高校/政治
1932
満州国が建国される
溥儀(清朝最後の皇帝)
語呂
覚え方
戦に建つ(1932)満州国の建国
いくさに(1932)満州国建国
1932年3月1日、中国東北部(満州)に「満州国」の建国が宣言されました。清朝最後の皇帝であった溥儀を執政(1934年からは皇帝)に据えたこの国家は、表向きは五族協和・王道楽土を掲げる独立国でしたが、実際の統治権は日本の関東軍が掌握する傀儡国家でした。前年1931年に起きた柳条湖事件(満州事変)を口実に満州全土を占領した関東軍が、既成事実を積み上げるかたちで建国へと導いたものです。中国側は日本の侵略として国際連盟に提訴し、派遣されたリットン調査団の報告を受けた国際連盟が「満州国不承認・日本軍撤退」を勧告すると、日本は1933年に国際連盟を脱退。以後、日本は国際的な孤立を深め、1945年の敗戦とともに満州国は崩壊しました。
この記事のポイント
- 1931年の柳条湖事件(満州事変)を機に関東軍が満州全土を占領し、翌1932年3月に満州国建国を宣言
- 清朝最後の皇帝・溥儀を執政(後に皇帝)に据えたが、実権は関東軍が握る事実上の傀儡国家
- 首都は新京(現在の中国吉林省長春)に置かれ、五族協和・王道楽土を国是として掲げた
- 中国の提訴を受けてリットン調査団が派遣され、国際連盟は満州国不承認・日本軍撤退を勧告
- 日本は1933年に国際連盟を脱退し、国際的孤立を深めた。満州国は1945年の日本敗戦とともに崩壊した
ここが面白い「これは独立国家の誕生だ」と言われたが、実権を握っていたのは日本の軍隊だった――1932年、満州の地に打ち立てられた国家の実態とは何だったのか。
満州国の建国は突発的な出来事ではありません。日清・日露戦争以来の満州をめぐる権益争い、世界恐慌がもたらした日本の社会不安、そして軍部の台頭という積み重なった背景があります。順を追って見ていきましょう。
満州をめぐる権益の歴史
日本は日露戦争(1904〜05年)の勝利により、南満州鉄道の経営権と旅順・大連の租借権をロシアから引き継いだ。これを守備する部隊として設置されたのが関東軍である。以来、日本は鉄道沿線の都市に居留地を持ち、満州を事実上の勢力圏とみなしてきた。一方、中国では辛亥革命(1911年)後に国民党政府が成立し、1920年代後半には満州に実効支配を広げようとする張学良(奉天軍閥・張作霖の子)と日本の利権が衝突しつつあった。
世界恐慌と日本の社会不安
1929年に始まった世界恐慌は日本経済に深刻な打撃を与えた。農村の疲弊・失業者の増加・政党政治への不信が社会に広がり、「満州を開拓することで活路を開く」という主張が軍部や一部の政治勢力の間で支持を集めた。こうした空気が、関東軍の独走を黙認・支持する世論を育てる土壌となった。
柳条湖事件から満州事変へ
1931年9月18日夜、関東軍の謀略部隊が奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した。関東軍はこれを中国軍の破壊工作と発表し、自衛を名目に攻撃を開始。日本政府が不拡大方針を示す中、関東軍は独断で行動を拡大し、約5か月で満州全土の主要都市を占領した(満州事変)。後の東京裁判などでの証言・資料により、これが関東軍による自作自演であったことが明らかになっている。
満州国の建国宣言と溥儀の擁立
関東軍は占領した満州を支配するための政治的枠組みとして、「独立国家」の建設を計画した。1912年に清朝が滅亡した際に退位していた元皇帝・溥儀に目をつけた関東軍は、1932年3月に溥儀を執政として満州国の建国を宣言させた。首都は旧奉天省の新京(現・長春)とされた。1934年には満州国を「帝国」に格上げし、溥儀は「康徳帝」として皇帝に即位した。五族協和(日・漢・朝・満・蒙の五族の共存)と王道楽土(道義に基づく理想国家)が国是として掲げられたが、実際の行政・軍事は日本人官僚と関東軍が掌握し、溥儀には実権がなかった。
傀儡国家としての建国
≒ 名目上の指導者を立てて実権を外部が握る政治的仕組み表向きは溥儀を元首とする独立国家だが、行政の要職には日本人が配置され、最終決定権は関東軍が持つ構造だった。こうした実態上の支配者と名目上の指導者が乖離した国家を「傀儡国家」と呼ぶ。
国際連盟とリットン調査団
