高校/戦争
1291
アッコンが陥落し十字軍運動が終わる
マムルーク朝/十字軍
語呂
覚え方
一二悔い(いにくい)(1291)十字軍の終わり
いにくい(1291)アッコン陥落
1291年5月、エジプトを支配するマムルーク朝の軍がシリア沿岸の港湾都市アッコン(現在のイスラエル北部、アッコ)を攻め落としました。アッコンは十字軍がパレスチナ・シリアに築いた最後の主要拠点であり、ここを失ったことで、1096年の第1回十字軍以来約200年にわたって続いてきた十字軍運動は事実上の終焉を迎えました。テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)をはじめとする十字軍諸勢力はキプロス島などへ撤退し、聖地エルサレム周辺にヨーロッパ系勢力の拠点はなくなりました。この出来事はキリスト教世界に大きな衝撃を与えるとともに、東方貿易や文化交流を通じて西ヨーロッパの歴史にも長く影を落としました。
この記事のポイント
- 1291年、マムルーク朝がアッコンを陥落させ、十字軍最後の主要拠点が失われた
- 1096年の第1回十字軍から数えて約200年間続いた十字軍運動が事実上終了した
- テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団などの騎士修道会もアッコンから撤退を余儀なくされた
- 十字軍は聖地エルサレムの奪回という最終目標を達成できないまま終わった
- 一方、東方との接触はイタリア商人による地中海貿易を発展させ、ルネサンスの遠因ともなった
ここが面白い「聖地を取り戻せ」という掛け声のもとに始まった十字軍運動。しかし約200年の戦いの末、ヨーロッパ勢力は中東の最後の拠点を失い、ついに夢は潰えた。
アッコン陥落は突然の出来事ではありません。200年に及ぶ十字軍の歴史と、13世紀のマムルーク朝台頭という流れの中で生まれた必然でした。その経緯を順に見ていきましょう。
十字軍運動の始まりとエルサレム占領
1095年、教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で聖地奪回を呼びかけ、1096年に第1回十字軍が出発しました。1099年、十字軍はエルサレムを占領し、エルサレム王国をはじめとする「十字軍国家」をシリア・パレスチナ沿岸に建設しました。しかし内陸部はイスラーム勢力が支配しており、十字軍国家は常に不安定な存在でした。
エルサレム再喪失とアッコンへの撤退
1187年、アイユーブ朝のサラディン(サラーフ・アッディーン)がハッティンの戦いで十字軍を大敗させ、エルサレムを奪回しました。第3回十字軍(1189〜1192年)でイングランド王リチャード1世(獅子心王)らが遠征しましたが、エルサレム奪還は果たせず。アッコンを再占領して十字軍勢力の拠点としましたが、聖地の中心エルサレムは手に入りませんでした。
マムルーク朝の台頭と拠点の相次ぐ陥落
13世紀半ば、エジプトでマムルーク(トルコ系奴隷兵士)が政権を握り、マムルーク朝が成立しました。1260年のアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破り、その軍事力を誇示したマムルーク朝は、以後シリア・パレスチナの十字軍拠点を次々と攻略。ヤッファ、カイサリア(カエサレア)、アンティオキアなどが陸続と陥落し、アッコンだけが最後の主要拠点として残りました。
アッコン陥落(1291年)
1291年3月、マムルーク朝スルタンのアル・アシュラフ・ハリールが大軍を率いてアッコンを包囲しました。5月18日、城壁が破られ市街に突入。騎士団員や住民の多くが殺害または捕虜となり、生き残った者はキプロス島へ脱出しました。テンプル騎士団の本部も最後まで抵抗しましたが、5月28日に陥落。これをもって十字軍のシリア・パレスチナ拠点はすべて失われました。
十字軍200年の終焉
≒ 長年続いた国際的な軍事遠征の終わり1096年から数えて約200年間にわたって断続的に繰り返された十字軍の歴史が、この一つの都市の陥落によって事実上の終止符を打たれた。
騎士修道会の撤退
≒ 宗教と軍事を兼ねた国際組織の転換点テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団などはアッコンから撤退後、地中海の島々(キプロス・ロドスなど)を拠点に再編された。テンプル騎士団は後にフランス王の弾圧を受けて解散(1312年)した。
東西交流の遺産
≒ 文化・貿易交流が生み出した豊かさ十字軍を通じたイスラーム世界との接触は、ヴェネツィア・ジェノヴァなどイタリア都市の東方貿易を促進し、アラビア語・ギリシア語を経たギリシア古典や自然哲学の西欧への流入を加速させ、ルネサンスの遠因の一つとなった。
