高校/政治
1972
ニクソン米大統領が中国を訪問する
リチャード・ニクソン(アメリカ合衆国大統領)
語呂
覚え方
行く何(1972)ニクソン訪中
いくなに(1972)ニクソン訪中
1972年2月、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が中国(中華人民共和国)を訪問し、毛沢東主席・周恩来首相と会談しました。アメリカと中国は建国以来20年以上にわたって国交を持たず、朝鮮戦争では直接激突するほど敵対していました。しかし冷戦構造の変化――中ソ対立の深刻化とベトナム戦争の泥沼化――が両国を引き寄せ、大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーの秘密訪中による地ならしを経て、ニクソンの劇的な訪問が実現します。訪問の締めくくりに発表された「上海コミュニケ(米中共同声明)」は、敵対から和解への歴史的転換を世界に示しました。この「デタント(緊張緩和)」の衝撃は直ちに日本にも波及し、同年秋には日中国交正常化が実現。米中の正式な国交樹立は1979年を待つことになりますが、ニクソン訪中はその出発点として世界史に刻まれています。
この記事のポイント 1972年2月、ニクソン米大統領が中国を訪問し、毛沢東・周恩来と会談――20年以上続いた米中敵対関係に歴史的な転機 中ソ対立の深刻化とベトナム戦争の長期化が、米中双方を接近させる共通の動機となった 大統領補佐官キッシンジャーが1971年に秘密訪中し、訪問の地ならしを行った 訪問の締めくくりに発表された「上海コミュニケ」が和解の方向性を公式に示した 日本も衝撃を受け、1972年秋に田中角栄首相が訪中して日中国交正常化を実現 米中の正式な国交樹立は1979年。ニクソン訪中はその第一歩となった
ここが面白い 「敵の敵は味方」――冷戦の最前線で、かつて最も激しく中国を敵視していたアメリカの大統領が、みずから北京へ飛んだ。
ニクソン訪中は突然起きた出来事ではありません。冷戦の構造変化、中ソ対立の激化、ベトナム戦争の長期化という三つの流れが重なり合い、かつての「敵」が互いを必要とするようになるまでの経緯をたどってみましょう。
中ソ対立の先鋭化 中ソ関係は1950年代末から悪化し始め、1960年にはソ連が中国への技術援助を打ち切りました。イデオロギー上の路線対立(中国はソ連の「平和共存」路線を修正主義と批判)に加え、国境問題も緊張を高め、1969年にはウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐって中ソ両軍が武力衝突する事態に発展しました。中国にとってソ連は「北の脅威」となり、アメリカとの関係改善が安全保障上の現実的な選択肢として浮上してきました。
ベトナム戦争の泥沼化とニクソン・ドクトリン 1969年に大統領に就任したニクソンは、ベトナム戦争からの名誉ある撤退を最重要課題の一つとしていました。1969年に発表した「ニクソン・ドクトリン」は、アジアの安全保障はアジア諸国が自ら担うべきとする方針を打ち出したものです。ソ連との軍備管理交渉(デタント)を進めながら、中国という新たなカードでソ連に圧力をかける「三角外交」の構想が、大統領補佐官キッシンジャーとともに練られていきました。
キッシンジャーの秘密訪中(1971年) 1971年7月、キッシンジャー大統領補佐官はパキスタン訪問中に「腹痛」を装って姿を消し、極秘裏に北京を訪問しました。周恩来首相との会談でニクソン訪中の地ならしが行われ、帰国後にニクソン自身がテレビ演説で翌年の訪中を発表すると、世界に大きな衝撃が走りました。同年10月には中国が国連安全保障理事会の常任理事国として台湾(中華民国)に代わって着席するなど、国際社会でも変化の波が相次ぎました。
ニクソン訪中と上海コミュニケ 1972年2月21日、ニクソンは北京に降り立ち、毛沢東主席・周恩来首相と会談しました。2月28日に発表された「上海コミュニケ(米中共同声明)」では、台湾問題について「中国はただ一つ」とするアメリカ側の立場が示される一方、両国の意見の相違を率直に記す異例の形式が採られました。正式な国交樹立は先送りされたものの、米中両国が和解の方向性を公式に確認した歴史的な文書となりました。
