高校/政治
1905
ロシアで血の日曜日事件が起こる(第1次ロシア革命)
ガポン司祭・ニコライ2世
語呂
覚え方
行くお子(1905)血の日曜日
いくおご(1905)血の日曜日事件
1905年1月22日(ロシア暦1月9日)、司祭ガポンに率いられた約10万人の労働者とその家族が、賃金引き上げや労働条件の改善を求める請願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮前広場へ向かいました。彼らは皇帝ニコライ2世を「小さな父(バチューシカ)」と呼び、その慈悲に訴えようとしていましたが、帝国軍は行進する群衆に向けて発砲。数百人から千人以上の死傷者を出したとされるこの「血の日曜日事件」は、ロシア全土にストライキと暴動を広げ、第1次ロシア革命と呼ばれる大規模な社会変動の幕を開けました。皇帝は最終的に「十月宣言」で国会(ドゥーマ)開設を約束せざるを得なくなりましたが、改革は不徹底に終わり、12年後の1917年には帝政が崩壊する本格的なロシア革命へとつながっていきます。
この記事のポイント 1905年1月22日(ロシア暦1月9日)、ガポン司祭に率いられた労働者が冬宮前広場で軍に発砲され、多数の死傷者が出た 日露戦争(1904〜05年)での敗色と経済悪化が社会不安を高め、事件の背景となった 事件を機にロシア全土でストライキ・農民暴動・戦艦ポチョムキンの反乱(1905年6月)など第1次ロシア革命が展開した ニコライ2世は十月宣言(1905年10月)を発して国会(ドゥーマ)開設と憲法制定を約束し、革命を一時収拾した 改革は不徹底に終わり、専制体制は維持されたまま1917年のロシア革命(二月革命・十月革命)へとつながっていく
ここが面白い 「皇帝陛下、私たちは平和に請願に来ました」――その言葉を、銃声が打ち砕いた。1905年1月22日、首都の広場で起きた大虐殺は、300年続いたロマノフ朝を揺るがす革命の引き金となった。
血の日曜日事件は突然起きた事故ではありません。19世紀末から続く工業化のひずみ、専制政治への不満、そして日露戦争による社会疲弊という積み重なった要因のうえに発生しました。その流れを順に見ていきましょう。
ロシアの急速な工業化と労働者問題 19世紀後半、ロシアは近代化を急ぐために外国資本を導入して鉄道建設・重工業育成を進めました。しかし工場労働者の賃金は低く、1日14〜16時間の労働も珍しくなかった。農村から都市に流入した人々はスラム的な集合住宅で暮らし、労働組合活動は法律で厳しく制限されていました。こうした状況が慢性的な社会不満を蓄積させていました。
日露戦争(1904〜05年)の苦戦と社会疲弊 1904年2月、朝鮮・満州の権益をめぐる対立から日本がロシアに対して開戦しました。ロシアは圧倒的な国力を誇るはずでしたが、長大な補給線と将校の無能さが重なり、旅順要塞の苦戦や陸上・海上での敗北が続きました。戦費は膨らみ、農村から徴兵された兵士の死傷が急増する中、国内経済も悪化の一途をたどりました。
ガポン司祭と労働者運動の高まり ゲオルギー・ガポンは正教会の司祭でありながら労働者の生活改善に熱心な人物でした。彼が率いた「ロシア工場工業労働者集会」は政府公認の合法的な組織でしたが、1905年1月に大規模な工場争議が起きると、ガポンは請願行進を呼びかけました。請願書には賃金引き上げ・1日8時間労働・憲法制定などが盛り込まれ、数万人が参加を表明しました。
冬宮前の発砲と「血の日曜日」 1905年1月22日(ロシア暦1月9日)早朝から行列が首都の各地点に集まり始めました。皇帝ニコライ2世はその日、冬宮を離れていたため広場には不在でした。警戒に当たった帝国軍は群衆が前進を止めないと判断し、発砲命令を下しました。倒れた人々の上を騎兵が踏み越える光景が目撃され、死者数については公式発表では130人余りとされましたが、実際には数百人から千人以上という推計もあります(注記参照)。この事件によってロシア民衆が皇帝に抱いていた信頼は決定的に失われました。
