高校/政治
1215
イギリスでマグナ・カルタが定められる
ジョン王(イングランド王)
語呂
覚え方
人に意固地(1215)なマグナ・カルタ
ひにいご(1215)マグナ・カルタ
1215年、イングランド王ジョンは反乱を起こした貴族たちに屈し、「マグナ・カルタ(大憲章)」と呼ばれる文書を承認し、印章で封印しました。その内容は「国王といえども法に従う」「不当な課税には貴族の同意が必要」「自由人は適正な法によらずに逮捕・財産没収されない」など63か条に及ぶものです。当時はあくまで王と貴族の間の取り決めでしたが、後の世に立憲主義・議会政治・人権思想の源流の一つとして評価されるようになり、今日に至るまで英米法の精神的な礎とみなされています。
この記事のポイント 1215年、ジョン王が反乱貴族の要求に応じてマグナ・カルタ(大憲章)を承認 「王も法に従う」「不当な課税には貴族の同意が必要」など63か条を明文化 当初は貴族の特権を守るための文書であり、民衆全体の権利を保障するものではなかった ジョン王は後に教皇に無効を申請し、内戦(第一次男爵戦争)に発展 後世の立憲主義・議会政治・人権思想の源流の一つとして再評価され、英米法に深く影響した
ここが面白い 「王様も法律に従わなければならない」――この当たり前に見えるルールを、ヨーロッパの王が初めて文書で認めたのが1215年のことだった。
マグナ・カルタは突然生まれたわけではありません。イングランドの王権と貴族の緊張関係、そしてジョン王の度重なる失政という積み重ねの末に生まれた文書です。その背景を順に見ていきましょう。
ジョン王「欠地王」の失政 ジョン王(在位1199〜1216年)は、兄リチャード1世(獅子心王)から王位を継ぎましたが、1204年にフランス王フィリップ2世との戦いに敗れ、ノルマンディーなど大陸の領地の大部分を失いました。このため「欠地王(Lackland)」と呼ばれます。失地回復のために度重なる遠征費用を貴族に課税し、怨恨を買いました。
教皇との対立と破門 ジョン王はカンタベリー大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と対立し、1209年に破門されました。さらにイングランド全土に聖務禁止令が出されて教会の礼拝が停止される異常事態に。1213年に王は教皇に屈服しましたが、これも王の権威を大きく傷つけました。
ブーヴィーヌの戦いと内乱の危機 1214年のブーヴィーヌの戦いで、ジョン王はフランスへの反攻にも失敗。これを機に貴族たちは公然と反乱を計画し、1215年5月にロンドンを占拠しました。王は交渉に応じざるを得ず、6月にランニミードでマグナ・カルタに封印しました。
マグナ・カルタの主な内容 全63か条からなる文書の核心は「法の支配」の確認にあります。主な内容として、自由人は適正な裁判によらずして逮捕・財産没収されないこと(第39条)、封建的な臨時課税には貴族の同意(「大評議会」の承認)が必要なこと(第12条)などが挙げられます。ただし「自由人」とは当時の貴族・聖職者・自由農民を指し、農奴や一般庶民の大部分は対象外でした。
「王も法に従う」を文書で確認 ≒ 憲法で権力者の行動を縛るルール 「法の支配」の原則を王が自ら文書で認めた点が画期的。これ以前は王の意志が最高権威とされてきた。
課税には同意が必要 ≒ 「増税するなら議会で決めてから」という仕組みの原点 封建的な臨時課税は大評議会(貴族・聖職者の会議)の承認なしに行えないと定めた。後の議会制民主主義の原型とされる。
不当逮捕の禁止(第39条) ≒ 令状なしに逮捕できない「適正手続き」の考え方 「自由人は、法の正当な裁判によらずして逮捕・監禁・財産没収・法外追放・危害を加えられない」と定めた。後世の人身保護法(ハビアス・コーパス)の源流とされる。
1204 ノルマンディー喪失 フランス王フィリップ2世にノルマンディーなどの大陸領地を奪われる(「欠地王」の由来)。
1209 破門 教皇インノケンティウス3世にジョン王が破門される。聖務禁止令でイングランドの教会活動が停止。
