高校/戦争
1258
モンゴルがアッバース朝を滅ぼす(バグダード陥落)
フレグ(モンゴル)/最後のカリフ
語呂
覚え方
一二後は(いにごは)なし(1258)アッバース朝滅亡
いにごは(1258)アッバース朝滅亡
1258年、モンゴル帝国の将軍フレグ(フラグ)は大軍を率いてアッバース朝の都バグダードを包囲・攻略しました。最後のカリフ、ムスタアスィムは処刑され、750年から続いたアッバース朝は滅亡しました。バグダードの街は徹底的に破壊され、学問の中心地「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」をはじめとする無数の図書館や文化施設が失われました。カリフという「イスラームの指導者」の権威は事実上消滅し、イスラーム世界は深刻な政治的・精神的打撃を受けました。この事件はモンゴルの西アジア支配(イル・ハン国の成立)という新局面を開くとともに、イスラーム世界の重心がエジプト・マムルーク朝へと移る転換点ともなりました。
この記事のポイント
- 1258年、モンゴルのフレグがバグダードを攻略し、アッバース朝を滅ぼした
- 最後のカリフ(ムスタアスィム)が処刑され、750年続いたアッバース朝が終焉を迎えた
- 学問の中心「知恵の館」など多くの文化施設が破壊され、イスラーム文化に壊滅的打撃を与えた
- フレグはこの地にイル・ハン国を建てて西アジアに君臨した
- カリフの権威はその後マムルーク朝の保護下でカイロに名目的に引き継がれた
ここが面白い「知恵の館」と呼ばれた世界最大の図書館が炎に包まれ、ティグリス川が墨で黒く染まった――1258年、モンゴルの大軍がバグダードを蹂躙したとき、500年続いたイスラーム世界の秩序が一夜にして崩れ去った。
バグダード陥落は突然起きたわけではありません。モンゴル帝国の急速な膨張と、アッバース朝の長年にわたる弱体化という二つの流れが交差した結果です。その背景を順に見ていきましょう。
アッバース朝の栄光と衰退
アッバース朝は750年に成立し、8〜9世紀のハールーン・アッラシード、マアムーンらの治世に全盛期を迎えました。バグダードはユーラシア最大の都市として繁栄し、「知恵の館」にはギリシャ・ペルシャ・インドの学術書が集められ、数学・天文学・医学が発展しました。しかし10世紀以降、軍人勢力(ブワイフ朝・セルジューク朝など)がカリフを傀儡にして実権を握り、アッバース朝は宗教的権威の象徴に留まるようになっていました。
モンゴル帝国の西方膨張
チンギス・ハンが建てたモンゴル帝国は13世紀に猛烈な勢いでユーラシアを席巻しました。チンギス・ハンの孫の世代には帝国はさらに分割・拡大し、フレグはモンゴル帝国の第4代大ハン・モンケ・ハンの弟として、兄の命令で西アジア遠征軍の司令官に任命されました。1256年にはイスマイール派の拠点アラムートを攻略するなど、着々とイスラーム世界への侵攻を進めていました。
バグダード包囲と陥落
1257年、フレグはアッバース朝カリフ・ムスタアスィムに服従と協力を求めましたが、カリフはこれを拒否しました。1258年1月、フレグの大軍はバグダードを包囲し、2月10日に城壁を突破しました。13日間の略奪と虐殺が続き、都市のほぼすべての建造物が破壊されました。カリフ・ムスタアスィムは処刑され、500年以上続いたアッバース朝は滅亡しました。
イル・ハン国の成立とその後
フレグはバグダード征服後もさらに西方へ進軍しましたが、1260年のアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝に敗北し、モンゴルの西への膨張はここで止まりました。フレグは西アジアを支配するイル・ハン国を建てました。一方でアッバース朝の残存した一族はエジプトのマムルーク朝に保護され、カイロで名目的なカリフとして続きましたが、もはや政治的実権はありませんでした。
アッバース朝の滅亡
≒ 500年続いた政治・宗教の中心が一夜で消えた出来事750年に成立したアッバース朝が1258年に滅亡。カリフという「イスラームの指導者」の権威が事実上消滅し、イスラーム世界に深刻な精神的打撃を与えた。
知恵の館の破壊
≒ 世界最大の図書館と学術センターが失われたバグダードの「知恵の館(バイト・アルヒクマ)」はギリシャ・ペルシャ・インドなどの学術を集積した当時最高の学問施設だった。その蔵書の多くがモンゴル軍により破壊・散逸し、中世イスラーム文明の集積が失われた。
イル・ハン国の成立
