高校/戦争
1096
第1回十字軍が始まる
ウルバヌス2世(ローマ教皇)
語呂
覚え方
遠く向かう(1096)十字軍
とおくむ(1096)だいいちじじゅうじぐん
1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世はフランスのクレルモン公会議で「イスラム勢力に占領された聖地エルサレムを奪回せよ」と呼びかけました。この演説に応え、1096年に第1回十字軍が出発。1099年にはエルサレムを占領し、十字軍国家を建設しました。以後、約200年にわたり複数回の十字軍が派遣されましたが、最終的に聖地の恒久的保持には失敗しました。この出来事は中世ヨーロッパの宗教・政治・経済に深刻な変化をもたらす一方、戦争・虐殺・宗教的対立という深い傷跡も残しました。
この記事のポイント
- 1095年、教皇ウルバヌス2世がクレルモン公会議でエルサレム奪回を呼びかける
- 1096年、第1回十字軍が出発。諸侯・騎士・民衆など多様な集団が参加した
- 1099年、十字軍がエルサレムを占領し、イェルサレム王国など十字軍国家を建設
- 以後200年近く、複数回の十字軍が派遣されたが聖地の恒久的保持には失敗
- 東方貿易の活性化・教皇権の変動・イスラム世界との交流など、ヨーロッパ社会を大きく変えた
ここが面白い「神がそれを望んでおられる(Deus vult)!」この一言がヨーロッパ全土を動かし、数万人規模とも言われる人々が聖地を目指して立ち上がった。しかし十字軍が残したのは、信仰の旗のもとに行われた征服と虐殺の歴史でもあった。
第1回十字軍は突然始まったのではありません。11世紀のヨーロッパとイスラム世界の政治・宗教状況が交差した結果です。その背景を整理します。
セルジューク朝の台頭とビザンツ帝国の危機
11世紀、中央アジア出身のトルコ系イスラム王朝・セルジューク朝が急速に勢力を拡大し、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を大破。小アジア(現在のトルコ)の大部分を制圧しました。ビザンツ皇帝アレクシオス1世は西方教会(ローマ)に援軍を求め、これが十字軍の直接の引き金となりました。
聖地エルサレムと巡礼の困難
エルサレムはキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地です。以前はキリスト教徒も巡礼できていましたが、セルジューク朝の支配下でその道が困難になったとされ、ヨーロッパのキリスト教徒の間で「聖地奪回」への機運が高まりました。ただし実態については研究者によって評価が異なります。
教皇権の拡大を目指すウルバヌス2世
当時、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝は聖職者の叙任権(聖職叙任権闘争)をめぐって対立していました。ウルバヌス2世はキリスト教世界全体を束ねる十字軍を呼びかけることで、教皇の宗教的・政治的権威を高めようとしました。
民衆の熱狂と「民衆十字軍」
教皇の演説が広まると、正規の軍が出発する前に農民や下層民らが「民衆十字軍」として1096年春に先走って出発しました。しかし組織力に乏しく、食料や物資が不足し、途中でユダヤ人住民への迫害を行いながら進軍したものの、小アジアでセルジューク朝軍に壊滅させられました。
クレルモン公会議での呼びかけ
≒ 国際的な軍事連合の結成を訴える大演説1095年11月、教皇ウルバヌス2世がフランスのクレルモンで公会議を開き、聖地奪回を訴える演説を行った。参加者の「神がそれを望んでおられる(Deus vult)!」という叫びが象徴的な合言葉になった。
第1回十字軍の遠征
≒ 多国籍の連合軍が遠征地で苦戦しながら目標を達成するプロジェクト1096年に出発した諸侯・騎士の主力部隊は、小アジアからシリアへと南下。1097年にはニカイアとドリュライオンを攻略し、1098年にはアンティオキアを制圧。1099年7月にエルサレムを占領した。
十字軍国家の建設
≒ 占領地に統治機構を打ち立てて維持しようとする試みエルサレム占領後、十字軍はイェルサレム王国・アンティオキア公国・エデッサ伯国・トリポリ伯国の4つの十字軍国家を建設。しかしイスラム勢力の反撃により徐々に領土を失い、1291年にアッコン(アッコ)が陥落して最終的に消滅した。
1071マンジケルトセルジューク朝がマンジケルトの戦いでビザンツ帝国に大勝。小アジアの多くを制圧する。
1095クレルモン公会議教皇ウルバヌス2世がクレルモンで聖地奪回を演説。十字軍の号令が下る。
1096民衆十字軍・出発民衆十字軍(春)が先行出発するも壊滅。主力の諸侯十字軍が秋に出発。
1097ニカイア・ドリュライオン十字軍がニカイアを攻略し、ドリュライオンの戦いでセルジューク朝に勝利。
1098アンティオキア制圧長期包囲戦の末にアンティオキアを制圧。アンティオキア公国が成立する。
1099エルサレム占領7月15日、十字軍がエルサレムを占領。イェルサレム王国が建国される。
1187ハッティンの戦いイスラム側の英雄サラディン(サラーフッディーン)がハッティンの戦いで十字軍を大破し、エルサレムを奪回。
1291アッコン陥落十字軍最後の拠点アッコンがマムルーク朝に陥落。十字軍国家が消滅し、約200年に及んだ十字軍の歴史が終わる。
◎東方貿易(香辛料・絹・金属など)が活性化し、ヴェネツィア・ジェノバ・ピサなどイタリア諸都市が仲介貿易で大きく繁栄した。
