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三国同盟が結ばれるのイラスト
高校/政治
1882

三国同盟が結ばれる

ビスマルク(ドイツ)/オーストリア・イタリア
語呂
覚え方
嫌、母に(いやはに)(1882)三国同盟
いやはに(1882)三国同盟

1882年、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの3か国が三国同盟を締結しました。これはドイツ帝国宰相ビスマルクが主導した同盟外交の中心的な成果です。1871年の普仏戦争でフランスからアルザス・ロレーヌを奪ったドイツは、フランスの復讐(報復)を常に恐れていました。ビスマルクはフランスを国際的に孤立させるため、周辺諸国と次々に同盟を結ぶ「ビスマルク体制」を構築します。三国同盟はその要となる取り決めでした。しかし、同盟国のイタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアと領土対立を抱えており、三国同盟は当初から亀裂を内包していました。後にフランス・ロシア・イギリスが三国協商を形成すると、ヨーロッパは二大陣営に分かれ、1914年の第一次世界大戦への道が開かれていきます。

この記事のポイント

  • 1882年、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの3か国が三国同盟を締結した
  • ビスマルクが主導。普仏戦争後にフランスを孤立させてドイツの安全を確保する「ビスマルク体制」の中心
  • イタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアと領土対立があり、同盟内に亀裂を抱えていた
  • 対抗してフランス・ロシア・イギリスが三国協商(1907年成立)を形成し、ヨーロッパは二大陣営に分裂
  • 第一次世界大戦(1914年)では、イタリアが同盟を離脱して協商国(連合国)側で参戦した
ここが面白い

「敵に友達をつくらせるな」――普仏戦争に勝利したドイツ帝国の宰相ビスマルクが、フランスを外交的に孤立させるために張り巡らせた同盟網の集大成が、1882年の三国同盟だった。

ここに至るまでの流れ
背景

三国同盟は突然結ばれたわけではありません。普仏戦争によるヨーロッパの勢力図の変化、ビスマルクの巧みな同盟外交、そしてイタリアのフランスへの反感という複数の要因が重なって成立しました。その背景を順に見ていきましょう。

普仏戦争とビスマルク体制の始まり

1870〜71年の普仏戦争でプロイセン(ドイツ)はフランスを破り、ドイツ帝国の成立を宣言しました。その後もフランスに多額の賠償金を課し、アルザス・ロレーヌを割譲させたため、フランスの対ドイツ感情は極めて悪化しました。宰相ビスマルクはフランスが報復戦争に踏み切る前に、外交的に孤立させる必要があると考え、ヨーロッパ各国との同盟網(ビスマルク体制)の構築に乗り出しました。

独墺同盟(1879年)と三帝同盟

ビスマルクはまず1879年にオーストリア=ハンガリーと二国間の独墺同盟を結びました。これはロシアとの関係悪化を受けた措置でもあります。一方でロシアとも三帝同盟(ドイツ・オーストリア・ロシア)を維持しようとしましたが、バルカン半島での露墺の利害対立から三帝同盟は機能不全に陥りました。ビスマルクはそこで、イタリアを引き込んで三国同盟を完成させる方針に転じました。

イタリアの参加とその背景

イタリアが三国同盟に加わったのは、チュニジアをめぐるフランスとの対立がきっかけでした。イタリアはチュニジアへの進出を目指していましたが、1881年にフランスがチュニジアを保護国化したことでイタリアの反仏感情が高まり、対仏共同戦線を求めてドイツ・オーストリアに接近しました。1882年5月20日、三国同盟条約が締結されました。

三国同盟の内容と「未回収のイタリア」問題

三国同盟は防衛的な相互援助条約で、締約国のいずれかが二か国以上から攻撃を受けた場合に、他の締約国が支援することを約束しました。ただし、イタリアとオーストリアの間には「未回収のイタリア(イレデンタ)」問題があり、現在のトレント・トリエステ地方をめぐる領土対立が解消されないまま同盟が締結されました。これが後の第一次世界大戦時にイタリアが同盟を離脱する伏線となりました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

フランスを孤立させるための同盟網

≒ 冷戦期のNATOとワルシャワ条約機構のような集団安全保障の仕組み

ビスマルクはフランスが単独でドイツに報復戦争を仕掛けることを防ぐため、周辺国との同盟で外交包囲網を形成した。三国同盟はその中核をなした。

ヨーロッパ二大陣営の片方

≒ 東西冷戦のような国際的なブロック対立

三国同盟(独・墺・伊)に対し、フランス・ロシア・イギリスが三国協商(1907年完成)を形成。二大陣営への分裂が第一次世界大戦の構造的要因となった。

内部矛盾を抱えた同盟

≒ 名ばかりの同盟が危機のときに機能しないリスク

イタリアはオーストリアと領土問題を抱えていたため、同盟内に最初から亀裂があった。第一次世界大戦勃発時にイタリアは中立を宣言し、その後協商国側で参戦して同盟を離脱した。

