高校/政治
1279
元が南宋を滅ぼし中国を統一する
フビライ・ハン(元)
語呂
覚え方
人に泣く(いになく)(1279)南宋滅亡
いになく(1279)南宋の滅亡
1279年、モンゴル人が建てた元は、広州沖の厓山(がいざん)の海戦で南宋の残存勢力を壊滅させ、中国全土の統一を成し遂げました。フビライ・ハンが率いる元軍は、1276年にすでに南宋の都・臨安(現在の杭州)を占領していましたが、南宋の残党は幼い皇帝を奉じて南へ逃れ抵抗を続けていました。しかし厓山での最終決戦で敗れ、重臣・陸秀夫が幼帝を抱いたまま海に身を投げたと伝えられます。これにより漢民族の王朝・宋は完全に滅亡し、中国史上初めて全土が遊牧民族(モンゴル)の王朝によって支配されることになりました。
この記事のポイント
- 1279年、元(フビライ・ハン)が厓山の戦いで南宋の残存勢力を滅ぼし、中国全土を統一した
- 南宋の都・臨安はすでに1276年に占領されており、厓山は事実上の最後の抵抗だった
- 重臣・陸秀夫が幼い皇帝を抱いて海に身を投げたという悲劇が伝えられる
- 中国史上初めて全土が北方遊牧民族(モンゴル)の王朝の支配下に入った画期的な出来事
- 元はモンゴル人を最上位に置く身分制をしき、大都(現在の北京)を首都として中国を支配した
ここが面白い「海の果てまで追い詰められた王朝」――1279年、幼い皇帝を抱いた臣下が荒波に身を投じた瞬間、400年以上続いた宋王朝は完全に滅んだ。中国史上初めて、全土が北方遊牧民族の手に落ちた瞬間だった。
南宋滅亡は突然の出来事ではありません。モンゴルの台頭から元の建国、そして南宋への圧迫という長い歴史の積み重ねの末に起きた出来事です。その背景を順に見ていきましょう。
モンゴル帝国の膨張と南宋への圧迫
チンギス・ハンが13世紀初頭にモンゴル帝国を建設し、その孫・フビライ・ハンは中国支配を目指した。北方の金(女真族の王朝)はすでに1234年にモンゴルに滅ぼされており、南宋はモンゴルと長年にわたって対峙してきた。フビライ・ハンは1271年に国号を「元」と定め、中国の伝統的な王朝の形式をとりながら支配の正統性を主張した。
襄陽・樊城の戦いと南宋の防衛崩壊
1268年から約5年にわたった襄陽・樊城(現在の湖北省)の包囲戦は、南宋の長江防衛ラインの要衝をめぐる戦いだった。元軍は水軍や投石機(回回砲とも呼ばれるイスラム式のもの)を活用してこの要衝を陥落させ(1273年)、以後、元軍は長江を越えて南宋の中心部へ侵攻できるようになった。
臨安の陥落(1276年)と南宋朝廷の逃亡
1276年、元軍が南宋の都・臨安(現在の杭州)に迫ると、南宋の皇太后は幼い皇帝(恭帝)を連れて降伏した。しかし文天祥(ぶんてんしょう)・陸秀夫・張世傑ら忠臣は別の幼い皇族を奉じて南へ逃れ、海上での抵抗を続けた。元はこの残存勢力を追い、最終決戦の場が広州沖の厓山となった。
厓山の海戦(1279年)と南宋の完全滅亡
1279年2月、広州沖の厓山で元の水軍と南宋の残存艦隊が激突した。南宋の艦隊は10万人以上を擁したとも伝えられるが、元の猛攻に敗れた。重臣・陸秀夫は幼い皇帝(わずか8歳)を抱いて海に飛び込み、多くの臣下や兵士もこれに続いたと伝えられる。こうして宋は完全に滅亡し、元が中国全土を統一した。
中国史上初の全土を遊牧民族が支配
≒ 異文化・異民族による国家統治の原型それまでの中国王朝は漢民族か、中国化した王朝が中原を支配してきた。元はモンゴル人を最上位に置く身分制(モンゴル人・色目人・漢人・南人の四階層)を採用し、中国の伝統的な支配体制とは異なる統治を行った。
宋代の経済・文化が元代に引き継がれた
≒ 占領されても文化は続く宋代に発達した商業経済、印刷技術、陶磁器などの文化・産業は元代にも引き継がれた。元の時代には交易路(パクス・モンゴリカ)が整備され、東西交流が活発になった。マルコ・ポーロが訪れたのもこの時代である。
抵抗と忠義の象徴となった南宋の滅亡
≒ 「潔く滅びる」という歴史上の記憶厓山の戦いで海に身を投じた臣下や兵士の行為、および文天祥の処刑前の詩(正気の歌)は、後世の中国で忠義・節操の象徴として長く語り継がれた。
1234金の滅亡モンゴル帝国が金(女真族の王朝)を滅ぼす。南宋はモンゴルと直接対峙する立場となった。
1260フビライ・ハン即位フビライ・ハンがモンゴル帝国の大ハンに就任。中国支配の強化を進める。
