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東西ドイツが統一されるのイラスト
高校/政治
1990

東西ドイツが統一される

コール(西ドイツ首相)
語呂
覚え方
行く暮れ(1990)東西ドイツ統一
いくくれ(1990)ドイツとういつ

1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに正式に編入され、第二次世界大戦後45年間にわたって分断されていたドイツが一つの国家として再出発しました。直接の引き金は前年1989年11月のベルリンの壁崩壊でしたが、統一実現には西ドイツ首相ヘルムート・コールの外交力、東欧革命の波、ソ連のゴルバチョフ政権の容認、そして米英仏ソ4か国の同意を取り付けた「2プラス4条約」の締結が不可欠でした。統一は東ドイツが西ドイツの基本法(憲法)に合流する形で行われ、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が東側5州を吸収するかたちで実現しました。統一後は旧東ドイツ地域の経済格差の解消が長期的な課題となりました。

この記事のポイント

  • 1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに編入される形でドイツが統一
  • 直接の契機は1989年11月9日のベルリンの壁崩壊(統一は翌1990年)
  • 西ドイツ首相コールが「10か条プログラム」を提唱し、統一交渉を主導
  • 米英仏ソと東西ドイツの「2プラス4条約」でソ連・周辺国の同意を取得
  • 統一後は旧東ドイツの経済再建(連帯税導入など)が長期的な課題に
ここが面白い

「壁が崩れた」1989年と「国が一つになった」1990年は別の出来事。多くの人が混同するが、統一まではさらに1年かかっていた。

ここに至るまでの流れ
背景

東西ドイツの統一は突然起きたわけではありません。第二次世界大戦後の冷戦構造と1980年代末のソ連・東欧の変動が複合的に絡み合っていました。

戦後ドイツの分断

1945年、第二次世界大戦に敗れたドイツは米英仏ソの4か国に分割占領された。1949年、西側3か国の占領区が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に、ソ連占領区が東ドイツ(ドイツ民主共和国)に。首都ベルリンも東西に分断された。東ドイツでは共産党一党支配のもと、自由な移動・表現が厳しく制限された。

ベルリンの壁と東ドイツ社会

1961年、東から西への住民流出を止めるため、東ドイツが一夜にしてベルリンの壁を建設した。壁はドイツ分断の象徴となり、約28年間にわたって東西を隔てた。東ドイツは社会主義計画経済を維持したが、西ドイツとの生活水準の格差は年々広がった。

ゴルバチョフの登場と東欧革命(1989年)

1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(情報公開)を推進し、東欧各国の内政への軍事介入を行わない方針を示した。1989年には東欧各国で民主化運動が連鎖的に拡大(東欧革命)。東ドイツでも「月曜デモ」が各地に広がり、ホーネッカー書記長が辞任した。

ベルリンの壁崩壊(1989年11月)

1989年11月9日、東ドイツ政府が旅行自由化を発表した際の記者会見での言い誤りが引き金となり、市民がベルリンの壁に殺到して壁が開放された。これは統一の直接の契機となったが、統一自体は翌1990年10月3日まで実現しなかった点に注意が必要である。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

コールの「10か条プログラム」

≒ 経営統合の青写真を電撃発表するようなもの

1989年11月末、西ドイツ首相コールが議会で段階的なドイツ統一構想「10か条プログラム」を発表。当初は段階的連邦制を想定していたが、東ドイツ市民の民主化の勢いを受けて、速やかな統一へと加速した。

2プラス4条約の締結

≒ 大国の拒否権をすべて取り除く根回し外交

東西ドイツの2か国と米英仏ソの4か国が交渉した「2プラス4条約」(1990年9月12日署名)。ドイツのNATO帰属継続、旧東ドイツ地域へのNATO軍不配置、ポーランドとの国境線の確認などを取り決め、連合国の同意を正式に取り付けた。

東ドイツの西ドイツへの編入(10月3日)

≒ 吸収合併の完了、看板掛け替えの日

1990年10月3日、東ドイツの5州(メクレンブルク=フォアポンメルン、ブランデンブルク、ザクセン=アンハルト、テューリンゲン、ザクセン)が西ドイツ基本法23条に基づいて加盟。ドイツ連邦共和国が16州体制となり、統一ドイツが誕生した。

