高校/政治
1947
トルーマン=ドクトリンで冷戦が本格化する
ハリー・S・トルーマン(アメリカ合衆国大統領)
語呂
覚え方
行く品な(1947)冷戦の始まり
いくしな(1947)冷戦の始まり
1947年3月、アメリカのトルーマン大統領は議会で演説し、共産主義勢力の脅威にさらされているギリシアとトルコへの軍事・経済援助を求めました。これが「トルーマン=ドクトリン」と呼ばれるアメリカのソ連封じ込め政策の宣言です。同年6月には国務長官マーシャルがヨーロッパ復興援助計画(マーシャル=プラン)を発表し、西ヨーロッパ諸国への大規模な経済援助を打ち出しました。これに対抗したソ連は東欧諸国とともにコミンフォルム(共産党情報局)を結成し、東西両陣営の対立は決定的なものとなりました。兵器を使わない「冷たい戦争(冷戦)」が本格的に始まった歴史的な年です。
この記事のポイント
- 1947年3月、トルーマン大統領が議会演説でギリシア・トルコ援助を表明し、ソ連封じ込め政策を宣言(トルーマン=ドクトリン)
- 同年6月、マーシャル国務長官がヨーロッパ復興援助計画(マーシャル=プラン)を発表。西ヨーロッパの経済再建を支援
- ソ連・東欧はマーシャル=プランへの参加を拒否し、コミンフォルム(共産党情報局)を結成して対抗
- 資本主義・自由民主主義陣営(西側)対社会主義・共産主義陣営(東側)という冷戦の基本構図が確立
- 直接の武力衝突を避けながら政治・経済・イデオロギー面で対立する「冷戦」が本格化した分水嶺となった
ここが面白い「共産主義の脅威にさらされているすべての自由な国民を支援する」――1947年、アメリカ大統領がこう宣言した瞬間、世界は米ソ二つの超大国による「冷たい戦争」へと突入した。
トルーマン=ドクトリンは突然生まれたわけではありません。第二次世界大戦後の国際秩序の再編と、ソ連による東欧支配の強化、そして戦争で疲弊したヨーロッパという状況が重なった末に生まれた宣言です。その背景を順に見ていきましょう。
戦後世界の二極化とソ連の膨張
1945年に第二次世界大戦が終結すると、ヨーロッパはアメリカとソ連という二つの超大国が影響力を競う舞台となりました。ソ連はポーランド・チェコスロバキア・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリーなど東欧諸国に親ソ的な政権を樹立し、いわゆる「東側陣営」を形成していきました。1946年にはイギリスの元首相チャーチルが「ヨーロッパにはソ連によって鉄のカーテンが引かれた」と演説し、東西分断の現実を言い表しました。
ギリシア内戦とイギリスの撤退
ギリシアでは共産党系のゲリラ勢力(民主主義軍)が内戦を展開し、王党派政府と激しく対立していました。これまでギリシアとトルコへの支援を続けてきたイギリスは、戦争で疲弊した財政を理由に1947年2月、アメリカに支援の肩代わりを要請しました。アメリカが「世界の警察官」として積極的に関与するきっかけがここにありました。
トルーマン演説と「封じ込め」戦略
1947年3月12日、トルーマン大統領は米議会で歴史的な演説を行いました。「世界はいま、二つの異なる生き方の選択に迫られている」と述べたうえで、共産主義の脅威にさらされたギリシアとトルコへの4億ドルの援助を要請しました。この演説はソ連の膨張を「封じ込める(containment)」という対外戦略の起点とされます。外交官ジョージ・ケナンが提唱した封じ込め政策の考え方がアメリカの公式方針として打ち出された瞬間でした。