◎ヨーロッパと中東・ビザンツ世界の交流が深まり、イスラムを通じてギリシャ哲学・数学・医学などの知識がヨーロッパへ逆輸入された。これは後のルネサンスの素地の一つとなった。
△エルサレム占領時(1099年)、十字軍はイスラム教徒・ユダヤ教徒を問わず市民を大量に虐殺した。この出来事は後世まで深刻な記憶として残った。
△遠征の途上や出発前後に、ユダヤ人住民への組織的な迫害(ポグロム)がヨーロッパ各地で発生した。
△教皇権は一時的に高揚したが、十字軍の失敗が繰り返されるにつれ権威は揺らぎ、長期的には世俗権力(諸侯・国王)の台頭を招いた。
ウルバヌス2世
ローマ教皇(在位1088〜1099年)クレルモン公会議で十字軍を提唱した人物。エルサレム占領の2週間後に死去し、自ら呼びかけた勝利を知らなかったとも伝わる。
アレクシオス1世
ビザンツ皇帝セルジューク朝に圧迫され、西方教会に援軍を要請した。ただし大規模な十字軍の到来は想定外で、十字軍との関係は終始複雑なものとなった。
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
ロートリンゲン公・十字軍の指導者エルサレム占領後、初代「聖墳墓の守護者」の称号を受けた。王号を辞退したとされる。翌年に死去。
ピエール・エルミット(隠者ピエール)
民衆十字軍の指導者民衆十字軍を率いたが、小アジアでセルジューク朝軍に壊滅させられた。
サラディン(サラーフッディーン)
アイユーブ朝の創始者第1回十字軍の人物ではないが、1187年にエルサレムを奪回したイスラム側の英雄。ヨーロッパ側からも騎士道精神ある人物として評価された。
- 十字軍
- 中世ヨーロッパのキリスト教諸国が聖地エルサレムの奪回などを目的に行った武装遠征。11〜13世紀にかけて複数回実施された。
- クレルモン公会議
- 1095年にフランス・クレルモンで開かれた教会会議。教皇ウルバヌス2世が聖地奪回を訴え、第1回十字軍の契機となった。
- セルジューク朝
- 11〜13世紀に中央アジア・中東を支配したトルコ系イスラム王朝。ビザンツ帝国を圧迫し、十字軍の遠因となった。
- イェルサレム王国
- 1099年に十字軍が建設した十字軍国家。エルサレムを首都とし、1187年にサラディンに奪われた後も縮小しながら存続。1291年に完全消滅。
- 聖職叙任権闘争
- 11〜12世紀、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が聖職者の任命権(叙任権)をめぐって争った対立。教皇権の強化・弱体化に複雑に影響した。
- Deus vult(デウス・ウルト)
- ラテン語で「神がそれを望んでおられる」の意。クレルモン公会議での教皇演説に対し聴衆が叫んだ言葉で、十字軍の合言葉となった。
1教皇ウルバヌス2世はエルサレム陥落を知らずに死んだ
1099年7月15日にエルサレムが陥落し、十字軍が目的を達成した。しかしウルバヌス2世は同年7月29日に死去しており、その勝利の知らせが届く前に亡くなったとされる。自ら呼びかけた遠征の成果を知ることなく生涯を終えた。
2「民衆十字軍」は出発すらまともにできなかった
正規の諸侯軍より先に農民・下層民らが「民衆十字軍」として1096年春に出発した。しかし食料・資金・訓練が不足しており、途中のライン地方でユダヤ人住民への迫害を行いながら東進。小アジアに入ってまもなくセルジューク朝軍に壊滅させられた。
3十字軍はむしろ東方の知識をヨーロッパに持ち帰った
十字軍は宗教的な遠征だったが、その過程でイスラム世界が保存・発展させていたギリシャ哲学、数学(アラビア数字・代数学)、医学、天文学などがヨーロッパに伝わった。皮肉なことに、十字軍がなければルネサンスの到来はさらに遅れていたという見方もある。
4「十字軍」という呼び方は後世に定着したもの
参加者たちは当初、自らの遠征を「巡礼(peregrinatio)」「聖なる旅」などと呼んでいた。「十字軍」を意味する語(ラテン語やフランス語の croisade など)が一般的な呼称として広く定着していくのは後世のことで、遠征の初期には現在のような固定した「十字軍」という語が使われていたわけではないとされる。
5エルサレム占領時の虐殺は後世に深い記憶を残した
1099年のエルサレム占領時、十字軍はイスラム教徒・ユダヤ教徒を問わず多数の市民を殺害した。イスラム側の年代記には「街路が膝まで血で埋まった」という記述もある。この出来事は西洋とイスラム世界の関係に今も影を落としており、歴史家は事実として中立的に記録している。

ここが出る博士のワンポイント
出発年は1096年。語呂は「遠く向かう(1096)十字軍」。提唱は1095年のクレルモン公会議で、1095年(提唱)と1096年(出発)を区別すること。
呼びかけた人物は教皇ウルバヌス2世。ビザンツ皇帝アレクシオス1世の救援要請が直接の引き金。
1099年にエルサレムを占領し、イェルサレム王国など十字軍国家を建設したことを押さえる。
1187年のハッティンの戦いでサラディンがエルサレムを奪回したこととセットで覚える。
十字軍の影響として、東方貿易の活性化・イタリア諸都市(ヴェネツィアなど)の繁栄・ルネサンスへの素地を理解する。
最終的に十字軍は聖地の恒久的保持に失敗し、1291年のアッコン陥落で終わることを確認する。
語呂クイズ
「遠く向かう(1096)十字軍」= 第1回十字軍が始まるは西暦何年?