前後のできごと
年表
1945
分断の始まり第二次世界大戦終結。ドイツが米英仏ソ4か国に分割占領される。
1949
東西分立西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)がそれぞれ建国。
1961
壁の建設東ドイツが一夜にしてベルリンの壁を建設。東西の往来が遮断される。
1985
ゴルバチョフ就任ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカ・グラスノスチを推進。
1989
壁崩壊11月9日、ベルリンの壁が開放される。東欧革命の波がドイツにも及ぶ。(統一はまだ)
1990
通貨統合7月1日、東西ドイツが通貨・経済・社会同盟を締結し、西ドイツのマルクが東ドイツでも流通。
1990
2プラス4条約9月12日、東西ドイツ+米英仏ソが条約に署名。連合国が統一ドイツの主権を認める。
1990
統一10月3日、東ドイツが西ドイツ基本法に基づき編入され、ドイツが統一される。(統一記念日)
1991
ソ連解体12月、ソ連が解体しCIS(独立国家共同体)に移行。冷戦体制が完全に終結。(統一の翌年)
結果とその後
結果
45年間にわたる東西分断が終わり、冷戦期の象徴的な対立が解消された。ドイツはヨーロッパ最大の経済大国として統合ヨーロッパの中核を担う存在となった。
10月3日の「ドイツ統一の日」は現在も連邦祝日として制定されており、統一の達成が国民的記念日として刻まれている。
旧東ドイツ地域は西ドイツとの間に大きな経済格差があり、インフラ整備・失業対策・産業再建のために巨額の財政移転が必要となった。西ドイツ市民から徴収された「連帯税」は2021年まで約30年間にわたって課税が続いた。
旧東ドイツ住民の中には急激な体制転換による失業・生活困難から「Ostalgie(東ドイツへの郷愁)」を感じる層も生まれ、東西の意識格差は経済統合後も長く残った。
登場人物
人物

ヘルムート・コール

西ドイツ首相(1982〜1998年)

「10か条プログラム」で統一構想を主導し、2プラス4交渉を推進。統一後も初代統一ドイツ首相として8年間政権を担い「統一の父」と称された。

ミハイル・ゴルバチョフ

ソ連共産党書記長

ペレストロイカ・グラスノスチで東欧改革を容認し、東ドイツへの軍事介入を行わない方針を示した。統一ドイツのNATO残留を最終的に容認したことが統一実現の鍵となった。

ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー

西ドイツ外相

コールとともに外交交渉を担い、2プラス4条約の締結に尽力した。のちに東ドイツとなる地域(ハレ近郊)の出身という個人的背景も統一への意欲につながったとされる。

エゴン・クレンツ

東ドイツ国家評議会議長

ホーネッカー辞任後に後継となったが、民主化の波を抑えられず短期間で失脚。統一交渉の途中で東ドイツ側の主体性は事実上失われていった。

ジョージ・ブッシュ(父)

アメリカ大統領

統一ドイツのNATO帰属を強く支持し、ゴルバチョフとの協調でソ連の容認を引き出すうえで重要な役割を果たした。

キーワード解説
用語
2プラス4条約
東西ドイツの2か国と米英仏ソの4か国が1990年9月12日に署名した条約。統一ドイツの国境・安全保障・主権を取り決め、戦勝国4か国がドイツに対して持っていた権限を正式に終了させた。
ベルリンの壁
1961年に東ドイツが建設した、東西ベルリンを隔てる壁。1989年11月9日に開放された。「壁の崩壊(1989)」と「ドイツ統一(1990)」は別の出来事である点に注意。
東欧革命
1989年、ポーランド・ハンガリー・チェコスロバキア・東ドイツ・ルーマニアなど東欧各国で共産党政権が次々と崩壊した一連の民主化運動。ソ連のゴルバチョフが軍事介入を行わなかったことが拡大を許した。
ペレストロイカ・グラスノスチ
ゴルバチョフが推進したソ連の改革路線。ペレストロイカは「改革・再建」、グラスノスチは「情報公開・透明性」を意味する。これが東欧各国の改革意欲を刺激した。
連帯税
ドイツ統一後、旧東ドイツ地域の再建費用を賄うために1991年から課された付加税。西ドイツ市民を中心に所得税・法人税に上乗せして徴収され、2021年に事実上廃止された。
月曜デモ
1989年、東ドイツのライプツィヒを中心に毎週月曜日に行われた大規模な民主化要求デモ。最大時には数十万人が参加し、東ドイツ政府崩壊の直接的な要因となった。
もっと知りたい
豆知識

1「壁崩壊」は東ドイツ幹部の言い間違いが引き金だった

1989年11月9日、東ドイツの幹部ギュンター・シャボウスキーが記者会見で旅行自由化の通達を読み上げる際、「いつから有効か」と問われ「即時、遅延なく」と答えた。実際には翌日以降の予定だったが、テレビ中継を見た市民が壁に殺到し、警備員が押し切られる形で壁が開放された。

2統一当日の午前0時にコールは感激で涙を流した

1990年10月3日の午前0時、ベルリンのライヒスタークの前で統一を祝う式典が行われ、ドイツ国旗が掲揚された。コール首相は感激のあまり涙を流したと伝えられている。

3統一ドイツの初代首都はボンではなくベルリンに決まったが、移転は1999年

統一後もしばらくは西ドイツの首都だったボンに政府機能が置かれた。1991年に連邦議会がベルリンへの首都移転を僅差で可決したが、実際の移転完了は1999年まで待つことになった。