1268襄陽包囲戦開始元軍が南宋の要衝・襄陽と樊城の包囲を開始。約5年にわたる長期戦となった。
1271国号を「元」と定めるフビライ・ハンが国号を「元」と改め、中国の正統王朝であることを宣言。都は大都(現在の北京)。
1273襄陽・樊城陥落南宋の防衛の要であった襄陽・樊城が元軍に陥落。南宋の長江防衛ラインが崩壊した。
1276臨安占領元軍が南宋の都・臨安(現在の杭州)を占領。皇太后と幼帝が降伏。忠臣らは残余勢力を率いて南へ逃れた。
1278文天祥の捕縛南宋最後の忠臣として抵抗を続けた文天祥が元軍に捕らえられる。後に処刑されるも、その節義は後世に長く伝えられた。
1279厓山の戦い・南宋滅亡広州沖の厓山で元の水軍が南宋残存艦隊を壊滅。重臣・陸秀夫が幼い皇帝を抱いて海に身を投じ、宋は完全に滅亡した。
1281元の日本遠征(弘安の役)中国統一を果たした元は日本への遠征を再び試みたが、暴風雨(神風)により失敗した。
1368元の滅亡・明の建国漢民族による反乱(紅巾の乱など)が相次ぎ、朱元璋が明を建国。元はモンゴル高原へ後退した(北元)。
◎元による中国統一によってモンゴル帝国全域にわたる交易路(パクス・モンゴリカ)が整備され、東西の物資・文化・技術の交流が活発になった。宋代に発達した経済・文化は引き継がれ、後の明代の繁栄の基盤となった。
△元はモンゴル人を最上位に置く身分制(モンゴル人・色目人・漢人・南人)を採用し、漢民族は政治的に下位に置かれた。また、元による支配は約100年で終わり(1368年に明が建国)、中国では異民族支配への抵抗意識も強く残った。厓山の戦いでの大量の死者は中国史の悲劇の一つとして記憶されている。
フビライ・ハン
元の初代皇帝(在位1271〜1294年)チンギス・ハンの孫。1271年に国号を「元」と定め、1279年に南宋を滅ぼして中国全土を統一した。日本遠征(文永の役・弘安の役)でも知られる。大都(北京)を首都とし、中国的な統治制度も取り入れた。
陸秀夫(りくしゅうふ)
南宋最後の忠臣・宰相厓山の戦いで敗北が決定的となると、幼い皇帝(衛王)を抱いて海に身を投じたと伝えられる。南宋の忠義を象徴する人物として後世に語り継がれた。
文天祥(ぶんてんしょう)
南宋の武将・詩人臨安陥落後も南宋再興を目指して抵抗を続けた。1278年に元軍に捕らえられ、1283年に処刑された。獄中で書いた詩「正気の歌(せいきのうた)」は後世に節義の詩として広く知られる。
マルコ・ポーロ
イタリアの旅行家・商人元(フビライ・ハン)の時代に中国を訪れ、その見聞を記した「東方見聞録」はヨーロッパに中国・東アジアの富を伝えた。パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)による東西交流の象徴的存在。
- 厓山(がいざん)の戦い
- 1279年に広州沖の厓山(現在の広東省近海)で行われた元と南宋残存勢力の最終海戦。この戦いで南宋が完全に滅亡した。
- パクス・モンゴリカ
- モンゴル帝国がユーラシア大陸の広大な地域を支配した13〜14世紀に実現した相対的な平和と交易の活性化。東西の物資・技術・文化・人が行き交った時代。
- 四等級制(色目人)
- 元が設けた身分制度。モンゴル人を最上位とし、色目人(西方・中央アジアの民族)・漢人(旧金の支配下の漢民族など)・南人(旧南宋の漢民族)の順に序列づけた。南人は最下位に置かれた。
- 大都(だいと)
- 元の首都。現在の北京に置かれた。フビライ・ハンが整備した計画都市で、後の明・清の首都にも引き継がれた。
- 正気の歌(せいきのうた)
- 南宋の忠臣・文天祥が元に捕らえられ処刑される前に書いた詩。忠義・節操の精神を詠んだもので、後世の中国で広く知られる古典となった。
1「厓山の後、中国なし」という言葉
厓山の戦いで南宋が滅びたことを悼んで、後世の歴史家の間で「厓山の後に中国なし」という言葉が生まれたとされる。漢民族の王朝が完全に失われたことの衝撃と喪失感を示す表現であり、中国史の転換点として長く語り継がれてきた。
2元軍はイスラム式の投石機を使った
南宋の拠点・襄陽を陥落させた際、元軍はイスラム世界の技術者を招いて製作した「回回砲(かいかいほう)」と呼ばれる巨大な投石機(トレビュシェット)を使用した。異文化の技術を積極的に取り入れるモンゴル帝国の特質をよく示す逸話である。
3マルコ・ポーロが見た元の繁栄