民衆の「皇帝への信頼」を粉砕 ≒ 権威への幻滅が改革運動を加速させる構図 「小さな父」と呼ばれた皇帝への素朴な信頼が、軍による発砲で一瞬にして崩れた。これ以降、民衆の不満は体制改革要求という政治的な方向に向かうようになった。
全国的なストライキと暴動の連鎖 ≒ 一つの事件が社会全体のシステム不全を顕在化させる 事件後の2〜3月にかけてロシア各地で大規模なストライキが頻発。農民暴動も相次ぎ、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵が反乱を起こすなど、軍内部にも動揺が広がった。
十月宣言による立憲的改革の約束 ≒ 強権的な政府が圧力に屈して制度改革を認めるパターン ニコライ2世は10月に「十月宣言」を発布し、国会(ドゥーマ)の開設・言論の自由・結社の権利などを約束した。ロシア史上初めて代議制的な機関が設けられたが、実権は皇帝が維持した。
1904 日露戦争開戦 1904年2月、日本がロシアに開戦。旅順要塞の攻防など激戦が続き、ロシア側の死傷者が膨れ上がる。
1905 血の日曜日(1月22日) ガポン司祭に率いられた労働者らが冬宮前広場に集結し、帝国軍に銃撃される。数百人以上が死傷。
1905 全国ストライキの波(2〜3月) 事件に怒った労働者・学生が全国各地でストライキ。農村でも農民暴動が続発する。
1905 戦艦ポチョムキンの反乱(6月) 黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵が反乱を起こす。軍の規律崩壊が露呈した象徴的事件。
1905 ポーツマス条約(9月) アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介で日露戦争が終結。ロシアは樺太南部を日本に割譲した。
1905 十月宣言(10月) ニコライ2世が国会(ドゥーマ)開設・市民的自由の付与を約束する「十月宣言」を発布。革命運動が一時収束する。
1906 第1回ドゥーマ召集 ロシア初の国会にあたるドゥーマが召集されるが、皇帝は間もなく解散。実質的な権力は皇帝側が維持し続けた。
1917 二月革命・ロマノフ朝崩壊 第1次世界大戦の惨禍の中で大規模な反乱が起き、ニコライ2世が退位。300年続いたロマノフ朝が終焉を迎える。
1917 十月革命(ボリシェビキ政権樹立) レーニン率いるボリシェビキが武装蜂起して臨時政府を打倒。世界初の社会主義国家ソビエト政権が誕生する。
◎ ロシア初の国会(ドゥーマ)が開設され、立憲制的な改革が一部実現した。民衆の政治的覚醒が広がり、1917年の本格的な革命への土台が形成された。
△ 十月宣言による改革は不徹底で、ニコライ2世は実質的な専制支配を維持し続けた。ガポン司祭はのちに二重スパイの疑惑で革命派に処刑されるなど、事件の評価は複雑な要素を含む。死者数については諸説あり断定できない(注記参照)。
ガポン(ゲオルギー・ガポン) ロシア正教会の司祭・労働者組織指導者 サンクトペテルブルクの「ロシア工場工業労働者集会」を主宰した司祭。請願行進を企画したが、発砲後に国外に逃亡。後に秘密警察とのつながりが疑われ、1906年に社会革命党員に処刑された。
ニコライ2世 ロシア皇帝(在位1894〜1917年) ロマノフ朝最後の皇帝。事件当日は冬宮を離れており、発砲を直接命じたわけではないが、体制の最高責任者として民衆の信頼を決定的に失った。1917年に退位し、翌年に処刑された。
セルゲイ・ヴィッテ ロシア帝国首相・財務大臣 ロシアの近代化・工業化を主導した政治家。ポーツマス講和会議を仲介し、十月宣言の起草にも関与した。改革派官僚の代表格だが、皇帝との関係は複雑だった。
レーニン(ウラジーミル・イリイチ・レーニン) ボリシェビキ指導者 1905年の段階ではスイスに亡命中で直接の革命指導には参加しなかったが、血の日曜日を「革命の総稽古」と位置づけ、1917年の革命につなげた。
ドゥーマ(国家会議) 十月宣言(1905年)を受けてロシアに設置された国会にあたる代議制機関。ただし皇帝が解散権を握っており、実質的な立法権は大きく制限されていた。
