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第2次ウィーン包囲が起こるのイラスト
高校/戦争
1683

第2次ウィーン包囲が起こる

カラ=ムスタファ(オスマン帝国大宰相)/ヤン3世ソビエスキ(ポーランド王)
語呂
覚え方
色は差(1683)ウィーン包囲
いろはさ(1683)第2次ウィーン包囲

1683年、オスマン帝国大宰相カラ=ムスタファは約15万ともいわれる大軍を率いてハプスブルク家の都ウィーンを包囲しました(第2次ウィーン包囲)。神聖ローマ皇帝レオポルト1世は首都を脱出して救援を求め、ポーランド王ヤン3世ソビエスキが率いる神聖同盟軍が9月に到着。カレンベルクの丘から行った奇襲的な救援攻撃でオスマン軍を撃退しました。この敗北はオスマン帝国がヨーロッパで勢力を拡大できる限界点となり、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーの大部分をオーストリアに割譲するなど、以後は退潮へと転じていきます。コーヒーやクロワッサンの起源にまつわる伝説も、この包囲戦と結びつけて語られています(史実性には諸説あります)。

この記事のポイント

  • 1683年、オスマン帝国大宰相カラ=ムスタファが大軍でウィーンを包囲(第2次ウィーン包囲)
  • 神聖ローマ皇帝レオポルト1世の要請を受け、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる神聖同盟軍が救援
  • 9月12日のカレンベルクの戦いで連合軍がオスマン軍を撃退、包囲を解かせることに成功
  • この敗北がオスマン帝国のヨーロッパ進出の転換点となり、以後は勢力後退が続く
  • 1699年のカルロヴィッツ条約でオスマンはハンガリーなどをオーストリアに割譲し、東欧での覇権を喪失
ここが面白い

ヨーロッパの心臓部ウィーンが、かつてないほどの大軍に囲まれた夏――その城壁の外で歴史の潮目が、静かに、しかし決定的に変わった。

ここに至るまでの流れ
背景

第2次ウィーン包囲は突然起きたわけではありません。オスマン帝国のヨーロッパ拡大という長期的な趨勢と、ハンガリーをめぐるハプスブルク家との抗争、そして17世紀後半のヨーロッパ政治の複雑な力学が重なった結果です。その背景を順を追って見ていきましょう。

オスマン帝国のヨーロッパ拡大とウィーンへの道

オスマン帝国は15世紀以降バルカン半島を席巻し、1453年にビザンツ帝国を滅ぼしてコンスタンティノープルを首都としました。1526年のモハーチの戦いではハンガリー王国を事実上滅ぼし、翌1529年にスレイマン1世がウィーンを初めて包囲しました(第1次ウィーン包囲)。この時は攻略に失敗しましたが、ハンガリーの大部分はオスマンの支配下に入り、ハプスブルク家とオスマン帝国の国境はウィーンの目前まで迫ることになりました。

ハンガリー問題とテケリの乱

17世紀後半、ハンガリーは「三つに割れた国」とも呼ばれ、オスマン支配下のトルコ領ハンガリー、ハプスブルク支配下の王領ハンガリー、そして半自治のトランシルヴァニア公国に分断されていました。ハプスブルクの重税や宗教弾圧に反発したプロテスタント貴族テケリ・イムレは、1681年にオスマン帝国の後ろ盾を得て反乱(テケリの乱)を起こしました。これがカラ=ムスタファに西進の口実を与えることになりました。

カラ=ムスタファの遠征と包囲の開始

大宰相カラ=ムスタファはスルタン・メフメト4世の許可を得て1683年春にエディルネを出発、7月には大軍でウィーンを包囲しました。神聖ローマ皇帝レオポルト1世は宮廷を連れてウィーンを脱出し、リンツへ逃れました。守備隊長エルンスト・リュディガー・フォン・シュタールヘンベルクのもと、守備兵約1万5000と市民がウィーンの防衛に当たりましたが、兵力差は歴然としていました。

