高校/政治
1971
中華人民共和国が国連代表権を回復する
毛沢東(中華人民共和国主席)
語呂
覚え方
行く無い(1971)国連代表権
いくない(1971)中国の国連代表権
1971年10月25日、国連総会はアルバニアなどが提出した決議第2758号(いわゆるアルバニア決議)を賛成76・反対35・棄権17の賛成多数で採択しました。これにより、中華人民共和国が国際連合における「中国」の唯一の合法政府として認められ、安全保障理事会常任理事国の議席を含むすべての中国代表権を回復しました。それまで22年間にわたり「中国」の代表として国連に席を占めていた中華民国(台湾)は、採決を受けて国連から離脱しました。この出来事は冷戦期の国際政治における大きな転換点であり、翌1972年のニクソン大統領の訪中・日中国交正常化など、中国が国際社会に本格的に復帰するきっかけとなりました。
この記事のポイント
- 1949年の中華人民共和国成立後も、国連の「中国」議席は台湾の中華民国政府が保持し続けていた
- 冷戦下でアメリカが中華民国を支持していたため、中華人民共和国の加盟は長年阻まれていた
- アジア・アフリカの新興独立国が相次いで国連に加盟し、中華人民共和国を支持する勢力が増大した
- 1971年10月25日、国連総会でアルバニア決議(第2758号)が採択され、中華人民共和国が代表権を回復
- 中華民国(台湾)は採決後に国連を離脱し、翌1972年のニクソン訪中・日中国交正常化へとつながった
ここが面白い「どちらが本当の中国か」――1949年から22年間、国際連合には二つの「中国」が存在し、議席をめぐる争いが続いていた。1971年10月、歴史的な採決がその決着をつけた。
中華人民共和国の国連代表権回復は、1949年の中国内戦の決着から始まる長い外交戦の帰結です。冷戦の力学、脱植民地化の波、そしてアメリカの対中政策の転換という三つの流れが交差した結果として理解する必要があります。
二つの「中国」と国連議席問題の始まり
1949年10月、毛沢東が北京で中華人民共和国の成立を宣言した。一方、蒋介石率いる中華民国政府は台湾に退き、大陸を失いながらも国連安全保障理事会の常任理事国議席を保持し続けた。国連憲章が定める「中国の代表」をどちらが担うべきかという問題は、国連発足間もないころから紛争の種となった。アメリカが朝鮮戦争(1950〜53年)を機に中華人民共和国との対立を深め、中華民国を一貫して支持したため、中華人民共和国の代表権回復は毎年総会で提起されながらも否決され続けた。
新興独立国の台頭と賛成票の増加
1960年代は「アフリカの年」(1960年に17か国が独立)に象徴されるように、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの旧植民地諸国が相次いで国連に加盟した時代である。これらの国々の多くは中華人民共和国と外交関係を結び、国連での代表権回復を支持した。毎年の採決で賛成票は着実に増加し、1960年代末にはアメリカ主導の反対多数で否決するのが困難な情勢になっていた。アメリカは「重要問題」条項(変更には3分の2以上の賛成が必要とする手続き決議)を盾に先送りを続けたが、1971年にはその手続き決議自体も否決された。
ニクソン政権の対中政策転換
1969年に発足したニクソン政権は、国家安全保障問題担当補佐官キッシンジャーとともに「デタント(緊張緩和)」政策を推進した。ソ連との覇権競争を有利に進めるため、中国との関係改善を戦略的に選択したのである。1971年4月、アメリカの卓球チームが中国を訪問する「ピンポン外交」が実現し、同年7月にキッシンジャーが秘密裏に北京を訪問してニクソン訪中の準備を整えた。こうした米中接近の動きは、中華民国支持の維持が困難であることを国際社会に印象づけた。
アルバニア決議の採択
1971年10月25日、国連総会はアルバニア・アルジェリア・ギニアなど23か国が共同提案した決議第2758号を採択した。決議文は「中華人民共和国の代表者が中国の唯一の合法代表であり、中国の安全保障理事会における五大国の一つであることを認識する」と明記し、「蒋介石の代表を国連およびそれに関連する機関のすべての席から即時追放すること」を決定した。賛成76・反対35・棄権17という票数で採択され、中華民国代表団はその夜のうちに総会場を退出した。
中華人民共和国が国連の「中国」議席を獲得
≒ 国際社会における「中国の正統政府」の切り替え1949年から22年間、中華民国(台湾)が保持していた国連の中国代表権が、中華人民共和国に移った。安全保障理事会常任理事国の議席もあわせて移行した。
中華民国(台湾)の国連離脱
≒ 台湾の国際的な孤立の始まり採決後、中華民国代表団は国連から離脱した。以後、台湾は国際機関への加盟が困難になり、外交的孤立が深まった。現在に至るまで国連への復帰は実現していない。
冷戦期の国際秩序の転換点
≒ 米中接近と多極化する世界の幕開けアメリカが中華民国を守り切れなかったことで、二極的な冷戦構造に亀裂が入った。翌1972年のニクソン訪中・日中国交正常化など、国際政治の再編が一気に加速した。