「三角外交」による冷戦構造の組み換え ≒ 対立陣営を分断して自国に有利な交渉環境を作る外交戦略 米ソ中の三大国が互いにけん制し合う構図を作ることで、ニクソン政権はソ連への圧力を高めつつベトナム戦争からの出口を探った。中国との和解はソ連の外交的孤立を深める効果をも持った。
上海コミュニケ(米中共同声明) ≒ 外交上の公式声明・コミュニケ(共同宣言) 意見が一致した事項だけでなく、両国の立場の相違も率直に記す異例の形式が採られた。台湾問題では「中国はただ一つであり、台湾は中国の一部」とする中国の立場を米国が「認識する(acknowledge)」という表現が使われ、以後の米中関係の基軸となった。
デタント(緊張緩和)の象徴 ≒ 冷戦の軍事的対立を対話・交渉へと転換する外交姿勢 ニクソン訪中は米ソ間の戦略兵器制限交渉(SALT)と並んで、1970年代のデタント外交を象徴する出来事となった。イデオロギーよりも国益を優先する現実主義外交の典型例として歴史に刻まれている。
1949 中華人民共和国建国 毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言。アメリカは中国(台湾に逃れた中華民国)の正統性を支持し、中共を承認しなかった。
1950 朝鮮戦争・中国参戦 朝鮮戦争に中国(義勇軍)が参戦し、アメリカ軍と直接交戦。米中敵対関係が固定化した。
1960 中ソ関係悪化 ソ連が中国への技術援助を打ち切り、中ソ対立が表面化。
1969 珍宝島事件 ウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐって中ソ両軍が武力衝突。中国の対ソ警戒が急激に高まった。
1969 ニクソン・ドクトリン発表 アジアの安全保障はアジア諸国が担うとするニクソン・ドクトリンを発表。ベトナムからの段階的撤退方針を示した。
1971 キッシンジャー秘密訪中 7月、キッシンジャー大統領補佐官が極秘裏に北京を訪問し、周恩来首相と会談。ニクソン訪中の地ならしをした。
1971 中国の国連代表権交代 10月、国連総会で中国の代表権が台湾(中華民国)から中華人民共和国に移った。
1972 ニクソン訪中・上海コミュニケ 2月21日、ニクソンが北京着。毛沢東・周恩来と会談し、2月28日に「上海コミュニケ(米中共同声明)」を発表。
1972 日中国交正常化 9月、田中角栄首相が訪中し、日中共同声明に署名。日中国交正常化が実現した。
1979 米中国交樹立 カーター政権下でアメリカと中国の正式な国交が樹立された。
◎ 20年以上にわたる米中の敵対関係に終止符が打たれ、デタント(緊張緩和)の流れが加速した。三角外交によってソ連への圧力が高まり、米ソ間の戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)署名(1972年5月)にも好影響を与えたとされる。
◎ 日本にも直接の影響をもたらし、同年1972年秋に田中角栄首相が訪中して日中国交正常化が実現した。東アジアの外交秩序が大きく塗り替えられた。
△ 米中和解の過程で台湾(中華民国)はアメリカから切り捨てられる形となり、1979年の国交樹立と同時に米台相互防衛条約が廃棄された。台湾問題は現在も未解決の争点であり続けている。
リチャード・ニクソン アメリカ合衆国大統領(第37代) 共産主義に強硬な姿勢で知られたにもかかわらず、現実主義外交の観点から中国への接近を主導した。1974年にウォーターゲート事件で辞任するが、対中外交は最大の外交的遺産の一つとされる。
ヘンリー・キッシンジャー 大統領補佐官(国家安全保障担当) 三角外交の設計者。1971年の秘密訪中でニクソン訪中の土台を作った。1973年にはベトナム和平交渉の功績でノーベル平和賞を受賞。
毛沢東 中国共産党主席 中華人民共和国の最高指導者。体調が優れない中でニクソンと会談し、大局的な判断として米中接近を認めた。1976年に死去。
周恩来 中国国務院総理(首相) 外交実務の中心人物。キッシンジャーとの交渉を主導し、上海コミュニケの文言交渉にも深く関与した。実務的な融通性と卓越した外交手腕で知られる。