十月宣言 1905年10月にニコライ2世が発布した詔書。国会(ドゥーマ)の開設・言論・集会・結社の自由の付与を約束した。革命運動の一時収束をもたらしたが、根本的な専制体制は変わらなかった。
第1次ロシア革命 1905年の血の日曜日事件を発端とする一連の社会変動の総称。全国ストライキ・農民暴動・軍内反乱などが相次いだが、十月宣言によって体制が一時維持された。1917年の革命と区別するために「第1次」と呼ぶ。
ポーツマス条約 1905年9月、アメリカのポーツマスで調印された日露戦争の講和条約。ロシアは樺太南半を日本に割譲し、朝鮮における日本の優越権を認めた。仲介したセオドア・ローズヴェルト米大統領はノーベル平和賞を受賞した。
戦艦ポチョムキン 1905年6月に黒海艦隊で起きた水兵反乱の舞台となった戦艦。腐敗した肉の支給に反発した水兵が将校を殺害して艦を占拠した事件で、軍内部の規律崩壊を象徴する事件として知られる。後にエイゼンシュテイン監督の映画作品でも描かれた。
1 皇帝ニコライ2世は当日、冬宮にいなかった「皇帝への直訴」のために集まった群衆だったが、ニコライ2世は事件当日、冬宮ではなくツァールスコエ・セロー(皇帝の離宮)にいた。軍への発砲命令も皇帝自身が直接下したわけではなく、現場の指揮官の判断によるものとされている。それでも事件は皇帝個人の責任として受け止められ、「バチューシカ(小さな父)」という親しみの称号は消えた。
2 ガポンは政府のスパイだったのか事件前からガポンと秘密警察(オフラーナ)の関係は噂されており、事件後も「御用組合の指導者が労働者を罠にはめた」という見方が広まった。のちに革命派との接触を経て帰国したガポンは1906年に社会革命党員に処刑されたが、彼の動機や二重スパイとしての実態については歴史家の間でも評価が分かれている。
3 映画『戦艦ポチョムキン』で世界に広まった1925年にソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが制作した映画『戦艦ポチョムキン』は、1905年の反乱を題材にした作品で、特に「オデッサの階段」のシーンは映画史上最も有名な場面の一つとして今日でも語り継がれている。ただし映画はプロパガンダ的脚色が強く、史実とは異なる部分も多い。
4 「血の日曜日」という名前はロシア内外で広まった事件の名称「血の日曜日(クロヴァヴォエ・ヴォスクレセニエ)」はロシア語でも同様の表現が使われ、国内外のメディアを通じて瞬く間に広まった。ロシア暦(ユリウス暦)では1月9日、グレゴリオ暦(新暦)では1月22日にあたる。
5 レーニンは「革命の総稽古」と呼んだスイス亡命中だったレーニンは1905年の革命を「1917年の偉大な革命に向けた総稽古」と評価した。実際に1905年には労働者・兵士代表評議会(ソヴィエト)が初めて組織されており、1917年のソヴィエト政権樹立の原型となった組織形態がこのとき生まれた。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1905年。語呂は「行くお子(1905)血の日曜日」。ロシア暦では1月9日、新暦では1月22日。
発端となった行進を指導したのはガポン司祭(正教会の司祭)。皇帝ニコライ2世への平和的な請願行進だった。
背景として日露戦争(1904〜05年)の苦戦による社会疲弊・経済悪化を押さえること。
事件後の展開:①全国ストライキ・農民暴動の連鎖、②戦艦ポチョムキンの反乱(1905年6月)、③十月宣言(1905年10月)でドゥーマ開設を約束。
十月宣言は表面的な改革にとどまり、専制体制の本質は変わらなかった。これが1917年の二月革命・十月革命につながる点を因果関係として整理しておく。
related として日露戦争(1904-russo-japanese-war)と1917年ロシア革命(1917-russian-revolution)が頻出の組み合わせ問題になる。
語呂クイズ
「行くお子(1905)血の日曜日」= ロシアで血の日曜日事件が起こる(第1次ロシア革命)は西暦何年?
