高校/政治
1648
ウェストファリア条約が結ばれる
神聖ローマ帝国と諸国の全権使節
語呂
覚え方
色良は(1648)ウェストファリア条約
いろよは(1648)ウェストファリア条約
1648年、ヨーロッパを30年間にわたって荒廃させた三十年戦争が、ウェストファリア条約によって終結しました。この条約はドイツ(神聖ローマ帝国)のオスナブリュックとミュンスターという二つの都市で締結された複数の条約からなり、ヨーロッパ史上初めて多くの主権国家が一堂に会した本格的な国際会議によって生み出されました。条約は宗教上の争いを整理し、スイスとオランダの独立を正式に認め、神聖ローマ帝国内の領邦に広汎な主権を与えました。その結果、皇帝や教皇が全ヨーロッパを支配するという中世的な秩序は終わりを告げ、対等な主権国家が並立する近代的な国際秩序――「ウェストファリア体制」――が始まったとされています。
この記事のポイント
- 1648年、三十年戦争を終わらせるためにウェストファリア条約が締結された
- ヨーロッパ初の本格的な多国間国際会議の結果として生まれた条約で、近代国際秩序の出発点とされる
- アウクスブルクの和議(1555年)を再確認したうえでカルヴァン派も公認し、宗教戦争に終止符が打たれた
- スイスとオランダの独立が国際的に正式承認され、神聖ローマ帝国内の約300の領邦に広汎な主権が認められた
- フランスはアルザスの大部分を、スウェーデンは西ポンメルンなどを獲得し、ヨーロッパの勢力図が塗り替えられた
ここが面白い「国家は対等であり、他国の内政に干渉してはならない」――今日の国際社会を支えるこの原則は、1648年のヨーロッパで誕生した一つの条約から始まっている。
ウェストファリア条約は、三十年戦争という大惨禍のなかから生まれました。その背景には、ヨーロッパの宗教改革以来続いた対立と、帝国内の政治的混乱がありました。順に見ていきましょう。
宗教改革と宗教戦争の激化
16世紀にルターによって始まった宗教改革は、カトリックとプロテスタントの対立をヨーロッパ全土に広げた。1555年のアウクスブルクの和議でルター派は公認されたが、その後カルヴァン派が急速に広まり、既存の和平の枠組みでは収まらない新たな緊張が生まれた。ベーメンではカトリックのハプスブルク家支配に反対するプロテスタント貴族が蜂起し、三十年戦争(1618〜1648年)の引き金となった。
三十年戦争の拡大と国際的介入
戦争は当初、神聖ローマ帝国内の宗教対立として始まったが、デンマーク・スウェーデン・フランスが相次いで介入した。フランスはカトリック国でありながら、ハプスブルク家の勢力拡大を阻むために戦争に加わった。この介入はもはや宗教戦争ではなく国家利益をめぐる争いであることを示していた。ドイツは戦場となり、略奪・疫病・飢餓で人口が激減した地域も生まれた。
ウェストファリア会議の開催
1644年から、ドイツのウェストファリア地方にあるオスナブリュックとミュンスターの二都市で和平交渉が始まった。神聖ローマ帝国とスウェーデンの交渉はオスナブリュックで、帝国とフランスおよびその他の国々との交渉はミュンスターで行われた。交渉には約200もの政治単位が参加し、約4年の議論を経て1648年10月に最終合意に達した。この会議がヨーロッパ最初の本格的な多国間国際会議とされている。
条約の主な内容
条約はアウクスブルクの和議を再確認し、さらにカルヴァン派をも公認した。スイス連邦とオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の独立が正式に国際承認された。神聖ローマ帝国内の約300の領邦は外交権・徴税権・軍事権など広汎な主権を認められ、皇帝の実質的な支配力は失われた。領土面ではフランスがアルザスの大部分を、スウェーデンが西ポンメルン・ヴィスマル・ブレーメン司教区などを獲得した。
主権国家体制の確立
≒ 国が対等であり、他国の内政に干渉できないという国際ルールの出発点各国が対等な主権を持ち、宗教や皇帝の権威を超えた国家主権が国際秩序の基本単位となった。この枠組みは今日の国連憲章が定める「主権平等の原則」にも受け継がれている。
宗教戦争の終結とカルヴァン派の公認
≒ 信仰の違いを理由にした国家間の戦争を抑制する考え方の原型ルター派に加えてカルヴァン派も公認され、「君主の宗教に領民は従う」という原則は維持されたが、宗教的寛容の枠組みが広がった。ヨーロッパにおける大規模な宗教戦争の時代は事実上終わった。
神聖ローマ帝国の実質的解体
≒ 大帝国が崩れて多くの中小国家に分かれる近代的な国民国家形成の先駆け帝国内の約300の領邦がほぼ独立した主権を持ち、皇帝は名目上の存在となった。このため条約はしばしば「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれる。帝国の正式な解体は1806年だが、その実質は1648年に始まった。