前後のできごと
年表
1871
ドイツ帝国成立・普仏戦争終結プロイセンがフランスを破り、ドイツ帝国を宣言。フランスはアルザス・ロレーヌをドイツに割譲。ビスマルクがフランス包囲外交を始める。
1873
三帝同盟(第1次)ドイツ・オーストリア・ロシアが三帝同盟を結ぶ。革命運動への共同対処が目的。
1878
ベルリン会議露土戦争後のバルカン問題をめぐってベルリン会議が開かれ、ロシアが不満を抱く。露独・露墺関係が悪化。
1879
独墺同盟ビスマルクがオーストリア=ハンガリーと二国間の独墺同盟を締結。ロシアまたはフランスからの攻撃に対する相互援助を約束。
1881
フランスがチュニジアを保護国化チュニジア進出を目指していたイタリアより先にフランスが制圧。イタリアの反仏感情が高まり、ドイツ・オーストリアへの接近を図る。
1882
三国同盟締結5月20日、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアが三国同盟に調印。ビスマルク体制の中核となる。
1894
露仏同盟ロシアとフランスが露仏同盟を締結。三国同盟への対抗として機能し、ヨーロッパの二極化が始まる。
1907
三国協商の成立英露協商の締結により、英仏協商(1904年)・露仏同盟(1894年)と合わせて三国協商が完成。ヨーロッパは三国同盟と三国協商の二大陣営に分かれる。
1914
第一次世界大戦勃発・イタリア中立宣言サラエボ事件を機に第一次世界大戦が勃発。イタリアはオーストリアの行動が攻撃的だとして三国同盟の義務を拒否し、中立を宣言。
1915
イタリアが協商国側で参戦ロンドン秘密条約により、イタリアは領土補償と引き換えに協商国(連合国)側で参戦。三国同盟は事実上崩壊した。
結果とその後
結果
ビスマルクが存命の間は三国同盟を核としたビスマルク体制がヨーロッパの平和を維持する枠組みとして機能し、大国間の全面戦争を防いだ。
三国同盟はフランスを追い詰めて三国協商を生み出し、ヨーロッパを二大陣営に分裂させた。また、イタリアとオーストリアの内部矛盾を抱えたまま結ばれたため、第一次世界大戦時にはイタリアが離脱して協商国側で参戦するという逆転が起きた点に注意が必要。
登場人物
人物

ビスマルク

ドイツ帝国宰相(在任1871〜1890年)

「鉄血宰相」として知られるプロイセン・ドイツの政治家。普仏戦争後にフランスを孤立させるための同盟外交(ビスマルク体制)を主導し、三国同盟の締結を実現した。1890年にヴィルヘルム2世に罷免された後、ビスマルク体制は崩壊に向かう。

ヴィルヘルム2世

ドイツ皇帝(在位1888〜1918年)

1890年にビスマルクを罷免し、積極的な海外膨張政策(世界政策)を推進。ビスマルクのバランス外交を捨てたことでロシアとの関係が悪化し、フランス・ロシアの接近を許した。

フランツ・ヨーゼフ1世

オーストリア=ハンガリー皇帝(在位1848〜1916年)

長期にわたりオーストリア=ハンガリーを統治した皇帝。バルカン半島での勢力拡大を目指し、ドイツとの独墺同盟・三国同盟を通じてロシアとフランスに対抗した。

カヴール

イタリア統一を主導した政治家(1810〜1861年)

イタリア統一(リソルジメント)を主導したサルデーニャ王国の宰相。彼の死後もイタリアには「未回収のイタリア(イレデンタ)」問題が残り、オーストリアとの領土対立を生み続けた。三国同盟内部の亀裂の遠因となった人物。

キーワード解説
用語
三国同盟
1882年にドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアが締結した軍事同盟。締約国が複数国から攻撃を受けた場合の相互援助を約束した。第一次世界大戦ではイタリアが離脱した。
ビスマルク体制
ビスマルクが構築したフランス包囲のための同盟網。独墺同盟・三国同盟・再保障条約(ロシアとの秘密条約)などからなる複雑な外交システム。ビスマルク罷免後に崩壊した。
三国協商
フランス・ロシア・イギリスの三国間の協力関係。露仏同盟(1894年)・英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)が合わさって成立。三国同盟と対立する二大陣営の一方を形成した。
未回収のイタリア(イレデンタ)
イタリア統一後もオーストリア領に残ったイタリア系住民居住地域(トレント・トリエステ・イストリアなど)を指す言葉。イタリアとオーストリアの領土対立の根源となり、三国同盟の内部亀裂につながった。
普仏戦争
1870〜71年のプロイセン(ドイツ)対フランスの戦争。ドイツが勝利してフランスからアルザス・ロレーヌを奪い、ドイツ帝国が成立した。フランスの対独復讐心がヨーロッパの緊張の根本原因となった。
もっと知りたい
豆知識

1ビスマルク罷免後に体制が崩れた

1890年、ヴィルヘルム2世はビスマルクを宰相から罷免した。ビスマルクはロシアとの秘密条約(再保障条約)でバランスを保っていたが、罷免後にその更新が打ち切られ、ロシアがフランスに接近。ビスマルク体制はわずか数年で崩壊し始めた。

