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ベルリンの壁が建設されるのイラスト
中学/政治
1961

ベルリンの壁が建設される

ヴァルター・ウルブリヒト(東ドイツ国家評議会議長)
語呂
覚え方
行く人無意味(1961)ベルリンの壁
いくひとむいみ(1961)ベルリンの壁

1961年8月13日未明、東ドイツ(ドイツ民主共和国)は東西ベルリンの境界線に突如として鉄条網を張り始め、その後コンクリートの壁を建設しました。この「ベルリンの壁」は、西側へ亡命しようとする自国民の流出を食い止めるための措置でしたが、世界にとって冷戦とドイツ分断・自由の抑圧を象徴する構造物となりました。壁をめぐっては越境を試みて命を落とした人もおり、その数は百名を超えるとされています。1989年11月9日に壁は開放され、翌1990年の東西ドイツ統一への道を開きました。

この記事のポイント

  • 1961年8月13日未明、東ドイツが東西ベルリンの境界に鉄条網・コンクリートの壁を建設開始
  • 目的は東ドイツから西ベルリン経由で西側へ脱出する人々(主に技術者・若者)の流出阻止
  • 壁の建設以降も越境を試みた人々のうち百名超が死亡したとされる
  • 壁は冷戦・ドイツ分断・自由の抑圧の象徴として国際的に認識された
  • 1989年11月9日に壁が開放され、1990年の東西ドイツ統一へつながった
ここが面白い

「一夜のうちに、街が壁で二つに割られた」――1961年8月13日の夜明け、東ベルリンの市民が目を覚ますと、そこには鉄条網が張り巡らされ、やがてコンクリートの壁へと変わっていった。

ここに至るまでの流れ
背景

ベルリンの壁は突然生まれたわけではありません。第二次世界大戦後のドイツ分割、東西対立の深まり、そして東ドイツ体制の危機という積み重ねの末に建設された構造物です。その背景を順に見ていきましょう。

戦後ドイツの分割とベルリンの特殊な立場

第二次世界大戦終結後の1945年、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の四か国に分割占領されました。首都ベルリンも同様に四分割されましたが、ベルリン自体はソ連占領地区(後の東ドイツ)の真ん中に位置していました。1949年に西側三か国の占領地区が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に、ソ連占領地区が東ドイツ(ドイツ民主共和国)となりましたが、ベルリンは特別な地位を保ち、西ベルリンは東ドイツの中に囲まれた西側の「飛び地」として存在し続けました。

東ドイツからの大規模な人口流出

東ドイツの共産主義体制は、集団農業化・企業国有化・政治的抑圧を推し進めたため、生活水準は西ドイツと比べ大きく劣っていました。1949年から1961年にかけて、約270万人もの東ドイツ市民が西側へ脱出したとされます。逃げ道は西ベルリンを経由するルートで、東ドイツ市内からベルリンの地下鉄・路面電車・徒歩で西ベルリンに入り、そこから西ドイツや西側諸国へと移ることができたのです。1961年夏には流出が特に激化し、7月だけで約3万人が脱出しました。

ウルブリヒトとフルシチョフの決断

東ドイツのウルブリヒト政権は長くソ連に国境封鎖の許可を求めていましたが、国際的な反発を恐れたソ連は慎重でした。しかし1961年夏の急激な人口流出を受け、ソ連のフルシチョフ書記長はベルリン市内の東西境界を封鎖することを承認しました。1961年8月12日深夜から13日にかけて、東ドイツ軍・国境警備隊・警察が大規模動員され、東西ベルリンの境界(全長約45キロメートル)に鉄条網が張られました。その後、鉄条網はコンクリートブロックの壁へと強化され、最終的には高さ約3.6メートルのコンクリート壁・監視塔・地雷帯・探照灯を備えた厳重な境界施設となりました。

壁の構造と「死の回廊」

完成した壁は単なるコンクリートの壁ではなく、内側の壁・外側の壁・その間の「死の帯(トーテンシュトライフェン)」からなる複合的な境界施設でした。この帯には監視塔・照明・警備犬・自動発射装置などが設置され、越境を極めて困難かつ命がけのものにしました。東ドイツの国境警備隊には逃亡者を射殺する命令(シュースベフェール)が与えられており、壁の建設から崩壊までの間に少なくとも140名(諸説あり)が越境を試みて死亡したとされています。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