マーシャル=プランとコミンフォルムの結成
1947年6月、マーシャル国務長官はハーバード大学での演説でヨーロッパ復興援助計画(マーシャル=プラン)を発表しました。参加を希望するすべてのヨーロッパ諸国に対して経済援助を提供するという内容でしたが、ソ連はこれをアメリカによる内政干渉として拒否し、東欧諸国にも参加を断念させました。同年9月、ソ連はポーランドで開かれた各国共産党の会議で東欧各国共産党の情報局であるコミンフォルムを結成し、西側への対抗姿勢を鮮明にしました。
ソ連封じ込め政策の宣言
≒ 特定の国の軍事・経済侵攻を外交・経済援助で阻止する戦略共産主義の拡大に対抗するため、脅威にさらされた国々を積極的に支援するというアメリカの対外方針。後の朝鮮戦争・ベトナム戦争への介入にも引き継がれた基本戦略。
マーシャル=プランによる経済援助
≒ 「復興支援で親米国を増やす」という経済的な外交手段西ヨーロッパ16か国が参加し、1948年から4年間で約130億ドルの援助が実施された。荒廃したヨーロッパの復興を支えると同時に、西側陣営の結束を強める狙いがあった。
東西陣営の確定的な分断
≒ 国際社会が「西側(NATO)」と「東側(ワルシャワ条約機構)」に二分される時代の始まりトルーマン=ドクトリンとそれへのソ連の対抗措置(コミンフォルム結成)によって、戦後の国際秩序は米ソ二極体制として固まり始めた。この対立構造は1991年のソ連崩壊まで続いた。
1945第二次世界大戦終結ドイツ・日本の降伏で大戦が終わるが、アメリカとソ連の間に戦後秩序をめぐる緊張が芽生え始める。
1946チャーチルの「鉄のカーテン」演説元英首相チャーチルがアメリカで「バルト海からアドリア海にかけて鉄のカーテンが引かれた」と演説し、ソ連による東欧支配を公然と批判した。
1947トルーマン=ドクトリン発表(3月)3月12日、トルーマン大統領が米議会でギリシア・トルコへの援助を求める演説。ソ連封じ込め政策を公式に宣言した。
1947マーシャル=プラン発表(6月)マーシャル国務長官がヨーロッパ復興援助計画を発表。ソ連・東欧はこれを拒否した。
1947コミンフォルム結成(9月)ソ連主導でソ連・東欧の共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)が結成され、西側への対抗姿勢が明確になった。
1948ベルリン封鎖ソ連が西側占領下の西ベルリンへの陸上交通を遮断(ベルリン封鎖)。米英は空輸で対抗し、東西対立が先鋭化した。
1949NATO結成・中華人民共和国建国アメリカを中心とした北大西洋条約機構(NATO)が発足。同年、中国で共産党政権(中華人民共和国)が成立し、冷戦の舞台がアジアにも広がった。
1950朝鮮戦争勃発朝鮮半島で北朝鮮軍が南下し朝鮮戦争が始まる。トルーマン=ドクトリンに基づきアメリカが国連軍を率いて参戦した。
1955ワルシャワ条約機構結成ソ連・東欧諸国が軍事同盟「ワルシャワ条約機構」を結成。NATOに対抗する東側の集団安全保障体制が整った。
1991ソ連崩壊・冷戦終結ソ連が解体され、冷戦が終結。トルーマン=ドクトリンから続いた約44年間の東西対立に幕が下りた。
◎アメリカの封じ込め政策はギリシアへの共産党勢力の拡大を阻止し、トルコの西側陣営残留を確保した。マーシャル=プランは西ヨーロッパの経済復興を後押しし、西側陣営の政治的結束にも寄与した。
