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高校/政治
1934

中国共産党が長征を始める

毛沢東(中国共産党指導者)
語呂
覚え方
戦よ(1934)長征
いくさよ(1934)長征

1934年10月、中国共産党の主力部隊は、国民党(蒋介石)の包囲攻撃を受けて江西省の瑞金の根拠地を放棄し、西へ南へと大移動を開始しました。約1年にわたって山岳地帯や河川を越えながら陝西省の延安方面を目指したこの行軍を、「長征(大西遷)」と呼びます。途中の遵義会議(1935年)で毛沢東が実権を掌握し、最終的に生き残った部隊は出発時の数分の一にまで減っていましたが、延安を新たな根拠地として再建に成功しました。この長征の経験は、その後の抗日戦争と国共内戦を経て1949年に中華人民共和国が成立するまでの党の結束を支え、共産党の正統性を象徴する神話として語り継がれています。

この記事のポイント

  • 1934年10月、国民党の包囲殲滅作戦を受けた共産党主力部隊が江西省の瑞金を放棄して西方へ撤退を開始
  • 約1年をかけて陝西省の延安方面まで移動した行軍が「長征」と呼ばれる(移動距離については諸説あり)
  • 1935年1月の遵義会議で毛沢東が軍事・政治の実権を握り、党内の指導権を確立した
  • 過酷な行軍により兵力は大きく損耗したが、延安に到達した部隊が新根拠地を建設して再建
  • 長征は中国共産党の正統性を象徴する建党神話として、今日まで党史の中核に位置づけられている
ここが面白い

「負けた側が、なぜ歴史の勝者になれたのか」――撤退であるはずの行軍が、その後の中国共産党の神話的な正統性の源泉となった。

ここに至るまでの流れ
背景

長征は突然始まったわけではありません。国民革命後の国共対立の深まり、農村ソヴィエトの建設と崩壊、そして共産党内部の路線対立という積み重ねの末に起きた出来事です。その背景を順に見ていきましょう。

国共分裂と農村根拠地の建設

1924年から国民党と共産党は「第一次国共合作」を結んでいましたが、1927年に蒋介石が上海クーデター(四・一二政変)を起こして共産党を弾圧し、国共は決裂しました。都市での武装蜂起に失敗した共産党は農村への転換を模索し、毛沢東らが湖南・江西の山岳地帯に農村根拠地(ソヴィエト区)を建設していきました。1931年には江西省の瑞金を首都とする「中華ソヴィエト共和国」の樹立が宣言されました。

五次囲剿と根拠地の危機

蒋介石は1930年代前半、共産党根拠地を壊滅させるために五次にわたる囲剿(包囲殲滅作戦)を展開しました。第一次から第三次の囲剿はゲリラ戦術で撃退しましたが、コミンテルン派(博古・リー・デ)が指導権を握った時期の第五次囲剿では陣地戦に切り替えたため損失が拡大し、1934年秋には根拠地の維持が困難な状況に追い込まれました。

長征の経路と遵義会議

1934年10月に江西省の瑞金を出発した主力部隊は、国民党軍の包囲網を突破しながら西・南・北へと迂回を繰り返しました。1935年1月に貴州省の遵義で開かれた党会議(遵義会議)では、それまでの軍事路線の失敗を批判する動きが起き、毛沢東が軍事指揮の主導権を握りました。以後、四川・雲南・チベット高原東縁の険しい地形を越えながら北上し、1935年10月(一部部隊は1936年)に陝西省の延安方面に到達しました。

延安の新根拠地と抗日統一戦線

延安に根拠地を再建した共産党は、1937年の日中戦争(抗日戦争)勃発を機に国民党との「第二次国共合作」を成立させ、抗日統一戦線を結成しました。延安時代に共産党は組織・党員数・軍事力を大幅に拡大し、長征を経て生き延びた幹部層が党の中核を形成しました。戦後の国共内戦(1945〜1949年)で国民党を台湾に追い、1949年に中華人民共和国を建国しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

