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ワールシュタットの戦いが起こるのイラスト
高校/戦争
1241

ワールシュタットの戦いが起こる

バトゥ(モンゴル)/ドイツ・ポーランド連合軍
語呂
覚え方
一二(いに)夜(よい)(1241)ワールシュタット
いによい(1241)ワールシュタットの戦い

1241年4月、モンゴル帝国の将軍バトゥ率いる軍勢は、現在のポーランド南西部にあたるワールシュタット(リーグニッツ近郊)でドイツ・ポーランド連合軍と激突し、圧倒的な勝利を収めました。この戦いはモンゴルの西征(ヨーロッパ遠征)の中でも最も衝撃的な出来事として記録されています。同時期にはハンガリーでもモヒの戦いでモンゴルが勝利し、西欧全体がモンゴルの侵攻にさらされる寸前となりました。しかしオゴタイ・ハンの急死と後継者を決めるクリルタイ(部族会議)のため、モンゴル軍は東方へ引き返し、西欧本土への本格侵攻は実現しませんでした。この戦いはモンゴル帝国の軍事的な強さと、ヨーロッパの危機を同時に示す、世界史上の重要な転換点です。

この記事のポイント

  • 1241年4月、バトゥ率いるモンゴル軍がワールシュタット(現ポーランド)でドイツ・ポーランド連合軍を撃破
  • 同年ハンガリーでのモヒの戦いでもモンゴルが勝利し、西欧は前代未聞の脅威にさらされた
  • オゴタイ・ハンの死去に伴うクリルタイ(後継者選出会議)のため、モンゴル軍は東方へ撤退
  • 西欧本土への本格侵攻は回避されたが、東欧(ロシア・ポーランド・ハンガリー)は甚大な被害を受けた
  • バトゥはその後、南ロシアにキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国した
ここが面白い

「死体の山」を意味する地名に、ヨーロッパの騎士たちは何を見たのか――1241年、モンゴル軍の蹄がポーランドの平原を蹴り上げ、西欧キリスト教世界は前代未聞の恐怖に震えた。

ここに至るまでの流れ
背景

ワールシュタットの戦いは、ある日突然起きたものではありません。モンゴル帝国の急速な膨張と、西征という長期計画の果てに生まれた衝突です。その背景を順番に見ていきましょう。

モンゴル帝国の西征とバトゥ

ジンギス・ハンの孫バトゥは、1236年から西征(ヨーロッパ遠征)を率いました。オゴタイ・ハンの命を受け、老練な戦略家スベエタイを参謀として従えたモンゴル軍は、ウォルガ・ブルガール、キプチャクなどを次々と制圧し、1240年にはキエフを陥落させました。1241年には二方面同時作戦でポーランドとハンガリーに侵攻しました。

ドイツ・ポーランド連合軍との衝突

1241年4月9日、バトゥの別動隊を率いたバイダル(またはカダン)がワールシュタット(リーグニッツ近郊)でポーランド・シレジアの諸侯を中心とする連合軍と対峙しました(少数の騎士修道会士も加わっていたとされます)。連合軍はポーランドのヘンリク2世(敬虔公)が率いていましたが、モンゴルの分断作戦と機動力の前に完敗し、ヘンリク2世は戦死しました。「ワールシュタット」はドイツ語で「死体の山」を意味するとされ、その凄惨さを伝えています。

モヒの戦いと西欧の危機

ワールシュタットの戦いの翌日、4月10日には本隊のバトゥがハンガリーのモヒ(シャイオ川畔)でハンガリー王ベーラ4世の軍を壊滅させました(モヒの戦い)。モンゴル軍はアドリア海まで達し、西欧のほぼ全土がモンゴルの脅威にさらされました。この危機に、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝は有効な対応を取ることができませんでした。

オゴタイ・ハンの死去とモンゴル撤退

1241年12月、オゴタイ・ハンが急死しました。モンゴルの慣習では後継者を決めるクリルタイ(全モンゴル部族の大会議)に有力者全員が出席する必要があったため、バトゥは西欧本土への本格侵攻を断念し東方へ撤退しました。これが西欧をモンゴルの支配から救った最大の要因とされています。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

モンゴル軍による騎士軍団の壊滅

≒ 圧倒的な機動力と戦術の差による大敗北

ヨーロッパ最強クラスとされたドイツ・ポーランド騎士連合軍が、モンゴルの機動力と分断戦術の前に完敗した。この衝撃はヨーロッパ全土に広まり、モンゴルへの恐怖を植えつけた。

西欧侵攻の寸前での撤退

≒ 偶然の出来事が歴史の分岐点になった事例

オゴタイ・ハンの急死がなければ西欧本土も侵攻されていたとも言われる。歴史のもしもを考える上での典型的な事例として取り上げられる。

キプチャク・ハン国の成立

≒ 東欧・ロシアを長期支配した国家の誕生

撤退後、バトゥは南ロシアのヴォルガ川流域にキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国した。以後約240年にわたりロシア諸侯に君臨し、ロシアの歴史に深く影響した。