神聖同盟の結成と救援軍の到着

レオポルト1世はローマ教皇インノケンティウス11世の仲介のもと、ポーランド王ヤン3世ソビエスキとの同盟(神聖同盟)を結成しました。ソビエスキは約2万5000のポーランド軍を率いてウィーン救援に向かい、神聖ローマ帝国の諸侯軍・バイエルン・ザクセンなどの援軍と合流。9月初頭、約7万の連合軍がカレンベルクに集結しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

カレンベルクの戦いとオスマン軍の敗退

≒ 圧倒的な大軍でも、地形と機動力を活かした奇襲に崩れることがある

9月12日、ソビエスキ率いる連合軍はカレンベルクの丘から下り攻撃を仕掛け、最後にポーランド重騎兵(フサリア)の突撃でオスマン軍の陣形を崩した。敗走したカラ=ムスタファはのちに処刑されている。

オスマン帝国のヨーロッパ進出の限界点

≒ 膨張を続けてきた大国が初めて「ここまで」という壁に直面した転換点

第2次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国にとってヨーロッパ拡大路線が限界に達したことを象徴する出来事となった。以後はハプスブルクを中心とする神聖同盟の反攻が続く。

カルロヴィッツ条約(1699年)と領土の大幅後退

≒ 軍事的敗北が長期的な領土縮小に直結した歴史的事例

1699年に締結されたカルロヴィッツ条約でオスマン帝国はハンガリー・トランシルヴァニア・スラヴォニアなどをオーストリアに、ポドリアをポーランドに割譲した。ヨーロッパにおける勢力後退の始まりとなった。

前後のできごと
年表
1453
コンスタンティノープル陥落オスマン帝国のメフメト2世がビザンツ帝国の首都を攻略。ヨーロッパ進出が加速する。
1526
モハーチの戦いオスマン帝国がハンガリー王国を撃破し、バルカン半島からの進出路を確保。
1529
第1次ウィーン包囲スレイマン1世がウィーンを包囲するも攻略に失敗し撤退。「ここが限界」とされた前哨戦。
1681
テケリの乱勃発ハンガリーのプロテスタント貴族テケリ・イムレがオスマンの後援を得て反ハプスブルク反乱を起こす。
1683
ウィーン包囲開始(7月)大宰相カラ=ムスタファ率いるオスマン大軍がウィーンを包囲。皇帝レオポルト1世は脱出。
1683
カレンベルクの戦い(9月12日)ヤン3世ソビエスキ率いる神聖同盟軍がオスマン軍を撃破。包囲が解かれる。
1683
カラ=ムスタファ処刑(12月)敗戦の責任を問われ、カラ=ムスタファはベオグラードで処刑された。
1684
神聖同盟の本格反攻ローマ教皇の主導でオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアらが神聖同盟を強化、オスマン領への反攻開始。
1686
ブダ奪回神聖同盟軍がブダ(現ブダペスト)を奪回し、ハンガリー中部のオスマン支配が終わりに近づく。
1699
カルロヴィッツ条約オスマン帝国がハンガリー・トランシルヴァニア等をオーストリアに割譲。ヨーロッパでの勢力後退が確定する。
結果とその後
結果
ハプスブルク家とポーランドを中心とする神聖同盟がオスマン軍を撃退し、ウィーンは守られた。これ以降、ハンガリーをはじめとする中東欧の広大な領域がオスマン支配から解放されていく。
オスマン帝国が即座に崩壊したわけではなく、帝国としての存続は20世紀初頭まで続いた。ただし、ヨーロッパにおける拡大路線はこの敗北を境に終焉を迎え、以後は守勢に転じた。カルロヴィッツ条約(1699年)はその象徴的な画期として押さえておくとよい。
登場人物
人物

カラ=ムスタファ

オスマン帝国大宰相

第2次ウィーン包囲を主導した総司令官。敗北の責任を問われ、同年12月にベオグラードで処刑された。「野望が過ぎた」と評されることが多い人物。

ヤン3世ソビエスキ

ポーランド王(在位1674〜1696年)

神聖同盟軍の総司令官としてウィーン救援に駆けつけた英雄。カレンベルクの戦いで自らフサリア(重騎兵)を率いてオスマン軍を突き崩した。ポーランド史上屈指の名将とされる。

レオポルト1世

神聖ローマ皇帝(在位1658〜1705年)

