語呂で覚える世界史年号語呂合わせ・世界史暗記
一覧 / 中世ヨーロッパ / フランスで最初の三部会が招集される
フランスで最初の三部会が招集されるのイラスト
高校/政治
1302

フランスで最初の三部会が招集される

フィリップ4世(フランス王・端麗王)
語呂
覚え方
勲二(1302)三部会
いさおに(1302)三部会

1302年、フランス王フィリップ4世(端麗王)は、ローマ教皇ボニファティウス8世との激しい対立を背景に、国内の支持を取りつけるため前例のない会議を開きました。聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民=都市代表(第三身分)の三つの身分の代表を一堂に集めた、フランス史上最初の全国三部会です。この会議は王権を制限するためではなく、あくまで王が教皇に対抗する正当性を国内に示すために招集されたもので、イギリスの議会とは本質的に異なりました。しかし約487年後の1789年、フランス革命の前夜に三部会が再招集されると(1614年以来175年ぶりの招集でした)、第三身分の代表が「国民議会」を宣言し、革命の引き金を引くことになります。

この記事のポイント

  • 1302年、フランス王フィリップ4世が聖職者・貴族・平民の三身分代表を集めた最初の全国三部会を招集
  • 招集の直接の目的は、教皇ボニファティウス8世との課税問題での対立において国内支持を固めること
  • 議決は身分ごとに行われ、各身分が1票を持つ仕組みのため、第一・第二身分が組めば第三身分は常に2対1で否決される構造だった
  • 三部会はイギリス議会と異なり、王権に従属的な性格が強く、定期開催の義務もなかった
  • 1789年の再招集が第三身分による国民議会結成を招き、フランス革命の端緒となった
ここが面白い

「王様に逆らうなんてとんでもない」と思われていた中世フランスで、聖職者・貴族・平民が一堂に集められ、国王の政策を支持させられた。その舞台が、1302年に初めて招集された「三部会」だった。

ここに至るまでの流れ
背景

三部会は突然生まれたものではありません。中世フランスにおける王権と教皇権の緊張、身分制社会の構造、そしてフィリップ4世という君主の政治的野心が重なり合って生まれた制度です。その背景を順に見ていきましょう。

フィリップ4世「端麗王」の登場

フィリップ4世(在位1285〜1314年)は「端麗王(ル・ベル)」と呼ばれるほど美貌の持ち主で、政治的には中央集権化を強力に推し進めた国王です。官僚機構を整備し、法律家や文官を側近に登用して貴族や聖職者の特権を切り崩す政策を取り続けました。財政的には恒常的な戦費調達が課題で、これが教皇との衝突の直接の火種となりました。

聖職者課税をめぐる教皇との対立

13世紀末、フランスとイングランドは断続的な戦争状態にあり、フィリップ4世は戦費を賄うために国内の聖職者からも税を取ろうとしました。しかし教会財産への課税は教皇の許可が必要とされており、教皇ボニファティウス8世は1296年の教皇勅書「クレリキス・ライコス」で、聖俗の君主が教皇の許可なく聖職者に課税することを禁じました。フィリップ4世はこれに対して金銀の国外持ち出しを禁じる報復措置を取り、教皇は譲歩せざるを得なくなりましたが、対立の根は消えませんでした。

「ウナム・サンクタム」と対立の頂点

1301年、フィリップ4世がフランス人司教を国家反逆罪で逮捕・裁判にかけると、教皇ボニファティウス8世は強く抗議しました。こうした対立の高まりを受けて、フィリップ4世は同年4月に三部会を召集し、国内世論を掌握して教皇への対抗姿勢を固めました。その後の1302年11月、教皇は「ウナム・サンクタム」という教皇勅書を発布し、「すべての人間の魂は救済のために教皇に従属しなければならない」と、教皇の至上権を史上もっとも強硬な形で宣言し、対立はいっそう激化しました。

三部会の構成と議決の仕組み

三部会は聖職者の第一身分、世俗貴族の第二身分、都市の富裕市民を中心とした平民の第三身分という三つの身分の代表によって構成されました。議決は身分ごとに行われ、各身分が1票を持つため多数決で2対1が生じやすく、第一・第二身分が結束すれば第三身分の意向は常に退けられる構造でした。また、三部会には定期的な開催義務がなく、あくまで国王の都合で召集・閉会が決まる点でもイギリスの議会とは性格が大きく異なりました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

三身分代表の全国会議

≒ 国民を代表する議会に相当するが、性格は大きく異なる

聖職者・貴族・平民の代表を一堂に集めたフランス初の全国的な会議。ただし王権を制限するためではなく、王が国内支持を示すための政治的装置として機能した。

身分ごとの議決制度

≒ 「1人1票」ではなく「1身分1票」の仕組み

各身分が1票を持つため、第一・第二身分で連合すれば第三身分(人口の大多数を占める)が常に数の上で負ける構造だった。この不平等が1789年の革命の火種ともなった。

王権強化の道具としての三部会

≒ 政府が「民意の支持」を演出する手法の元祖

三部会は王権を制限する機関ではなく、王が教皇・国内貴族・外国君主に対して「国民が支持している」と示すための装置だった。定期開催の義務がなく、王の都合で呼びつけられるものだった。