△封じ込め政策は世界中を米ソ代理戦争の場に変え、朝鮮戦争・ベトナム戦争など多くの局地的紛争を誘発した。また、「共産主義への対抗」を名目に権威主義的な政権をアメリカが支援する事例も生じた。冷戦の安定は核兵器による恐怖の均衡の上に成り立つという脆弱な構造でもあった。
ハリー・S・トルーマン
アメリカ合衆国第33代大統領(在任1945〜1953年)ルーズベルト大統領の死去に伴い副大統領から昇格。トルーマン=ドクトリンの発表により対ソ封じ込め政策を主導した。朝鮮戦争への介入も決断した。
ジョージ・マーシャル
アメリカ国務長官(1947〜1949年)第二次世界大戦中の参謀総長として連合軍の戦略立案を担い、戦後は国務長官としてヨーロッパ復興援助計画(マーシャル=プラン)を立案・発表した。この功績でノーベル平和賞を受賞(1953年)。
ジョージ・ケナン
アメリカ外交官・国務省政策企画室長「封じ込め(containment)」政策の理論的提唱者。1946年の「長文電報」と1947年の論文「ソビエト行動の源泉」でソ連の膨張を封じ込める戦略を論じた。ただし後にトルーマン政権の軍事偏重に異議を唱えた。
ヴャチェスラフ・モロトフ
ソ連外務大臣マーシャル=プランをめぐるパリ会議(1947年7月)においてソ連代表として出席したが、アメリカの内政干渉にあたるとして拒否を宣言し退席した。
ウィンストン・チャーチル
元イギリス首相1946年のアメリカでの演説で「鉄のカーテン」という表現を広め、ソ連による東欧支配への警戒を西側世界に訴えた。
- トルーマン=ドクトリン
- 1947年3月にアメリカのトルーマン大統領が表明した対外政策。共産主義の脅威にさらされたすべての自由な国民を支援するとしたもので、ソ連封じ込め政策の公式宣言とされる。
- 封じ込め政策(コンテインメント)
- ソ連・共産主義の地理的な拡大を外交・経済・軍事援助によって阻止するアメリカの対外戦略。外交官ジョージ・ケナンが理論化し、トルーマン政権が採用した。
- マーシャル=プラン(ヨーロッパ復興援助計画)
- 1947年にアメリカが発表した西ヨーロッパ諸国向けの大規模経済援助計画。正式名称は「欧州復興計画(ERP)」。1948〜1952年に約130億ドルが供与された。
- コミンフォルム(共産党情報局)
- 1947年9月にソ連・東欧各国の共産党・労働者党が結成した情報共有・連絡機関。西側のマーシャル=プランに対抗するかたちで創設され、1956年に解散した。
- 冷戦(コールド・ウォー)
- 第二次世界大戦後から1991年のソ連崩壊まで続いた、アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営の政治・経済・イデオロギー上の対立。直接の武力衝突を避けた「冷たい戦争」。
- 鉄のカーテン
- 1946年のチャーチル演説で使われた言葉。ソ連が東欧諸国に敷いた情報統制・政治支配の壁を比喩的に表した表現で、東西冷戦の象徴的な言葉となった。
1「トルーマン=ドクトリン」という言葉はトルーマン自身は使わなかった
「トルーマン=ドクトリン」という呼称は後世の歴史家や報道が名付けたもので、トルーマン大統領は演説の中でこの言葉を使っていない。演説では「共産主義の脅威にさらされた自由な国民を支援する」という政策方針が示された。
2マーシャル=プランをソ連も参加できたのか?
