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高校/政治
1994

南アフリカでアパルトヘイトが撤廃される

ネルソン=マンデラ(南アフリカ共和国初の黒人大統領)
語呂
覚え方
行く救し(1994)アパルトヘイト撤廃
いくくし(1994)アパルトヘイト撤廃

1994年4月27日、南アフリカ共和国で史上初めて全人種が参加する民主的な総選挙が実施され、アフリカ民族会議(ANC)が圧勝。ネルソン=マンデラが同国初の黒人大統領として就任し、長年続いたアパルトヘイト(人種隔離政策)体制が完全に終焉しました。アパルトヘイトとは、非白人を白人から法律によって厳格に隔離・差別する体制で、1948年から半世紀近くにわたって制度化されてきました。国際社会の経済制裁や国内外の反対運動の高まりを受け、デクラーク大統領が1990年にマンデラを釈放し改革を進めたことで、体制崩壊への道が開かれました。1993年にはマンデラとデクラークがノーベル平和賞を共同受賞。1994年の選挙はその集大成であり、世界が見守る中で人種差別政策に正式な終止符が打たれた歴史的な瞬間となりました。

この記事のポイント

  • 南アフリカでは1948年以降、アパルトヘイト(人種隔離政策)が法制化され、非白人は教育・居住・交通など生活全般で白人と分離された
  • 国際社会の経済制裁や国内の激しい反対運動を受け、デクラーク大統領が1990年にマンデラを釈放し改革路線に転換
  • 1993年、マンデラとデクラークがノーベル平和賞を共同受賞。平和的移行への国際的な評価を受けた
  • 1994年4月27日、全人種参加の初の民主的総選挙が実施。ANCが勝利しネルソン=マンデラが大統領に就任
  • マンデラは「虹の国(レインボー・ネーション)」を掲げ、報復でなく和解による新国家建設を目指した
ここが面白い

「27年間、牢の中で待ち続けた自由が、ついに国全体を包んだ」――1994年、南アフリカで初めてすべての人種が一票を投じた総選挙が行われ、ネルソン=マンデラが大統領に就任した。

ここに至るまでの流れ
背景

アパルトヘイトは突然始まり突然終わったわけではありません。南アフリカにおける人種差別の歴史は植民地時代にさかのぼり、それが20世紀に法制度として体系化される一方、抵抗運動もまた長い歴史を持っています。その流れを順に見ていきましょう。

植民地支配から人種隔離政策へ

南アフリカはイギリスとオランダ系のボーア人(アフリカーナー)による植民地支配を経て、1910年に南アフリカ連邦としてイギリス連邦内の自治国になりました。当初から黒人・カラード・インド系への参政権制限や土地法による差別は存在していましたが、1948年にアフリカーナー系の国民党が選挙で勝利すると、それまで慣行だった差別を「アパルトヘイト(隔離・分離)」として法律で体系化しました。

アパルトヘイト体制の実態

アパルトヘイトの下では、人口は白人・カラード(混血)・インド系・黒人の4グループに分類され、それぞれ住む地域・通う学校・乗る電車・使うトイレまで分離されました。黒人には「バンツースタン(ホームランド)」と呼ばれる指定居住区が設けられ、都市部への移動には通行証(パス)が必要でした。これらの制限は黒人を安価な労働力として搾取しながら、白人居住地域から排除するという二重の役割を果たしていました。

抵抗運動とシャープビル事件

アフリカ民族会議(ANC)は1912年に設立された黒人解放運動の中心組織で、当初は非暴力路線をとっていました。しかし1960年3月のシャープビル事件(通行証制度に抗議するデモ隊に警察が発砲し、69人が死亡した事件)を機に、ANCは武装闘争路線に転換。翌1961年にマンデラらは軍事組織「民族の槍(ウムコントウェ・シズウェ)」を設立しました。南ア政府はANCを非合法化し、マンデラは1964年に終身禁固刑を宣告されてロベン島の刑務所に収監されました。