≒ 国連の前身機関が行う現地調査・勧告の仕組み中国の提訴を受けた国際連盟は1932年にリットン卿を団長とする調査団を派遣した。調査団の報告書は日本軍の行動を自衛と認めず、満州国の独立性も否定するものだった。この報告をもとに国際連盟総会が採択した勧告(1933年)は日本軍の撤退を求め、満州国を承認しなかった。
国際連盟脱退と孤立
≒ 国際機関から離脱することによる外交的孤立国際連盟が満州国を不承認とする報告を採択した直後、日本全権・松岡洋右は議場を退場し、日本は1933年3月に国際連盟からの脱退を通告した(正式脱退は1935年)。これにより日本は国際社会での影響力を失い、中国との全面戦争(1937年〜)・太平洋戦争(1941年〜)へとつながる孤立の道を歩み始めた。
1905日露戦争終結ポーツマス条約により日本がロシアから南満州の権益を引き継ぐ。関東軍の前身組織が設置される。
1928張作霖爆殺事件関東軍の一部将校が奉天軍閥の指導者・張作霖を列車爆破で暗殺。後継の張学良は中国国民政府への帰順を宣言し、満州への国民政府の影響が強まる。
1929世界恐慌アメリカ発の経済恐慌が世界に波及し、日本も深刻な打撃を受ける。農村疲弊・失業増大が軍部の台頭を後押しする。
1931柳条湖事件・満州事変9月18日、関東軍が柳条湖で南満州鉄道を自ら爆破し、満州事変が始まる。関東軍は日本政府の不拡大方針を無視して侵攻を拡大。
1932満州国建国3月1日、溥儀を執政として満州国の建国が宣言される。首都を新京(現・長春)とする。同年9月、日本が満州国を正式承認(日満議定書)。
1932リットン調査団報告国際連盟のリットン調査団が現地調査を経て報告書を提出。日本軍の行動を自衛と認めず、満州国の独立性を否定する内容だった。
1933国際連盟脱退2月24日、国際連盟総会が満州国不承認・日本軍撤退を求める報告を賛成多数で採択。日本全権・松岡洋右が議場を退場し、日本は国際連盟脱退を通告。
1934溥儀が皇帝に即位満州国が「満州帝国」に改称され、溥儀が「康徳帝」として皇帝に即位。実権は引き続き関東軍が握る。
1937日中戦争(盧溝橋事件)北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し、全面戦争に発展(第二次世界大戦の前哨)。
1945満州国崩壊8月8日にソ連が対日宣戦布告し、満州に侵攻。日本の敗戦(8月15日)とともに満州国は解体・消滅した。溥儀はソ連軍に拘束され、後に中国へ引き渡された。
△満州国は国際社会のほぼ全体から承認されず(承認国はドイツ・イタリア・スペインなど枢軸寄りの少数の国々に限られた)、事実上の傀儡国家として機能した。溥儀に実権はなく、五族協和・王道楽土の理念と実態は大きくかけ離れていた。
△国際連盟脱退により日本は国際的孤立を深め、以後の日中戦争・太平洋戦争へとつながる外交的転換点となった。満州国の建国はアジア太平洋地域における緊張を高めた出来事として、各国・各地域でさまざまな評価がなされている。
◎満州国時代に整備されたインフラ(鉄道・道路・電力)は、後の中国東北部の工業化の基盤として部分的に活用されたという評価もある。ただし、これは強制労働や現地住民の犠牲を伴ったものであり、無批判に肯定できるものではない。
溥儀
満州国執政(初代)・皇帝(康徳帝)清朝最後の皇帝。1912年の辛亥革命で退位後、天津の日本租界に滞在していたところを関東軍が接触し、満州国執政に就任させた。実権は持たず、関東軍の意向に従う立場に置かれた。1945年の満州国崩壊後にソ連軍に拘束され、後に中国へ送還。1967年に北京で死去した。
石原莞爾
関東軍参謀(作戦部長)柳条湖事件と満州占領を主導した関東軍の中心人物。「最終戦争論」などの独自の世界観を持ち、満州を日本の生命線と位置づけた。後に日中戦争の拡大には反対の立場をとった。
板垣征四郎
関東軍参謀石原莞爾と並んで満州事変・満州国建国を主導した人物。後に陸軍大臣を歴任。東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた。
松岡洋右
国際連盟日本全権大使1933年2月の国際連盟総会で満州国不承認の勧告が採択された際、議場を退場したことで知られる。後に外務大臣として日独伊三国同盟(1940年)に署名した。
リットン卿(ヴィクター・ブルワー=リットン)
国際連盟調査団団長イギリスの政治家。国際連盟が派遣した調査団の団長として満州を視察し、1932年に報告書を提出。日本軍の行動を自衛と認めず、満州国の独立性も否定する内容で、国際連盟の勧告の根拠となった。
