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高校/政治
1921

ワシントン会議が開かれる

アメリカ大統領ハーディング/国務長官ヒューズ
語呂
覚え方
行く兄(いくにい)(1921)ワシントン会議
いくにい(1921)ワシントン会議

1921年11月、アメリカ大統領ハーディングの呼びかけで、ワシントンD.C.に米・英・日・仏・伊・中・ベルギー・オランダ・ポルトガルの9か国代表が集まりました。会議の中心となったのはアメリカの国務長官ヒューズで、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有トン数制限と、アジア・太平洋地域の現状維持をめざした3つの条約が締結されました。これらの条約によって構築されたアジア・太平洋の国際秩序を「ワシントン体制」と呼び、日本にとっては海外進出が抑えられる一方、欧米列強との協調路線が確立された時代となりました。

この記事のポイント

  • 1921〜1922年、アメリカのハーディング大統領の提唱によりワシントンで国際会議が開かれた
  • 国務長官ヒューズが主導し、海軍軍縮条約・四か国条約・九か国条約の3条約が締結された
  • 海軍軍縮条約で主力艦の保有比率を米:英:日:仏:伊=5:5:3:1.67:1.67に制限
  • 四か国条約により太平洋地域の現状維持が確認され、日英同盟が廃棄(解消)された
  • 九か国条約で中国の主権尊重・領土保全・門戸開放が約束され、「ワシントン体制」が成立した
ここが面白い

第一次大戦が終わって間もないころ、世界最大の海軍国たちが「軍艦を減らす」約束を結んだ。戦争の教訓を生かしてアジア・太平洋の秩序を作り直そうとしたのが、1921年から翌年にかけて開かれたワシントン会議だった。

ここに至るまでの流れ
背景

ワシントン会議は突然開かれたわけではありません。第一次世界大戦後の複雑な国際情勢と、各国の海軍拡張競争という二つの流れが合わさって実現した会議です。その背景を順に見ていきましょう。

第一次大戦後の国際秩序の模索

1919年のヴェルサイユ条約で欧州の秩序は一応整理されたが、アメリカは上院の反対で国際連盟に加入せず、ヴェルサイユ体制の外に置かれた。アジア・太平洋地域については、同年のパリ講和会議で十分に議論されなかった問題が山積しており、新たな枠組みが必要とされていた。

海軍拡張競争の激化

第一次大戦後も米・英・日の三国は主力艦の建造計画を続けており、このままでは再び軍拡競争から戦争へという悪循環が生じると懸念された。特にアメリカとイギリスは多額の軍事費に苦しんでおり、財政的な観点からも軍縮の必要性が高まっていた。

日本の膨張とアメリカの危機感

日本は第一次大戦中に中国への二十一か条の要求(1915年)などで勢力を拡大しており、アメリカや中国はこれに強い警戒感を抱いていた。また1902年以来続く日英同盟が対日けん制の妨げになっているとアメリカは見ており、この廃棄も会議の重要課題となった。

会議の主な成果:3つの条約

1921年11月から1922年2月にかけて行われた会議で、(1)海軍軍縮条約=主力艦の保有比率を5:5:3:1.67:1.67に制限、(2)四か国条約=太平洋の現状維持・日英同盟の廃棄、(3)九か国条約=中国の主権尊重・門戸開放の確認、という3条約が締結された。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

海軍軍縮条約:主力艦の比率を制限

≒ 核軍縮条約のような「兵器の上限を決める国際ルール」

米・英・日・仏・伊の5か国が保有できる主力艦(戦艦・巡洋戦艦)のトン数比率を5:5:3:1.67:1.67に制限した。日本は米英より少ない3の比率に抑えられたが、建造費の節減というメリットもあった。

四か国条約:太平洋の現状維持と日英同盟の廃棄

≒ 「現状を変えない」という地域安全保障の取り決め

米・英・日・仏の4か国が太平洋の島々の権益を相互に尊重し、紛争は協議で解決することを約束した。この条約により1902年から続いた日英同盟が廃棄(解消)された。

九か国条約:中国の主権尊重と門戸開放

≒ 「一国が中国を独り占めしてはいけない」というルール

9か国が中国の主権・領土保全・行政的独立を尊重し、すべての国が中国との自由貿易を行える「門戸開放」を約束した。日本が大戦中に得た特権的地位を制限する内容でもあった。