国際制裁と国内の抵抗激化

1976年のソウェト蜂起(黒人居住区で学生たちがアフリカーンス語での授業強制に抗議し警察に鎮圧された事件)は国際社会の注目を集め、対南ア制裁の声を高めました。1980年代にはアメリカ・ヨーロッパ諸国が経済制裁を強化し、南アフリカの企業が国際市場から孤立。スポーツの国際大会からも除外され、白人政権への圧力は高まる一方でした。こうした状況を受け、1989年に大統領に就任したデクラークは抜本的な改革に踏み切ることを決断しました。

改革と交渉による移行

1990年2月、デクラーク大統領はANCなどの禁止を解除し、マンデラを27年ぶりに釈放しました。その後1991年にアパルトヘイト関連の主要法が廃止され、多人種・多党派による制憲交渉(CODESA)が始まりました。交渉過程では黒人同士の暴力衝突(インカタ自由党とANCの対立)など混乱もありましたが、マンデラとデクラークは対話を続け、1993年に暫定憲法に合意。1994年4月の総選挙実施へと道を開きました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

全人種参加の初の民主的総選挙

≒ すべての国民が一票を持つ普通選挙の実現

1994年4月27日、黒人・カラード・インド系・白人のすべての成人が初めて平等に一票を投じた。この日は後に「自由の日(フリーダム・デー)」として南アフリカの祝日となっている。

ネルソン=マンデラの大統領就任

≒ 差別体制を生き延びた象徴的リーダーによる国家再建

27年間の獄中生活を経て釈放されたマンデラが初の黒人大統領に就任。「虹の国」を掲げ、白人を排除するのでなく多民族共存による国民和解を政策の軸に据えた点が国際社会から高く評価された。

真実和解委員会(TRC)の設置

≒ 過去の人権侵害を裁くのでなく「真実」を明らかにすることで和解を図る新しいアプローチ

マンデラ政権下で、アパルトヘイト時代の人権侵害の加害者が公開の場で真実を語れば訴追を免除する委員会が設置された。報復より和解を優先するこの手法は「移行期正義」の国際的なモデルとなった。

前後のできごと
年表
1912
ANC結成アフリカ民族会議(ANC)がブルームフォンテーンで結成される。黒人の政治的権利回復を目指す運動の中心組織となった。
1948
アパルトヘイト法制化国民党がアフリカーナー系の票を集めて政権を奪取し、アパルトヘイト政策を法制化し始める。
1960
シャープビル事件3月21日、通行証制度に抗議するデモ隊に警察が発砲し69人が死亡。国際社会の批判が高まる。ANCが非合法化される。
1964
マンデラ終身禁固刑リボニア裁判でマンデラに終身禁固刑が言い渡される。ロベン島刑務所に収監。
1976
ソウェト蜂起6月16日、ソウェトの学生がアフリカーンス語教育強制に抗議。警察が鎮圧し数百人が死亡。国際的な制裁圧力が強まる契機となった。
1989
デクラーク大統領就任デクラークが大統領に就任し、改革路線への転換を宣言。
1990
マンデラ釈放2月11日、デクラークがANCの禁止を解除しマンデラを27年ぶりに釈放。
1991
アパルトヘイト関連法の廃止土地法・集団地域法・人口登録法など主要なアパルトヘイト関連法が廃止される。
1993
ノーベル平和賞受賞マンデラとデクラークがノーベル平和賞を共同受賞。同年、暫定憲法に合意。
1994
全人種参加の総選挙4月27日、史上初めて全人種が参加する民主的総選挙が実施。ANCが62.6%を獲得し圧勝。5月10日、マンデラが初の黒人大統領として就任。
結果とその後
結果
半世紀近く続いた人種隔離体制が平和的な交渉と選挙によって終焉し、すべての市民が平等な権利を持つ民主国家への移行が実現した。マンデラの「報復より和解」という姿勢は世界史上稀な平和的移行の模範として国際社会から評価された。
アパルトヘイト廃止後も、経済的格差・土地問題・高い貧困率・治安悪化など、体制下で生まれた構造的不平等は根深く残った。「政治的自由を得たが経済的自由はまだ遠い」という批判は、その後の南アフリカ社会が抱える課題として現在も続いている。
登場人物
人物

ネルソン=マンデラ

ANC指導者・南アフリカ共和国初の黒人大統領(在任1994〜1999年)

