中学/政治
1989
冷戦が終結する(ベルリンの壁崩壊)
ゴルバチョフ
語呂
覚え方
行く約束(1989)ベルリンの壁崩壊
いくやく(1989)ベルリンのかべほうかい
1989年11月9日夜、東ドイツ当局者の記者会見でのひと言をきっかけに、ベルリン市民が壁に押し寄せ、28年間人々を隔ててきたベルリンの壁が崩れ落ちました。その年の秋だけでポーランド・ハンガリー・チェコスロバキア・ルーマニアなど東欧各国で次々と共産主義政権が倒れ、12月にはマルタ島で米ソ首脳(ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長)が会談し、冷戦の終結を宣言しました。第二次世界大戦後40年以上続いた「直接は戦わないが、あらゆる面で張り合う長い緊張状態」が、ここに幕を閉じたのです。
この記事のポイント 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊(壁の建設は1961年) 1989年の東欧革命でポーランド・ハンガリー・チェコスロバキアなど共産主義政権が相次いで崩壊 1989年12月、マルタ会談(米ブッシュ・ソ連ゴルバチョフ)で冷戦終結を宣言 背景にはゴルバチョフのペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)がある 冷戦終結(1989)とソ連解体(1991)は別の出来事であることに注意
ここが面白い ベルリンの壁は「東ドイツ政府のうっかり発表」が引き金で崩れた。担当者が記者会見で「今すぐ有効」と誤って答えたのが始まりだった。
冷戦の終結は突然起きたわけではありません。40年以上続いた米ソ対立の構造と、ソ連内部の矛盾の蓄積が背景にあります。
冷戦とは何か 第二次世界大戦後、アメリカ(資本主義・自由主義)とソ連(社会主義・共産主義)は直接の軍事衝突を避けながらも、核軍拡・代理戦争・宇宙開発・イデオロギー宣伝などあらゆる面で激しく対立しました。この「直接は戦わないが、あらゆる面で張り合う緊張状態」を冷戦(Cold War)と呼びます。ヨーロッパは西側(NATO)と東側(ワルシャワ条約機構)に分断され、ドイツは東西に分割されました。
ベルリンの壁建設(1961年) 東ドイツから西側へ逃亡する市民が急増したため、東ドイツ政府は1961年8月13日に突然ベルリンを分断する壁の建設を開始しました。全長155キロメートルに及ぶ壁は、家族を引き離し、東西ベルリン市民の往来を完全に遮断しました。壁の建設は1961年、崩壊は1989年であり、28年間にわたって存在しました。
ソ連の国力低下とゴルバチョフの登場 1970年代からのアフガニスタン侵攻(1979年)や軍拡競争によりソ連の経済は疲弊しました。1985年に若いゴルバチョフが共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(政治・経済の再構築)とグラスノスチ(情報公開・言論の自由化)を掲げて改革を進めました。また、東欧諸国への軍事介入を行わない「新思考外交」を表明し、東欧の民主化運動を容認する姿勢を示しました。
東欧民主化ドミノ(1989年) 1989年、ゴルバチョフの改革路線を受けて東欧諸国で民主化の波が連鎖しました。ポーランドでは自主管理労組「連帯」が選挙で勝利、ハンガリーはオーストリアとの国境を開放し東ドイツ市民の脱出口となりました。チェコスロバキアでは「ビロード革命」が起き、ルーマニアではチャウシェスク政権が崩壊しました。東ドイツでも大規模なデモが続き、政府は圧力に屈しました。
ベルリンの壁崩壊 ≒ 28年間続いた分断の象徴的な終わり 1989年11月9日夜、東ドイツ当局者が記者会見で「国境開放は今すぐ有効」と誤って発表。市民が壁に殺到し、東西双方から人々が壁を壊し始めた。
マルタ会談 ≒ 長年のライバルが「もう戦争はしない」と握手した瞬間 1989年12月2〜3日、地中海のマルタ島沖の船上で米ブッシュ大統領とソ連ゴルバチョフ書記長が会談し、冷戦の終結を共同宣言した。
東欧革命の連鎖 ≒ 一つのドミノが次々と倒れた年 1989年だけでポーランド・ハンガリー・東ドイツ・チェコスロバキア・ブルガリア・ルーマニアで共産主義政権が相次いで崩壊または民主化した。
1947 冷戦始まり トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランで米ソ対立が鮮明化し、冷戦が本格化した。
1961 壁建設 東ドイツ政府が8月13日にベルリンの壁建設を開始。東西ベルリンを完全に分断した。
1979 ソ連がアフガン侵攻 ソ連がアフガニスタンに軍事介入。泥沼化し国力を大幅に消耗する原因となった。
1985 ゴルバチョフ就任 ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任。ペレストロイカ・グラスノスチを推進した。
1989 東欧革命・壁崩壊 東欧各国で民主化革命が連鎖。11月9日にベルリンの壁崩壊、12月にマルタ会談で冷戦終結宣言。
1990 東西ドイツ統一 10月3日、東西ドイツが統一。分断から45年ぶりに一つのドイツが誕生した。
