高校/戦争
1980
イラン・イラク戦争が始まる
イラン/イラク(フセイン)
語呂
覚え方
行く晴れ(いくはれ)(1980)イラン・イラク戦争
いくはれ(1980)イラン・イラク戦争
1980年9月、イラクのサダム・フセイン大統領は隣国イランへの大規模な軍事侵攻を開始しました。両国の国境であるシャットゥルアラブ川の領有権をめぐる長年の対立、そして1979年のイラン革命でイスラム教シーア派政権が誕生したことへの周辺国の警戒が背景にありました。イラクはわずか数週間でイランを制圧できると見込みましたが、戦争は8年間にわたる泥沼の消耗戦へと発展。化学兵器の使用や大規模な市民への攻撃など、近代戦争の残虐さが際立つ戦いとなりました。1988年に国連の仲介で停戦が成立しましたが、勝者なき終戦であり、国境問題は解決されないままでした。この戦争が中東の不安定化を深め、その後の湾岸戦争(1991年)へとつながっていきます。
この記事のポイント 1980年9月、イラクのサダム・フセインがイランに軍事侵攻して開戦 背景には国境(シャットゥルアラブ川)の領有権争いと、イラン革命によるシーア派政権誕生への周辺国の警戒があった 8年間の消耗戦となり、両国合わせて100万人以上ともいわれる死傷者が出た イラクが化学兵器を使用し、国際的な非難を浴びた(クルド人への使用を含む) 1988年に国連仲介で停戦したが、領土・賠償など主要問題は未解決のままで、その後の湾岸戦争の遠因となった
ここが面白い 「8年間戦い続けて、国境線はほとんど変わらなかった」——100万人以上ともいわれる死傷者を出しながら、何も決まらないまま終わった戦争が、現代中東の混乱を生み出す原点となった。
イラン・イラク戦争は突然始まったのではありません。両国の歴史的な国境争い、宗派対立、そして冷戦下の国際政治が複雑に絡み合った末に引き起こされた戦争です。その背景を順に整理しましょう。
シャットゥルアラブ川の領有権争い イランとイラクの国境には、ティグリス川とユーフラテス川が合流してペルシャ湾に注ぐシャットゥルアラブ川(アラビア語名:シャットゥルアラブ、ペルシャ語名:アルワンドルード)が流れています。この川はイラクにとって唯一の海への出口でもあり、両国は長年にわたって領有権を争ってきました。1975年のアルジェ協定でイラン・イラクはいったん川の中央線を国境とすることで合意しましたが、フセインはこの協定をイランに押し付けられた不平等なものと見なし続けていました。
1979年イラン革命の衝撃 1979年、イランではイスラム法学者ホメイニー師が主導するイスラム革命が起き、親米のパフラヴィー朝(シャー政権)が打倒されました。新政権はシーア派イスラムの理念による統治を掲げ、周辺のアラブ諸国(イラクを含む)のシーア派住民にも革命の輸出を呼びかけました。イラクのシーア派は人口の多数派であり、フセインはシーア派革命思想の波及を自政権への脅威として強く警戒しました。
フセインの計算と誤算 革命直後のイランは、軍の将校団が大規模に粛清されて弱体化し、経済も混乱していました。フセインはこの機に乗じれば短期間でイランを制圧し、シャットゥルアラブ川の完全領有と石油産地フーゼスターン州の奪取を実現できると計算しました。しかしイランは革命の熱狂と「殉教」を厭わない民兵(革命防衛隊)の大量動員で激しく抵抗し、戦争は長期の消耗戦へと転化していきました。
冷戦下の国際的な思惑 イラン・イラク戦争には米ソ両超大国と周辺アラブ諸国の思惑も複雑にからみました。米国は当初イラクを支持(イランは1979年のアメリカ大使館人質事件で反米感情が高まっていた)。サウジアラビア・クウェートなどの湾岸アラブ諸国もイラクに巨額の財政支援を提供しました。一方、ソ連は両国に武器を供給しながら影響力を維持しようとし、西欧諸国もイラクへの武器輸出を行いました。この国際的な支援がイラクによる化学兵器開発・使用を可能にした側面もあります。