冷戦と分断の象徴

≒ 国家が国民の移動を壁で物理的に封じる体制の構造

壁は東西イデオロギー対立が物理的な形をとったものであり、「鉄のカーテン」の具体的な体現となった。西側ではケネディ米大統領が「自由の象徴」として西ベルリンを支持する演説を行い、壁は冷戦構造を視覚化する国際的な象徴となった。

自国民の移動を封じた壁

≒ 国民が国外に出る権利(出国の自由)の剥奪

通常、国境の壁は他国からの侵入を防ぐものだが、ベルリンの壁は自国民が外へ出られないようにするために建てられた点が歴史的に異質だった。東ドイツ政府は壁を「反ファシスト防衛壁」と呼んだが、西側はこれを人権抑圧の証拠として批判した。

1989年の開放と統一への道

≒ 体制崩壊が市民運動から始まるプロセス

1989年11月9日、東ドイツ政府の記者会見での言い間違い・情報混乱が引き金となり、ベルリン市民が壁に押しかけて開放を要求。国境警備隊は指示を受けられないまま通行を許可し、壁は事実上崩壊した。この開放は東西ドイツ統一(1990年10月3日)への直接的な契機となった。

前後のできごと
年表
1945
ドイツ分割占領第二次世界大戦終結後、ドイツがアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の四か国に分割占領される。首都ベルリンも四分割される。
1949
東西ドイツ成立西側占領地区がドイツ連邦共和国(西ドイツ)に、ソ連占領地区がドイツ民主共和国(東ドイツ)となる。ベルリンは東ドイツ領内の飛び地として東西に分かれた状態で継続。
1953
東ベルリン労働者蜂起東ドイツで労働者による反政府蜂起が起きるが、ソ連軍が鎮圧。体制への不満が高まる。
1958
ベルリン危機(第二次)フルシチョフがベルリンから西側軍の撤退を求める最後通牒を出す。交渉は続くが解決せず、緊張が続く。
1961
壁の建設開始8月13日未明、東ドイツが東西ベルリン境界に鉄条網を張り始める。その後コンクリート壁へと強化。
1963
ケネディ演説アメリカのケネディ大統領が西ベルリンを訪問し、「イヒ・ビン・アイン・ベルリナー(私はベルリン市民だ)」と演説。西側の結束を誇示する。
1971
四か国ベルリン協定米英仏ソがベルリンの現状を認める四か国協定を締結。緊張がやや緩和され、西ベルリン訪問の手続きが整備される。
1987
レーガン演説アメリカのレーガン大統領がブランデンブルク門前で「ゴルバチョフ書記長、この壁を壊してください!」と演説。
1989
壁の開放11月9日夜、東ドイツ政府の記者会見での混乱が引き金となり、市民が壁に押しかける。国境警備隊が通行を認め、壁が事実上開放される。
1990
東西ドイツ統一10月3日、東西ドイツが正式に統一し、ドイツ連邦共和国として一つの国家となる。
結果とその後
結果
壁の建設により東ドイツからの人口流出は大幅に減少し、東ドイツ体制は短期的に安定した。また1989年の壁崩壊・開放は東欧革命のなかで冷戦終結を象徴するハイライトとなり、翌1990年の東西ドイツ統一・ドイツ再統一を実現させた。
壁の建設から崩壊までの間に少なくとも140名前後(研究者によって推計が異なる)が越境を試みて死亡したとされており、壁は人権抑圧の象徴としても後世に記憶されている。また建設は東西対立をさらに固定化し、核戦争の危機を孕んだ冷戦を長引かせた側面もある。東ドイツの人口流出の背景には体制の問題があり、壁はその根本原因を解決したわけではなく、最終的に東ドイツは1989年の市民運動によって崩壊した。
登場人物
人物

ヴァルター・ウルブリヒト

東ドイツ国家評議会議長(1960〜1973年)・社会主義統一党第一書記

ベルリンの壁建設を主導した東ドイツの最高指導者。1961年6月の記者会見で「誰もベルリンの壁を建設する意図はない」と述べてわずか2か月後に建設を決行したことで知られる。

ニキータ・フルシチョフ

ソ連共産党第一書記(1953〜1964年)

