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高校/政治
1871

ドイツ帝国が成立する

ビスマルク(プロイセン宰相)/ヴィルヘルム1世
語呂
覚え方
いはない(1871)ドイツ統一
いはない(1871)ドイツとういつ

1871年1月18日、プロイセン宰相ビスマルクの主導のもと、フランスの宮殿・ヴェルサイユの鏡の間でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立しました。長年にわたって分立していた多数のドイツ諸邦が、プロイセンを中心にひとつの国家へとまとまった瞬間です。この統一を実現したのは、「鉄血政策」を掲げたビスマルクが仕掛けた三つの戦争(デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争)の勝利でした。オーストリアを含まない「小ドイツ主義」による統一であり、ヨーロッパの中央に強力な統一国家が誕生したことで、列強の勢力均衡は一変しました。

この記事のポイント

  • 1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国が成立
  • プロイセン宰相ビスマルクの「鉄血政策」(軍備増強・武力による統一路線)が主導
  • デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争の三戦争を経て実現
  • オーストリアを除く「小ドイツ主義」による統一
  • ヨーロッパの勢力均衡が一変し、帝国主義競争と第一次世界大戦の遠因となった
ここが面白い

ドイツ帝国誕生の式典は、なぜかフランスのヴェルサイユ宮殿で行われた。約50年後、同じ場所でドイツは講和を強いられることになる。

ここに至るまでの流れ
背景

ドイツ帝国の成立は、ある日突然起きたわけではありません。長い分裂の歴史と、ビスマルクの緻密な外交・軍事戦略が積み重なった結果です。その背景を整理しましょう。

ドイツの分裂状態と統一運動の挫折

かつての神聖ローマ帝国(1806年解体)の後継として「ドイツ連邦」が1815年に形成されたが、実態はプロイセン・オーストリアなど有力諸邦が並立する緩やかな連合体だった。1848年革命のなかでフランクフルト国民議会がドイツ統一を目指したが、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が「革命側からの帝冠」を拒否し、挫折した。

ビスマルクの登場と「鉄血演説」

1862年、プロイセン王ヴィルヘルム1世はオットー・フォン・ビスマルクを首相(宰相)に任命した。ビスマルクはただちに議会に対し「現代の大問題は言論や多数決ではなく、鉄と血によって決される」と演説(いわゆる「鉄血演説」)し、軍拡予算を議会の反対を押し切って実行した。この路線が以後の三戦争を可能にした。

三つの戦争による段階的統一

ビスマルクはデンマーク戦争(1864年)でシュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪取し、普墺戦争(1866年)でオーストリアを排除してプロイセン主導の北ドイツ連邦を結成、さらに普仏戦争(1870〜71年)でフランスを破りアルザス・ロレーヌを獲得した。南ドイツ諸邦は普仏戦争を機にプロイセンへの合流を決断し、ドイツ統一が完成した。

「小ドイツ主義」とオーストリアの排除

ドイツ統一の方式には「大ドイツ主義」(オーストリアを含む)と「小ドイツ主義」(プロイセン主導でオーストリアを除く)の対立があった。普墺戦争でプロイセンがオーストリアを破り、オーストリアはドイツ連邦から脱落した。結果として1871年に成立したドイツ帝国は「小ドイツ主義」による統一となった。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

普仏戦争の勝利とヴェルサイユでの即位式

≒ 敵国の首都で勝利宣言を行う究極の外交パフォーマンス

1871年1月18日、包囲下のパリを眼前に控えたヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝(カイザー)に即位した。場所をあえてフランスの象徴・ヴェルサイユとしたのは、フランスへの圧倒的な優位を示す示威行為でもあった。