包囲開始直前にウィーンを脱出したことで批判も受けたが、救援要請に奔走し神聖同盟結成を実現させた。包囲解除後もハンガリー奪回の反攻を指導した。

メフメト4世

オスマン帝国スルタン(在位1648〜1687年)

カラ=ムスタファの西征を認可したスルタン。敗戦の翌1687年に発生した軍の反乱によって廃位された。

エルンスト・リュディガー・フォン・シュタールヘンベルク

ウィーン守備隊長

約1万5000の守備兵と市民を率い、2か月にわたる包囲に耐えた司令官。救援軍到着まで城壁を死守した功績で英雄視されている。

インノケンティウス11世

ローマ教皇(在位1676〜1689年)

神聖同盟結成を積極的に仲介・支援した教皇。キリスト教ヨーロッパの防衛という観点からオスマン対抗の結束を促した。

キーワード解説
用語
第2次ウィーン包囲
1683年にオスマン帝国大宰相カラ=ムスタファが率いる大軍がハプスブルク家の首都ウィーンを包囲した事件。第1次(1529年)に続く2度目の包囲であることからこの名称がある。
神聖同盟
ローマ教皇インノケンティウス11世の仲介でオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアなどがオスマン帝国に対抗するために結成した軍事同盟。ウィーン包囲解除後も反攻を続け、カルロヴィッツ条約で結実した。
カレンベルクの戦い
1683年9月12日、ウィーン郊外のカレンベルクの丘で行われた神聖同盟軍とオスマン軍の決戦。ポーランド重騎兵フサリアの突撃がオスマン軍の陣形を崩し、包囲が解かれた。
フサリア(翼騎兵)
ポーランドの精鋭重騎兵。背中に取り付けた大きな羽(翼)が特徴で、突撃時の迫力と速度でヨーロッパ屈指の戦力とされた。カレンベルクの戦いでオスマン軍に対して決定的な打撃を与えた。
カルロヴィッツ条約
1699年にオスマン帝国と神聖同盟諸国が締結した講和条約。オスマンはハンガリー・トランシルヴァニア・スラヴォニアをオーストリアに、ポドリアをポーランドに割譲した。オスマン帝国がヨーロッパで初めて大規模な領土を失った歴史的条約。
大宰相(ヴェジール)
オスマン帝国においてスルタンに次ぐ最高権力者。「大ヴェジール」とも呼ばれ、軍事・行政の実質的な最高責任者として機能した。カラ=ムスタファはこの職にあった。
もっと知りたい
豆知識

1コーヒーとウィーン包囲の伝説

撤退したオスマン軍が残した麻袋の中に大量のコーヒー豆があり、それをポーランド人将校ゲオルク・フランツ・コルシツキーが活用してウィーン初のコーヒーハウスを開いたという伝説がある。ただし、ウィーンでのコーヒー文化の起源については諸説あり、この逸話の史実性は検証されていない部分も多い。

2クロワッサンはオスマンの旗印から?

三日月形のクロワッサンはオスマン帝国の象徴である三日月旗に由来するという説がある。ウィーン包囲を記念してウィーンのパン職人が三日月形のパンを作ったという伝説だが、こちらも史実性には諸説あり、後世に作られた話という見方も根強い。

3フサリアの「翼」の意味

ポーランド重騎兵フサリアが背負う大きな羽飾りは、突撃時に風を受けて独特の轟音を発し、敵の馬を驚かせる効果があったという説がある。一方で儀式的・威嚇的な意味が主だったとする見方もあり、実用性については議論がある。

4レオポルト1世の「逃亡」への批判

皇帝レオポルト1世は包囲が始まる直前にウィーンを脱出し、貴族や市民から激しく批判された。しかし救援要請に奔走し神聖同盟を組織したことで、最終的に包囲解除を実現させた。「逃げた皇帝」としての汚名と「救援を取り付けた外交家」としての評価が並立している。

