高校/戦争
1453
東ローマ帝国が滅亡する
メフメト2世(オスマン帝国スルタン)
語呂
覚え方
一夜降参(1453)東ローマ滅亡
いよこさ(1453)東ローマ滅亡
1453年5月29日、オスマン帝国スルタンのメフメト2世が率いる軍がコンスタンティノープルを陥落させ、約1000年の歴史を誇った東ローマ(ビザンツ)帝国が滅亡しました。ハンガリー人技術者ウルバンが製造した超大型火砲(ウルバン砲)が、長年無敵とされた三重の城壁を次々と砕いたのです。陥落したコンスタンティノープルはイスタンブルと改称され、オスマン帝国の新首都となりました。この出来事はヨーロッパに大きな衝撃を与え、東方交易路がオスマンの管理下に置かれたことで、ヨーロッパ諸国が新たな航路を求める大航海時代の重要な動機の一つとなりました。また、多くのビザンツ人学者がイタリアへ亡命し、ギリシャ・ローマの古典知識を持ち込んだことが、イタリア・ルネサンスをさらに刺激したとされています。
この記事のポイント
- 1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させた
- ウルバン砲(超大型火砲)が「難攻不落」の三重城壁を打ち破った
- 約1000年続いた東ローマ(ビザンツ)帝国が滅亡し、都はイスタンブルと改称された
- 東方交易路がオスマン支配下に置かれ、ヨーロッパの大航海時代の動機の一つとなった
- ビザンツ人学者がイタリアへ亡命し、ルネサンスをさらに刺激したとされる
ここが面白い「難攻不落」と呼ばれた三重の城壁が、たった1門の巨大砲で破られた。約1000年続いた東ローマ帝国が、わずか53日の包囲戦で幕を下ろした。
1453年の陥落は突然起きたわけではなく、何世紀にもわたる東ローマ帝国の衰退と、オスマン帝国の膨張という長い積み重ねの結果でした。
東ローマ帝国の衰退
かつてのローマ帝国東半分を継承した東ローマ(ビザンツ)帝国は、7〜8世紀にアラブ勢力に領土を削られ、1204年には第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領・略奪される(ラテン帝国建国)という致命的打撃を受けた。1261年に帝国は首都を奪還したが、往時の繁栄は戻らず、15世紀にはコンスタンティノープルとその周辺のみを保つ小国に縮小していた。
オスマン帝国の台頭
13世紀末にアナトリア(現トルコ)で興ったオスマン帝国は、14世紀にはバルカン半島へ進出し、1389年のコソボの戦いでセルビアを破るなど急拡大した。コンスタンティノープルはオスマン領土に囲まれた孤島のような状態となり、数度にわたって包囲された。
メフメト2世の即位と征服準備
1451年、19歳のメフメト2世がスルタンに即位した。彼はコンスタンティノープル征服を政権の最重要課題と位置づけ、城壁の対岸(ボスポラス海峡の欧州側)にルメリ・ヒサル要塞を建設して兵糧補給路を遮断し、ハンガリー出身の砲術師ウルバンが設計した超大型の青銅製大砲を整備した。
西方の援助なき孤立
東ローマ皇帝コンスタンティノス11世はローマ教皇やヴェネツィア、ジェノバなどに援軍を求めたが、東西教会の対立(東方正教と西方カトリックの分裂)や政治的利害の相違から大規模な支援は得られなかった。ジェノバ人の傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニが約700人を率いて来援したが、守備側の総兵力は7000〜8000人程度で、攻囲軍の数万に対して圧倒的に少なかった。
ウルバン砲による城壁突破
≒ 難攻不落とされた要塞が新兵器で破られたウルバンが製造した大砲は砲弾の重さ約540kgとも伝えられ、発射のたびに地面が揺れた。三重の城壁も繰り返しの砲撃で次第に崩壊し、53日間の包囲の末に守備側の防衛線が破れた。
コンスタンティノス11世の戦死
≒ 最後の皇帝が玉砕最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世は、城壁が破られた後も逃げることなく戦い続け、乱戦の中で戦死した。遺体は確認されなかったとされる。
都のイスタンブル改称と再編
≒ 征服した都市を新首都として丸ごとリブランド陥落後、メフメト2世はコンスタンティノープルをオスマン帝国の新首都とした。アヤソフィア聖堂はモスクに転用され、都はイスタンブルと呼ばれるようになった。
1204第4回十字軍十字軍がコンスタンティノープルを占領・略奪し、ラテン帝国を建国。東ローマ帝国は致命的打撃を受ける。