鉄血政策による軍備増強

≒ 「話し合いより軍事力で統一を進める方針」

ビスマルクは議会の予算否決を無視して軍拡を断行。当時の言葉で「鉄(武器・鉄道)と血(兵士)」が統一の手段であるとし、実際に三つの戦争を経て統一を実現した。

ドイツ帝国憲法の制定

≒ 連邦国家としての枠組みづくり

1871年に帝国憲法が制定され、プロイセン国王がドイツ皇帝を兼ね、宰相が強い権限を持つ連邦国家が発足した。ビスマルクは初代宰相として帝国の実権を握った。

前後のできごと
年表
1815
ドイツ連邦成立ウィーン会議後、プロイセン・オーストリアなど35諸邦によるドイツ連邦が成立。統一国家ではなく緩やかな連合体。
1848
フランクフルト国民議会革命の波のなか、統一ドイツ国家を目指す国民議会が開かれたが、プロイセン国王の拒否で挫折。
1862
ビスマルク首相就任ヴィルヘルム1世がビスマルクを宰相に任命。「鉄血演説」で武力統一路線を宣言。
1864
デンマーク戦争プロイセン・オーストリア連合がデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを獲得。
1866
普墺戦争プロイセンがオーストリアを破り(サドワの戦い)、北ドイツ連邦を結成。オーストリアはドイツから排除された。
1870
普仏戦争開戦スペイン王位継承問題を契機にフランスが宣戦。プロイセン軍がフランスを圧倒し、ナポレオン3世が捕虜となった(スダンの戦い)。
1871
ドイツ帝国成立1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位。5月のフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌをフランスから獲得。
結果とその後
結果
ドイツが統一された強力な国民国家となり、短期間で欧州最大級の工業・軍事大国に成長した。
ヨーロッパの勢力均衡が崩れ、英・仏・露との対立が深まった。ビスマルク引退後のドイツは列強との緊張を高め、帝国主義競争の主役となった。
フランスはアルザス・ロレーヌを奪われ、対独復讐感情(仏語でレヴァンシュ)が高まった。これが第一次世界大戦へ至る欧州の緊張の一因となった。
1919年のヴェルサイユ条約調印が同じヴェルサイユ宮殿で行われ、ドイツは今度は敗者として過酷な条件を受け入れることになった。歴史の皮肉として語り継がれている。
登場人物
人物

オットー・フォン・ビスマルク

プロイセン宰相(初代ドイツ帝国宰相)

「鉄血宰相」の異名を持つ。三戦争を仕掛けてドイツ統一を主導し、帝国成立後も「ビスマルク外交」で欧州の平和維持を図ったが、1890年にヴィルヘルム2世に解任された。

ヴィルヘルム1世

プロイセン国王・初代ドイツ皇帝

1871年1月18日、ヴェルサイユの鏡の間でドイツ皇帝に即位。自身は「プロイセン国王」の立場にこだわり、皇帝号の受け入れに当初消極的だったとも伝わる。

ナポレオン3世

フランス皇帝

普仏戦争中のスダンの戦い(1870年)で捕虜となり、第二帝政が崩壊。プロイセンの圧勝によりドイツ統一が加速した。

ヴィルヘルム2世

第3代ドイツ皇帝

ビスマルクを解任し独自の「世界政策(ヴェルトポリティーク)」を進め、第一次世界大戦への道を歩んだ。

キーワード解説
用語
鉄血政策
ビスマルクが掲げた統一方針。「鉄(兵器・鉄道)と血(兵士の命)」によって、つまり軍事力によってドイツ統一を成し遂げるという路線。議会の反対を押し切って軍拡を断行した。
小ドイツ主義
オーストリアを除き、プロイセンを中心にドイツ統一を実現しようとする考え方。対語は「大ドイツ主義」(オーストリアを含む統一論)。1866年の普墺戦争勝利で小ドイツ主義が実現した。
普仏戦争
1870〜71年、プロイセン(ドイツ諸邦連合)とフランスの戦争。プロイセンが勝利し、アルザス・ロレーヌを獲得。この戦争がドイツ統一の最後のピースとなった。
鏡の間
ヴェルサイユ宮殿内の大広間。1871年1月18日にドイツ帝国成立の式典が行われた場所。1919年にはヴェルサイユ条約の調印式も同室で行われた。
北ドイツ連邦
普墺戦争(1866年)後に成立したプロイセン主導の連邦国家。マイン川以北の諸邦が加盟。普仏戦争後に南ドイツ諸邦が加わり、ドイツ帝国へと発展した。
アルザス・ロレーヌ
フランス東部の地域。普仏戦争後にドイツが獲得。豊富な鉄鉱石資源を持ち、フランス国民の対独感情を激化させた。第一次世界大戦後にフランスへ返還された。
もっと知りたい
豆知識

1式典場所があえて「敵国」フランスのヴェルサイユだった

ドイツ帝国成立の式典がフランスの宮殿・ヴェルサイユで行われたのは偶然ではない。当時プロイセン軍はパリを包囲しており、ヴェルサイユはその司令部となっていた。敵国の象徴的な宮殿で皇帝即位を宣言したことは、フランスへの屈辱であり、ドイツの圧倒的勝利を誇示する演出だった。この屈辱は約50年後の1919年、今度はドイツが同じ場所でヴェルサイユ条約に調印させられる「歴史の逆転」につながった。

2ビスマルクは「鉄血演説」を後悔していた

ビスマルクの「鉄血演説」(1862年)は軍拡強行の宣言として有名だが、本人は晩年「あの演説は若気の至りだった」と回想したといわれる。実際、統一後のビスマルクは慎重な多国間外交(ビスマルク体制)によって欧州の平和維持に努め、帝国主義的な膨張には消極的だった。

3ヴィルヘルム1世は「皇帝」号を嫌がっていた

ヴィルヘルム1世は「ドイツ皇帝」への即位に当初乗り気でなく、式典前日の夜にビスマルクに不満を漏らしたと伝わる。「プロイセン国王」としてのアイデンティティが強く、帝号は他の諸邦との関係上つけざるを得ないものとして受け入れた側面があった。