ウルブリヒトからの国境封鎖要請を長く保留していたが、1961年夏の人口流出の深刻化を受けて承認。西ベルリン問題を対米交渉のカードとして使い続けた。

ジョン・F・ケネディ

アメリカ合衆国第35代大統領

1961年8月の壁建設には軍事介入せず事実上黙認したが、1963年の西ベルリン訪問演説(「私はベルリン市民だ」)で西側の連帯を示した。壁崩壊まで生きることはなかった。

エゴン・クレンツ

東ドイツ社会主義統一党書記長(1989年10〜12月)

壁が開放された1989年11月9日の直前にホーネッカーの後任として就任した。壁開放のきっかけとなった記者会見での「即時旅行自由化」発言はギュンター・シャボウスキーの言い間違いによるものとされる。

ペーター・フェヒター

東ドイツ市民(当時18歳)

1962年8月に壁を越えようとして東側国境警備隊に銃撃され、壁のそばで約一時間放置された末に死亡。壁による犠牲の象徴として記憶される。

キーワード解説
用語
ベルリンの壁
1961年8月13日から1989年11月9日まで存在した、東西ベルリンを隔てるコンクリートと鉄条網の境界施設。全長約155キロメートル(ベルリン市内の東西境界約45キロメートルを含む)にわたり、監視塔・照明・地雷帯などを備えた厳重な構造物だった。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)
1949年から1990年まで存在した、ソ連の影響下に置かれた社会主義国家。正式名称はドイツ民主共和国(DDR)。1990年10月3日に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に吸収合併される形で消滅した。
冷戦
第二次世界大戦後から1989〜1991年ごろにかけて続いた、アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営の対立。直接の軍事衝突(熱戦)は避けられたが、核兵器開発競争・代理戦争・イデオロギー対立が続いた。
鉄のカーテン
東西ヨーロッパを分断するソ連支配圏の境界線を指すイギリスのチャーチル元首相の表現(1946年)。ベルリンの壁はこの「鉄のカーテン」が都市の中に物理的に現れた最も象徴的な例とされる。
シュースベフェール(射殺命令)
東ドイツ国境警備隊に対し、逃亡者を止めるためには射殺も辞さないことを命じた命令。正式な文書による命令の存在については諸説あるが、実際に越境者への発砲・射殺が行われたことは確認されている。
東欧革命(1989年)
1989年にポーランド・ハンガリー・東ドイツ・チェコスロバキア・ルーマニアなど東欧諸国で相次いで起きた共産主義体制崩壊の波。ベルリンの壁崩壊はその象徴的な出来事の一つとされる。
もっと知りたい
豆知識

1「壁を建てる意図はない」と言った二か月後に建設

東ドイツのウルブリヒト書記長は1961年6月15日の記者会見で「誰もベルリンの壁を建設する意図はない(Niemand hat die Absicht, eine Mauer zu errichten.)」と明言した。しかしそのわずか2か月後の8月13日に壁の建設が始まった。この発言は歴史的な「言い訳」として今も語り継がれている。

2壁開放は「言い間違い」が引き金だった

1989年11月9日夜、東ドイツの広報担当シャボウスキー政治局員は記者会見で旅行自由化措置を発表する際、「いつから有効か」と問われて手元のメモを確認せず「ただちに、遅延なく」と答えた。実際は翌日からの予定だったが、この発言がテレビで放送され、市民が壁に押しかけ、国境警備隊は上部からの指示を得られないまま通行を認めた。

3東ベルリン市民は「建設」を朝起きて知った

1961年8月13日(日曜日)の建設作業は深夜から明け方にかけて行われた。多くの東ベルリン市民は朝目を覚ますと街が鉄条網で分断されているのを目の当たりにした。前夜に西側へ出かけていた人は戻ることを選び、逆に翌日西側に出かける予定だった人は封じられた。一夜にして家族や職場が壁の反対側に取り残された人も多かった。

4壁崩壊後もベルリンは正式には「占領下」だった

法律的には、1990年9月12日の「ドイツ最終規定条約(2+4条約)」が締結されるまで、ベルリンは四か国(米英仏ソ)の占領下にあるという建前が続いていた。壁が崩壊した1989年11月時点では、まだ東西ドイツは別個の国家であり、ベルリンは正式には統一されていなかった。