≒ モンゴル系の新王朝が中東を支配フレグはバグダードを拠点にイル・ハン国を建て、ペルシャ・イラク・アナトリアを支配した。後にイル・ハン国のハンたちはイスラームに改宗し、イスラーム文化と融合していった。
750アッバース朝成立ウマイヤ朝を倒し、アッバース朝が成立。バグダードを都として栄えた。
830知恵の館の全盛カリフ・マアムーンの時代、バグダードの知恵の館が最盛期を迎え、ギリシャ語文献の翻訳・研究が盛んに行われた。
1206モンゴル帝国成立チンギス・ハンがモンゴルを統一し、モンゴル帝国を建国。急速な西方拡大が始まる。
1251モンケ・ハン即位第4代大ハンに即位したモンケが弟フレグに西アジア遠征を命じる。
1256アラムート攻略フレグ軍がイスマイール派の拠点アラムート要塞を陥落させる。バグダードへの圧力が高まる。
1257服従要求を拒否フレグがアッバース朝カリフ・ムスタアスィムに服従を要求するが、カリフはこれを拒絶する。
1258バグダード陥落1月から包囲を開始し、2月10日に城壁を突破。約13日間にわたる略奪・虐殺が行われ、カリフ・ムスタアスィムが処刑された。アッバース朝滅亡。
1260アイン・ジャールートの戦いマムルーク朝がモンゴル軍を初めて大規模に撃退し、モンゴルの西方進出が停止された。
1261カイロにカリフ再建マムルーク朝がアッバース朝の遺族をカイロに迎え、名目的なカリフとして擁立した。
1295イル・ハン国のイスラーム改宗イル・ハン国のハン・ガザンがイスラームに改宗し、モンゴル支配とイスラーム文化の融合が進む。
◎モンゴル支配を経て成立したイル・ハン国はやがてイスラームに改宗し、ペルシャ文化・イスラーム文化との融合が進んだ。また、この激変がイスラーム世界の重心をエジプト・マムルーク朝に移す契機となり、同朝はモンゴルを撃退して西アジアのイスラーム文化を守る役割を担った。
△バグダード陥落の死者数や被害規模については史料によって大きな差があり、誇張された記述も多い点に注意が必要。また「知恵の館」の正確な規模・機能・滅亡の様子についても諸説あり、断定的な表現は避けることが望ましい。
フレグ(フラグ)
モンゴル帝国の将軍・イル・ハン国初代ハンチンギス・ハンの孫で、第4代大ハン・モンケの弟。兄の命でイスラーム世界への遠征を指揮し、1258年にバグダードを攻略した。その後イル・ハン国を建て、西アジアを支配した。
ムスタアスィム
アッバース朝最後のカリフ(在位1242〜1258年)フレグの服従要求を拒絶し、バグダード防衛を選択。陥落後に処刑され、750年続いたアッバース朝の最後のカリフとなった。
モンケ・ハン
モンゴル帝国第4代大ハンチンギス・ハンの孫。弟フレグに西アジア遠征を命じ、アッバース朝滅亡の遠因を作った人物。1259年に中国遠征中に死去し、帝国の分裂が加速した。
バイバルス
マムルーク朝の将軍・後のスルタン1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退した立役者。同年にスルタンとなり、カイロに名目的なアッバース朝カリフを擁立してマムルーク朝の権威付けに利用した。
- アッバース朝
- 750年にウマイヤ朝を倒して成立したイスラームの王朝。バグダードを都とし、8〜9世紀に全盛期を迎えた。1258年にモンゴル軍によって滅ぼされた。
- カリフ
- イスラーム共同体の指導者を指す称号。預言者ムハンマドの後継者を意味する。アッバース朝の滅亡後、カリフの政治的実権は事実上消滅した。
- 知恵の館(バイト・アルヒクマ)
- バグダードに置かれたイスラーム世界最大の学術施設。ギリシャ・ペルシャ・インドなどの文献を翻訳・研究し、中世イスラーム文明の発展を支えた。1258年の陥落で大きな損害を受けた。
- イル・ハン国
- フレグが1258年以降に西アジアに建てたモンゴル系王朝。現在のイラン・イラク・アナトリア周辺を支配した。後にイスラームに改宗しペルシャ文化と融合した。
- マムルーク朝
- エジプトを中心とした軍人奴隷(マムルーク)出身者が建てたイスラーム王朝。1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴルを撃退し、バグダード滅亡後のイスラーム世界の守護者となった。
1ティグリス川が墨で黒く染まったという伝説
バグダード陥落後、モンゴル軍が図書館の書物をティグリス川に投げ込んだため川が墨で黒く染まったという話が伝わっている。この伝説はイスラーム文化の壊滅的な喪失を象徴するものとして語り継がれてきたが、史料によって表現の違いがあり、誇張も含まれるとする研究者もいる。
2カリフは「絨毯に包まれて」処刑された?