1517宗教改革ルターが九十五か条の論題を発表し、プロテスタントの宗教改革が始まる。
1555アウクスブルクの和議神聖ローマ帝国でルター派が公認される。カルヴァン派は対象外。
1618三十年戦争開始ベーメンでのプロテスタント貴族の反乱(プラハ窓外投擲事件)をきっかけに三十年戦争が始まる。
1625デンマーク介入デンマーク王クリスティアン4世がプロテスタント側を支援して参戦。後に敗退。
1630スウェーデン介入スウェーデン王グスタフ2世アドルフが参戦し、プロテスタント陣営を立て直す。
1635フランス参戦カトリック国フランスが国家利益のためハプスブルク家に対抗して参戦し、戦争が一層複雑化。
1644ウェストファリア会議開始オスナブリュックとミュンスターの二都市で多国間和平交渉が始まる。
1648ウェストファリア条約締結10月にオスナブリュック条約・ミュンスター条約が調印され、三十年戦争が終結。主権国家体制が成立。
1806神聖ローマ帝国解体ナポレオンの圧力でフランツ2世が帝位を放棄し、神聖ローマ帝国が正式に解体される。
◎主権国家体制(ウェストファリア体制)が確立され、各国が対等な主権を持つ近代的な国際秩序の出発点となった。ヨーロッパを長年苦しめた宗教戦争は事実上終結し、スイスとオランダの独立が国際的に承認された。
△ウェストファリア体制は近代国際秩序の原点として高く評価される一方、この枠組みがヨーロッパ外の世界(アジア・アフリカなど)に強制的に適用された側面もある。また主権国家体制そのものが、後の植民地主義や帝国主義を正当化する論理にも利用されたことを忘れてはならない。
マザラン枢機卿
フランス宰相幼王ルイ14世を補佐したフランスの実質的な指導者。ウェストファリア会議でアルザス獲得を実現し、フランスをヨーロッパの強国に押し上げた。
グスタフ2世アドルフ
スウェーデン王三十年戦争に参戦してプロテスタント陣営を立て直した名将。1632年のリュッツェンの戦いで戦死したが、条約でスウェーデンは西ポンメルンなどを獲得した。
フェルディナント3世
神聖ローマ皇帝(在位1637〜1657年)ウェストファリア条約を締結した皇帝。条約により帝国内の領邦に広汎な主権を認めざるを得なくなり、皇帝の実質的支配力は大幅に低下した。
リシュリュー枢機卿
フランス宰相(フランス参戦を主導)国家利益を宗教よりも優先してカトリック国フランスをハプスブルク家と戦わせた。1642年に死去したが、その外交方針がマザランに引き継がれた。
- ウェストファリア体制
- 1648年のウェストファリア条約によって確立されたとされる国際秩序。各国が対等な主権を持ち、他国の内政に干渉しないという原則を基礎とする。近代国際法と国際関係の出発点とされる。
- 主権国家
- 一定の領土と国民を持ち、対外的に独立した権力を持つ国家。ウェストファリア条約後のヨーロッパでは皇帝や教皇の上位権力を認めず、各国が対等な主権を持つという考え方が広まった。
- 三十年戦争
- 1618年から1648年にかけてヨーロッパで起きた大規模な戦争。神聖ローマ帝国内の宗教対立をきっかけに始まり、デンマーク・スウェーデン・フランスなどが介入してヨーロッパ全体を巻き込んだ。
- アウクスブルクの和議
- 1555年に神聖ローマ帝国で結ばれた宗教和解。ルター派を公認し「君主の宗教に領民は従う」という原則を定めた。ウェストファリア条約はこれを再確認し、カルヴァン派にも拡大した。
- 神聖ローマ帝国
- 中世以来続いたヨーロッパの政治体制。皇帝を頂点に置くが、実態は多くの領邦の集合体だった。ウェストファリア条約で領邦の主権が広く認められ、帝国の実質的解体が進んだ。正式解体は1806年。
1会議は二都市同時進行だった
ウェストファリア会議は一か所で行われたわけではなく、オスナブリュックとミュンスターという約50km離れた二都市で並行して行われた。カトリック側とプロテスタント側の和解を同時に進めるためのこのような分割開催は、当時の宗教的緊張を象徴している。
2「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれる理由
フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは神聖ローマ帝国を「神聖でもなく、ローマ的でもなく、帝国でもない」と評した。ウェストファリア条約で約300の領邦に広汎な主権が認められた結果、皇帝の実質的な支配力は失われ、帝国は形骸化した。
3スイスの永世中立の起源はここから