5カラ=ムスタファは絹の紐で処刑された

敗戦の責任を問われたカラ=ムスタファは1683年12月にベオグラードでスルタンの命令により処刑された。処刑方法は絹の紐による絞首刑で、オスマン帝国では高貴な人物への処刑に絹の紐が用いられる慣習があった。彼の首は戦利品としてウィーンに持ち帰られ、ウィーンの博物館に所蔵されていると伝えられている(展示・所蔵の詳細には諸説あり)。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1683年。語呂は「色は差(1683)ウィーン包囲」。
仕掛けたのはオスマン帝国大宰相カラ=ムスタファ(スルタン・メフメト4世の時代)。
救援した中心人物はポーランド王ヤン3世ソビエスキ。カレンベルクの戦いでオスマン軍を撃退した。
この敗北がオスマン帝国のヨーロッパ進出の限界点・転換点となったことを押さえる。
1699年のカルロヴィッツ条約でオスマンはハンガリーなどをオーストリアに割譲→「オスマン帝国の衰退」の始まりとして入試頻出。
第1次ウィーン包囲(1529年、スレイマン1世)と混同しないよう注意。
語呂クイズ
「色は差(1683)ウィーン包囲」= 第2次ウィーン包囲が起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 第1次と第2次ウィーン包囲の違いは何ですか?
A. 第1次ウィーン包囲は1529年にオスマン帝国のスレイマン1世が行い、補給難などで撤退しました。第2次は1683年、大宰相カラ=ムスタファが行い、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる神聖同盟軍に撃退されました。第2次の方がオスマンの衰退に直結した点で世界史的に重要です。
Q. なぜポーランド王がウィーン救援に来たのですか?
A. ローマ教皇インノケンティウス11世の仲介のもと、ポーランド王ヤン3世ソビエスキと神聖ローマ皇帝レオポルト1世が相互防衛同盟を結んでいたためです。また、オスマン帝国の拡大はポーランドにとっても脅威であり、自国防衛の観点からも救援の動機がありました。
Q. カレンベルクの戦いとはどんな戦いですか?
A. 1683年9月12日、ウィーン郊外のカレンベルクの丘を拠点にした神聖同盟軍がオスマン軍に対して行った決戦です。ポーランドの重騎兵フサリアによる突撃がオスマン軍の陣形を突き崩し、大勝利に終わりました。ウィーン包囲を解かせた決定的な一戦です。
Q. カルロヴィッツ条約はなぜ重要なのですか?
A. 1699年に結ばれたこの条約で、オスマン帝国はハンガリーをはじめとする広大な領土をオーストリアやポーランドに割譲しました。オスマン帝国が初めて大規模な領土を失ったこの条約は、帝国がヨーロッパで「拡大」から「後退」に転じたことを公式に示すものとして、入試でも頻繁に問われます。
Q. コーヒーとクロワッサンの話は本当ですか?
A. ウィーン包囲とコーヒー・クロワッサンを結びつける伝説は有名ですが、史実性には諸説あります。コーヒーハウスの起源についてはポーランド人将校の話が伝わる一方、クロワッサンの三日月起源説は後世に作られた話という見方も根強いです。歴史的逸話として楽しむものの、「確実な史実」とは言い切れない点を押さえておきましょう。
まとめ

第2次ウィーン包囲は、約200年にわたってヨーロッパに拡大し続けたオスマン帝国の膨張が、ついに限界点に達した瞬間です。ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる神聖同盟軍の劇的な救援とカレンベルクの戦いでの勝利、そして1699年のカルロヴィッツ条約という帰結は、ヨーロッパの勢力地図を大きく塗り替えました。「色は差(1683)ウィーン包囲」の語呂とともに、この戦いがオスマン帝国の衰退の始まりを告げる歴史的転換点であったことを押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
オスマン軍の兵力は史料によって異なる(9万〜20万以上とも)。本文では「約15万ともいわれる大軍」として諸説を含む表現とした。
カレンベルクの戦いの日付は1683年9月12日が通説。この日付はグレゴリオ暦基準であり、ユリウス暦では9月2日に相当する。
コーヒーおよびクロワッサンのウィーン包囲起源伝説は有名だが、史料的裏付けが薄いため「伝説」「諸説あり」として処理し、断定を避けた。
カラ=ムスタファの処刑については「絹の紐による絞首刑」が通説。首がウィーン市立博物館に現存するとも伝わるが、同博物館での常設展示については確認が必要。
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