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高校/宗教
1685

ルイ14世がナントの王令を廃止する

ルイ14世(フランス王)
語呂
覚え方
色は御破算(1685)ナント王令の廃止
いろはご(1685)ナント王令廃止

1685年10月、フランス王ルイ14世はフォンテーヌブロー宮殿でナントの王令(1598年)を廃止する勅令に署名しました。これにより、カルヴァン派新教徒であるユグノーが享受してきた礼拝・集会・教育の自由は事実上すべて奪われました。国内に留まる道を断たれた多くのユグノーは、オランダ・イギリス・プロイセン・南アフリカなどへ亡命し、その数は20万人から50万人にのぼるとも推計されています。商工業者や職人・技術者を多く含む彼らの流出はフランス経済に深刻な打撃を与え、一方で亡命先の国々の産業発展に大きく貢献しました。ルイ14世の不寛容政策の象徴であると同時に、信仰の自由と宗教的寛容という近代的理念の重要性を歴史に刻み込んだ出来事です。

この記事のポイント

  • 1685年、ルイ14世がフォンテーヌブロー王令を発し、1598年のナントの王令を廃止
  • ユグノー(カルヴァン派新教徒)の礼拝・集会・教育の自由が事実上すべて剥奪された
  • 数十万人のユグノーがオランダ・イギリス・プロイセンなど国外へ亡命し、フランスの経済力が低下
  • 亡命先では絹織物・時計・銀行業などの技術・知識を持ち込み、受入国の産業発展に貢献
  • 「一つの王・一つの法・一つの信仰」という絶対王政と宗教的不寛容の象徴的事件
ここが面白い

「一つの王・一つの法・一つの信仰」――絶対王政の絶頂に立つルイ14世が、87年前に与えた信仰の自由を一方的に取り消したとき、数十万人のフランス人が祖国を捨てて旅立った。

ここに至るまでの流れ
背景

フォンテーヌブロー王令は、突然に降ってきたわけではありません。1598年に宗教戦争を終わらせたナントの王令から始まり、徐々に圧力が強まっていった87年間の流れを見ていきましょう。

ナントの王令(1598年)とは何か

ユグノー戦争(1562〜1598年)は、カトリックとカルヴァン派(ユグノー)の激しい宗教対立に政治的権力争いが絡み合ったフランスの内乱です。1572年のサン・バルテルミの虐殺では数千人のユグノーが殺害されるなど、凄惨な事態が続きました。ユグノーから改宗してフランス王となったアンリ4世は、1598年にナントの王令を発し、ユグノーに礼拝・集会・教育の自由と一定の武装・政治的権利を認め、長年の宗教戦争を終結させました。

ルイ14世の絶対王政と宗教統一政策

1643年に5歳で即位したルイ14世は、宰相マザランの死後(1661年)から親政を開始し、「朕は国家なり」とも伝えられるほどの強力な王権を確立しました。ヴェルサイユ宮殿の建設や官僚制・常備軍の整備を進める一方、宗教的統一を国家強化の一環とみなし、ユグノーへの圧力を段階的に強めていきました。

ドラゴナード(竜騎兵による強制改宗)

ナントの王令廃止に先立ち、ルイ14世政府はドラゴナードと呼ばれる手法でユグノーを追い詰めました。竜騎兵(重装騎馬兵)をユグノーの家に宿泊させ、略奪・暴行を黙認することで改宗を強要したのです。これにより多くのユグノーがカトリックへの表面上の改宗を余儀なくされ、1685年時点でユグノー人口は激減したとみなされていました。

フォンテーヌブロー王令の内容と影響

1685年10月に発されたフォンテーヌブロー王令は、ナントの王令を全面的に廃止し、新教の礼拝・集会・学校・施設をすべて閉鎖することを命じました。ユグノーの聖職者には国外追放か改宗かを迫り、一般信者の国外脱出も禁じられました。しかし禁止にもかかわらず、多くのユグノーが危険を冒して国境を越え、亡命者の数は数十万人規模に達したとされています。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