ウェストファリア条約でスイス連邦の独立が正式承認されたことが、スイスが後に永世中立国としての立場を確立していく出発点の一つとなった。スイスは現在も国連安全保障理事会の常任理事国でなく、独自の中立政策を維持している。
4今日の国際法への影響
現代の国際連合憲章が定める「主権平等の原則」「内政不干渉の原則」は、ウェストファリア体制の考え方に深くつながっている。条約から約370年が経過した現在も、その原則は国際社会の基本ルールとして機能している。
5オランダ独立のきっかけは80年前の反乱
ウェストファリア条約で正式承認されたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の独立は、1568年にスペインのハプスブルク家への反乱(八十年戦争)として始まっていた。三十年戦争と並行して80年間戦い続けた末に、ウェストファリア条約で国際的地位を得た。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1648年。語呂は「色良は(1648)ウェストファリア条約」。
ウェストファリア条約は三十年戦争(1618〜1648年)を終結させた条約であり、ヨーロッパ初の多国間国際会議の成果。
アウクスブルクの和議(1555年)を再確認したうえでカルヴァン派も公認した点が頻出。ルター派・カルヴァン派の両方が認められた。
スイスとオランダの独立が国際的に承認され、神聖ローマ帝国内の約300の領邦に主権が認められ皇帝権威が失われた(「神聖ローマ帝国の死亡証明書」)。
フランスがアルザスを、スウェーデンが西ポンメルンなどを獲得し、以後フランスがヨーロッパの主導権を握る基礎が作られた。
語呂クイズ
「色良は(1648)ウェストファリア条約」= ウェストファリア条約が結ばれるは西暦何年?
- Q. ウェストファリア条約とはどんな条約ですか?
- A. 1648年に三十年戦争を終わらせるために結ばれた多国間条約です。ドイツのオスナブリュックとミュンスターの二都市で調印されました。ヨーロッパ初の本格的な多国間国際会議の成果とされ、近代的な主権国家体制の始まりとも評価されています。
- Q. 主権国家体制とは何ですか?
- A. 各国が対等な主権を持ち、他国の内政に干渉しないという国際秩序の考え方です。皇帝や教皇がヨーロッパ全体を支配するという中世的な秩序に代わって、ウェストファリア条約後のヨーロッパで広まりました。今日の国際連合の基本原則にもつながっています。
- Q. なぜこの条約が「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれるのですか?
- A. 帝国内の約300の領邦に外交権・軍事権・徴税権など広汎な主権が認められたため、皇帝の実質的な支配力がほぼなくなったからです。帝国は形の上では1806年まで存続しましたが、ウェストファリア条約でその実質は失われたとされています。
- Q. アウクスブルクの和議と何が違うのですか?
- A. アウクスブルクの和議(1555年)はルター派だけを公認し、カルヴァン派は対象外でした。ウェストファリア条約ではアウクスブルクの和議を再確認したうえでカルヴァン派も公認し、より広い宗教的寛容の枠組みが作られました。
- Q. ウェストファリア条約はなぜ今も重要とされるのですか?
- A. 現代の国際社会が基本とする「主権平等」「内政不干渉」という原則の起源とされているからです。国際連合憲章にも同様の原則が明記されており、条約から約370年たった今でも国際関係の基礎を作ったものとして学ばれています。
ウェストファリア条約は、三十年戦争という未曾有の惨禍の末に生まれた、近代国際秩序の出発点です。各国が対等な主権を持ち、宗教や皇帝の権威よりも国家主権が優先されるという新しい秩序は、その後のヨーロッパ外交の基本となり、今日の国際社会にもつながっています。「色良は(1648)ウェストファリア条約」の語呂とともに、三十年戦争・アウクスブルクの和議との関係、スイス・オランダの独立承認、神聖ローマ帝国への影響をセットで押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
ウェストファリア体制をそのまま現代国際法の起源と同一視することには学術上異論もあるため、「出発点とされる」「評価されている」という表現にとどめた。
フェルディナント3世の治世期間(1637〜1657年)は1648年をカバーしているため正確。
グスタフ2世アドルフは1632年戦死のため条約署名には関わっていないが、スウェーデンの参戦・活躍の象徴として人物欄に記載した。
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