宗派対立(シーア派 vs スンナ派)が火種に ≒ 宗教的・民族的なマイノリティへの抑圧が国家間紛争に発展する問題 イランはシーア派イスラム国家、イラクはスンナ派が政権を握る国家(人口はシーア派多数)。革命思想の波及を恐れた政権同士の衝突が、宗派対立を国際紛争の軸にした。
化学兵器の実戦使用 ≒ 大量破壊兵器の国際規制と、規制を破った国への国際社会の対応の問題 イラクはマスタードガスや神経剤(タブン・サリン)などの化学兵器をイラン軍に対して使用し、クルド人村落ハラブジャ(1988年)では多数の民間人が犠牲になった。国際社会の非難は限定的にとどまった。
「勝者なき戦争」が中東不安定化を加速 ≒ 解決されない国境問題・債務問題が次の紛争の火種になるリスク 8年間の戦争で両国とも疲弊し、明確な勝者は生まれなかった。イラクは戦争で抱えた巨額の対外債務(特に湾岸諸国向け)の返済をめぐる問題が、1990年のクウェート侵攻(湾岸戦争の発端)につながった。
1975 アルジェ協定 イラン・イラク間でシャットゥルアラブ川の国境を川の中央線とするアルジェ協定が成立。フセインは後にこれを不満として廃棄する。
1979 イラン革命 ホメイニー師指導のイスラム革命によりイランのパフラヴィー朝が崩壊。シーア派イスラム共和国が誕生し、周辺諸国に革命輸出を呼びかける。
1980 開戦(9月) イラクがアルジェ協定の廃棄を宣言し、9月22日にイランへ全面侵攻。初期にはイラク軍がイラン領内に進出するが、イランの激しい抵抗で前線は膠着する。
1982 イランの反攻 イランが革命防衛隊と民兵(バシジ)の大規模動員で反攻に転じ、イラク軍を自国領から駆逐。以後、戦線はイラク領内へと移る。
1984 タンカー戦争 両国がペルシャ湾内の相手国の石油タンカーや施設を攻撃するタンカー戦争が激化。世界の石油供給への影響が国際社会の懸念を呼ぶ。
1986 ファオ半島占領 イランがイラクのファオ半島を占領し、クウェートとの国境に迫る。イラクにとって戦略的に大きな危機となる。
1988 ハラブジャ化学兵器攻撃(3月) イラクがクルド人居住地ハラブジャに化学兵器を使用し、数千人の民間人が死亡。戦争犯罪として国際的に記録される。
1988 停戦(8月) 国連安保理決議598号に基づき8月20日に停戦が成立。前線は開戦前とほぼ同じ位置に戻り、国境・賠償問題の解決は持ち越された。
◎ 1988年8月に国連仲介で停戦が成立し、これ以上の大規模な軍事衝突はいったん回避された。国際社会が大規模な地域紛争への介入姿勢を示す先例ともなった。
△ 両国合わせて100万人以上ともいわれる死傷者を出しながら、国境・賠償・捕虜問題はほぼ未解決のまま終戦した。戦争で膨らんだイラクの対外債務が1990年のクウェート侵攻(湾岸戦争)の遠因となり、中東の不安定化はむしろ加速した。化学兵器使用に対する国際社会の対応が不十分であったことも後世への教訓として指摘される。
サダム・フセイン イラク大統領(在任1979〜2003年) バアス党の強権的指導者。イランへの侵攻を決断したが、戦争は長期化し国内経済を疲弊させた。戦後も政権を維持し、2003年のイラク戦争で失脚・逮捕。2006年に処刑された。
ルーホッラー・ホメイニー イランの最高指導者(在任1979〜1989年) イラン革命を主導し、イスラム共和制の初代最高指導者となった。フセインの侵攻に対してイラン国民の抵抗を鼓舞し、聖戦(ジハード)として戦争継続を支持した。1988年の停戦受け入れを「毒杯を飲むようなもの」と表現した。
ターリク・アジーズ イラク外相・副首相 フセイン政権の外交を担い、国際社会への働きかけを行った。化学兵器使用への国際的批判をかわす外交的役割も果たした。2003年のイラク戦争後に拘束された。