1261首都奪還東ローマ帝国がコンスタンティノープルを奪還するが、かつての繁栄は戻らなかった。
1389コソボの戦いオスマン帝国がコソボの戦いでセルビアを破り、バルカン半島への支配を拡大。
1451メフメト2世即位19歳のメフメト2世がオスマン帝国スルタンに即位し、コンスタンティノープル征服を宣言。
1452ルメリ・ヒサル要塞完成ボスポラス海峡欧州側に要塞を建設し、コンスタンティノープルへの補給路を封鎖。
1453包囲開始(4月)オスマン軍がコンスタンティノープルを包囲開始。ウルバン砲で城壁を砲撃し続ける。
1453陥落(5月29日)城壁が突破され、最後の皇帝コンスタンティノス11世が戦死。東ローマ帝国が滅亡した。
◎メフメト2世は「征服者(ファーティフ)」と呼ばれ、コンスタンティノープルをイスタンブルとしてオスマン帝国の新首都に定め、帝国は東西交易の要衝を掌握した。
△東方交易路がオスマン帝国の管理下に置かれたことで、ヨーロッパ諸国は新たな航路を求めるようになり、大航海時代の動機の一つとなった。
◎ビザンツ人の学者がギリシャ・ローマの古典写本とともにイタリアへ亡命し、ルネサンスをさらに刺激したとされる(ただし、ルネサンス自体は1453年以前から始まっていた)。
メフメト2世
オスマン帝国スルタン即位時19歳。コンスタンティノープル征服を主導し、「征服者(ファーティフ)」と称された。陥落後は都をイスタンブルとしてオスマン帝国の繁栄を確立した。
コンスタンティノス11世
東ローマ帝国最後の皇帝援軍を求めたが十分な支援を得られず、城壁が破られた後も戦い続けて戦死した。遺体は確認されていない。
ウルバン
ハンガリー出身の砲術師・技術者最初は東ローマ帝国に売り込もうとしたが資金を断られ、オスマン帝国側に転じた。城壁を打ち破った超大型火砲(ウルバン砲)を製造した。
ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ
ジェノバ人傭兵隊長約700人の兵を率いて東ローマ側に援軍として参戦し、城壁防衛の要として活躍した。包囲戦終盤に負傷して戦線を離脱したことが守備崩壊の一因とも言われる。
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
- 395年のローマ帝国分裂後に成立した帝国の東半分。首都はコンスタンティノープル(現イスタンブール)。1453年まで続き、ギリシャ・ローマの文化とキリスト教(東方正教)を継承した。
- ウルバン砲
- ハンガリー人技術者ウルバンが製造した超大型青銅製火砲。砲弾は数百kgにも達し、長年無敵とされた三重の城壁を破壊した。近代的な攻城戦の幕開けを象徴する兵器。
- コンスタンティノープル(イスタンブール)
- 東ローマ帝国の首都。現在のトルコ・イスタンブール。陥落後はオスマン帝国の首都となり、イスタンブルと呼ばれるようになった。
- アヤソフィア
- コンスタンティノープルに建てられた東ローマ帝国の大聖堂。537年完成で世界最大級のキリスト教聖堂だったが、1453年以降はモスクに転用された(現在は博物館・モスク)。
- 大航海時代
- 15〜17世紀、ヨーロッパ諸国が新たな航路や土地を求めて大規模な航海を行った時代。東方交易路がオスマン帝国に掌握されたことが動機の一つとされる。
1ウルバンは最初、東ローマ側に売り込もうとしていた
超大型大砲を開発したウルバンは最初にコンスタンティノープルへ赴き、皇帝に技術を売り込もうとした。しかし東ローマ帝国には製造費用も材料も不足していたため断られ、資金力のあるメフメト2世のもとへ転じた。歴史の皮肉として、自分が売り込もうとした城壁を自分の砲が破ることになった。
2包囲戦中、オスマン軍は船を陸上輸送した
コンスタンティノープルには金角湾という内湾があり、東ローマ側が大鎖で封鎖していた。メフメト2世はこれを打破するため、80隻の軍船を丸太の上に乗せて山越えに陸上輸送し、金角湾内側に浮かべるという大作戦を実行した。作業員が夜中に移送を完了させた。
31453年はヨーロッパで百年戦争が終わった年でもある
コンスタンティノープル陥落の1453年、西ヨーロッパではフランスとイングランドの百年戦争(1337〜1453年)も終結している。中世から近世への転換を象徴する出来事が同じ年に重なった。
4東ローマと西ローマの滅亡年は異なる
西ローマ帝国の滅亡は476年、東ローマ帝国の滅亡は1453年で、実に977年の差がある。日本史でいえば西ローマ滅亡は古墳時代、東ローマ滅亡は室町時代に相当する。西ローマと東ローマを混同する誤りが試験でも多く見られるため注意が必要。