カリフ・ムスタアスィムの処刑方法については、血を地に流すことを嫌うモンゴルの習慣から絨毯に包んで踏み殺したとも、縫い込んで溺死させたとも言い伝えられている。ただし複数の史料で記述が異なり、正確な方法は不明とされている。
3モンゴル軍には多くのキリスト教徒が参加していた
フレグの妻ドクズ・ハトゥンはネストリウス派キリスト教徒であり、遠征軍にはアルメニア人やシリア人キリスト教徒も加わっていた。そのためバグダード陥落はキリスト教世界の一部で「十字軍の代わりにモンゴルがイスラームを倒した」と歓迎する声もあったとされる。
4アイン・ジャールートの戦いが歴史の分岐点
1260年、マムルーク朝スルタン・クトゥズとバイバルスが率いるエジプト軍は、パレスティナのアイン・ジャールートでモンゴル軍を撃退した。これはモンゴルが本格的な大軍に初めて大敗した戦いとされ、モンゴルの西への膨張がここで止まった。もしこの戦いに勝っていれば、モンゴルはアフリカや欧州へもさらに進んでいた可能性がある。
5「バグダード陥落の死者数」には大きな諸説がある
バグダードの死者数については、イスラーム側の史料で80万人から200万人以上と記すものがある一方、現代の歴史家は人口規模から見てそこまでの数値は誇張が大きいと指摘することが多い。実際の数は不明ながら、甚大な被害であったことには変わりない。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1258年。語呂は「一二後は(いにごは)なし(1258)アッバース朝滅亡」。
攻略したのはモンゴル帝国のフレグ(チンギス・ハンの孫、モンケ・ハンの弟)。
滅亡した王朝はアッバース朝(750年成立、都はバグダード)。カリフ・ムスタアスィムが最後のカリフとなった。
フレグはこの後イル・ハン国を建て、西アジアを支配した。
1260年のアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝がモンゴルを撃退したことも頻出。カリフはカイロで名目的に存続した点も押さえておく。
語呂クイズ
「一二後は(いにごは)なし(1258)アッバース朝滅亡」= モンゴルがアッバース朝を滅ぼす(バグダード陥落)は西暦何年?
- Q. アッバース朝はいつ成立し、どのように栄えましたか?
- A. 750年にウマイヤ朝を倒して成立しました。バグダードを都として8〜9世紀に全盛期を迎え、「知恵の館」を中心に数学・天文学・医学などが発展し、イスラーム文明の黄金時代を築きました。
- Q. なぜアッバース朝はモンゴルに滅ぼされたのですか?
- A. アッバース朝は10世紀以降すでに政治的実権を失い、軍事力が弱体化していました。カリフがフレグの服従要求を拒絶したことで開戦となりましたが、圧倒的な兵力差の前に防衛できませんでした。
- Q. フレグとはどのような人物ですか?
- A. チンギス・ハンの孫で、モンゴル帝国第4代大ハン・モンケの弟です。西アジア遠征軍の司令官として派遣され、アッバース朝を滅ぼした後にイル・ハン国を建てて初代ハンとなりました。
- Q. バグダード陥落後、カリフはどうなりましたか?
- A. 最後のカリフ・ムスタアスィムは1258年に処刑されました。その後、アッバース朝の遺族がエジプトのマムルーク朝に保護され、カイロで名目的なカリフとして擁立されましたが、政治的実権はありませんでした。
- Q. モンゴルのイスラーム世界侵攻はバグダードで終わったのですか?
- A. いいえ。フレグはさらに西へ進軍しましたが、1260年のアイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝に敗北し、モンゴルの西方膨張はここで停止しました。イル・ハン国はその後イスラームに改宗し、中東の一勢力として定着していきました。
1258年のバグダード陥落は、750年にわたって続いたアッバース朝の終焉であり、イスラーム世界にとって計り知れない衝撃でした。カリフという精神的な支柱が失われ、世界最高の学術拠点が灰燼に帰したこの出来事は、中世イスラーム文明の大きな転換点となりました。一方でモンゴルは西アジアにイル・ハン国を建て、やがてイスラームに改宗して地域の文化と融合していきます。「一二後は(いにごは)なし(1258)アッバース朝滅亡」の語呂とともに、フレグによるアッバース朝滅亡とその後のイスラーム世界の変容をしっかり押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
死者数・被害規模については史料によって大きな差があるため、断定的な数値は避けた表現を用いた。
知恵の館の破壊については諸説あり、規模や正確な経緯が不明な部分もあることを念頭に執筆した。
カリフの処刑方法については複数の伝説があるため、trivia内での紹介に留め、本文では詳細を断定しなかった。
アイン・ジャールートの戦い(1260年)は受験頻出のため、timeline・exam_points・faqに組み込んだ。
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