アリー・ハーメネイー イラン大統領(当時・後の最高指導者) 戦時中はイランの大統領(1981〜1989年)として戦争を指導。ホメイニー死去後の1989年に最高指導者に就任し、現在に至るまでイランの最高権力者を務めている。
シャットゥルアラブ川 ティグリス川とユーフラテス川が合流してペルシャ湾に注ぐ川。イランとイラクの国境を流れ、イラクにとって唯一の出海口。領有権をめぐる対立が開戦の直接的な口実となった。
イスラム革命(イラン革命) 1979年にイランで起きた革命。ホメイニー師が率いるイスラム教シーア派勢力が親米のパフラヴィー朝を倒し、イスラム共和制を樹立した。周辺諸国への影響を警戒したことがイラン・イラク戦争の背景の一つ。
化学兵器 マスタードガス・サリン・タブンなど有毒化学物質を使った兵器。イラクがイラン軍やクルド人に対して使用し、国際法(ジュネーブ議定書)違反として問題となった。1997年の化学兵器禁止条約(CWC)締結の遠因にもなった。
革命防衛隊(パスダラン) イラン革命を守るために設立されたイラン独自の軍事組織。正規軍とは別に設置され、戦争ではバシジ(民兵組織)とともに人海戦術を展開してイラク軍に対抗した。
タンカー戦争 1984年ごろから激化した、ペルシャ湾内で両国が相手の石油タンカーや石油施設を攻撃し合った局面。世界の石油輸送に影響し、米国など西側諸国の艦隊がペルシャ湾に展開する事態となった。
1 停戦の日(8月20日)が国連では「イラン・イラク停戦記念日」1988年8月20日に発効した停戦は、国連安保理決議598号に基づくもの。この日付は中東の戦争史において象徴的な意味を持つが、国境問題を解決しない「棚上げ停戦」だったため、根本的な和解には至らなかった。
2 ホメイニーは停戦を「毒杯を飲む」と表現した停戦受け入れを宣言した際、ホメイニー最高指導者は「毒杯を飲むような辛さだが、神の意志に従う」という趣旨の声明を発表した。革命の旗手として戦争継続を訴えてきた指導者が自ら「敗北的な妥協」を認めた表現として歴史に刻まれている。
3 米国は一時期、イラクに化学兵器製造を支援していた冷戦下で対イラン政策を優先した米国は、フセイン政権に衛星写真など軍事情報を提供し、化学兵器の原料となる物資の輸出も容認していた。後にこれは、2003年のイラク戦争の際に問題として蒸し返されることになった。
4 クウェート侵攻(湾岸戦争)への直結イラン・イラク戦争でイラクはクウェート・サウジアラビアなどから総額800億ドルを超える融資を受けたとされる。戦後にフセインがこの債務の帳消しを要求したが拒否されたことが、1990年のクウェート侵攻の一因となり、湾岸戦争(1991年)へとつながった。
5 両国の人口規模の差が戦争の長期化を招いた開戦当時、イランの人口はイラクの約3倍。イラクは近代的な兵器と資金力で戦いを有利に進めようとしたが、イランは革命の熱狂と膨大な人的資源を武器に対抗。「人海戦術」と化学兵器という非対称な戦い方が、戦争に特に凄惨な性格を与えた。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1980年。語呂は『行く晴れ(いくはれ)(1980)イラン・イラク戦争』。
開戦の主体はイラクのサダム・フセイン大統領。1979年のイラン革命(ホメイニー師のシーア派政権誕生)が直接の引き金となった。
戦争の背景:①シャットゥルアラブ川の領有権争い、②イラン革命思想(シーア派)の波及への周辺国の警戒、③イラク側の短期決戦の誤算。
8年間(1980〜1988年)の消耗戦で終結。1988年に国連仲介で停戦したが、勝者なき終戦で国境・賠償問題は未解決のまま。
イラクが化学兵器を使用(クルド人への攻撃を含む)した点と、この戦争が湾岸戦争(1991年)の遠因となった点は入試で頻出。
語呂クイズ
「行く晴れ(いくはれ)(1980)イラン・イラク戦争」= イラン・イラク戦争が始まるは西暦何年?