2イタリアはチュニジアを奪われた怒りで加盟した

1881年、フランスが北アフリカのチュニジアを保護国にした。イタリアはここへの進出を狙っていたため、フランスに強い反感を持ちドイツ・オーストリアに接近した。三国同盟加盟の直接のきっかけは、フランスへの対抗心だった。

3三国同盟は5年ごとの更新条約だった

三国同盟は永続的な条約ではなく、5年ごとに更新を繰り返す条約だった。イタリアは交渉のたびに自国に有利な条件を引き出すなど、当初から主体的・したたかな外交姿勢をとっていた。

4第一次世界大戦でイタリアは敵に回った

1914年に大戦が始まるとイタリアは中立を宣言した。オーストリアがセルビアに宣戦したのは防衛戦争ではないとして同盟義務を拒否したのである。翌1915年にはロンドン秘密条約で領土補償を約束されたイタリアが協商国(連合国)側で参戦し、元同盟国のオーストリアと戦った。

5アルザス・ロレーヌは20世紀に2度返還された

普仏戦争でフランスから奪われたアルザス・ロレーヌは、第一次世界大戦後の1919年にヴェルサイユ条約でフランスへ返還された。しかし第二次世界大戦でナチス・ドイツが再びこの地を占領し、1945年に再度フランス領に戻るという複雑な歴史をたどった。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1882年。語呂は『嫌、母に(いやはに)(1882)三国同盟』。
三国同盟の3か国はドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア。主導したのはドイツ帝国宰相ビスマルク。
三国同盟の目的は、普仏戦争後にフランスを外交的に孤立させ、報復戦争を防ぐこと。
三国協商(フランス・ロシア・イギリス)と対立し、ヨーロッパが二大陣営に分かれたことが第一次世界大戦(1914年)の遠因となった。
イタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立しており、第一次世界大戦では同盟を離脱して協商国側で参戦した点が頻出。
語呂クイズ
「嫌、母に(いやはに)(1882)三国同盟」= 三国同盟が結ばれるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 三国同盟とはどんな同盟ですか?
A. 1882年にドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアが結んだ軍事同盟です。締約国が複数の国から攻撃を受けた場合に互いに助け合うことを約束しました。ドイツ宰相ビスマルクが主導しました。
Q. なぜ三国同盟が結ばれたのですか?
A. 1871年の普仏戦争でドイツがフランスからアルザス・ロレーヌを奪ったため、フランスの報復を恐れたビスマルクが、フランスを外交的に孤立させるために周辺国との同盟網(ビスマルク体制)を作り上げました。その中心が三国同盟です。
Q. 三国協商と三国同盟の違いは何ですか?
A. 三国同盟はドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟(1882年)、三国協商はフランス・ロシア・イギリスの協力関係(1907年完成)です。この二つが対立する形でヨーロッパが二大陣営に分かれ、第一次世界大戦の遠因となりました。
Q. なぜイタリアは第一次世界大戦で三国同盟を離脱したのですか?
A. イタリアとオーストリアの間には「未回収のイタリア」と呼ばれる領土問題がありました。大戦が始まるとイタリアはオーストリアの行動が防衛的でないとして同盟義務を拒否し、1915年に領土補償を約束されて協商国(連合国)側で参戦しました。
Q. ビスマルクが罷免された後、三国同盟はどうなりましたか?
A. 1890年にビスマルクが罷免されると、ロシアとの秘密条約(再保障条約)が更新されなくなりロシアがフランスに接近しました。ビスマルクが巧みに維持していたバランス外交は崩れ、三国同盟対三国協商という二極対立が固まっていきました。
まとめ

三国同盟は、普仏戦争後のヨーロッパでドイツ帝国宰相ビスマルクがフランスを孤立させるために構築した外交システムの集大成です。1882年に締結されたこの同盟は、やがて対抗する三国協商の形成を促し、ヨーロッパを二大陣営に分裂させました。さらに、イタリアとオーストリアが「未回収のイタリア」問題で対立するという内部矛盾を抱えていたため、第一次世界大戦ではイタリアが同盟を離脱して敵対するという皮肉な結末を迎えます。「嫌、母に(いやはに)(1882)三国同盟」の語呂と、同盟の目的・構成国・その後の経緯をセットで押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
三国同盟の締結日は1882年5月20日(調印日)。入試では「1882年」で出題されることがほとんど。
ビスマルク体制の詳細(再保障条約など)は高校世界史レベルの内容のため、本文では概略にとどめた。
「未回収のイタリア(イレデンタ)」の具体的な地名(トレント・トリエステなど)は高校レベルで問われることがあるため補足として記載した。
peopleのカヴールは三国同盟と直接関係ないが、「未回収のイタリア」問題の遠因としての文脈で採用した。直接の人物(ビスマルク・ヴィルヘルム2世・フランツ・ヨーゼフ1世)を優先した。