- Q. 十字軍はなぜ始まったのですか?
- A. セルジューク朝(イスラム勢力)がビザンツ帝国を圧迫し、聖地エルサレムへの巡礼も困難になったためです。ビザンツ皇帝の救援要請を受けた教皇ウルバヌス2世が1095年のクレルモン公会議で聖地奪回を呼びかけ、第1回十字軍が1096年に出発しました。
- Q. 十字軍は何回あったのですか?
- A. 主要なものだけで7〜8回とされますが、小規模なものを含めるとさらに多くなります。1096年〜1291年の約200年にわたって続きましたが、最終的に聖地の恒久的保持には失敗しました。
- Q. 十字軍は成功したのですか?
- A. 第1回十字軍は1099年にエルサレムを占領するという軍事目標を達成しましたが、以後の十字軍は苦戦が続き、1187年にはサラディンにエルサレムを奪回されました。1291年のアッコン陥落で十字軍国家は消滅し、長期的には失敗と評価されています。
- Q. 十字軍はキリスト教対イスラム教の戦いですか?
- A. 宗教的な対立が動機の一つであったことは確かですが、それだけではありません。教皇の権威拡大、諸侯の領土欲、イタリア諸都市の貿易利益、ビザンツ帝国の政治的思惑など、複合的な要因が絡んでいました。また十字軍内部でもキリスト教徒どうしの対立がありました。
- Q. 十字軍はヨーロッパにどんな影響を与えましたか?
- A. 東方貿易が活発になりイタリア諸都市が繁栄しました。また、イスラム世界を通じてギリシャの学問・医学・数学などがヨーロッパに伝わり、後のルネサンスの一因となりました。一方で教皇権は長期的には低下し、諸侯・国王の力が相対的に強まりました。
- Q. 語呂合わせはどうやって覚えればよいですか?
- A. 「遠く向かう(1096)十字軍」と覚えましょう。ただし教皇が提唱したのは1095年(クレルモン公会議)、出発が1096年、エルサレム占領が1099年と、3つの年を区別して整理することが大切です。
第1回十字軍は、教皇ウルバヌス2世が1095年のクレルモン公会議で呼びかけ、1096年に出発、1099年にエルサレムを占領したという流れを押さえましょう。「遠く向かう(1096)十字軍」の語呂とともに、提唱(1095年)・出発(1096年)・占領(1099年)の3年を区別することが重要です。十字軍は約200年続きましたが最終的に聖地の保持に失敗しており、その影響として東方貿易の活性化・イタリア諸都市の繁栄・イスラム由来の学問のヨーロッパへの伝播などを理解してください。宗教的熱狂と政治的打算が交差した出来事として、一方的な善悪の図式では語れない複雑な歴史です。
編集メモ(ファクト)
十字軍の回数については研究者によって数え方が異なる(7回説・8回説など)。本記事では「複数回・約200年にわたる」と幅を持たせた表現を採用した。
1099年のエルサレム占領時の虐殺の規模については史料によって記述が異なるが、大規模な殺戮が行われたこと自体は学術的に広く認められている事実として記述した。
宗教的対立の描写はキリスト教・イスラム教どちらかを一方的に正義・悪とする表現を避け、複合的な要因があったことを示す中立的な記述を心がけた。
サラディンは第1回十字軍(1096〜1099年)の人物ではなく第3回十字軍(1189〜1192年)に関わる人物だが、エルサレム奪回(1187年)との関係で試験頻出のため people に補足として記載した。