前後のできごと
年表
1285
フィリップ4世即位フィリップ4世(端麗王)がフランス王に即位。中央集権化政策を推進。
1296
「クレリキス・ライコス」発布教皇ボニファティウス8世が教皇勅書を発布し、教皇の許可なく聖職者への課税を禁じる。フィリップ4世は対抗措置として金銀の国外持ち出しを禁止。
1301
司教の逮捕フィリップ4世がフランス人司教パミエのベルナール・セセを国家反逆罪で逮捕・裁判にかける。教皇が強く抗議。
1302
三部会の初招集4月、フィリップ4世がパリで最初の全国三部会を招集。教皇への対抗姿勢を示すため国内支持を取りつける。
1302
「ウナム・サンクタム」発布11月、教皇ボニファティウス8世が教皇の至上権を主張する勅書「ウナム・サンクタム」を発布。
1303
アナーニ事件フィリップ4世の側近ギヨーム・ド・ノガレが率いる一団が、イタリアのアナーニで教皇ボニファティウス8世を拘束する。教皇は数週間後に死去。
1305
教皇のアヴィニョン移転(への布石)フランス人のクレメンス5世が教皇に選出。後に教皇庁がアヴィニョンに移転し(1309年)、「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれる時代が始まる。
1614
三部会の長期停止1614年の三部会を最後に、以後175年間にわたって招集されなくなる。
1789
三部会の再招集と革命財政危機に瀕したルイ16世が三部会を再招集。第三身分の代表が「国民議会」を宣言し、フランス革命の幕が開く。
結果とその後
結果
フランス国内の三身分が国王を支持する姿勢を明確にし、フィリップ4世は教皇との対立において有利な立場を確保した。翌1303年のアナーニ事件を経て、教皇権の権威は大きく傷つき、中世的な「教皇vs国王」の権力構造に転換点が訪れた。
三部会はイギリスの議会とは異なり、王権を制限する機能を持たなかった。定期召集の義務もなく、王の政治的都合に従って利用される存在であり続けた。1789年の再招集が予期せず革命の引き金になったのは、それまでの175年間に凍結されていた第三身分の不満が一気に噴出したためである。
登場人物
人物

フィリップ4世(端麗王)

フランス王(在位1285〜1314年)

美貌から「端麗王(ル・ベル)」と呼ばれた。官僚制を整備して王権強化を推進し、教皇権に正面から挑んだ。三部会の召集やアナーニ事件など、中世ヨーロッパの権力構造を変えた君主。

ボニファティウス8世

ローマ教皇(在位1294〜1303年)

「ウナム・サンクタム」を発布して教皇の至上権を強硬に主張した教皇。アナーニ事件でフィリップ4世の側近に拘束され、その約1か月後に死去。

ギヨーム・ド・ノガレ

フランス王フィリップ4世の側近・法律家

アナーニ事件でボニファティウス8世の拘束を主導した人物。法律家出身の官僚として王権強化を支えた。

クレメンス5世

フランス人教皇(在位1305〜1314年)

フランス人として初めて教皇となった。教皇庁をフランスのアヴィニョンに移し(1309年)、「教皇のバビロン捕囚」の始まりとなった。

キーワード解説
用語
三部会(エタ・ジェネロー)
フランス語では「États généraux(エタ・ジェネロー)」。聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民(第三身分)の代表が集まるフランスの身分制議会。1302年に初めて全国規模で招集された。
第三身分
三部会における聖職者・貴族以外の一般市民層の呼称。農民・手工業者・商人・法律家など人口の大多数を占めたが、三部会では1票しか与えられず、構造的に不利な立場に置かれていた。
ウナム・サンクタム
1302年にボニファティウス8世が発布した教皇勅書。「唯一の聖なる(教会)」を意味し、すべての人間の魂の救済は教皇への服従によるとして、教皇の至上権を史上最も強硬に主張したもの。
アナーニ事件
1303年、フィリップ4世の側近が率いる一団がイタリアのアナーニで教皇ボニファティウス8世を拘束した事件。教皇はその後まもなく死去し、中世的な教皇権威の象徴的な失墜として歴史に刻まれている。
教皇のバビロン捕囚
1309年から1377年にかけて教皇庁がローマからフランスのアヴィニョンに移転していた時代を指す。古代ユダヤのバビロン捕囚にちなんだ呼び名で、教皇がフランス王権の影響下に置かれたことを示す。
もっと知りたい
豆知識

1「三部会」はフィリップ4世が目の前の問題を解決するために作った

最初の全国三部会の目的は「国民の声を政治に反映させる」ことではなく、教皇ボニファティウス8世に対抗するために国内の三身分の支持を見せつけることだった。言い換えれば、三部会は議会制民主主義の産物ではなく、フィリップ4世の巧みな政治戦略の産物だったのである。