1213 教皇に屈服 ジョン王が教皇に謝罪・服従し、破門を解かれる。
1214 ブーヴィーヌの敗戦 フランスへの反攻作戦が失敗。貴族の反乱機運が高まる。
1215 マグナ・カルタ承認 6月15日ごろ、ランニミードでジョン王がマグナ・カルタに封印。
1216 ジョン王死去 内戦(第一次男爵戦争)中にジョン王が病死。幼い息子ヘンリー3世が即位し、摂政がマグナ・カルタを再発行。
1225 公式再発行 ヘンリー3世が成人後に正式に再確認・再発行。以後、修正を重ねながら基本法として定着。
1628 権利の請願 マグナ・カルタを根拠の一つとして、イングランド議会が国王に「権利の請願」を提出。
1679 人身保護法 マグナ・カルタ第39条の精神を具体化した人身保護法(ハビアス・コーパス法)がイングランドで制定。
◎ 「王も法に従う」という法の支配の原則が文書として確立され、後の立憲主義・議会政治・人権思想の源流の一つとなった。
△ ジョン王は署名直後から無効を教皇に訴え、内戦が続いた。当初の文書は貴族の特権保護が主目的であり、一般庶民には直接恩恵がなかった点に注意。近代的な人権宣言と同一視するのは後世の読み込みによる部分が大きい。
ジョン王 イングランド王(在位1199〜1216年) ノルマンディー喪失から「欠地王」と呼ばれた。失政と重税で貴族の反乱を招き、マグナ・カルタを承認するが、後に無効を申請して内戦へ。
インノケンティウス3世 ローマ教皇 ジョン王を破門した教皇。マグナ・カルタ承認後、ジョン王の申請を受けて同文書を「不法・不正・有害」として無効宣言した。
スティーブン・ラントン カンタベリー大司教 任命をめぐりジョン王と教皇の対立の引き金となった人物。後にマグナ・カルタ交渉の仲介者の一人でもあったとされる。
ヘンリー3世 ジョン王の息子・次代のイングランド王 父ジョン王の死後、幼くして即位。摂政ウィリアム・マーシャルがマグナ・カルタを再発行し、文書を定着させた。
マグナ・カルタ ラテン語で「大憲章」の意味。1215年にジョン王が承認した全63か条の文書。封建的な権利関係を定めたものだが、後世に立憲主義の源流として評価された。
法の支配 権力者であっても法の上には立てず、法に従わなければならないという原則。マグナ・カルタはその早期の文書的表明の一つとされる。
封建制度 国王が貴族(諸侯)に土地(封土)を与え、貴族は代わりに軍役や税を納める主従関係を基盤とした中世ヨーロッパの社会制度。
ハビアス・コーパス(人身保護令状) 「その身体を提出せよ」を意味するラテン語。不当な拘束に対して釈放を求める法的手続きで、マグナ・カルタ第39条の精神を引き継ぐ。1679年にイングランドで法制化。
大評議会 中世イングランドで国王が重大事項を諮る際に招集した高位聖職者・有力貴族の会議。後の議会(パーラメント)の原型とされる。
1 現存するのは4通だけ1215年に作成されたマグナ・カルタの原本は複数部作成されたとされるが、現在確認されているのは4通のみ。うち2通は大英図書館、1通はリンカーン大聖堂、1通はソールズベリー大聖堂が所蔵している。
2 封印した日付は「6月15日」ではないとする説があるマグナ・カルタが封印された日については諸説あり、正確な日付は不明とする歴史家もいる。ただし「1215年6月(ランニミードでの合意)」という大枠は史料で裏付けられている。
3 ジョン王は署名してすぐ無効を申請した封印からわずか数週間後、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に文書の無効を訴え、教皇はこれを認めた。これを機に第一次男爵戦争(1215〜1217年)が起きた。マグナ・カルタが定着したのはその後の再発行を経てからのことである。
4 アメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも影響17〜18世紀のイギリスの政治思想家ジョン・ロックはマグナ・カルタの精神を自然権論として発展させ、その思想がアメリカ独立宣言(1776年)やフランス人権宣言(1789年)に影響したとされる。