1991 ソ連解体 12月にソ連が解体し、15の共和国が独立。ロシア連邦などが誕生した(冷戦終結とは別の出来事)。
◎ 東西冷戦の構造が崩れ、ヨーロッパの分断が解消された。NATO・EUの東方拡大が進み、多くの旧東欧諸国が民主主義・市場経済へ移行した。
◎ 1990年に東西ドイツが統一。分断から45年ぶりに一つのドイツが誕生した。
△ ソ連の解体(1991年)に伴い、核兵器の管理や民族紛争(ユーゴスラビア内戦など)が新たな国際問題として浮上した。
ミハイル・ゴルバチョフ ソ連共産党書記長(1985〜1991年) ペレストロイカとグラスノスチを推進し、東欧への軍事介入を行わない新思考外交を表明。マルタ会談で冷戦終結を宣言した立役者。1990年にノーベル平和賞を受賞。
ジョージ・H・W・ブッシュ アメリカ大統領(1989〜1993年) マルタ会談でゴルバチョフとともに冷戦終結を宣言。ドイツ統一の外交的枠組み作りを主導した。
ヘルムート・コール 西ドイツ首相 東西ドイツ統一を政治的に主導した。1990年の統一後も統一ドイツの初代首相となった。
レフ・ワレサ ポーランドの労働運動指導者 自主管理労組「連帯」の指導者として東欧民主化の先駆けとなった。1989年の選挙での勝利を経て、1990年にポーランド大統領に就任。1983年にノーベル平和賞受賞。
エーリッヒ・ホーネッカー 東ドイツ国家評議会議長 長年東ドイツを統治したが、1989年の民主化運動の高まりの中で同年10月に解任された。
冷戦(Cold War) 第二次世界大戦後から1989年まで続いた、米(資本主義・自由主義)とソ(社会主義・共産主義)の間の直接の軍事衝突を避けた対立状態。核軍拡・代理戦争・宇宙開発競争・イデオロギー宣伝などあらゆる面での争いを指す。
ペレストロイカ ロシア語で「再構築」の意。ゴルバチョフが推進したソ連の政治・経済改革政策。硬直した計画経済や官僚制の改革を目指した。
グラスノスチ ロシア語で「情報公開」「透明性」の意。ゴルバチョフが推進した言論・情報の自由化政策。これまで隠されてきた社会問題や政府の失敗が公に議論されるようになった。
新思考外交 ゴルバチョフが掲げた外交方針。イデオロギー対立を超えた協調を重視し、東欧諸国への軍事介入を行わないことを表明した。東欧の民主化を容認する姿勢につながった。
マルタ会談 1989年12月2〜3日、地中海のマルタ島沖の船上で開かれた米ソ首脳会談。ブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長が冷戦の終結を共同宣言した。
1 壁崩壊は「誤った発表」がきっかけだった1989年11月9日、東ドイツ共産党のシャボウスキー報道官が記者会見で国境開放の新方針を発表した際、記者から「いつから有効ですか」と問われ、手元のメモを確認しながら「すぐに、遅滞なく(ただちに)」と答えてしまった。本来は翌日以降に丁寧な手続きを踏む予定だったが、この発言がラジオ・テレビで即座に報道され、市民が壁に殺到した。
2 ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞した冷戦終結への貢献を評価され、ゴルバチョフは1990年にノーベル平和賞を受賞した。しかし国内では経済混乱や民族問題を招いたとして批判も強く、1991年にはクーデター未遂が起き、同年12月にソ連は解体した。
3 冷戦終結(1989)とソ連解体(1991)は別の出来事よく混同されるが、冷戦の終結は1989年12月のマルタ会談での宣言であり、ソ連の解体は1991年12月のことである。冷戦が終わってもソ連はしばらく存在しており、この2年の差を試験でも問われることがある。
4 壁の建設は1961年、崩壊は1989年の28年間ベルリンの壁は1961年8月13日に建設が始まり、1989年11月9日に崩壊した。この28年間に壁を越えようとして命を落とした東ドイツ市民は少なくとも140人以上とされる。壁の総延長は約155キロメートルに及んだ。
5 マルタ会談は船の上で行われた地中海のマルタ島沖に停泊した船上でブッシュとゴルバチョフが会談した。嵐で予定が遅れるほど天候が荒れ、「嵐の中での平和宣言」となった。この会談で東西対立の終わりが正式に宣言されたことから、会談地の名を冠して「マルタ体制」と呼ぶこともある。
ここが出る 博士のワンポイント
冷戦終結の年は1989年。語呂は「行く約束(1989)ベルリンの壁崩壊」。
ベルリンの壁の建設は1961年、崩壊は1989年。「建設=1961年・崩壊=1989年」のセットで覚える。
冷戦終結(1989年・マルタ会談)とソ連解体(1991年)は別の出来事であることが頻出。
ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が冷戦終結の背景として重要。
東西ドイツ統一は1990年。冷戦終結(1989)→ドイツ統一(1990)→ソ連解体(1991)の流れで覚える。
マルタ会談の出席者:アメリカ=ブッシュ大統領、ソ連=ゴルバチョフ書記長。
語呂クイズ
「行く約束(1989)ベルリンの壁崩壊」= 冷戦が終結する(ベルリンの壁崩壊)は西暦何年?