- 満州事変
- 1931年9月18日の柳条湖事件を発端に、関東軍が満州全土を占領した軍事行動。日本政府の不拡大方針を無視した関東軍の独走が特徴で、翌年の満州国建国につながった。
- 傀儡国家
- 名目上は独立した国家でありながら、実際の政治・軍事の権限を他の国家や勢力が握っている状態の国家を指す。満州国は溥儀を元首としながら、実権を関東軍が握っていた点でその典型とされる。
- 五族協和
- 日本・漢族・朝鮮・満州・蒙古の五民族が平等に共存するという満州国の建国理念。実態は日本人が行政の要職を占め、他民族に対する差別的な扱いも広く行われたとされており、理念と現実の乖離が指摘されている。
- 国際連盟
- 第一次世界大戦後の1920年に設立された国際的な平和維持機関。アメリカが不参加だったことなどにより実効的な強制力に欠けた。日本の満州国建国をめぐる問題では満州国不承認を勧告したが、日本の行動を阻止することはできなかった。
- リットン報告書
- 1932年10月に国際連盟が公表した報告書。リットン卿を団長とする調査団が現地調査を行い作成。満州事変を日本の自衛行為とは認めず、満州国の独立性・正当性も否定した。これを根拠に国際連盟が採択した勧告が、日本の国際連盟脱退を招いた。
- 関東軍
- 南満州鉄道の守備と関東州(旅順・大連)の防衛を目的として設置された日本陸軍の部隊。満州事変・満州国建国を主導し、中国大陸での戦闘に深く関与した。最盛期には70万人以上を擁したが、1945年のソ連参戦で壊滅的打撃を受けた。
1溥儀は3歳で皇帝になった
溥儀(1906〜1967年)は1908年、わずか3歳で清朝第12代皇帝に即位した。しかし1912年の辛亥革命により6歳で退位し、以後は紫禁城内で暮らした。関東軍に擁立されて満州国の元首となり、日本敗戦後はソ連の捕虜となった後に中国へ送還。文化大革命の時代を生き延び、北京の植物園で働きながら1967年に病死した。その波乱の生涯は映画『ラスト エンペラー』(1987年)で描かれた。
2国際連盟脱退の瞬間、松岡洋右は拍手を受けた
1933年2月24日の国際連盟総会で満州国不承認の勧告が42対1(反対は日本のみ)で採択された後、日本全権・松岡洋右が演説して議場を退場した際、一部の代表者から拍手を受けたと伝えられている。松岡本人は後にこの決断を誇りとしたが、日本の孤立を決定的にした歴史的な場面でもあった。
3満州国の通貨・切手には溥儀の肖像が使われた
満州国は独自の通貨(満州国圓)や郵便切手を発行した。切手には皇帝・溥儀の肖像や、建国の理念を象徴するデザインが採用された。これらは現在でもコレクターのあいだで取引される歴史的資料である。
4首都・新京は計画都市として整備された
満州国の首都に選ばれた新京(現・長春)は、日本の都市計画の手法を取り入れた計画都市として建設された。広い幹線道路・公共建築・上下水道などが整備され、当時のアジアでも有数の近代都市と称された。ただしその建設には強制的な土地収用や労働動員が伴ったことも記録されている。
5満州には多くの日本人移民が渡った
日本政府は「満蒙開拓団」として農民を中心とした日本人移民を満州へ送り出す政策を推進した。最終的に約27万人が渡満したとされる。1945年の日本敗戦後、多くの開拓団員がソ連軍の侵攻や厳しい冬の中を逃避行し、現地で亡くなった人も多い。引き揚げ・残留孤児の問題は戦後長く日中間の外交・人道問題として続いた。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1932年。語呂は「戦に建つ(1932)満州国の建国」。
前提となる事件は1931年の柳条湖事件(満州事変)。関東軍が自ら線路を爆破したことが後の東京裁判等で明らかになっている。
溥儀は清朝最後の皇帝。1932年に執政、1934年に皇帝(康徳帝)として即位した点を区別して覚えること。
首都は新京(現在の中国吉林省長春)。
国際連盟はリットン調査団の報告をもとに満州国不承認・日本軍撤退を勧告→日本は1933年に国際連盟を脱退という流れを押さえる。
満州国は国際社会にほぼ承認されなかった傀儡国家であり、1945年の日本敗戦とともに崩壊した。
語呂クイズ
「戦に建つ(1932)満州国の建国」= 満州国が建国されるは西暦何年?
