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中学/戦争
1937

日中戦争が始まる

蒋介石(中華民国国民政府)/毛沢東(中国共産党)
語呂
覚え方
戦な(1937)日中戦争
いくさな(1937)日中戦争

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突しました(盧溝橋事件)。この事件をきっかけに日本と中国の戦争は全面化し、「日中戦争(日華事変)」として1945年の日本降伏まで続きました。中国では、長年対立していた国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)が抗日民族統一戦線(第二次国共合作)を結成して抵抗。日本軍は首都南京を占領しましたが(1937年末)、中国側は首都を重慶に移して戦争を継続しました。戦線は広大な中国大陸に広がり、解決の見えない泥沼の状態が続きます。この長期化した消耗戦が日本の資源不足を深刻にさせ、南進政策やアメリカとの対立を生み、1941年の太平洋戦争へとつながっていきました。

この記事のポイント

  • 1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中両国が全面戦争へ突入(日中戦争・日華事変)
  • 同年末、日本軍が中国の首都南京を占領。この際の南京事件(南京大虐殺)では多数の軍民が犠牲になったとされる
  • 中国では国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)が第二次国共合作を結成し、日本軍に抵抗
  • 国民政府は重慶に遷都して徹底抗戦。広大な戦線は泥沼化・長期化し、日本の消耗が深刻になった
  • 日中戦争の長期化が日本の南進政策を促し、1941年の太平洋戦争開始へとつながった
ここが面白い

「事変」と呼びながら、実態は八年間にわたる本格的な戦争だった――1937年の盧溝橋での一発の銃声が、アジア全土を巻き込む大戦争の引き金を引いた。

ここに至るまでの流れ
背景

日中戦争は突然始まったわけではありません。1931年の満州事変から積み重なってきた日本の中国侵略と、それに対する中国民衆の抵抗という流れのなかで起きた出来事です。背景を順に見ていきましょう。

満州事変から日中関係の悪化へ

1931年、関東軍(中国東北部に駐屯する日本の陸軍)が柳条湖事件を起こして満州を軍事占領し、翌1932年に満州国を建国しました(満州事変)。国際連盟はこれを不当な侵略と認定しましたが、日本は1933年に連盟を脱退。その後も日本は「自治」の名目で華北への浸透を進め、中国側の反日感情は高まる一方でした。

西安事件と第二次国共合作の芽生え

1936年12月、中国国民政府の指導者・蒋介石が部下の張学良らによって軟禁される西安事件が起きました。この事件をきっかけに蒋介石は共産党との内戦を一時停止し、日本への抵抗を優先する方針に転じます。国民党と共産党の協力体制(第二次国共合作)が水面下で形成されていきました。

盧溝橋事件と全面戦争への拡大

1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が衝突しました(盧溝橋事件)。現場レベルでは一時収束の方向に向かいましたが、日本政府・軍は追加兵力を派遣して華北への本格進出を開始。翌8月には上海でも大規模な戦闘が起き(第二次上海事変)、戦線は一気に拡大しました。

南京占領と国民政府の重慶移転

1937年12月、日本軍は中国の首都南京を占領しました。この際に多くの中国軍民が犠牲になった出来事は「南京事件(南京大虐殺)」として知られています(犠牲者数や事件の規模については現在も研究者間で議論が続いています)。国民政府は首都を重慶に移し、蒋介石は徹底抗戦を宣言。戦争は長期化の一途をたどりました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

盧溝橋事件から全面戦争へ

≒ 局地的な衝突が外交的解決の失敗により大戦争に発展するパターン

1937年7月7日の盧溝橋での小規模衝突は、日本・中国双方が交渉による解決の機会を逃したまま拡大し、両国の全面戦争となった。国際社会は調停に動けず、事態は急速に悪化した。

第二次国共合作の成立

≒ 共通の敵を前に政治的対立を棚上げする統一戦線の形成

長年内戦を続けていた国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)が、日本軍という共通の脅威に対して抗日民族統一戦線を結成。中国全土が一丸となって抵抗する体制を築いた。

泥沼化する消耗戦と日本の行き詰まり

≒ 広大な国土と人口を持つ大国を相手にした長期消耗戦の限界

日本軍は主要都市を次々占領したが、広大な中国大陸での支配維持と抵抗勢力の鎮圧に大量の兵力・資源を費やした。戦争が解決しないまま長期化し、日本の国力を深刻に消耗させた。