1904 1905 1907
Q. 血の日曜日事件とはどのような事件ですか? A. 1905年1月22日(ロシア暦1月9日)、司祭ガポンに率いられた約10万人の労働者らが皇帝ニコライ2世への平和的な請願行進を行いましたが、冬宮前広場で帝国軍に発砲され、多数の死傷者が出た事件です。この事件が第1次ロシア革命の発端となりました。
Q. なぜ軍隊は平和的な請願者に発砲したのですか? A. 群衆が警告を無視して前進し続けたため、現場の軍指揮官が発砲命令を下したとされています。皇帝ニコライ2世は当日冬宮に不在であり、直接の発砲命令を出したわけではありませんが、体制の最高責任者として批判を受けました。
Q. 日露戦争と血の日曜日事件はどのような関係がありますか? A. 日露戦争(1904〜05年)の長期化によって多くの兵士が死傷し、国内では物資不足や物価上昇が起きていました。この経済的苦境と社会不満が積み重なった状態で事件が起き、だからこそ全国規模の反乱へと発展しました。革命運動と日露戦争の連動関係は当時から意識されていました。
Q. 第1次ロシア革命と1917年のロシア革命は何が違いますか? A. 1905年の第1次ロシア革命は、十月宣言による改革の約束によって体制崩壊には至らず、ロマノフ朝と専制政治が存続しました。1917年のロシア革命(二月革命・十月革命)は第1次世界大戦の惨禍の中で起き、皇帝が退位してロマノフ朝が滅亡。さらにボリシェビキが政権を掌握して世界初の社会主義国家が誕生したという点で、はるかに根本的な変革でした。
Q. 十月宣言とはどのような内容でしたか? A. 1905年10月にニコライ2世が発布した詔書で、国会にあたるドゥーマの開設、言論・集会・結社の自由の付与などを約束しました。革命的な動乱を一時的に収束させましたが、皇帝が解散権を握るなど実質的な専制支配は続いたため、改革は不徹底なものにとどまりました。
血の日曜日事件は、「皇帝に頼めばきっと助けてくれる」という民衆の素朴な信頼が軍の銃弾によって打ち砕かれた瞬間でした。この出来事は、専制政治への不満と日露戦争による社会疲弊が爆発する引き金となり、ストライキ・農民暴動・戦艦ポチョムキンの反乱という激動の第1次ロシア革命を呼び起こしました。皇帝は十月宣言でドゥーマ開設を約束しましたが、本質的な専制体制は変わらず、その矛盾がやがて1917年の革命へとつながります。「行くお子(1905)血の日曜日」の語呂とともに、1905年→十月宣言→ドゥーマ開設→改革不徹底→1917年革命という歴史の流れを一本の線としてつかんでおきましょう。
編集メモ(ファクト) 死者数については公式発表の130人余りから、最大1000人以上に及ぶという推計まで諸説あり、現在も確定していない。本文では「数百人から千人以上の死傷者」と幅を持たせた表現を採用した。 ガポンと秘密警察(オフラーナ)との関係については歴史家の間で評価が分かれており、「二重スパイ」説は有力な見方だが確定的ではないため、注記に留め本文では「疑惑」として記述した。 発砲命令が誰によって下されたかについては諸説あり、本文では「現場の指揮官の判断」という通説的表現を採用した。皇帝が直接命令を下したとする証拠は史料上確認されていない。 日付については「ロシア暦(ユリウス暦)1月9日=グレゴリオ暦1月22日」であることを明記した。教科書によって表記が異なる場合があるため注意が必要。 「第1次ロシア革命」という名称は1917年の革命との対比から後世につけられた呼称であり、当時は単に「1905年の革命」と呼ばれていた点を念頭に置くこと。