5壁の石片は世界中で土産物になった

1989年11月9日以降、「壁をつつく人々(マウアーペッカー)」と呼ばれた市民たちがハンマーや道具で壁を崩し始めた。壁の破片は記念品として世界中に持ち帰られ、現在も各国の博物館や個人が所蔵している。一方でニセ物も多く流通しており、「本物かどうか確認する方法はない」と言われるほどだった。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1961年。語呂は「行く人無意味(1961)ベルリンの壁」。
建設を主導したのは東ドイツのウルブリヒト政権(ソ連フルシチョフ書記長の了承のもと)。
目的は東ドイツ市民(特に技術者・専門職など)の西側への流出(人口流出・頭脳流出)を防ぐこと。
壁は冷戦・ドイツ分断・自由の抑圧の象徴とされ、1963年のケネディ演説・1987年のレーガン演説など西側の対東政策の焦点となった。
1989年11月9日の壁開放は東欧革命の象徴的な出来事であり、1990年10月3日の東西ドイツ統一へつながった点が重要。
壁崩壊と関連させて「冷戦の終結(1989〜1991年)」「ソ連解体(1991年)」が問われることがある。
語呂クイズ
「行く人無意味(1961)ベルリンの壁」= ベルリンの壁が建設されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ベルリンの壁はなぜ建設されたのですか?
A. 東ドイツから西ベルリンを経由して西側へ脱出する市民が後を絶たず、建国以来1961年までに約270万人が流出していたためです。特に技術者・医師・教員などの専門人材の流出が深刻で、東ドイツ体制の存続が危ぶまれたため、最後の逃げ道だった西ベルリンへの経路を封鎖しました。
Q. 壁を越えようとした人は本当に射殺されたのですか?
A. はい。東ドイツの国境警備隊には逃亡者を止めるために射撃することを認める命令があり、実際に多くの人が射殺・死亡しました。壁の崩壊までに少なくとも140名前後(研究者によって推計が異なる)が越境を試みて死亡したとされています。
Q. ベルリンの壁はいつどのようにして崩壊したのですか?
A. 1989年11月9日夜、東ドイツ広報担当の記者会見での言い間違いが報道され、市民が壁に押しかけました。上部からの指示を受けられなかった国境警備隊が通行を認めたことで壁は事実上開放され、その後市民が壁を壊し始めました。
Q. 西側諸国はなぜ壁建設を阻止しなかったのですか?
A. アメリカのケネディ政権は内部では懸念を示しましたが、壁が東ベルリン・東ドイツ内での建設であるとして軍事介入を行いませんでした。西ベルリンの通行権が維持される限り直接の条約違反とはいえず、核戦争のリスクを冒してまで対抗するという判断には至りませんでした。
Q. ベルリンの壁崩壊はドイツ統一とどう関係しますか?
A. 1989年11月9日の壁開放後、東ドイツでは民主化運動が急速に進み、自由選挙が実施されて統一を支持する政権が誕生しました。その後の交渉(「2+4条約」)を経て、1990年10月3日に東西ドイツが正式に統一されました。壁崩壊から統一まではわずか約11か月でした。
まとめ

ベルリンの壁は、東ドイツが自国民の脱出を防ぐために一夜にして築いた分断の象徴でした。技術者や若者が次々と西へ流れ出るのを止めるための苦肉の策でしたが、壁はそれ自体が体制の限界を世界に示すものでもありました。越境を試みて命を落とした人々の存在は、今もこの壁が何を意味したかを伝えています。1989年の壁崩壊は東欧革命の象徴として、そして翌年のドイツ統一の扉を開いた出来事として歴史に刻まれています。「行く人無意味(1961)ベルリンの壁」の語呂とともに、冷戦とドイツ分断のクライマックスを象徴するこの出来事をしっかり押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
壁崩壊までの死者数については、研究機関によって推計が異なる。ベルリン壁記念館(Gedenkstätte Berliner Mauer)は少なくとも140名と発表しているが、これは東ドイツ国境地帯全体を含む数値についての諸説がある。本記事では「少なくとも140名前後(研究者によって推計が異なる)」と記述した。
シュースベフェール(射殺命令)の正式な文書の存在については法的・学術的な議論が続いているため、「逃亡者を止めるためには射殺も辞さないことを命じた命令」と表現し断定を避けた。
1989年11月9日の壁開放のきっかけとなったシャボウスキーの発言については、「意図的か否か」「誰が指示したか」に諸説があるが、現在の通説に従い「言い間違い・情報混乱が引き金」と記述した。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1989-end-cold-war・1955-warsaw-pact を記載。存在しない場合は削除すること。