田中角栄 日本国内閣総理大臣 ニクソン訪中に衝撃を受け、「頭越し外交」と呼ばれたアメリカの事前通告の遅さに憤慨しながらも、同年1972年9月に自ら訪中して日中国交正常化を実現した。
デタント フランス語で「緊張緩和」の意味。1970年代に米ソ・米中間で軍備管理交渉や首脳会談が進み、冷戦の緊張が一時的に和らいだ時期・外交姿勢を指す。ニクソン・キッシンジャー外交の核心概念。
中ソ対立 1950年代末から表面化した中国とソ連の路線対立。イデオロギー上の争い(毛沢東はソ連の「平和共存」路線を批判)に加え、国境問題が絡み合い、1969年には武力衝突にまで発展した。この対立が米中接近の背景となった。
上海コミュニケ(米中共同声明) 1972年2月28日にニクソン訪中の締めくくりとして発表された米中共同声明。合意事項だけでなく双方の意見の相違も明記する異例の形式で知られる。台湾問題に関して米国が「一つの中国」を「認識する」と表明した文言が以後の米中関係の基軸となった。
三角外交 米・ソ・中の三大国関係を利用し、二国間の関係を操作することで自国に有利な国際環境を作るキッシンジャーの外交戦略。中国との接近でソ連を牽制し、ソ連との軍備管理交渉を有利に進めるという構想。
ニクソン・ドクトリン 1969年にニクソン大統領が発表したアジア政策の方針。「アジアの防衛はアジア諸国が自ら担うべき」という原則を示し、ベトナム戦争からの段階的撤退(ベトナム化政策)の理論的根拠となった。
SALTⅠ(第一次戦略兵器制限交渉) 1972年5月、ニクソン訪中の後にニクソンがモスクワを訪問して署名した米ソ間の軍備管理条約。核弾頭運搬手段(大陸間弾道ミサイルなど)の数量を制限したもので、デタントの具体的成果の一つ。
1 「ニクソンにしかできない」とは?強硬な反共主義者として知られていたニクソンが中国に接近したことを指して「ニクソンにしかできないこと(Only Nixon could go to China)」という表現が英語圏に定着している。逆説的に、最も強硬な立場の人物だからこそ国内批判を受けずに大胆な外交転換を実行できた、という政治的教訓を指す慣用句になった。
2 キッシンジャーの「腹痛」作戦1971年7月のキッシンジャー秘密訪中は巧妙に偽装された。パキスタン訪問中に「胃腸の不調」を理由に療養すると公表して姿を消し、極秘裏にパキスタンから北京へ飛んだ。帰国後にニクソンがテレビ演説で訪中発表すると、その電撃的な内容に世界は驚愕した。
3 日本への「頭越し外交」ショック日本への事前連絡はキッシンジャーの秘密訪中発表のわずか数分前という異例の遅さだった。同盟国への情報共有を欠いたこの手法は「ニクソン・ショック」と呼ばれ、日本の外交政策に深刻な衝撃を与えた。田中角栄政権はこれを教訓に速やかに独自の対中外交に動いた。
4 ニクソンが飲んだ「茅台酒(マオタイ)」晩餐会でニクソンに振る舞われた中国の高級蒸留酒「茅台酒(マオタイ)」は、以後「米中和解の酒」として広く知られるようになった。アルコール度数が非常に高く、ニクソンはグラスをあおるのを控えたというエピソードも伝わっている。
5 ウォーターゲート事件との対比ニクソンは1972年の訪中という外交的大成功の年に、再選選挙をめぐる盗聴工作(ウォーターゲート事件)の端緒となる指示を出していたとされる。外交での輝かしい成果と国内政治での深刻な違法行為が同一年に重なるという歴史の皮肉として語られることが多い。
ここが出る 博士のワンポイント
年号は1972年。語呂は「行く何(1972)ニクソン訪中」。
訪中した米大統領はリチャード・ニクソン。地ならしを行った人物は大統領補佐官のキッシンジャー。
背景:①中ソ対立の先鋭化(1969年の珍宝島事件)②ベトナム戦争の長期化によるアメリカの疲弊、の二点がセット。
発表された文書の名称は「上海コミュニケ(米中共同声明)」。
会談した中国側の人物:毛沢東(主席)・周恩来(首相)の二人を押さえておくこと。
波及効果として「日中国交正常化(1972年)」と「米中国交樹立(1979年)」の年号がよく問われる。
この時期の外交全体を指すキーワードは「デタント(緊張緩和)」。
語呂クイズ
「行く何(1972)ニクソン訪中」= ニクソン米大統領が中国を訪問するは西暦何年?