前後のできごと
年表
1931
満州事変関東軍が柳条湖事件を起こし、満州を占領。翌年に満州国を建国(実質的な日本の傀儡国家)。
1933
日本、国際連盟を脱退満州国不承認の勧告を受け、日本が国際連盟を脱退。国際的孤立が深まる。
1936
西安事件張学良が蒋介石を軟禁。国共内戦の停止と抗日優先を迫る。第二次国共合作の契機となった。
1937
盧溝橋事件(7月7日)北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。全面戦争への引き金となる。
1937
第二次上海事変(8月)上海でも大規模な戦闘が勃発。戦線が中部中国に拡大。
1937
第二次国共合作の成立(9月)国民党と共産党が正式に抗日民族統一戦線を結成し、協力体制を宣言。
1937
南京占領・南京事件(12月)日本軍が首都南京を占領。この際に多数の中国軍民が犠牲になる南京事件が起きた。国民政府は重慶に移転して抗戦を継続。
1938
国民政府、重慶遷都を宣言蒋介石が重慶を臨時首都として徹底抗戦を宣言。日本軍は内陸部への進攻に苦慮する。
1941
太平洋戦争の開始(12月)日本軍が真珠湾を攻撃。日中戦争は太平洋戦争(大東亜戦争)の一部として組み込まれる形となった。
1945
日本降伏・日中戦争の終結(8月)日本がポツダム宣言を受諾して降伏。日中戦争は終結し、中国は戦勝国となった。
結果とその後
結果
中国側にとっては、日本の降伏により八年間の抗戦が終結し、戦勝国の地位を獲得。日本が領有していた台湾・澎湖諸島も中国(中華民国)に返還された。第二次国共合作による民族的団結は、以後の国共内戦(1946〜1949年)に向けた各勢力の基盤を再構築する機会にもなった。
日本側は長期消耗戦による国力の疲弊が深刻となり、資源確保のために南進政策に踏み出したことが太平洋戦争を招いた。日中戦争は単独で解決できないまま太平洋戦争と一体化し、最終的には日本の敗戦につながった。南京事件の犠牲者数・事件の規模については、現在も日中間・研究者間で見解に大きな差があり、歴史的評価が定まっていない点に注意が必要である。
登場人物
人物

蒋介石

中華民国国民政府主席・中国国民党指導者

国民政府を率いて日本に抵抗した最高指導者。第二次国共合作を受け入れて抗日統一戦線を形成。国民政府を重慶に移して徹底抗戦を指揮した。戦後は国共内戦に敗れ、1949年に台湾へ移った。

毛沢東

中国共産党指導者

共産党軍(八路軍・新四軍)を率いて主に農村部・ゲリラ戦で日本軍に抵抗。第二次国共合作では国民党と協力しながらも独自の勢力拡大を続け、戦後の国共内戦で蒋介石に勝利して1949年に中華人民共和国を建国した。

近衛文麿

日本の内閣総理大臣(1937〜1939年、1940〜1941年)

盧溝橋事件後の日中全面戦争拡大期に日本の首相を務めた。1938年に「国民政府を対手とせず」との声明を出し、交渉による解決の道を閉ざした。

張学良

中国東北軍(旧満州軍)の将軍

西安事件(1936年)で蒋介石を軟禁し、国共内戦停止・抗日優先を迫った人物。蒋介石は解放後も張学良を長年軟禁下に置いた。

松井石根

日本陸軍大将・中支那方面軍司令官

南京攻略戦を指揮した日本軍司令官。戦後の東京裁判(極東国際軍事裁判)で南京事件に対する指揮責任が問われ、死刑判決を受けた。

キーワード解説
用語
盧溝橋事件
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で起きた日中両軍の衝突事件。日中戦争(日華事変)の発端となった。発砲の詳細や責任については現在も議論がある。
日華事変
日本政府が日中戦争に用いた公式呼称。「宣戦布告をしていない」という建前から「戦争」ではなく「事変」と呼んだ。実態は八年間にわたる本格的な戦争であった。
第二次国共合作
1937年に成立した中国国民党と中国共産党による抗日統一戦線。日本という共通の敵に対して内戦を棚上げし協力する体制。抗日戦争終結後は再び国共内戦(1946〜1949年)に突入した。
南京事件(南京大虐殺)
1937年12月、日本軍が南京を占領した際に、多数の中国軍民が犠牲になったとされる出来事。犠牲者数や事件の規模・性格については日中両国および研究者間で現在も見解が大きく異なる。
抗日民族統一戦線
日本の侵略に対抗するため中国国内の各勢力が民族的団結を呼びかけた動き。第二次国共合作を中心に形成された。
重慶
日本軍が南京を占領した後、国民政府が遷都した四川省の都市。山岳地帯に位置し日本軍の進撃を阻む地の利があった。1945年の終戦まで中国の臨時首都として機能した。
もっと知りたい
豆知識

1「事変」と呼んだのは宣戦布告を避けるためだった

日本政府は日中戦争を公式に「事変(日華事変)」と呼び続けた。「宣戦布告」をすると国際法上、アメリカからの軍需物資輸入が制限される可能性があったためとされる。しかし実態は八年間に及ぶ大規模な戦争であり、当時の国際社会からも実質的な戦争状態と認識されていた。

2重慶は日本軍の爆撃にもくじけなかった

日本軍は1938年から「重慶爆撃」と呼ばれる大規模な航空爆撃を繰り返したが、国民政府は重慶を放棄しなかった。重慶は山に囲まれた地形と長江の険しい流れが天然の要害となり、日本軍の地上部隊も進撃を阻まれた。