信仰の自由の剥奪と強制改宗

≒ 信教の自由を国家が一方的に取り消した歴史的事例

87年間認められてきた礼拝・集会・教育の自由が王命一つで消滅した。信仰を理由に職を失い、財産を没収され、国外脱出も禁じられるという極めて深刻な人権侵害を国家が推し進めた例として記憶される。

人材・技術のフランスからの流出

≒ 優秀な人材を追い出すと国が弱体化するという教訓

亡命ユグノーの多くは絹織物業者・時計職人・銀行家・医師・印刷業者などの手に職を持つ層であった。その技術と資本の流出は、フランスの産業競争力に長期的なダメージを与えた。

受入国の産業発展への貢献

≒ 移民・難民が新天地の経済を活性化するパターンの原型

オランダでは繊維・金融業、プロイセン(ブランデンブルク)では絹織物・製紙業、イギリスでは時計・銀行業など、ユグノーが持ち込んだ技術と知識が受入国の産業革命前夜の基盤形成に寄与した。プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)はポツダム勅令(1685年)でユグノーを積極的に受け入れた。

前後のできごと
年表
1562
ユグノー戦争始まるフランスでカトリックとカルヴァン派(ユグノー)の宗教内乱(ユグノー戦争)が勃発。以後30年以上にわたって断続的に続く。
1572
サン・バルテルミの虐殺カトリック側がパリとフランス各地で多数のユグノーを虐殺。宗教対立の激化を象徴する事件。
1589
アンリ4世即位ユグノーから改宗してアンリ4世としてフランス王に即位。内乱の収拾に乗り出す。
1598
ナントの王令アンリ4世がナントの王令を発布。ユグノーに礼拝・集会・教育の自由を認め、ユグノー戦争が終結。
1643
ルイ14世即位5歳のルイ14世がフランス王に即位。宰相マザランが実権を握る。
1661
ルイ14世親政開始マザランの死後、ルイ14世が親政を開始。絶対王政の確立と宗教統一政策を推進。
1681
ドラゴナード本格化竜騎兵をユグノーの家に宿泊・駐屯させ略奪を黙認する強制改宗政策(ドラゴナード)が本格化。
1685
フォンテーヌブロー王令10月18日、ルイ14世がフォンテーヌブロー王令を発しナントの王令を廃止。ユグノーの信仰の自由が剥奪される。
1685
ポツダム勅令ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)がポツダム勅令を発し、亡命ユグノーをプロイセンへ積極的に受け入れる。
1689
イギリスへの大量亡命名誉革命後のイギリスも多くのユグノーを受け入れ、時計・絹織物・銀行業などの発展に貢献した。
結果とその後
結果
信仰の自由と宗教的寛容の重要性を歴史的に証明した事例となり、後の啓蒙思想家(ヴォルテールら)が宗教的不寛容を批判する際の格好の論拠として用いた。亡命ユグノーはオランダ・プロイセン・イギリスなどの産業発展に大きく貢献した。
フランスにとっては商工業の担い手が大量に流出し、産業力・財政力の低下を招いた。ルイ14世の治世下では表向き「統一の強化」とされたが、実態は国力の弱体化であり、フランス絶対王政の衰退につながる要因の一つとなった。亡命者数の推計(20万〜50万人)は史料によって幅があり、確定した数字ではない点に注意が必要である。
登場人物
人物

ルイ14世

フランス王(在位1643〜1715年)、「太陽王」

ヴェルサイユ宮殿建設・官僚制整備で絶対王政を確立した。「一つの王・一つの法・一つの信仰」を掲げ宗教統一を推進。フォンテーヌブロー王令発布の主体。晩年には対外戦争の失敗と財政悪化に苦しんだ。