マーシャル国務長官の発表当初は参加対象に東欧・ソ連も含まれていた。ソ連外務大臣モロトフはパリ会議に出席したが、アメリカの条件(財政情報の開示など)を内政干渉として拒否し退席した。ポーランドやチェコスロバキアも当初は参加に関心を示したが、ソ連の圧力で断念した。
3「ドミノ理論」へとつながるトルーマンの考え方
トルーマン演説には「一国が共産主義に転じると隣国にも波及する」という考え方が含まれており、これは後に「ドミノ理論」として定式化された。ベトナム戦争への介入を正当化する論理の原型もトルーマン=ドクトリンに見出せる。
4コミンフォルムはコミンテルンの後継ではない
コミンテルン(共産主義インターナショナル)は1943年にスターリンが解散させていた。コミンフォルムはソ連・東欧各国の共産党の情報共有を目的とした組織で、世界革命を標榜したコミンテルンより限定的な性格を持っていた。1956年にスターリン批判を受けて解散した。
5援助額4億ドルは現在の価値で約50億ドル超
トルーマンが議会に要求したギリシア・トルコへの援助額は4億ドル。インフレを考慮すると現在の価値で50億ドルを超える規模である。議会はこの要求を承認し、1947年5月に援助法案が成立した。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1947年。語呂は「行く品な(1947)冷戦の始まり」。
トルーマン=ドクトリンは1947年3月にアメリカ大統領トルーマンが議会演説で表明した。対象国はギリシアとトルコ。
同年6月に発表されたマーシャル=プラン(ヨーロッパ復興援助計画)とセットで覚える。立案者はマーシャル国務長官。
これに対しソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を1947年9月に結成して対抗した。
封じ込め政策の理論化はジョージ・ケナンによるものとされる点が問われることがある。
冷戦とは直接の武力衝突を避けた米ソの政治・経済・イデオロギー上の対立であり、1991年のソ連崩壊まで続いた。
語呂クイズ
「行く品な(1947)冷戦の始まり」= トルーマン=ドクトリンで冷戦が本格化するは西暦何年?
- Q. トルーマン=ドクトリンとは何ですか?
- A. 1947年3月にアメリカのトルーマン大統領が議会で表明した対外政策で、共産主義の脅威にさらされたギリシア・トルコを支援し、ソ連の膨張を封じ込めると宣言したものです。冷戦の本格的な始まりを示す出来事とされます。
- Q. マーシャル=プランとトルーマン=ドクトリンの違いは何ですか?
- A. トルーマン=ドクトリンは「共産主義の拡大を阻止する」という政治・軍事的な方針の宣言です。マーシャル=プランはその経済的な柱で、西ヨーロッパの復興を援助することで共産主義の影響力拡大を防ぐ具体的な経済援助計画です。両者は車の両輪として機能しました。
- Q. なぜアメリカはギリシアとトルコを支援したのですか?
- A. ギリシアでは共産党系勢力による内戦が起きており、トルコはソ連から領土的圧力を受けていました。支援を続けていたイギリスが財政難で撤退を決め、代わりにアメリカが介入しました。両国が共産化すれば地中海・中東への影響が及ぶという戦略的判断がありました。
- Q. ソ連はなぜマーシャル=プランを拒否したのですか?
- A. アメリカが援助の条件として財政状況の開示などを求めたため、ソ連はこれを内政干渉にあたると判断して拒否しました。東欧諸国にも参加を断念させ、代わりにコミンフォルムを結成して西側への対抗姿勢を示しました。
- Q. 冷戦はいつまで続きましたか?
- A. 1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連崩壊をもって終結したとされます。トルーマン=ドクトリンから約44年間にわたって、世界の政治・軍事・文化のあらゆる面に影響を与えました。
トルーマン=ドクトリンは、第二次世界大戦後の世界が「自由主義・資本主義」の西側と「社会主義・共産主義」の東側に二分される冷戦時代の幕開けを告げた出来事です。アメリカが封じ込め政策を宣言し、マーシャル=プランで西ヨーロッパを経済的に支援する一方、ソ連はコミンフォルムで対抗し、東西の対立は決定的なものとなりました。「行く品な(1947)冷戦の始まり」の語呂とともに、この年を境に世界が二極化したという歴史の流れを押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
「トルーマン=ドクトリン」という呼称は後世に定着したものであり、演説当時の文書には使われていないが、世界史教育・入試では標準的な用語として定着している。
ジョージ・ケナンは後年、トルーマン政権の解釈(軍事的封じ込め重視)は自分の意図を超えていたと述懐しており、「封じ込め政策」の内容については議論がある。本記事では通説的な理解で記述した。
マーシャル=プランのソ連・東欧への当初のオープンな呼びかけについては史家の評価が分かれる(本気の提案か最初から参加拒否を見越したものかという論点)。本記事では「参加できた」という事実関係のみを記述した。
related は世界史サイト内の指定IDとして 1945-united-nations・1955-warsaw-pact を記載。存在しない場合は削除すること。