1095十字軍呼びかけ教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議で聖地奪回を訴え、第1回十字軍の出発を促す。
1099エルサレム占領第1回十字軍がエルサレムを占領し、エルサレム王国を建設。
1187エルサレム再喪失アイユーブ朝のサラディンがハッティンの戦いで十字軍を大敗させ、エルサレムを奪回。
1191アッコン奪還第3回十字軍でリチャード1世(獅子心王)らがアッコンを奪還。十字軍の新たな拠点となる。
1229エルサレム一時回復神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉によりエルサレムへの一時的な支配権を取得するが、1244年に再び失う。
1260マムルーク朝の台頭マムルーク朝がアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃破し、シリア・パレスチナの覇権を握る。
1268アンティオキア公国滅亡マムルーク朝スルタンのバイバルスがアンティオキアを陥落させ、十字軍国家の一つが滅亡。
1289トリポリ陥落マムルーク朝がトリポリを攻略。残る主要拠点はアッコンのみとなる。
1291アッコン陥落5月18日、マムルーク朝がアッコンを陥落させる。十字軍勢力はキプロスへ撤退し、十字軍運動が事実上終焉。
1312テンプル騎士団解散フランス王フィリップ4世の圧力を受けたヴィエンヌ公会議でテンプル騎士団が解散。アッコン撤退後20年あまりで消滅した。
◎十字軍を通じた東西の接触は、ヴェネツィア・ジェノヴァなどイタリア都市の地中海貿易を大きく発展させ、イスラーム世界を経由したギリシア古典・医学・自然哲学の西欧への再流入を促した。この知的・経済的な刺激はルネサンスの遠因の一つとなり、西欧の歴史に長期的な恩恵をもたらした。
△十字軍は最終目標である聖地エルサレムの奪回を達成できなかった。遠征の過程では現地のキリスト教徒・ユダヤ教徒・ムスリム双方に多大な犠牲を強いた。教皇が呼びかけた聖戦の失敗は教皇権威の低下にも影響し、十字軍を単純に「聖なる戦い」として美化することには注意が必要である。
アル・アシュラフ・ハリール
マムルーク朝スルタン1291年のアッコン攻略を指揮したスルタン。父カラーウーンの遺志を継いで十字軍勢力を一掃した。アッコン陥落の数年後(1293年)に暗殺されている。
サラディン(サラーフ・アッディーン)
アイユーブ朝スルタン1187年にエルサレムをキリスト教勢力から奪回した英雄的指導者。アッコン陥落より100年前の人物だが、十字軍の転落を決定づけた最初の大打撃を与えた人物として十字軍史と不可分。
リチャード1世(獅子心王)
イングランド王・第3回十字軍の指導者1191年にアッコンを奪還し、十字軍の拠点として確保した。エルサレム再奪回は果たせなかったが、アッコンを最後の拠点として遺した人物でもある。
テンプル騎士団
十字軍を支えた騎士修道会アッコン最終防衛の中心となり、最後まで抵抗した。撤退後はキプロスへ移ったが、1312年にフランス王の圧力で解散させられた。
- 十字軍
- 11世紀末から13世紀にかけてローマ教皇の呼びかけにより、西ヨーロッパのキリスト教徒がイスラーム勢力からの聖地エルサレム奪回を目的として行った一連の軍事遠征。第1回(1096年)から第8回以降まで複数回行われた。
- マムルーク朝
- 13〜16世紀にエジプトを中心に支配したイスラーム王朝。マムルーク(トルコ系・チェルケス系の奴隷兵士)が建てた軍人政権で、1260年のモンゴル撃退や十字軍勢力の一掃で知られる。
- アッコン(アッコ)
- 現在のイスラエル北部にある港湾都市。十字軍の重要拠点として繁栄し、イタリア商人の交易の中心地でもあった。1291年の陥落により十字軍の中東支配は終わった。
- 騎士修道会
- 十字軍時代に生まれた、修道院的規律と軍事活動を兼ね備えた宗教騎士団。テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)・ドイツ騎士団などが有名。
- 聖地
- キリスト教・ユダヤ教・イスラームの三宗教が聖域とするエルサレムおよびその周辺地域。イエスの生涯の舞台であり、イスラームではムハンマドの昇天の地とされるため、三宗教にとって特別な意味を持つ。
1アッコンには世界中の商人が集まっていた
陥落直前のアッコンはヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどイタリア各都市の商館が並ぶ国際商業都市だった。騎士団の本部も置かれ、人口は数万人に達していたとされる。陥落によってこの東方貿易の拠点は一夜にして消滅した。