1949中華人民共和国成立10月1日、毛沢東が北京で中華人民共和国の成立を宣言。国民党の蒋介石は台湾に逃れ、中華民国を維持した。
1950朝鮮戦争勃発米中が朝鮮半島で事実上の交戦状態となり、アメリカの中華人民共和国への敵視が決定的となった。中華民国の国連議席は守られ続けた。
1960アフリカの年アフリカを中心に17か国が独立し、国連に加盟。中華人民共和国の代表権回復を支持する票が増大し始めた。
1966文化大革命中国国内で毛沢東主導の文化大革命が始まり、中華人民共和国の対外関係は一時停滞したが、70年代に入って外交攻勢が再開した。
1971ピンポン外交4月、アメリカの卓球チームが中国を訪問。米中接近の象徴的な出来事となった。
1971キッシンジャー秘密訪中7月、ニクソン大統領の補佐官キッシンジャーが極秘に北京を訪問し、ニクソン訪中の準備を進めた。
1971アルバニア決議採択10月25日、国連総会決議第2758号が賛成76・反対35・棄権17で採択。中華人民共和国が代表権を回復し、中華民国は国連を離脱した。
1972ニクソン訪中2月、ニクソン大統領が中国を訪問。上海コミュニケを発表し、米中関係の正常化へ踏み出した。
1972日中国交正常化9月、田中角栄首相が訪中し、日中共同声明を発表。日本が中華人民共和国を「正統政府」と認め、中華民国との国交を断絶した。
1979米中国交正常化1月、アメリカが中華人民共和国を正式に承認し、中華民国との公式な外交関係を終了させた。
◎中華人民共和国が国連安全保障理事会常任理事国の議席を取得し、国際社会での正統性が確立された。その後の米中・日中の国交正常化など、中国の国際社会への本格的な復帰を促した。
△台湾(中華民国)は国連を離脱して以来、多くの国際機関への参加が困難となった。現在も台湾の国際的な地位は未解決のままであり、中台関係は今日の国際政治における重要な緊張点の一つとなっている。
毛沢東
中華人民共和国主席1949年に中華人民共和国を建国。代表権回復は彼の指導下での外交的成果だったが、文化大革命で国内が混乱した1966〜76年を主導した人物でもある。1976年に死去。
蒋介石
中華民国総統国共内戦に敗れて台湾に逃れた後も総統として中華民国を維持。国連代表権の喪失を「我が国の権利を強奪するものだ」として激しく非難した。1975年に死去。
リチャード・ニクソン
アメリカ合衆国大統領共和党の反共タカ派として知られていたが、補佐官キッシンジャーとともに対中接近に転換。1972年2月に現職大統領として初めて中国を訪問した。
ヘンリー・キッシンジャー
アメリカ国家安全保障問題担当補佐官米中接近の設計者。1971年7月に極秘訪中を行い、ニクソン訪中への道を開いた。中華人民共和国の代表権回復に反対しながらも、現実主義的な外交を推進した。
エンベル・ホジャ
アルバニア労働党第一書記アルバニアは決議提案の中心国の一つであり、中華人民共和国と緊密な関係を築いていた。アルバニアを発議国とするアルバニア決議の名の由来となった。
- アルバニア決議(国連総会決議第2758号)
- 1971年10月25日に採択された国連総会決議。中華人民共和国を国連における「中国」の唯一の合法的な代表と認定し、中華民国を国連から追放することを決定した文書。アルバニアなどが共同提案したためこの名で呼ばれる。
- 安全保障理事会常任理事国
- 国連安全保障理事会の五大国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国)として拒否権を持つ特別な地位。1971年以降「中国」の議席は中華人民共和国が保持している。
- 重要問題手続き
- 中華民国を支持するアメリカが用いた戦術。代表権問題を「重要問題」に指定し、変更には総会の3分の2以上の賛成が必要とする手続き決議を毎年通過させることで中華人民共和国の加盟を阻んでいた。1971年にはこの手続き決議自体が否決された。
- ピンポン外交
- 1971年4月、名古屋の世界卓球選手権大会への参加を機にアメリカの卓球チームが中国を訪問したことを指す。米中の民間交流の突破口となり、外交的な接近の象徴とされた。
- デタント(緊張緩和)
- 冷戦期の1960〜70年代に米ソが追求した緊張緩和政策。ニクソン政権は米中接近もデタントの一環として位置づけた。
- 二つの中国問題
- 中華人民共和国と中華民国(台湾)がともに「中国の正統政府」を主張し、どちらが「中国」を代表するかをめぐる外交的な問題。1971年の国連代表権回復によって国際的な決着がついたが、台湾の地位は今日も未確定のままである。
1採決の夜に中華民国代表が退場した理由
1971年10月25日の夜、国連総会でアルバニア決議が採択されると、中華民国の代表団は会議の途中で退場した。これは採決の結果を拒絶する政治的意思表示であり、正式な離脱声明を後日発表した。退場の瞬間、一部の代表国から拍手が起きたとされ、当時の外交上の緊張を伝えるエピソードとして語り継がれている。
2賛成票にアフリカ・アジア諸国が大量に含まれた
採決の賛成76票の内訳を見ると、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの新興国が多数を占めた。これらの国々にとって、冷戦時代の大国の思惑よりも「中国大陸の現実の政府を承認する」という立場が自然だった。脱植民地化の波が国連の票数の構造を大きく変えたことを示す象徴的な例である。