4東ドイツのGDPは西ドイツの約3分の1程度だった

統一時点で旧東ドイツの一人当たりGDPは西ドイツの約30〜40%程度にとどまり、インフラ・設備・産業競争力の格差は甚大だった。統一後の経済格差解消には30年以上かかり、現在もある程度の格差が残っている。

5ソ連はドイツのNATO残留の見返りとして「不拡大の口頭約束」を求めたとされる

ゴルバチョフがNATO残留を容認する際、西側から「NATOを東に拡大しない」という口頭での約束があったとされるが、文書化はされなかった。この「約束」の解釈は後にロシアと欧米の間で繰り返し争点となっている。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
統一年は1990年(10月3日)。語呂は「行く暮れ(1990)東西ドイツ統一」。
ベルリンの壁崩壊(1989年11月)と統一(1990年10月)は別の出来事。1年近い差がある。
統一はドイツ・東欧革命・ソ連解体の順に起きた:1989年(壁崩壊)→1990年(統一)→1991年(ソ連解体)の時系列を押さえる。
統一を主導した西ドイツ首相はヘルムート・コール。「10か条プログラム」が出題されることもある。
2プラス4条約とは何か:東西ドイツ2か国+米英仏ソ4か国で締結した条約で、連合国の権限を終了させ統一を国際的に承認させた。
統一の形は「東ドイツが西ドイツに編入」。対等合併ではなく、西ドイツの基本法のもとに東が加わった点に注意。
語呂クイズ
「行く暮れ(1990)東西ドイツ統一」= 東西ドイツが統一されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ベルリンの壁崩壊(1989年)とドイツ統一(1990年)は同じ出来事ですか?
A. 別の出来事です。壁が崩壊したのは1989年11月9日で、東西間の往来が自由になりました。統一(東西ドイツが一つの国家になること)はその約1年後、1990年10月3日に実現しました。
Q. なぜドイツは45年間も分断されていたのですか?
A. 第二次世界大戦後、ドイツは敗戦国として米英仏ソの4か国に分割占領されたためです。冷戦対立のもと、東側はソ連主導の社会主義国家(東ドイツ)として、西側は民主主義・資本主義国家(西ドイツ)として別々に歩みました。
Q. ソ連はなぜドイツの統一を認めたのですか?
A. ゴルバチョフ政権がペレストロイカで内政・外交を大幅に転換し、東欧への軍事介入をしない方針を取っていたからです。また西ドイツが旧東ドイツの経済支援を申し出るなど、外交的な取り引きもありました。
Q. 2プラス4条約とは何ですか?
A. 1990年9月12日に署名された条約で、東西ドイツ(2)と米英仏ソ(4)の合計6か国が参加しました。統一ドイツの国境・NATO帰属・主権などを取り決め、戦勝国4か国がドイツに対して持っていた権限を正式に終了させた条約です。
Q. 統一後の東ドイツ地域はどうなりましたか?
A. 東ドイツの5州が西ドイツの基本法(憲法)のもとでドイツ連邦共和国に合流しました。ただし旧東ドイツは経済力が大幅に劣っており、インフラ整備・失業対策のために西ドイツ市民から「連帯税」が長年徴収されました。
Q. コール首相とゴルバチョフ以外に重要な人物はいますか?
A. 西ドイツ外相ゲンシャーも統一外交を担いました。またアメリカのブッシュ大統領が統一ドイツのNATO帰属を強く支持し、ゴルバチョフとの橋渡しをしたことも重要です。
まとめ

1990年10月3日の東西ドイツ統一は、第二次世界大戦後45年間の冷戦的分断に終止符を打った歴史的出来事です。1989年のベルリンの壁崩壊(東欧革命)が直接の引き金となりましたが、統一実現にはコール首相の外交力と2プラス4条約による国際的合意が不可欠でした。試験では「壁崩壊(1989)→統一(1990)→ソ連解体(1991)」の時系列と、統一の形が「東の西への編入」であることを正確に押さえましょう。「行く暮れ(1990)東西ドイツ統一」の語呂とともに、コール・ゴルバチョフ・2プラス4条約という3つのキーワードを結びつけて覚えると万全です。

編集メモ(ファクト)
「壁崩壊(1989)」と「統一(1990)」を混同しやすいため、フック・exam_points・FAQで繰り返し区別を強調した。
2プラス4条約の正式名称は「ドイツに関する最終規定条約」。試験では「2プラス4条約」の略称が定着している。
ゴルバチョフへの「NATOの東方不拡大」口頭約束については政治的に争点となる論点のため、「とされる」と留保付きで記述した。
result の負の側面(連帯税・Ostalgie)は断定的な非難ではなく史実として中立的に記述した。
ソ連解体(1991年)は統一(1990年)の翌年であることを明示し、時系列の混同を防いだ。