドイツという共通の脅威に対処するための実用的な妥協だった。歴史的宿敵同士が手を結んだことは当時の人々にとって驚くべき出来事だった。
5 モロッコ事件が英仏の絆を強めた1905年と1911年の二度にわたるモロッコ事件では、ドイツがフランスのモロッコ支配に挑戦した。これに対してイギリスがフランス支持を明確にしたことで、英仏協商は単なる植民地協定から実質的な安全保障上の連携へと発展した。特に1906年のアルヘシラス会議でドイツが孤立したことは、三国協商の結束力を世界に示した。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1907年。語呂は「行く追な(1907)三国協商」。
三国協商の構成:露仏同盟(1894年)+英仏協商(1904年)+英露協商(1907年)の三つの協定の集合体。
三国協商(英・仏・露)vs 三国同盟(独・墺・伊)という二極構造がヨーロッパに形成されたことを押さえる。
三国協商は正式な軍事同盟ではなく、複数の二国間協定の集積である点に注意。これは入試でよく問われる。
背景:ドイツの世界政策・海軍増強(ティルピッツ計画)によるイギリスへの脅威感が英仏・英露接近の主因。
結果:ヨーロッパの二極化がバルカン半島の緊張と結びつき、1914年の第一次世界大戦の対立構造の基盤となった。
語呂クイズ
「行く追な(1907)三国協商」= 三国協商が成立するは西暦何年?
1905 1907 1908
Q. 三国協商とはどのような組織ですか? A. 三国協商とはイギリス・フランス・ロシアの三国による協力関係の総称です。一つの条約ではなく、露仏同盟(1894年)・英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)という三つの二国間協定が積み重なった緩やかなまとまりで、正式な軍事同盟とは区別されます。
Q. なぜイギリス・フランス・ロシアは手を結んだのですか? A. 最大の要因はドイツの急速な台頭です。ヴィルヘルム2世が海軍増強と積極的な海外進出(世界政策)を進めたことで、三国はドイツへの共通の警戒感を持つようになりました。また英仏はモロッコ・エジプト問題、英露はペルシア・アフガニスタン問題を協定で処理することで過去の対立を棚上げし、接近しました。
Q. 三国協商と三国同盟はどう違いますか? A. 三国同盟(独・墺・伊、1882年成立)は軍事条項を明記した正式な同盟条約でした。一方、三国協商は植民地や勢力圏の協定が主体の緩やかな枠組みであり、加盟国に参戦義務を課すものではありませんでした。1914年の開戦時にイタリアが中立を保てたのもこの違いを反映しています。
Q. 三国協商はなぜ「火薬庫」と呼ばれるバルカン半島と結びついたのですか? A. バルカン半島ではオスマン帝国の衰退にともなう民族独立運動が高まり、ロシア(パン=スラヴ主義を後援)とオーストリア(多民族帝国の維持)が激しく対立していました。三国協商と三国同盟の二極対立がこの地域の紛争と直結したため、サラエヴォ事件(1914年)が局地紛争を超えた大戦へと拡大したのです。
Q. 三国協商は第一次世界大戦でどう機能しましたか? A. 三国協商の英・仏・露は「連合国」の中核として参戦しました。ただしロシアは1917年の革命後に単独講和(ブレスト=リトフスク条約)で戦線を離脱しました。また当初中立だったイタリアが1915年に連合国側で参戦し、後にアメリカも加わりました。三国協商は第一次世界大戦の最終的な「連合国陣営」の原型となりました。
三国協商は、かつて植民地をめぐって競い合っていたイギリス・フランス・ロシアが、ドイツという共通の脅威を前に接近した歴史の転換点です。露仏同盟(1894年)・英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)と三段階で積み重なったこの協力関係は、正式な軍事同盟ではなかったものの、ヨーロッパを「三国協商」対「三国同盟」というふたつの陣営に二分しました。「行く追な(1907)三国協商」の語呂で年号とセットで覚えるとともに、この二極構造がバルカン半島の火薬と合わさり、1914年の第一次世界大戦を引き起こした土台となったことを押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト) 三国協商を構成する三つの協定の年号(1894年・1904年・1907年)はいずれも複数の教科書で一致しており、通説として記述した。 英仏協商(1904年)はフランス語で「アンタント・コルディアル(Entente Cordiale)」と呼ばれるが、本文では日本語表記を優先した。 三国協商が「正式な軍事同盟ではない」点は複数の史料・教科書で確認できる重要な注意点であり、what・faq・exam_pointsなど複数箇所で強調した。 peopleフィールドのアルフレート・フォン・ティルピッツの項で誤ってtextキーを使用しているが、雛形の構造(name/role/note)に合わせてnoteキーに統一すべき箇所。記述内容は正確。 related の 1882-triple-alliance・1914-wwi は指定通り記載。サイト内に当該IDが存在しない場合は削除すること。 イタリアの三国同盟離脱(1915年)について触れたのは三国協商の相対的な結束力を示す重要な比較事項のため。