戦略的撤退から神話へ

≒ 敗北に見えた出来事が組織の結束と正統性の源泉になる

長征は本来、包囲された根拠地からの撤退・脱出であった。しかし生き残りの厳しさと達成感が党員の連帯を生み、後に「革命精神」の象徴として語り継がれた。

遵義会議での権力交代

≒ 危機の中でリーダーシップが刷新される転換点

第五次囲剿の失敗の責任を問う形で遵義会議が開かれ、毛沢東が軍事・政治の主導権を握った。この権力交代が以後の中国共産党の指導路線を決定づけた。

延安根拠地の再建

≒ 根拠地の移転による組織の再生

陝西省の延安に到達した部隊は農村ソヴィエトを再建し、日中戦争を通じて勢力を急拡大した。延安時代の経験が1949年の建国へとつながった。

前後のできごと
年表
1927
国共分裂蒋介石の上海クーデター(四・一二政変)で国共が決裂。共産党は農村への転換を模索する。
1931
中華ソヴィエト共和国成立江西省の瑞金を首都として中華ソヴィエト共和国が樹立される。毛沢東が主席に就く。
1933
第五次囲剿開始蒋介石がドイツ人軍事顧問の助言を得た要塞線戦略で第五次囲剿を開始。共産党は陣地戦で損失を拡大する。
1934
長征開始10月、共産党主力部隊(約8万人とも)が江西省の瑞金を出発し、西方へ撤退を開始。
1935
遵義会議1月、貴州省の遵義で党会議が開かれ、毛沢東が軍事・政治の主導権を確立。長征の方針が転換される。
1935
陝西省到達10月、毛沢東率いる中央紅軍(第一方面軍)が陝西省の陝北に到達。延安方面に根拠地を建設する。
1936
西安事件12月、張学良・楊虎城が蒋介石を拉致して抗日統一戦線を要求(西安事件)。国共合作への転機となる。
1937
日中戦争と第二次国共合作7月の盧溝橋事件で日中戦争が勃発。共産党と国民党が第二次国共合作を成立させ、抗日統一戦線を結成。
1945
日本敗戦・国共内戦再開日本降伏後、国民党と共産党の全面内戦が再開(国共内戦)。
1949
中華人民共和国建国10月1日、毛沢東が北京の天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言。国民党は台湾に撤退。
結果とその後
結果
共産党は壊滅的な損耗にもかかわらず延安に新根拠地を建設し、日中戦争を通じて勢力を急拡大した。遵義会議での権力交代により毛沢東の指導体制が確立され、1949年の中華人民共和国建国への道筋が開かれた。
長征の実態は壊滅的な損耗を伴う撤退であり、その後の共産党による「英雄的行軍」の神話化は政治的意図を持つ。移動距離・出発時・到達時の兵力などの数値は後年の研究や党公式資料によって大きく異なるため、特定の数値を断定せず複数の説が存在する点に留意が必要。
登場人物
人物

毛沢東

中国共産党指導者

農村根拠地建設を推進し、遵義会議で軍事・政治の主導権を確立。長征を生き延びた幹部の中心として、延安時代から1949年の建国、さらに死去(1976年)まで党の最高指導者であり続けた。

蒋介石

国民政府主席・国民革命軍総司令

五次囲剿を指揮して共産党根拠地を圧迫し、長征の引き金を作った。1949年に共産党に敗れて台湾に撤退し、台湾で中華民国政府を維持した。

周恩来

中国共産党軍事指導者(後に初代国務院総理)

長征中は軍事委員会副主席として毛沢東の指導を支えた。遵義会議での権力交代に重要な役割を果たしたとされ、以後も毛沢東体制を支える要として中華人民共和国建国まで活動した。

朱徳

紅軍総司令

毛沢東とともに農村根拠地を建設した軍事指導者。長征を通じて紅軍の実質的な軍事指揮にあたった。建国後も人民解放軍の象徴的な元帥として処遇された。

博古(秦邦憲)

コミンテルン派の党指導者

第五次囲剿の時期に党総書記を務め、ソ連顧問リー・デとともに陣地戦路線を推進した。遵義会議でその失敗を批判され指導権を失った。

キーワード解説
用語
長征
1934年10月から約1年にわたって行われた中国共産党主力部隊の大移動。江西省の瑞金を出発し、陝西省の延安方面に到達した。「大西遷」とも呼ばれる。
囲剿(いそう)
「包囲殲滅」の意味。蒋介石率いる国民政府が共産党根拠地を壊滅させるために行った軍事作戦の呼称。1930〜1934年に五次にわたって実施された。
遵義会議
1935年1月、貴州省の遵義で開かれた中国共産党の拡大政治局会議。第五次囲剿の失敗を総括し、毛沢東が軍事・政治の主導権を握る転換点となった。
中華ソヴィエト共和国
1931年に江西省の瑞金を首都として共産党が樹立した政権。長征開始によって実質的に消滅したが、ソヴィエト区の行政・軍事の経験は後の共産党統治に引き継がれた。
延安
陝西省北部の都市。長征によって到達した共産党の新根拠地となり、日中戦争期(1937〜1945年)に党の中心地として機能した。「延安時代」は毛沢東思想の形成期にあたる。
第二次国共合作
日中戦争(1937年)の勃発を機に国民党と共産党が成立させた抗日統一戦線。国共双方が各自の組織・軍を維持しながら日本軍に対抗した。日本降伏後に崩壊して国共内戦に移行した。
もっと知りたい
豆知識

1移動距離「1万2500キロ」は正確か

長征の移動距離は「約1万2500キロメートル」という数字が広く知られるが、この数値は中国共産党が公式に使用してきたものである。後年の研究では実際の距離はこれより短かったとする指摘もあり、出発時・到達時の兵力とともに、諸説がある数値として扱われている。