3日中戦争は太平洋戦争に「吸収」された形になった

1941年12月の真珠湾攻撃以降、日本政府は対米・対英戦争を「大東亜戦争」として宣言したが、日中戦争(日華事変)は別途継続する扱いとなった。日本降伏(1945年8月)まで、中国大陸では独立した戦線が続いていた。

4毛沢東の共産党軍は「抗日」より「勢力拡大」を優先したと評価されることもある

第二次国共合作の期間中、毛沢東率いる共産党は日本軍との正面衝突を極力避け、農村部でのゲリラ戦と勢力拡大に専念したとする見方がある。実際、戦後の国共内戦で共産党は農村の支持基盤を大幅に広げていた。

5日中戦争の犠牲者数は今なお議論が続く

八年間の戦争全体の中国側犠牲者数については、研究者・機関によって数百万から二千万人以上まで幅広く見積もりが異なる。南京事件の犠牲者数についても日中双方の公式見解に大きな開きがあり、歴史的事実の確定が難しい問題の一つとなっている。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1937年。語呂は「戦な(1937)日中戦争」。日中戦争は1937〜1945年まで続いた点も押さえる。
発端は1937年7月7日の盧溝橋事件(北京郊外)。日本政府は「日華事変」と呼んだ。
中国側の対応:国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)が第二次国共合作を結成して対抗した。
1937年末に日本軍が首都南京を占領→南京事件発生。国民政府は重慶に遷都して抗戦継続。
日中戦争の長期化→日本の資源不足→南進政策→アメリカとの対立深化→1941年太平洋戦争開始という流れが重要。
満州事変(1931年)との関連:満州事変→満州国建国→日中戦争→太平洋戦争という日本の侵略拡大の流れとして整理する。
語呂クイズ
「戦な(1937)日中戦争」= 日中戦争が始まるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 日中戦争はなぜ「戦争」ではなく「事変」と呼ばれたのですか?
A. 日本政府が「宣戦布告」をすると国際法上、アメリカからの軍需物資輸入が制限される恐れがあったため、公式には「事変(日華事変)」と呼び続けました。しかし実態は八年間に及ぶ本格的な戦争でした。
Q. 第二次国共合作とは何ですか?
A. 長年対立していた中国国民党(蒋介石)と中国共産党(毛沢東)が、日本の侵略という共通の危機に対して内戦を一時棚上げし、抗日統一戦線を組んだ協力体制のことです。1937年9月に正式に成立しました。
Q. 南京事件とはどのような出来事ですか?
A. 1937年12月、日本軍が中国の首都南京を占領した際に、多数の中国軍民が犠牲になったとされる出来事です。犠牲者数や規模については日中両国および研究者間で現在も見解が大きく異なっており、歴史的評価が定まっていない問題の一つです。
Q. 日中戦争はなぜ長期化したのですか?
A. 日本軍は主要都市を次々と占領しましたが、広大な中国大陸での支配維持が困難で、国民政府は重慶に遷都して抵抗を継続しました。国共両党が協力して粘り強く抗戦したこと、補給線が伸びすぎたことなどが泥沼化の原因です。
Q. 日中戦争と太平洋戦争はどのようにつながっていますか?
A. 日中戦争の長期化で日本の資源(石油・鉄・ゴムなど)が不足し、東南アジアへの南進政策が加速しました。アメリカはこれを警戒して日本への経済制裁を強化。行き詰まった日本が真珠湾攻撃に踏み切り(1941年12月)、太平洋戦争が始まりました。
まとめ

1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争は、日本と中国の双方に計り知れない犠牲をもたらした八年間の戦争でした。中国側では国民党・共産党が第二次国共合作を結成して粘り強く抵抗し、国民政府は重慶に移って終戦まで戦い続けました。日本側は広大な中国大陸での消耗戦が解決できないまま太平洋戦争に突入し、1945年に敗戦を迎えました。「戦な(1937)日中戦争」の語呂とともに、満州事変→日中戦争→太平洋戦争という侵略拡大の流れ、そして第二次国共合作・重慶遷都という中国側の抵抗を一体的に押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
南京事件(南京大虐殺)の犠牲者数については、中国政府は30万人以上と主張し、日本の研究者間でも数万人から20万人以上まで幅広く見積もりが異なる。本稿では断定を避け『多数の中国軍民が犠牲になったとされる』という表現を用いた。
日中戦争全体の犠牲者数(中国側軍民含む)についても各機関・研究者で推計に大きな差があり、断定的な数値の記載を避けた。
第二次国共合作の成立時期については、1937年9月22日の共産党声明と翌23日の蒋介石の回答(承認声明)をもって正式成立とする見方が一般的であるため、本稿では『1937年9月』と記述した。
近衛文麿の『国民政府を対手とせず』声明(1938年1月)は交渉による解決を事実上封じた重要な転換点だが、本稿では background の分量バランスを優先してtimeline・peopleの記述にとどめた。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1931-manchurian-incident・1939-wwii を記載。存在しない場合は削除すること。