前後のできごと
年表
1206
モンゴル帝国成立ジンギス・ハンがモンゴル統一を果たし、モンゴル帝国を建国。
1229
オゴタイ・ハン即位ジンギス・ハンの死後、第3子オゴタイが第2代ハンに即位し、帝国の拡大を継続。
1236
西征開始バトゥを総司令官、スベエタイを参謀としてモンゴル軍が西征(ヨーロッパ遠征)を開始。
1240
キエフ陥落モンゴル軍がキエフ(現ウクライナ)を陥落・破壊。東スラヴの中心都市が壊滅的被害を受ける。
1241
ワールシュタットの戦い4月9日、モンゴル軍がワールシュタット(現ポーランド)でドイツ・ポーランド連合軍を撃破。ヘンリク2世(敬虔公)戦死。
1241
モヒの戦い4月10日、バトゥ本隊がハンガリーのモヒでベーラ4世軍を壊滅。モンゴル軍はアドリア海まで到達。
1241
オゴタイ・ハン死去12月、オゴタイ・ハンが急死。後継者選出のクリルタイのため、バトゥは東方へ撤退を決断。
1243
キプチャク・ハン国成立バトゥがヴォルガ川下流域を本拠にキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国。ロシア諸侯を支配下に置く。
1271
元朝成立フビライ・ハンが中国を統一して元朝を建国。モンゴル帝国は複数のハン国に分裂しつつも勢力を保つ。
結果とその後
結果
オゴタイ・ハンの急死という偶然の出来事により、西欧本土へのモンゴルの本格侵攻は回避された。この戦いを境に、ヨーロッパ諸国はモンゴルとの外交・通商を模索するようになり、東西交流が促進された面もある。
東欧のポーランド・ハンガリー・ロシアは甚大な人的・物的被害を受けた。キプチャク・ハン国によるロシア支配(タタールのくびき)は240年近く続き、ロシアの政治・文化に長期的な影響を与えた点に注意が必要。
登場人物
人物

バトゥ

モンゴル帝国西征の総司令官(ジンギス・ハンの孫)

ジョチの子でジンギス・ハンの孫。オゴタイ・ハンの命でヨーロッパ遠征を率い、ワールシュタット・モヒで連勝。撤退後にキプチャク・ハン国を建国した。

オゴタイ・ハン

モンゴル帝国第2代ハン(ジンギス・ハンの第3子)

西征を命じた人物。1241年12月に急死したことでモンゴルの西欧侵攻が止まった。後継者選出(クリルタイ)のため諸将が東方へ引き返した。

スベエタイ

モンゴル帝国の名将・西征の参謀

ジンギス・ハン以来のモンゴル最高の戦略家。二方面同時作戦など、ワールシュタット・モヒの両勝利を設計した。

ヘンリク2世(敬虔公)

シレジア公・ドイツ・ポーランド連合軍の指揮官

ワールシュタットの戦いで連合軍を率いたが敗北し戦死した。その死はヨーロッパ中に衝撃を与えた。

キーワード解説
用語
西征(ヨーロッパ遠征)
1236年から行われたモンゴル帝国の大規模な西方遠征。バトゥを総司令官とし、東欧・中欧・西欧方面に侵攻した。
クリルタイ
モンゴル帝国の全部族の代表が集まって開く大会議。ハンの後継者選出などの重要事項を決定した。オゴタイ・ハン死後のクリルタイへの参加が西征撤退の主な理由となった。
キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)
バトゥが1243年ごろにヴォルガ川下流域に建てたモンゴル系の国家。南ロシアを支配し、ロシア諸侯に貢納を課した。約240年にわたる支配は「タタールのくびき」と呼ばれる。
タタールのくびき
キプチャク・ハン国によるロシア支配(13世紀中頃〜15世紀末)を指す言葉。ロシアの政治・文化の発展を阻害したとされるが、近年ではその評価が見直されている。
モヒの戦い
1241年4月10日、ハンガリーのシャイオ川畔(モヒ)でバトゥ本隊とハンガリー王ベーラ4世軍が激突した戦い。ハンガリー軍が大敗し、モンゴル軍はアドリア海まで達した。
もっと知りたい
豆知識

1「ワールシュタット」はドイツ語で「死体の山」

ワールシュタットという地名は、ドイツ語の「Wahlstatt(戦場・死体が横たわる場所)」に由来するとされる。凄惨な戦いの結果が地名そのものに刻まれた稀な例である。現在はポーランドのドルヌィ・シロンスク県レグニツァ(旧ドイツ名リーグニッツ)近郊にあたる。