3ニクソンは「採決阻止には手遅れ」と認識していた
ニクソン政権はアルバニア決議の採択が不可避であると判断しながら、公式には反対票を投じた。この矛盾は、翌1972年のニクソン訪中を推進しながら、国内の親台湾派への配慮から二枚舌的な外交を余儀なくされた苦しい立場を示していた。
4日本の立場の揺れ
日本は当時まだ中華民国と国交を結んでいたため、アルバニア決議には反対票を投じた。しかし採決の翌年1972年に田中角栄首相が訪中し、日中共同声明で日中国交正常化を実現。これにより日本は中華民国との国交を断絶した。国連での反対票から国交正常化まで、わずか1年という急速な転換だった。
5「2758号決議」は台湾問題の焦点になり続けている
半世紀を経た現在でも、決議第2758号の解釈は国際社会で争われている。中国は同決議が台湾を中華人民共和国の一部と認定したと主張するが、決議文自体には台湾の地位に関する明示的な規定はない。アメリカや日本などは決議が台湾の政治的地位を決定するものではないとの立場をとっており、外交上の解釈論争が続いている。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1971年。語呂は「行く無い(1971)国連代表権」。
採択された決議の名称:アルバニア決議(国連総会決議第2758号)。
結果:中華人民共和国が代表権・安保理常任理事国議席を取得、中華民国(台湾)は国連を離脱。
背景として、アジア・アフリカの新興独立国の増加とニクソン政権の対中接近(ピンポン外交・キッシンジャー秘密訪中)を押さえること。
翌1972年への連鎖:ニクソン訪中(2月)と日中国交正常化(9月)が続いた点が問われやすい。
語呂クイズ
「行く無い(1971)国連代表権」= 中華人民共和国が国連代表権を回復するは西暦何年?
- Q. 中華人民共和国はなぜ1949年の成立直後に国連に入れなかったのですか?
- A. 冷戦構造のなかでアメリカが中華民国(台湾)を「中国の正統政府」として支持し、国連での採決でも中華民国の議席維持を多数派工作で守り続けたためです。朝鮮戦争(1950〜53年)で米中が事実上交戦したことで対立は決定的となり、長年の膠着状態が続きました。
- Q. アルバニア決議とはどのような内容でしたか?
- A. 中華人民共和国を国連における「中国の唯一の合法的代表」と認め、安保理常任理事国議席を含む中国代表権を中華人民共和国に与え、中華民国(台湾)を即時追放することを決定した国連総会決議(第2758号)です。1971年10月25日に賛成76・反対35・棄権17で採択されました。
- Q. 台湾はなぜ国連を「追放」されたのですか?
- A. 国連では「中国」の代表権は一方だけが持てるとされており、中華人民共和国を正統政府と認める決議が採択された結果、中華民国の代表団は議席を失いました。中華民国側は採決結果を認めず、投票前に退場するかたちで国連を離脱しました。
- Q. ニクソン訪中と代表権回復はどう関係していますか?
- A. 直接の因果関係はありませんが、ニクソン政権が中華人民共和国との対話を開始したことは、中華民国を守るアメリカの意志が揺らいでいることを国際社会に示しました。その空気が1971年の採決を後押しし、代表権回復の翌年にニクソンが訪中するという流れで、米中接近と代表権回復は車の両輪をなしていました。
- Q. 日本はこの採決でどう投票しましたか?
- A. 日本はアルバニア決議に反対票を投じました。当時まだ中華民国と国交を結んでいたためです。しかし採決の翌年1972年には田中角栄首相が訪中して日中国交正常化を実現し、中華民国との国交を断絶しています。
1971年のアルバニア決議採択は、22年間続いた「どちらが本当の中国か」という問いに国際社会が一つの答えを出した瞬間でした。冷戦構造の変化、アジア・アフリカ新興国の台頭、アメリカの対中政策転換という三つの力が重なり、中華人民共和国は国連の舞台に立つことができました。同時に台湾(中華民国)の国際的孤立が始まり、現在に至る「台湾問題」の出発点ともなりました。「行く無い(1971)国連代表権」の語呂とともに、冷戦の力学が大きく動いた転換点として記憶しておきましょう。
編集メモ(ファクト)
採決の賛成76・反対35・棄権17という票数は、国連公式記録に基づく通説として記載した。
中華民国代表団が採決前に退場したか採決後に退場したかは資料によって微妙に異なるため、「その夜のうちに退場した」という表現にとどめた。
アルバニア決議が台湾の政治的地位を規定するかどうかについては現在も国際的な解釈論争があるため、trvia・faq 両方でその旨を明記した。
related は指定された実在IDのみを記載した(1949-prc-founding・1972-nixon-visits-china)。存在しない場合は削除すること。
人物のエンベル・ホジャについては、アルバニア決議の提案国との関連で記載したが、個人が直接決議採択を主導したわけではなく、国家として提案した点に注意。