5 「自由人」は人口のごく一部だったマグナ・カルタが保護する「自由人(free men)」は、当時のイングランド人口の大部分を占めた農奴(villeins)を含まなかった。その意味で当時の文書は農民の権利とは無関係であり、貴族・聖職者層の特権的な文書だったことを押さえておく必要がある。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1215年。語呂は「人に意固地(1215)なマグナ・カルタ」。
承認したのはイングランド王ジョン王(欠地王とも呼ばれる)。
内容の核心:①法の支配(王も法に従う)、②課税には大評議会の同意が必要、③自由人は適正な裁判によらずに逮捕されない(第39条)。
当時は貴族の権利擁護が主目的であり、農奴・庶民は直接の対象外であった点に注意。
後の人身保護法(1679年)・権利の請願(1628年)・権利章典(1689年)・アメリカ独立宣言(1776年)などへの影響が問われることがある。
語呂クイズ
「人に意固地(1215)なマグナ・カルタ」= イギリスでマグナ・カルタが定められるは西暦何年?
1096 1215 1241
Q. マグナ・カルタとはどういう意味ですか? A. ラテン語で「大憲章」を意味します。1215年にイングランド王ジョンが貴族たちの要求に応じて承認した、全63か条からなる文書です。
Q. なぜジョン王はマグナ・カルタに署名したのですか? A. フランスとの戦争での失政や重税、教皇との対立などが重なり、怒った貴族たちがロンドンを占拠して反乱を起こしたためです。交渉に応じざるを得ない状況に追い込まれた王が承認しました。
Q. マグナ・カルタはすべての人の権利を守るものでしたか? A. いいえ。当時の文書が保護する「自由人」は、主に貴族・聖職者・一部の自由農民を指しており、人口の大部分を占める農奴や庶民は直接の対象外でした。民主主義的な人権宣言として広く解釈されるようになったのは後世のことです。
Q. マグナ・カルタはその後もずっと有効でしたか? A. ジョン王は承認後すぐに教皇に無効を申し入れ、内戦になりました。しかし次の王ヘンリー3世の時代に再発行され、修正を重ねながら基本法として定着していきました。
Q. マグナ・カルタと議会の関係は何ですか? A. 第12条が「封建的な臨時課税は大評議会(有力貴族・高位聖職者の会議)の同意なしに課せない」と定めており、この「同意原則」が後の議会制度の原型になったとされています。
マグナ・カルタは、「王様も法律に従わなければならない」という原則を、ヨーロッパで初めて文書として確認させた画期的な出来事です。当時はあくまで貴族たちが自分たちの特権を守るために王に迫ったものでしたが、その後の歴史の中で繰り返し参照され、立憲主義・議会政治・人権思想の源流の一つとして世界史に刻まれるようになりました。「人に意固地(1215)なマグナ・カルタ」の語呂とともに、法の支配という考え方の出発点として押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト) 「6月15日承認」という日付は通説として広く使われるが、正確な日付については異論もあるため断定を避けた表現を用いている。 マグナ・カルタを「近代的人権宣言」と同一視する表現は不正確のため、「源流の一つ」「後世の評価」として記述した。 「自由人」の範囲についての注記(農奴除外)は、中学生向けの説明として重要なため複数箇所で触れた。 related は世界史サイト内の実在IDとして 1776-us-independence・1789-french-revolution を記載。存在しない場合は削除すること。 people フィールドのスティーブン・ラントンの項は「仲介者であったとされる」という表現にとどめた(史料上の扱いに諸説あるため)。