アンリ4世

フランス王(在位1589〜1610年)、ナントの王令の発布者

ユグノー出身だがカトリックに改宗して即位。1598年のナントの王令でユグノーに信仰の自由を認めユグノー戦争を終結させた。1610年に暗殺される。

コルベール(ジャン=バティスト・コルベール)

ルイ14世の財務総監

重商主義政策でフランスの産業育成を推進したが、ユグノー廃止前に没(1683年)。ユグノーの産業的価値を評価していたとされる立場であり、廃止後の流出がコルベールの育てた産業に打撃を与えたとも論じられる。

フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)

ブランデンブルク選帝侯(プロイセン公)

1685年のポツダム勅令でフランスから亡命するユグノーを積極的に受け入れた。彼らが持ち込んだ絹織物・製紙・金属加工などの技術はプロイセンの産業基盤形成に貢献した。

キーワード解説
用語
ナントの王令
1598年にアンリ4世が発した王令(勅令)。ユグノーに礼拝・集会・教育などの自由を認めユグノー戦争を終結させた。1685年のフォンテーヌブロー王令によって廃止された。
フォンテーヌブロー王令
1685年にルイ14世がフォンテーヌブロー宮殿で署名した王令。ナントの王令を全面廃止し、新教の礼拝・学校・施設をすべて閉鎖することを命じた。ナントの王令廃止とも呼ばれる。
ユグノー
フランスのカルヴァン派新教徒の呼称。16〜17世紀のユグノー戦争を戦い、ナントの王令で一定の自由を得た。1685年の廃止後、多くが国外へ亡命した。
ドラゴナード
竜騎兵(ドラゴン)を新教徒の家に宿泊させ、略奪・暴行を黙認することで改宗を強要したルイ14世政府の政策。フォンテーヌブロー王令に先行して行われ、ユグノー人口の激減をもたらした。
絶対王政
国王が議会や貴族・教会の制限を受けずに絶対的な権力を行使する政治体制。17〜18世紀のフランスで典型的に発達し、ルイ14世の治世がその頂点とされる。
重商主義
輸出増・輸入制限・産業育成によって国富を増大させようとする経済政策思想。コルベールがフランスで推進した。ユグノーの流出はこの政策によって育成された産業人材の喪失を意味した。
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豆知識

1亡命先でフランス語の新聞が創刊された

オランダへ亡命したユグノーたちは印刷・出版の技術を持ち込み、フランス語の新聞・書籍を刊行した。これらはフランス国内に密かに持ち込まれ、ルイ14世批判や啓蒙思想の普及に間接的に貢献したとされる。

2プロイセンのベルリンにユグノー教会が現存する

ベルリンのジャンダルメンマルクト広場には、亡命ユグノーが建てたフランス大聖堂が現在も立っている。ベルリン人口の一時期は亡命ユグノーとその子孫が2割近くを占めたとも伝えられる。

3ヴォルテールはこの事件を激しく批判した

18世紀のフランスの啓蒙思想家ヴォルテールは著作の中でナントの王令廃止を「狂信の最も大きな罪悪の一つ」と断罪した。宗教的不寛容への批判は啓蒙思想の核心テーマの一つであり、この事件はその格好の実例として繰り返し参照された。

4南アフリカにもユグノーが渡った

亡命ユグノーの一部はオランダ東インド会社の支援を受け、現在の南アフリカ・ケープ植民地にも移住した。彼らはワイン醸造の技術を持ち込み、ケープワインの起源の一つとされる。現在も南アフリカ・ウエスタンケープ州にはユグノーに由来する地名や姓が残っている。