2わずか2日でポーランドとハンガリーが壊滅

ワールシュタットの戦い(4月9日)とモヒの戦い(4月10日)は、たった1日違いに起きた。二方面同時作戦でポーランドとハンガリーを同時に叩くという、スベエタイの卓越した戦略が実現した結果である。

3ヨーロッパの騎士が怖れた「煙幕」

モンゴル軍は煙幕を張る火薬兵器を使用したとも伝えられ、ヨーロッパの騎士たちを混乱させたという記録がある。騎馬による機動力と遠距離からの弓攻撃が組み合わさった戦術は、当時のヨーロッパには全く未知のものだった。

4バトゥはアドリア海まで到達した

モヒの戦いの後、バトゥの軍はダルマチア(現クロアチア)まで南下し、アドリア海に到達したとされる。西欧はモンゴルの侵攻の波がいつ押し寄せてくるかと恐れおののいたが、オゴタイ・ハン死去の報により撤退した。

5モンゴルの西征が生んだ東西交流

モンゴル帝国はヨーロッパに恐怖をもたらす一方、帝国内の安全な交通路(パクス・モンゴリカ)を整備した。マルコ・ポーロの東方旅行(13世紀末)もこの安全な交通路があってこそ実現できたと言われている。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1241年。語呂は「一二(いに)夜(よい)(1241)ワールシュタット」。
総司令官はジンギス・ハンの孫バトゥ(オゴタイ・ハンの命を受けた西征)。参謀は名将スベエタイ。
同年にハンガリーでもモヒの戦いが起き、モンゴルが勝利した(二方面同時作戦)。
西欧本土への本格侵攻が回避された理由はオゴタイ・ハンの急死とクリルタイ(後継者選出会議)。
撤退後、バトゥは南ロシアにキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国し、ロシア諸侯を約240年支配した(タタールのくびき)。
語呂クイズ
「一二(いに)夜(よい)(1241)ワールシュタット」= ワールシュタットの戦いが起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ワールシュタットの戦いはなぜ起きたのですか?
A. モンゴル帝国の第2代ハン、オゴタイ・ハンが西方拡大を命じ、孫のバトゥを総司令官とする大遠征軍がヨーロッパに侵攻したためです。1241年にポーランドとハンガリーへの二方面同時侵攻の一方がワールシュタットでの戦いでした。
Q. モンゴル軍はなぜ西欧まで侵攻しなかったのですか?
A. 1241年12月にオゴタイ・ハンが急死し、後継者を決めるクリルタイ(大会議)に出席するため、バトゥは東方へ撤退したためです。もし急死がなければ西欧本土への本格侵攻も起きていたと考えられています。
Q. キプチャク・ハン国とはどんな国ですか?
A. バトゥが1243年ごろに南ロシアのヴォルガ川下流域に建てたモンゴル系の国家です。ロシア諸侯に貢納を課して支配し、この状態は約240年続きました。この支配は「タタールのくびき」と呼ばれます。
Q. ワールシュタットという名前にはどういう意味がありますか?
A. ドイツ語で「死体の山(Wahlstatt)」を意味するとされています。この戦いがいかに激烈で、多くの犠牲者を出したかをその地名が今も伝えています。
Q. この戦いはモンゴル帝国の拡大とどう関係しますか?
A. ワールシュタットの戦いはモンゴル帝国の西征の最高潮の出来事です。この後モンゴルは東欧支配(キプチャク・ハン国)を確立し、さらに東ではフビライが中国を統一して元朝を建国するなど、帝国は分裂しながらもユーラシア各地に強大な影響を与え続けました。
まとめ

ワールシュタットの戦いは、モンゴル帝国の圧倒的な軍事力とヨーロッパの危機を同時に示す歴史的事件です。当時世界最強と言っても過言ではないモンゴル軍の前に、ドイツ・ポーランドの騎士たちは成す術もなく敗れ去りました。西欧本土への侵攻が回避されたのは、オゴタイ・ハンの急死という偶然の出来事によるものでした。歴史には「もしも」はありませんが、この偶然がなければ西欧の歴史は全く異なるものになっていたかもしれません。「一二(いに)夜(よい)(1241)ワールシュタット」の語呂とともに、モンゴルの西征とキプチャク・ハン国成立の流れをしっかり押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
ワールシュタットの戦いの直接指揮者については、バトゥの別動隊を率いたバイダルまたはカダンとする説がある。バトゥは本隊を率いてモヒの戦いに参戦。本文ではバトゥの西征全体の文脈で記述した。
オゴタイ・ハンの死去日は1241年12月11日とされるが、情報がバトゥに届いた時期については諸説あるため、本文では断定を避けた。
キプチャク・ハン国の建国年については1243年説・1242年説など諸説あるため「1243年ごろ」と記述した。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1271-yuan-dynasty・1096-first-crusade を記載。存在しない場合は削除すること。