2三部会は一度も「王の意向を否定」できなかった

三部会は国王が召集を決め、議題も国王が設定し、開会も閉会も国王の判断で行われた。「第三身分が2対1で負ける」構造も含め、実質的に王の政策を追認する機関であることが多かった。これはイギリス議会が王権を制限していく方向に発展したのとは対照的である。

3アナーニ事件は「教皇のビンタ」という伝説が残る

アナーニ事件の際、拘束された教皇ボニファティウス8世は侮辱を受けたとされ、鉄の手袋でビンタされたという伝説が後世に広まった。ただしこの「鉄手袋のビンタ」については史料上の根拠が薄く、後から付け加えられた誇張とする歴史家が多い。

4175年間、三部会は開かれなかった

1614年の三部会を最後に、フランス革命前夜の1789年まで実に175年にわたって三部会は一度も招集されなかった。絶対王政の時代、国王は三部会を必要としなかったからである。1789年の再召集が歴史を大きく動かすことになるのは、まさにこの長い空白のためだった。

5第三身分の票は「1票」でも人口の95%を代表していた

三部会の議決では各身分が1票を持つため、第三身分は形式上は聖職者や貴族と対等に見えた。しかし聖職者・貴族を合わせても人口の5%程度に過ぎず、第三身分は残り約95%の人々を代表しながら、常に2対1で否決される立場に置かれていた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1302年。語呂は「勲二(1302)三部会」。
招集したのはフランス王フィリップ4世(端麗王)。目的は教皇ボニファティウス8世への対抗に向けた国内支持の確保。
構成:第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)・第三身分(平民・市民)。議決は身分ごとに1票。
イギリスの議会とは異なり、三部会は王権を制限せず王権に従属的な性格を持つ点が試験頻出の対比ポイント。
翌1303年のアナーニ事件(教皇ボニファティウス8世の拘束)とのつながりを押さえる。
1789年の再召集→第三身分による国民議会宣言→フランス革命という流れと関連づけて記憶すること。
語呂クイズ
「勲二(1302)三部会」= フランスで最初の三部会が招集されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 三部会とはどのような会議ですか?
A. フランスの聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民=市民(第三身分)の代表が集まる身分制の全国会議です。1302年にフランス王フィリップ4世が初めて全国規模で招集しました。
Q. なぜフィリップ4世は三部会を招集したのですか?
A. 聖職者への課税問題をきっかけにローマ教皇ボニファティウス8世と激しく対立しており、国内の三身分の支持を公に示すことで教皇に対抗するための正当性を確保しようとしたためです。
Q. 三部会はイギリスの議会と何が違うのですか?
A. イギリスの議会は次第に王権を制限する方向に発展しましたが、フランスの三部会は定期開催の義務がなく、議題も召集も国王が決めるなど王権に従属的な性格が強い点が大きな違いです。
Q. 三部会の議決はどのように行われましたか?
A. 各身分が1票を持つ方式で行われました。第一身分と第二身分が組めば第三身分は常に2対1で否決される構造で、人口の大多数を占める第三身分の意向が反映されにくい仕組みでした。
Q. 1302年の三部会とフランス革命はどう関係しますか?
A. 直接の関係はありませんが、1789年にルイ16世が財政危機を打開するために三部会を再招集したことが、第三身分による国民議会の結成を招き、フランス革命の出発点となりました。175年ぶりの召集に第三身分の不満が爆発したのです。
まとめ

1302年の三部会は、中世ヨーロッパの王権と教皇権の壮絶な衝突の中で生まれた政治的産物です。フィリップ4世は三部会を使って教皇に対抗する国内支持を演出し、翌年のアナーニ事件で教皇を事実上打倒しました。三部会は王権を制限するものではなく、むしろ王権を支える道具として機能した点がイギリスの議会との決定的な違いです。しかし約487年後の1789年(1614年以来175年ぶり)、同じ三部会が再召集されたとき、第三身分の代表たちは「国民議会」を宣言し、フランス革命の幕を開けました。「勲二(1302)三部会」の語呂とともに、中世フランスの権力政治と近代革命をつなぐ節点として押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
1302年の三部会の正確な日付については諸説あるが、一般に「1302年4月10日」とされる。本文では「1302年」とのみ記述し、日付の断定は避けた。
アナーニ事件の「鉄手袋のビンタ」伝説は後世の誇張とする歴史家が多いため、trivia 欄にてその旨を注記した。
三部会の招集動機については「国内支持の確保のため」という通説に従ったが、軍事・財政上の必要性を強調する見解もあり、いずれか一方の断定は避けた。
教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚、1309〜1377年)はフィリップ4世の後継者の時代の出来事であるが、本事件の流れを受けた重要な結果として timeline に含めた。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1215-magna-carta・1789-french-revolution を記載。存在しない場合は削除すること。