5廃止当時の王令は「ユグノーはすでにほぼいない」という建前だった

ルイ14世の政府は、ドラゴナードによる改宗が進んだ結果「フランスに新教徒はほとんど残っていない」と公言し、その論拠のもとでナントの王令を「もはや不要になった王令の廃止」として正当化した。しかし実際には改宗の多くは表面上のものに過ぎず、数十万人が依然として新教の信仰を保っていた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1685年。語呂は「色は御(1685)ナント王令の廃止」。
廃止したのはフランス王ルイ14世(太陽王)。廃止した王令の名はフォンテーヌブロー王令。
廃止の対象:1598年アンリ4世が発したナントの王令(ユグノーに信仰の自由を認めた勅令)。
結果①:ユグノー(商工業者・技術者を多く含む)が大量にオランダ・イギリス・プロイセンへ亡命し、フランス経済に打撃。
結果②:亡命先(特にプロイセン・オランダ・イギリス)の産業発展(絹織物・時計・銀行業など)に貢献。
「一つの王・一つの法・一つの信仰」という絶対王政・宗教統一政策の象徴として問われることが多い。
関連事項:ユグノー戦争(1562〜1598年)、サン・バルテルミの虐殺(1572年)、ポツダム勅令(1685年・大選帝侯がユグノー受入れ)。
語呂クイズ
「色は御破算(1685)ナント王令の廃止」= ルイ14世がナントの王令を廃止するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ナントの王令とはどんな内容でしたか?
A. 1598年にフランス王アンリ4世が発した王令です。長年続いたユグノー戦争を終わらせるため、カルヴァン派新教徒(ユグノー)に礼拝・集会・教育・一定の政治的権利を認めました。
Q. なぜルイ14世はナントの王令を廃止したのですか?
A. 「一つの王・一つの法・一つの信仰」を掲げ、国内の宗教的統一が絶対王政の強化に不可欠だと考えたからです。また、カトリック教会や顧問たちの進言、ドラゴナードによる強制改宗政策の延長線上でもありました。
Q. 廃止後にユグノーはどうなりましたか?
A. 多くが信仰を守るためにオランダ・イギリス・プロイセン・南アフリカなどへ亡命しました。国内に残った者はカトリックへの改宗を強要されたり、地下での信仰を続けたりしました。
Q. なぜフランスの経済に打撃を与えたのですか?
A. 亡命したユグノーには絹織物業者・時計職人・銀行家・印刷業者・医師など、専門技術を持つ商工業者が多く含まれていたためです。彼らの流出は技術・資本・知識の大量喪失を意味しました。
Q. ユグノーの亡命が一番役に立ったのはどの国ですか?
A. プロイセン(ブランデンブルク)はポツダム勅令で積極的に受け入れ、絹織物・製紙・金属加工の技術を得て産業発展に活かしました。オランダは金融・出版、イギリスは時計・絹織物業の発展に恩恵を受けたとされます。
まとめ

ナントの王令の廃止は、「信仰の自由を国家が一方的に剥奪したとき、何が起きるか」を歴史が答えた出来事です。数十万人の技術者・商工業者がフランスを去り、受け入れた国々が豊かになるという皮肉な結果は、人材こそが国力の源泉であることを証明しました。「色は御(1685)ナント王令の廃止」の語呂とともに、ルイ14世の絶対王政・宗教的不寛容の象徴として、関連する年号(1598年ナントの王令・1685年廃止)と亡命先の国々とあわせて整理しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
亡命ユグノーの人数は20万人から50万人と史料・研究者によって幅がある。本文では「数十万人」と表現し断定を避けた。
「一つの王・一つの法・一つの信仰」という標語はルイ14世政策の要約として広く用いられるが、彼自身の言葉として確認された原典は明確でないため、掲げた「方針」として表現した。
コルベールはナントの王令廃止(1685年)の2年前の1683年に没しており、廃止への直接関与はない。本文では「廃止前に没した」旨を明記した。
ドラゴナードの詳細な実態(暴行の程度・地域差など)については史料による差異があるため、本文では「略奪・暴行を黙認」という通説的な表現にとどめた。
related に指定された 1598-edict-of-nantes および 1536-calvin-reformation は、本JSON記述時点で世界史サイト内に実在するIDとして指定されたものを使用した。存在しない場合は削除すること。