2テンプル騎士団は最後の砦で全滅に近い抵抗を見せた
アッコン市街が陥落した後もテンプル騎士団の団員たちは海辺の本部要塞に立てこもり、約10日間抵抗を続けた。最終的に建物が崩壊して全員が死亡または捕虜となったとも伝わる。その徹底抗戦は後世に語り継がれた。
3十字軍はエルサレムを一度も「最終奪回」していない
1229年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉でエルサレムへの一時的な支配権を得たものの、1244年に再び失った。十字軍は結局、最初の目的である聖地の恒久的な奪回を達成できなかった。
4十字軍の「失敗」が教皇の権威を傷つけた
教皇ウルバヌス2世が神の名のもとに呼びかけた聖戦は、最終的に失敗に終わった。これは「神の代理人」としての教皇の絶対的な権威に疑問を生じさせ、14世紀以降の教皇権威の低下と世俗権力の台頭につながる遠因の一つとなった。
5十字軍がもたらした「逆輸入」の文化
十字軍の遠征は一方的な破壊だけでなく、砂糖・綿・絹・香辛料などの物産や、アラビア数字・光学・医学などの知識を西欧にもたらした。これらはイタリア都市を経由してヨーロッパ全土に広がり、のちのルネサンス的な知識革命の素地となった。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1291年。語呂は『一二悔い(いにくい)(1291)十字軍の終わり』。
陥落させたのはエジプトのマムルーク朝(スルタン・アル・アシュラフ・ハリール)。
アッコンは1096年の第1回十字軍から続く十字軍運動の「最後の主要拠点」であり、ここの喪失が十字軍の事実上の終焉とされる。
テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団などの騎士修道会もアッコンから撤退したことを押さえる。
十字軍の遺産として、地中海貿易の発展(イタリア都市の繁栄)やギリシア古典の再流入(ルネサンスへの影響)が問われることがある。
語呂クイズ
「一二悔い(いにくい)(1291)十字軍の終わり」= アッコンが陥落し十字軍運動が終わるは西暦何年?
- Q. 十字軍はなぜ失敗したのですか?
- A. 遠征を続けるための兵力・資金・西欧諸国の関心がいずれも徐々に失われ、現地に安定した支配基盤を築けなかったためです。一方でマムルーク朝のような強力なイスラーム勢力が台頭し、拠点が次々と陥落していきました。
- Q. アッコンとはどんな都市ですか?
- A. 現在のイスラエル北部にある港湾都市(現地名アッコ)です。十字軍時代にはイタリア商人が集まる国際貿易都市として繁栄し、騎士修道会の本部も置かれた十字軍の最後の主要拠点でした。
- Q. マムルーク朝はどんな国ですか?
- A. 13〜16世紀にエジプトを中心に支配したイスラーム王朝です。トルコ系やチェルケス系の軍人奴隷(マムルーク)が政権を握り、1260年にはモンゴル軍を撃退したことでも有名です。
- Q. 十字軍は結局エルサレムを取り戻せたのですか?
- A. 恒久的には取り戻せませんでした。1229年に外交交渉で一時的に支配権を得ましたが、1244年に再び失い、以後二度と回復できませんでした。
- Q. 十字軍の終わりはヨーロッパにどんな影響を与えましたか?
- A. 聖戦の失敗は教皇の権威低下につながりました。一方で、東方との交流によりイタリア都市の地中海貿易が発展し、イスラーム世界を通じたギリシア古典や学問の流入が進んでルネサンスの遠因となりました。
1291年のアッコン陥落は、約200年にわたって西ヨーロッパを動かし続けた十字軍運動の事実上の終わりを告げた出来事です。聖地奪回という夢は結局かなわず、騎士団も撤退を余儀なくされました。しかしその一方で、東方との接触はイタリアの貿易繁栄やルネサンスの遠因という形でヨーロッパに大きな影響を与えました。『一二悔い(いにくい)(1291)十字軍の終わり』の語呂とともに、十字軍の始まり(1096年)と終わり(1291年)を一セットで押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
アッコン陥落の正確な日付は5月18日(市街陥落)と5月28日(テンプル騎士団本部陥落)の二段階があるため、本文では前者を市街陥落の日として採用した。
テンプル騎士団の最後の抵抗については諸説あるが、最後まで抵抗したという点は史料で裏付けられているため採用した。
「ルネサンスの遠因」という表現は因果関係を断定しないよう、「遠因の一つ」「促した」という表現にとどめた。
relatedは指定通り 1096-first-crusade・1453-fall-constantinople の2件のみを記載している。