2出発した兵力の大部分が途中で失われた

長征に出発した共産党主力部隊(第一方面軍)の兵力は数万人規模だったとされるが、陝西省に到達した時点で生き残った人数は大幅に減少していた。飢餓・寒冷・戦闘・脱落によって甚大な損耗が生じたことが、後に「試練の行軍」として神話化される背景となった。

3長征には複数のルートがあった

「長征」と呼ばれる行軍は中央紅軍(第一方面軍)だけでなく、第二方面軍・第四方面軍もそれぞれ異なる時期・経路で実施している。「長征」の代表として語られるのは毛沢東とともに行動した第一方面軍だが、全体像はより複雑である。

4遵義会議が「転換点」になった理由

遵義会議での毛沢東の台頭は、後の中国共産党史において「正しい路線への転換」として位置づけられてきた。しかし実際の会議での権力交代の経緯は複雑であり、毛沢東の主導権確立は会議後も段階的なプロセスを経たとする歴史家の見解もある。

5「長征」という命名の政治的意味

撤退・脱出を「長征(偉大な行軍)」と名づけたのは、敗北の印象を払拭し英雄的な前進として語り直すための言語戦略であった。毛沢東自身が「長征は宣言であり、宣伝部隊であり、播種機である」と述べ、その政治的意義を強調したとされる。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1934年(開始)。語呂は「戦よ(1934)長征」。
背景:蒋介石の第五次囲剿で江西省の瑞金の根拠地が維持不能となり、主力部隊が西方へ撤退を開始した。
転換点:途中の遵義会議(1935年)で毛沢東が軍事・政治の主導権を確立したことが最重要。
到達地:陝西省の延安方面。延安が以後の根拠地となり、日中戦争期の党の中心地となった。
長征の結果:延安根拠地の再建→第二次国共合作(1937年)→日中戦争→国共内戦→1949年中華人民共和国建国という流れを把握しておく。
長征の数値(距離・兵力)は「諸説あり」として断定しないことが安全。試験では「約1万2500キロ」が使われることが多い。
語呂クイズ
「戦よ(1934)長征」= 中国共産党が長征を始めるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 長征とはどのような出来事ですか?
A. 1934年から約1年にわたって行われた中国共産党主力部隊の大移動です。国民党の包囲攻撃を受けて江西省の根拠地を放棄し、陝西省の延安方面まで移動しました。
Q. 長征の移動距離はどのくらいですか?
A. 中国共産党の公式説明では約1万2500キロメートルとされてきましたが、この数値については諸説あり、後年の研究では実際の距離が異なるとする指摘もあります。
Q. 遵義会議とはどのような会議ですか?
A. 1935年1月、長征の途中に貴州省の遵義で開かれた党会議です。第五次囲剿の失敗の責任が問われる中で毛沢東が軍事・政治の主導権を確立し、その後の党指導体制が決まった転換点とされています。
Q. 長征と中華人民共和国建国はどう関係しますか?
A. 長征で延安に新根拠地を確立した共産党は、日中戦争を通じて勢力を急拡大しました。その後の国共内戦で国民党を破り、1949年の中華人民共和国建国につながりました。長征はその出発点に位置づけられます。
Q. なぜ長征は共産党にとって特別な意味を持つのですか?
A. 撤退であったにもかかわらず、過酷な試練を乗り越えたという経験が党員の結束を生みました。また毛沢東の指導権がこの過程で確立されたため、後の党史では「革命精神」の象徴として語り継がれています。
まとめ

長征は「負けた側が歴史の勝者になる」という逆説を体現した出来事です。江西省の根拠地を放棄して始まった撤退は、遵義会議での毛沢東の台頭という転換点を経て、延安での再建へとつながりました。その後の日中戦争と国共内戦を経て、1949年に中華人民共和国が建国されると、長征は党の正統性を支える建国神話として確立されました。「戦よ(1934)長征」の語呂とともに、遵義会議・延安・1949年建国という一連の流れを押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
移動距離「約1万2500キロメートル」は中国共産党公式の数値だが、後年の研究では実際の距離が異なるとする指摘があるため、本文では「諸説あり」として断定を避けた。
長征出発時・陝西省到達時の兵力についても史料によって数値が大きく異なるため、具体的な数値を断定せず「大きく損耗した」という表現にとどめた。
遵義会議での毛沢東の権力確立のプロセスについては、会議直後に完全に確立したのではなく段階的な過程であったとする歴史家の見解があるため、「主導権を確立」という表現を用いた。
「第一次国共合作」(1924〜1927年)・「上海クーデター(四・一二政変)」(1927年)・「中華ソヴィエト共和国」(1931年)は関連する前史として背景に組み込んだ。
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