1971 1972 1973
Q. なぜ反共主義者のニクソンが中国を訪問したのですか? A. 国益を最優先する現実主義外交(リアルポリティーク)の観点から、中ソ対立を利用してソ連を牽制しつつベトナム戦争からの出口を探るため、中国との関係改善が必要と判断したためです。強硬な反共主義者だからこそ国内批判を受けにくいという逆説もありました。
Q. 上海コミュニケとはどういう内容ですか? A. 1972年2月28日に発表された米中共同声明です。台湾問題について米国が「一つの中国」を「認識する」と表明したほか、両国の意見が一致しない事項もそのまま明記するという異例の形式が採られました。以後の米中関係の外交的基軸となっています。
Q. ニクソン訪中は日本にどのような影響を与えましたか? A. 事前通告がほぼなかったため「ニクソン・ショック」と呼ばれる衝撃を日本に与えました。これを受けて田中角栄首相が同年1972年9月に訪中し、日中共同声明に署名して日中国交正常化を実現しました。
Q. 米中が正式に国交を結んだのはいつですか? A. 1979年です。ニクソン訪中(1972年)は国交樹立への道を開いたものの、上海コミュニケの段階では正式な国交は樹立されませんでした。カーター政権下の1979年にようやく正式な外交関係が結ばれました。
Q. 中ソ対立とニクソン訪中はどうつながるのですか? A. 中国はソ連との武力衝突(1969年の珍宝島事件)を経て「北の脅威」に備えるためアメリカとの関係改善を必要としていました。アメリカも中国を引き込むことでソ連を外交的に孤立させたかった。この「反ソ」という利害の一致が米中接近を可能にしました。
1972年のニクソン訪中は、冷戦の構造をひっくり返した「20世紀最大の外交的転換」の一つです。建国以来20年以上にわたって国交すら持たなかった米中が、中ソ対立とベトナム戦争という二つの「困難」を抱えてまさに必要としたタイミングに手を結びました。キッシンジャーの秘密外交で地ならしし、ニクソン自身が北京に乗り込むという劇的な展開は、国益を優先する現実主義外交の典型例として今も語り継がれています。「行く何(1972)ニクソン訪中」の語呂とともに、中ソ対立・デタント・日中国交正常化・米中国交樹立(1979年)という一連の流れをセットで頭に入れておきましょう。
編集メモ(ファクト) 上海コミュニケの台湾条項における米国の表現は「acknowledge(認識する)」であり「accept(受け入れる)」「recognize(承認する)」ではない。この表現の微妙な違いは外交上重要であるため、本文では「認識する」という表現を採った。 「ニクソン・ショック」という言葉は、1971年のドル金本位制停止(第一次ニクソン・ショック)と訪中発表(第二次ニクソン・ショック)の両方を指すことがある。本記事では訪中関連の衝撃に限定して使用した。 キッシンジャーの秘密訪中の詳細な日程・経路については複数の証言・回顧録があるが、「1971年7月にパキスタン経由で北京を訪問した」という大枠は史料で確認されている。 珍宝島事件(ダマンスキー島事件)の年月は1969年3月。この武力衝突が中ソ対立を決定的なものにしたとする見方が一般的だが、対立の起点は1950年代末にさかのぼるため、本記事では「先鋭化」という表現を用いた。 related フィールドには「1949-prc-founding」(中華人民共和国建国)および「1965-vietnam-war」(ベトナム戦争)を指定IDとして記載した。これらのIDが世界史サイト内に存在しない場合は削除すること。