1918年生まれ。弁護士として黒人の権利運動に参加し、武装闘争組織の設立に関与したとして1964年に終身禁固刑を受けた。27年間の獄中生活を経て1990年に釈放され、デクラークとの交渉を主導した。1994年の大統領就任後、真実和解委員会を設置して和解政策を推進した。2013年没。

フレデリク=ウィレム=デクラーク

南アフリカ共和国大統領(在任1989〜1994年)

国民党の政治家として大統領に就任後、アパルトヘイト体制の維持が経済的・政治的に限界に達していると判断し、改革路線に転換。1990年のマンデラ釈放と主要法の廃止を断行した。マンデラとのノーベル平和賞受賞後、ANC政権下で副大統領を務めた。

デズモンド=ツツ

南アフリカ聖公会大主教・真実和解委員会委員長

アパルトヘイト反対運動の精神的指導者の一人として国際的に知られた。1984年にノーベル平和賞受賞。マンデラ政権下で真実和解委員会の委員長を務め、公開証言による和解プロセスを主導した。

オリバー=タンボ

ANC議長(亡命政権の指導者)

マンデラの獄中期間中、ANCの亡命政権をザンビアなどで率い、国際社会への働きかけを続けた。体制崩壊を見届けることなく1993年に死去したが、南アフリカの解放運動を海外から支えた功績は大きい。

キーワード解説
用語
アパルトヘイト
アフリカーンス語で「分離・隔離」を意味する語。1948年から南アフリカで法制化された人種隔離政策の総称。居住・教育・交通・政治参加など生活全般にわたって人種ごとの分離を強制した。
アフリカ民族会議(ANC)
1912年に設立された南アフリカの黒人解放運動の中心組織。アパルトヘイト反対運動を主導し、1994年の選挙で勝利して与党となった。英語では African National Congress。
バンツースタン(ホームランド)
アパルトヘイト体制下で黒人に割り当てられた指定居住区。南アフリカ全体の約13%の土地に黒人人口の大部分を押し込め、都市部への移動を制限するための制度的装置として機能した。
真実和解委員会(TRC)
1995年に設立されたマンデラ政権の和解機関。アパルトヘイト時代の人権侵害の加害者が公開の場で真実を告白すれば訴追を免除する仕組みを採用し、報復でなく和解を優先した。英語では Truth and Reconciliation Commission。
虹の国(レインボー・ネーション)
デズモンド=ツツが提唱し、マンデラが新生南アフリカのスローガンとして広めた表現。黒・白・カラード・インド系など多様な民族が共存する多文化国家を虹になぞらえた。
もっと知りたい
豆知識

1マンデラが最初に読んだ新聞の見出し

1990年2月11日の釈放直後、マンデラは27年ぶりに自由の身となった。報道によれば、釈放翌日の朝刊に書かれた見出しを読み、「世界がこれほど変わったとは」と述べたとされる。収監中は外部情報がほぼ遮断されていたため、釈放後に急速に変化した世界に適応する必要があった。

2選挙当日は行列が国中に延びた

1994年4月27日の選挙当日、投票所には夜明け前から人々が並び、地方によっては数時間待ちの行列が生じた。特に高齢の黒人有権者は生まれて初めて投票する機会を得たとして感涙する場面が世界中に放映され、象徴的な映像として記録されている。

3ロベン島はユネスコ世界遺産に登録された

マンデラが18年間収監されたロベン島刑務所は、1999年にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に登録された。現在は博物館として公開されており、かつての政治犯が案内役を務めることもある。島はケープタウン沖の大西洋上に位置する。

4デクラークとマンデラは「敵対する賞賛者」と呼ばれた

ノーベル平和賞の授賞式(1993年12月、オスロ)では、マンデラとデクラークがそれぞれ異なる演説を行いながらも共同で壇上に立った。両者の関係は交渉の過程で何度も危機に瀕したが、最終的に和解の象徴として世界に提示されることとなった。