イタリア人旅行家マルコ・ポーロは元(フビライ・ハン)の時代に中国を訪れ、その豊かさに驚嘆した。帰国後にまとめた「東方見聞録」はヨーロッパに中国・東アジアへの関心を高め、後の大航海時代にも影響を与えたとされる。
4元の支配はわずか約90年で終わった
1279年に中国統一を果たした元だったが、漢民族の反乱(紅巾の乱など)が相次ぎ、1368年には朱元璋が明を建国して元を北へ追いやった。中国史全体から見ると、モンゴル人による全土支配は約90年という比較的短い期間だった。
5南宋の都・臨安は当時世界最大級の都市
元に滅ぼされる直前の南宋の都・臨安(現在の杭州)は、人口が100万人を超えるとも推定された当時世界最大級の都市の一つだった。宋代の商業経済の発展を象徴する都市であり、マルコ・ポーロも「キンサイ(行在の音訳)」として記録し、世界一豊かな都市と絶賛している。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1279年。語呂は「人に泣く(いになく)(1279)南宋滅亡」。
元を建てたのはフビライ・ハン(チンギス・ハンの孫)。国号「元」を定めたのは1271年。
最後の決戦は広州沖の厓山(がいざん)の戦い。重臣・陸秀夫が幼帝を抱いて入水したエピソードも頻出。
元の支配の特徴:モンゴル人最上位の四等級制、都は大都(現在の北京)、中国史上初の遊牧民族による全土統一。
元滅亡後(1368年)に漢民族の王朝・明が成立した流れも合わせて押さえること。
語呂クイズ
「人に泣く(いになく)(1279)南宋滅亡」= 元が南宋を滅ぼし中国を統一するは西暦何年?
- Q. 南宋が滅んだのはいつ、どこですか?
- A. 1279年、広州沖の厓山(がいざん)の海戦で元軍に敗れ、完全に滅亡しました。南宋の都・臨安(杭州)はその3年前の1276年にすでに占領されており、厓山は残存勢力の最後の抵抗の場でした。
- Q. フビライ・ハンとはどんな人物ですか?
- A. モンゴル帝国を建設したチンギス・ハンの孫で、1271年に国号を「元」と定めました。中国の伝統的な王朝制度を取り入れながら、モンゴル人が最上位に立つ支配体制を作り、1279年に南宋を滅ぼして中国全土を統一しました。日本への遠征(文永の役・弘安の役)でも知られています。
- Q. 元に滅ぼされた後、中国の文化はどうなりましたか?
- A. 宋代に発達した商業経済・陶磁器・印刷技術などは元代にも引き継がれました。また、元の時代にはモンゴル帝国全域の交易路(パクス・モンゴリカ)が整備され、東西の文化交流が活発になりました。マルコ・ポーロがこの時代に中国を訪れています。
- Q. 中国がモンゴル(元)に支配されたのはどのくらいの期間ですか?
- A. 元が中国全土を統一したのが1279年で、1368年に漢民族の朱元璋が明を建国して元を追いやるまでの約90年間です。中国史全体から見ると比較的短い期間ですが、この間の東西交流の活発化は歴史的に大きな意味を持ちました。
- Q. 文天祥(ぶんてんしょう)はどんな人物ですか?
- A. 南宋の武将・政治家で、元への抵抗を続けた忠臣として知られています。1278年に元軍に捕らえられ、1283年に処刑されました。獄中で書いた詩「正気の歌」は、忠義と節操を詠んだ詩として後世の中国で広く知られています。
1279年の南宋滅亡は、400年以上続いた漢民族の宋王朝が海の果てまで追い詰められ、ついに消えた歴史的な瞬間でした。フビライ・ハンが率いる元は、中国史上初めて全土を遊牧民族が支配するという新しい時代を開きましたが、その支配は約90年で終わり、漢民族の明が再び中国を統一します。「人に泣く(1279)南宋滅亡」の語呂とともに、元が中国を統一した年・場所(厓山)・特徴(四等級制・大都)をしっかり押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
厓山の戦いの死者数(10万人以上)は史料によって異なるため、本文では「多くの臣下や兵士」という表現にとどめた。
陸秀夫の入水エピソードは宋代の史料に記載があるが、細部は史料によって異なるため「伝えられる」という表現を用いた。
「厓山の後に中国なし」という言葉の出典については諸説あるため、trivia では「後世の歴史家の間で」という表現にとどめた。
related は指定の2つのID(1271-yuan-dynasty・1368-ming-founding)のみを記載した。