5メフメト2世は征服後も文化を尊重した
陥落後、メフメト2世はギリシャ人・アルメニア人・ユダヤ人など多くの住民をイスタンブルに呼び寄せ、多民族・多宗教の都市として再建した。ギリシャ正教の総主教座も存続させ、宗教的な強制改宗は行わなかった(ただし聖堂のモスク転用は実施した)。

ここが出る博士のワンポイント
陥落年は1453年。語呂は「一夜降参(1453)東ローマ滅亡」。
滅んだのは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)。西ローマ帝国の滅亡(476年)と混同しないこと。
攻略の決め手はウルバン砲(超大型火砲)。三重の城壁を砲撃で突破した。
陥落後、コンスタンティノープルはイスタンブルと改称されオスマン帝国の首都となった。
影響として大航海時代の動機の一つになったことと、ビザンツ人学者のイタリア亡命がルネサンスを刺激したことを押さえる。
語呂クイズ
「一夜降参(1453)東ローマ滅亡」= 東ローマ帝国が滅亡するは西暦何年?
- Q. 東ローマ帝国と西ローマ帝国の違いは何ですか?
- A. 395年にローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国は476年に滅亡しました。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は首都コンスタンティノープルを中心に存続し、1453年に滅亡するまで約1000年間続きました。1453年に滅亡したのは東ローマ帝国の方です。
- Q. コンスタンティノープルはどこにあるのですか?
- A. 現在のトルコのイスタンブールです。ヨーロッパとアジアをつなぐボスポラス海峡に面した要衝で、東西交易の拠点として繁栄しました。
- Q. なぜ「難攻不落」の城壁が破られたのですか?
- A. ハンガリー人技術者ウルバンが製造した超大型火砲(ウルバン砲)が三重の城壁を繰り返し砲撃したためです。従来の攻城技術では突破できなかった城壁も、当時最先端の巨大火砲には耐えられませんでした。
- Q. なぜコンスタンティノープル陥落が大航海時代につながるのですか?
- A. 東方交易路(シルクロード・地中海ルート)がオスマン帝国の支配下に置かれたことで、ヨーロッパ諸国は香辛料などの交易品を得るために新たな航路を探す動機が強まりました。これが1492年のコロンブスの航海や1498年のバスコ・ダ・ガマのインド航路開拓などにつながりました。
- Q. ルネサンスとの関係はどのようなものですか?
- A. 東ローマ帝国が弱体化・滅亡する過程でビザンツ人の学者がギリシャ・ローマの古典写本とともにイタリアへ亡命し、古典知識がイタリアに流入してルネサンスをさらに刺激したとされます。ただし、ルネサンス自体は1453年より前の14世紀頃からすでに始まっており、陥落が唯一の原因ではありません。
- Q. 最後の皇帝はどうなりましたか?
- A. 最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世は、城壁が突破された後も逃げずに戦い続け、乱戦の中で戦死しました。遺体は確認されていないとされています。
1453年のコンスタンティノープル陥落は、約1000年続いた東ローマ(ビザンツ)帝国の終わりであると同時に、ヨーロッパ中世から近世への大きな転換点でした。ウルバン砲という新兵器が「難攻不落」を破り、オスマン帝国が東西交易の要衝を握ったことが大航海時代の動機の一つとなりました。「一夜降参(1453)東ローマ滅亡」の語呂とともに、西ローマ(476年)と東ローマ(1453年)の混同を防ぎ、影響として大航海時代とルネサンスへのつながりを理解しておくことが重要です。
編集メモ(ファクト)
ルネサンスとの関係について:ビザンツ人学者の亡命がルネサンスを刺激したのは事実だが、ルネサンスは14世紀から始まっており陥落が唯一の原因ではないため、本文では「さらに刺激した」と表記した。
大航海時代の動機について:オスマン帝国による交易路の圧迫は大航海時代の動機の一つとされるが、研究者によっては直接的因果関係を慎重に扱う議論もある。中学・高校教科書レベルの定説として記述した。
イスタンブルという呼称について:「イスタンブル」はトルコ語の呼称で、正式に公式名称として国際的に定着したのは20世紀だが、オスマン時代から使われていた呼称であるため本文ではこの表記を使用した。