54月27日は南アフリカの祝日「自由の日」

1994年の選挙が行われた4月27日は、現在も南アフリカで「自由の日(フリーダム・デー)」として国民の祝日に制定されている。アパルトヘイト廃止と民主主義の到来を記念する日として、毎年各地で式典が開催される。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1994年。語呂は「行く救し(1994)アパルトヘイト撤廃」。
初の全人種参加による総選挙が実施され、ANC(アフリカ民族会議)が勝利した。
ネルソン=マンデラが南アフリカ初の黒人大統領として就任した(在任1994〜1999年)。
デクラーク大統領が1990年にマンデラを釈放し主要なアパルトヘイト関連法を廃止した改革の流れが前提。
1993年にマンデラとデクラークがノーベル平和賞を共同受賞した点が問われることがある。
アパルトヘイトの開始は1948年(国民党の政権獲得)。廃止まで約半世紀が経過している点を押さえる。
語呂クイズ
「行く救し(1994)アパルトヘイト撤廃」= 南アフリカでアパルトヘイトが撤廃されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. アパルトヘイトとはどのような政策でしたか?
A. アフリカーンス語で「分離・隔離」を意味し、1948年から南アフリカで法制化された人種隔離政策です。白人・カラード・インド系・黒人を法律で分類し、居住地域・学校・交通機関・政治参加などあらゆる面で人種ごとに分離しました。特に黒人は政治的権利を剥奪され、都市部への移動にも通行証が必要でした。
Q. なぜ1994年にアパルトヘイトが終わったのですか?
A. 複数の要因が重なりました。国際社会の経済制裁で白人政権の経済が圧迫されたこと、国内の激しい抵抗運動、冷戦終結でANCを反共勢力として封じ込める論理が失われたことなどです。これを受けたデクラーク大統領が1990年に改革路線に転換し、マンデラ釈放と法律廃止を断行したことで交渉による移行が可能になりました。
Q. ネルソン=マンデラはなぜ27年も投獄されていたのですか?
A. マンデラはANCの武装組織「民族の槍」の設立に関与したとして国家反逆罪などで起訴され、1964年のリボニア裁判で終身禁固刑を受けました。1990年にデクラーク大統領が釈放を決断するまで、ロベン島などの刑務所に27年間収監されていました。
Q. マンデラはなぜ白人を報復しなかったのですか?
A. マンデラは報復が新国家建設を妨げると考え、和解政策を徹底しました。「虹の国」のスローガンを掲げ、真実和解委員会を設置して過去の人権侵害を告白した加害者を訴追免除とする方式を採用しました。ただし経済的不平等の是正は遅々として進まず、和解政策に対する評価は今日でも分かれています。
Q. アパルトヘイト廃止後の南アフリカはどうなりましたか?
A. 政治的には民主化が実現しましたが、アパルトヘイト時代に生み出された経済格差・土地所有の不平等・高い失業率・治安問題は依然として深刻です。「政治的自由は得たが経済的自由はまだ遠い」という批判が続いており、1994年の転換点がゴールではなく出発点であったことは現在も南アフリカ社会の課題として認識されています。
まとめ

アパルトヘイトの撤廃は、半世紀近くにわたって人々を肌の色で分け隔ててきた制度が、平和的な対話と選挙によって終焉を迎えた歴史的な出来事です。27年間の獄中生活を経て大統領に就任したマンデラが「報復より和解」を選んだことは、世界史上まれに見る政治的決断として高く評価されています。「行く救し(1994)アパルトヘイト撤廃」の語呂とともに、1948年の法制化・1990年のマンデラ釈放・1993年のノーベル平和賞・1994年の総選挙という流れを押さえておきましょう。この出来事は、人種差別への国際的な闘いが一つの節目を迎えたと同時に、経済的不平等の解消という次の課題を提示した出発点でもありました。

編集メモ(ファクト)
アパルトヘイト関連法の廃止時期については、主要法は1991年に廃止されたが完全な法的撤廃は段階的に進んだ経緯があるため、本文では「1991年に主要法が廃止」と記述し、体制の完全終焉を1994年の選挙・政権交代に置いた。
真実和解委員会(TRC)はマンデラ就任後の1995年に設置されたが、what・termsで本事象の意義として記述した。
デクラークの改革の動機については「経済的限界」「冷戦終結」など複数の要因が歴史家によって重視度が異なるため、本文では断定を避け複合的な記述とした。
related は世界史サイト内の指定IDとして 1884-berlin-conference・1960-year-of-africa を記載。存在しない場合は削除すること。