- Q. 満州国はなぜ「傀儡国家」と呼ばれるのですか?
- A. 名目上は溥儀を元首とする独立国家でしたが、行政の要職に日本人が配置され、軍事・政治の実権を関東軍が握っていたからです。溥儀自身も後に回顧録などで実権がなかったことを述べています。
- Q. 溥儀は自分の意志で満州国の皇帝になったのですか?
- A. この点については諸説あります。溥儀が後に著した回顧録では、関東軍の強い働きかけと事実上の強制があったと述べています。一方で、清朝復興を望んでいた溥儀自身の思惑もあったとする見方もあり、研究者の間で議論が続いています。
- Q. 国際連盟はなぜ日本を止められなかったのですか?
- A. 国際連盟には加盟国に制裁を強制する軍事力がなく、勧告の実効性に限界がありました。また、当時の主要列強(イギリス・フランスなど)も満州問題への積極的な介入に消極的でした。アメリカは国際連盟に加盟すらしておらず、国際的な連携が機能しなかった側面があります。
- Q. 満州国はいつまで存在したのですか?
- A. 1945年8月8日にソ連が対日宣戦布告して満州に侵攻し、8月15日の日本の敗戦とともに事実上崩壊しました。建国から約13年間の存在でした。
- Q. 満州国の建国は日中戦争とどう関係しますか?
- A. 満州国建国により、中国(中華民国)と日本の対立は決定的に深まりました。1937年の盧溝橋事件を発端とする日中戦争(第二次世界大戦の一部)は、満州事変から始まる中国への侵略の延長線上に位置づけられています。
1932年の満州国建国は、関東軍の独走に始まる満州事変を既成事実化するかたちで行われた出来事です。清朝最後の皇帝・溥儀を元首に据えながら実権を関東軍が握るという傀儡国家の構造、国際連盟によるリットン調査団派遣と満州国不承認の勧告、そして日本の国際連盟脱退という流れは、日本が国際社会から孤立していく重要な転換点となりました。「戦に建つ(1932)満州国の建国」の語呂とともに、1931年の柳条湖事件→1932年満州国建国→1933年国際連盟脱退→1937年日中戦争という歴史の流れを、大きな文脈の中で押さえておくことが大切です。
編集メモ(ファクト)
満州国の評価は、日本・中国・韓国・ロシア(旧ソ連)など各国の立場によって異なる。本稿は国際的に広く用いられる通説的記述に基づき、中立・事実ベースで執筆した。
溥儀の「自発的意志」については諸説あるため、faqおよびpeopleで「諸説あり・本人の回顧録」として留保を設けた。
柳条湖事件が関東軍の謀略(自作自演)であることは、戦後の資料・証言・東京裁判等で広く支持されているが、当時の日本国内では「中国軍による破壊」と喧伝されていた。本稿では現在の歴史学上の通説に従い謀略であると記述した。
満州国を承認した国家にはドイツ・イタリア・スペインなどが含まれるが、主要民主主義国家はほぼ不承認だった。
related に記載の 1931-manchurian-incident・1937-second-sino-japanese-war は指定されたIDであり、実在しない場合は削除すること。