1980 1989 1990
Q. 冷戦とは何ですか? A. 第二次世界大戦後から1989年まで続いた、アメリカ(資本主義・自由主義)とソ連(社会主義・共産主義)の間の対立状態です。直接の軍事衝突(熱い戦争)は行わず、核軍拡・代理戦争・宇宙開発競争などで激しく張り合いました。現代でいうと「直接は戦わないが、あらゆる面で張り合う長い緊張状態」に例えられます。
Q. ベルリンの壁はいつ建てられ、いつ崩れましたか? A. 建設は1961年8月13日、崩壊は1989年11月9日です。28年間にわたって東西ベルリンを分断しました。この2つの年を混同しないようにしましょう。
Q. 冷戦が終わった理由は何ですか? A. 主な理由はソ連の国力低下と、ゴルバチョフによる改革です。ゴルバチョフはペレストロイカ(政治・経済の再構築)とグラスノスチ(情報公開)を推進し、東欧への軍事介入を行わない方針(新思考外交)を表明しました。これにより東欧各国で民主化運動が噴出し、1989年の東欧革命につながりました。
Q. マルタ会談とは何ですか? A. 1989年12月2〜3日に地中海のマルタ島沖の船上で開かれた米ソ首脳会談です。アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が会談し、冷戦の終結を共同宣言しました。
Q. 冷戦終結(1989年)とソ連解体(1991年)はどう違いますか? A. 冷戦終結は1989年12月のマルタ会談で米ソが「対立をやめる」と宣言した出来事です。一方、ソ連解体は1991年12月にソ連という国家そのものが15の共和国に分かれてなくなった出来事です。冷戦が終わってもソ連は約2年間存在していました。試験でも区別を問われるので注意しましょう。
Q. 東西ドイツ統一はいつですか? A. 1990年10月3日です。冷戦終結(1989年)の翌年に実現しました。西ドイツ首相のヘルムート・コールが主導し、分断から45年ぶりに一つのドイツとなりました。
1989年はヨーロッパと世界の地図を大きく塗り替えた年です。11月9日のベルリンの壁崩壊と、12月のマルタ会談での冷戦終結宣言は、40年以上続いた米ソ対立に終止符を打ちました。背景にはゴルバチョフのペレストロイカ・グラスノスチという改革路線があり、東欧各国の民主化ドミノがその引き金となりました。試験対策では「壁建設=1961年・崩壊=1989年」「冷戦終結(1989)とソ連解体(1991)は別」「マルタ会談=ブッシュ+ゴルバチョフ」の3点が最重要です。「行く約束(1989)ベルリンの壁崩壊」の語呂とともに、東欧革命→壁崩壊→マルタ会談→ドイツ統一(1990)→ソ連解体(1991)という流れを押さえましょう。
編集メモ(ファクト) ベルリンの壁崩壊の直接のきっかけはシャボウスキー報道官の記者会見での誤発表とされるが、背景に大規模なデモや政府の政策転換があったことも踏まえ、「誤発表が引き金」という表現を採用した。 冷戦の終結時期については諸説あるが、マルタ会談(1989年12月)での共同宣言を終結の画期として採用した。これは多くの教科書・参考書の定説的扱いに従う。 ベルリンの壁崩壊後の市民の行動(壁を壊す)は実際は数日〜数週間かけて進行したが、「崩壊」という表現は11月9日の出来事を指す慣例に従った。 ソ連解体(1991年)は別ページ(1991-soviet-collapse)で詳述する前提で、本ページでは冷戦終結(1989)との区別を強調することに重点を置いた。