1979 1980 1989
Q. イラン・イラク戦争はなぜ起きたのですか? A. 主な原因は2つです。①シャットゥルアラブ川をめぐる長年の国境争い、②1979年のイラン革命でシーア派イスラム政権が誕生し、その革命思想が周辺国に広がることをイラク(スンナ派主導)が警戒したことです。フセインは革命直後のイランが軍事的に弱体化していると判断し、侵攻を開始しました。
Q. 戦争はどちらが勝ちましたか? A. どちらも勝利したとは言えません。8年間の消耗戦の末、1988年に国連の仲介で停戦しましたが、国境線はほぼ開戦前と同じ位置に戻り、賠償や領土問題は解決されませんでした。100万人以上ともいわれる死傷者を出した「勝者なき戦争」と呼ばれています。
Q. 化学兵器はなぜ問題になったのですか? A. 化学兵器の使用は国際法(ジュネーブ議定書)で禁止されているためです。イラクはマスタードガスや神経剤をイラン軍に対して使用し、さらに1988年にはクルド人の村ハラブジャに化学兵器攻撃を行い、多数の民間人が犠牲になりました。国際社会の非難が限定的だったことへの反省が、後の化学兵器禁止条約(1997年)につながりました。
Q. この戦争はその後の中東にどう影響しましたか? A. 戦争で膨らんだイラクの対外債務の問題が、1990年のクウェート侵攻の一因となり、湾岸戦争(1991年)へとつながりました。また中東地域における宗派対立(スンナ派 vs シーア派)の構図を固定化・深刻化させ、現在に至る中東の不安定化の遠因ともなっています。
Q. イラン革命とイラン・イラク戦争はどうつながっていますか? A. 1979年のイラン革命でホメイニー師が率いるシーア派政権が誕生すると、革命思想が周辺アラブ諸国のシーア派住民に広がることをフセイン(イラク)は警戒しました。また、革命直後のイランは軍が弱体化していたため、フセインはこの機に乗じて侵攻しました。つまり、イラン革命がイラン・イラク戦争の直接的な引き金となったのです。
イラン・イラク戦争は、国境争いと宗派対立、そして冷戦下の大国の思惑が絡み合った20世紀後半の最も悲惨な地域紛争の一つです。8年間で100万人以上の命が失われながら、国境線はほとんど変わらず、勝者も生まれませんでした。この戦争が生み出した膨大な債務と遺恨が湾岸戦争(1991年)へとつながり、現代中東問題の原点ともなっています。「行く晴れ(1980)イラン・イラク戦争」の語呂とともに、この戦争が何のために始まり、なぜ解決できなかったのかを理解しておきましょう。
編集メモ(ファクト) 死傷者数は資料によって大きく異なる(50万〜150万人以上)ため、『100万人以上ともいわれる』という表現にとどめた。 化学兵器使用の詳細(使用物質・場所・規模)は確認できる事実のみを記載し、推計数値は避けた。 米国のイラク支援についてはtriviaで触れたが、本文への組み込みは事実として確認できる範囲で行った。 relatedには指定の2件(1979-iranian-revolution・1948-israel)のみを記載。存在しない場合は削除すること。