4普仏戦争の賠償金50億フランがドイツの工業化を加速させた

フランクフルト条約(1871年)でフランスはドイツに50億フランという巨額の賠償金を支払った。この資金がドイツの重工業・鉄道投資に流れ込み、1870〜80年代の急速な工業化(「グリュンダーツァイト」)を後押しした。皮肉なことにフランスは2年余りで全額を返済し、ドイツの占領軍は予定より早く撤退させられた。

5ビスマルクは鉄血宰相だが社会保険制度の父でもある

ビスマルクは強権的な印象が強いが、社会主義運動を弱体化させる目的で疾病保険(1883年)・労働災害保険(1884年)・老齢・障害年金保険(1889年)を相次いで制度化した。現代の社会保険制度の先駆けとして評価されており、「アメとムチ」政策の典型例として語られる。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
成立年は1871年。語呂は「いはない(1871)ドイツ統一」。
統一の立役者はビスマルク(宰相)。「鉄血政策」というキーワードとセットで覚える。
三つの戦争の順序:デンマーク戦争(1864)→普墺戦争(1866)→普仏戦争(1870〜71)。
「小ドイツ主義」によりオーストリアを除く統一だった点が頻出。大ドイツ主義との対比で問われる。
即位式がフランスのヴェルサイユ宮殿・鏡の間で行われた点と、1919年の同場所でのヴェルサイユ条約調印との対比は論述問題で頻出。
普仏戦争後にアルザス・ロレーヌをフランスから奪取し、以後の仏独対立の一因となった点を押さえる。
語呂クイズ
「いはない(1871)ドイツ統一」= ドイツ帝国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ビスマルクの「鉄血政策」とはどういう意味ですか?
A. 「鉄(兵器・鉄道など物的資源)と血(兵士の命)」によって統一を実現するという方針です。平和的な外交交渉や議会の多数決ではなく、軍事力をもって統一を成し遂げるという宣言です。現代でいうと「話し合いより軍事力で統一を進める方針」に相当します。
Q. 「小ドイツ主義」とは何ですか?「大ドイツ主義」と何が違うのですか?
A. 大ドイツ主義はオーストリアを含む全ドイツ人の統一を目指す考え方、小ドイツ主義はオーストリアを除いてプロイセン主導で統一しようとする考え方です。1866年の普墺戦争でプロイセンがオーストリアを破り、小ドイツ主義による統一が実現しました。
Q. なぜ式典がフランスのヴェルサイユ宮殿で行われたのですか?
A. 普仏戦争中にプロイセン軍がパリを包囲しており、ヴェルサイユは当時の司令部として使用されていました。敵国フランスの象徴的宮殿での式典は、ドイツの圧倒的勝利を示す示威行為でもありました。
Q. ドイツ統一後、ヨーロッパはどう変わりましたか?
A. 欧州の中央に強力な統一国家ドイツが誕生し、既存の勢力均衡が崩れました。ビスマルク在任中は巧みな外交で安定を保ちましたが、1890年にビスマルクが解任された後、ドイツは積極的な植民地獲得政策(世界政策)に転じ、英・仏・露との対立が深まり、第一次世界大戦への遠因となりました。
Q. 普仏戦争でフランスから何を奪いましたか?
A. アルザス・ロレーヌ地方と50億フランの賠償金を獲得しました。アルザス・ロレーヌは豊富な鉄鉱石資源を持ち、フランス国民の間に強い対独感情を生みました。この地方は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約でフランスに返還されました。
まとめ

1871年のドイツ帝国成立は、ビスマルクの「鉄血政策」とデンマーク・普墺・普仏の三戦争による段階的統一の成果です。「小ドイツ主義」によりオーストリアを除く統一となった点、即位式がフランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間で行われた点(1919年の同場所でのヴェルサイユ条約調印との対比)は論述でも問われる重要事項です。「いはない(1871)ドイツ統一」の語呂とともに、三戦争の順序・小ドイツ主義・普仏戦争後のアルザス・ロレーヌ獲得という4点を押さえましょう。

編集メモ(ファクト)
「鏡の間」での即位式の日付は1871年1月18日。プロイセン王国建国記念日(1701年1月18日)に合わせた日取りとされる。
「鉄血演説」の正確な日付は1862年9月30日。ビスマルクが予算委員会で行った発言が元になっており、「鉄と血」の語順は演説の文脈では「血と鉄」が正確だが、「鉄血」として定着している。
ビスマルクの社会保険制度については試験で問われることは少ないが、「鉄血宰相=強権のみ」という単純なイメージを避けるためにtriviaで補足した。
result の負の側面はフランスの立場・ヴェルサイユの皮肉・後の大戦との関連として中立的に記述した。