前後のできごと
年表
1902
日英同盟締結日本とイギリスが軍事同盟を結ぶ。ロシアへの対抗を目的とし、後の日露戦争での日本勝利を支えた。
1915
二十一か条の要求日本が中国(袁世凱政府)に対して大幅な権益拡大を要求。アメリカや英国から強い批判を受けた。
1919
ヴェルサイユ条約第一次大戦の講和条約が結ばれ欧州の秩序が整理されるが、アメリカは上院の反対で国際連盟に不参加。アジア・太平洋の問題は未解決のまま残った。
1920
国際連盟発足ウィルソン大統領が提唱した国際平和機構が発足。ただし提唱国アメリカ自身は不参加となった。
1921
ワシントン会議開幕11月12日、ハーディング大統領の招待で9か国代表がワシントンD.C.に集合。国務長官ヒューズが冒頭演説で大胆な軍縮案を提示し、各国に衝撃を与えた。
1921
四か国条約締結12月13日、米・英・日・仏の4か国が太平洋の島嶼(とうしょ)権益の相互尊重と紛争の協議解決を約束。日英同盟の廃棄が決定した。
1922
海軍軍縮条約締結2月6日、5か国間で主力艦の保有比率を5:5:3:1.67:1.67に制限する条約が成立。10年間の主力艦建造停止(建艦休日)も定められた。
1922
九か国条約締結と会議閉幕同じく2月6日、9か国が中国の主権尊重・門戸開放・機会均等を確認する条約に調印し、会議が閉幕。ワシントン体制が成立した。
1930
ロンドン海軍条約ワシントン会議で未規定だった補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の比率をロンドン会議で制限。日本国内では「統帥権干犯問題」として政治問題化した。
1936
ワシントン体制の崩壊日本がワシントン海軍軍縮条約・ロンドン海軍軍縮条約の延長を拒否して脱退。ワシントン体制は事実上崩壊した。
結果とその後
結果
海軍軍縮と太平洋秩序の安定化により、1920年代はアジア・太平洋での大規模な戦争が抑制された。日本にとっても欧米協調路線(協調外交)が外交の柱となり、経済発展に注力できる時期をもたらした。
日本では海軍軍縮条約の「3の比率」が屈辱的と感じる軍部・右派勢力の不満を高めた。また日英同盟の廃棄はイギリスという後ろ盾を失うことを意味し、1930年代に日本が孤立していく遠因ともなった。九か国条約は中国の権益を約束したが、執行力を伴わなかったため後の日中関係の悪化を防ぎきれなかった。
登場人物
人物

ウォレン・ハーディング

アメリカ第29代大統領

ワシントン会議の提唱者。第一次大戦後の国際秩序安定とアメリカの国際的主導権確立をめざした。1923年に在任中に死去。

チャールズ・エバンズ・ヒューズ

アメリカ国務長官

ワシントン会議の実質的な立役者。開幕演説で各国が保有する具体的な艦名を挙げて廃棄を提案するという大胆な軍縮案を提示し、会議の流れを主導した。

加藤友三郎(かとうともさぶろう)

日本全権・海軍大臣

日本代表として軍縮条約に調印。「軍縮によって得られる外交的利益の方が大きい」と判断し、国内の反対を押し切って条約締結に賛成した。後に首相となる。

アーサー・バルフォア

イギリス全権・元首相

イギリス代表として出席。日英同盟の廃棄には内心抵抗があったとされるが、アメリカとの関係維持を優先して受け入れた。

キーワード解説
用語
ワシントン体制
ワシントン会議で結ばれた3条約を基盤とした、アジア・太平洋地域の国際秩序。欧州のヴェルサイユ体制と合わせて「ヴェルサイユ・ワシントン体制」とも呼ばれ、1930年代に崩壊するまで続いた。
主力艦(しゅりょくかん)
戦艦・巡洋戦艦など当時最大の海軍戦力。海軍軍縮条約では保有トン数の比率を米英5:日3:仏伊1.67に制限した。
門戸開放(もんこかいほう)
中国への通商・投資について、特定の国だけが独占せず、すべての国に平等に開放するという原則。アメリカが1899年に提唱し、九か国条約で再確認された。
日英同盟(にちえいどうめい)
1902年に日本とイギリスが結んだ軍事同盟。日露戦争でも機能したが、アメリカが対日けん制の妨げと見なし、四か国条約の締結に伴い1923年に廃棄された。
協調外交(きょうちょうがいこう)
1920年代に日本が採った、欧米との協調を重視する外交路線。幣原喜重郎外相が推進したことから「幣原外交」とも呼ばれる。1931年の満州事変を機に転換を余儀なくされた。
もっと知りたい
豆知識

1ヒューズの演説で沈む艦名が読み上げられた

会議初日の開幕演説でアメリカの国務長官ヒューズは、アメリカ・イギリス・日本が廃棄すべき具体的な艦名を次々と読み上げた。あまりに大胆な提案に、同席した海軍提督たちは驚愕したと伝えられる。ある記者は「ヒューズは30分間で海軍提督たちが30年かけて沈めるより多くの艦を沈めた」と評した。

2日英同盟は20年以上続いた

1902年に結ばれた日英同盟は、日露戦争・第一次世界大戦を経て20年以上続いた。日英の協力関係は日本の国際的地位向上に貢献したが、アメリカが「対日けん制の妨げ」として廃棄を強く求め、四か国条約の締結とともに1923年に正式に失効した。

3建艦休日(けんかんきゅうじつ)の設定

海軍軍縮条約では主力艦の保有トン数比率を制限しただけでなく、10年間は新たな主力艦を建造しない「建艦休日(Naval Holiday)」も定められた。これにより各国は巨額の建艦費用を節約できたが、一方で旧式艦の温存という問題も生じた。

4九か国条約に中国は不満を持っていた

九か国条約は中国の主権尊重を約束したが、当時の中国代表は列強が中国に持つ既存の権益(租界や鉄道利権など)の撤廃を求めていた。しかし会議では既存権益の撤廃は認められず、中国は不満を残しながらも調印した。

5ワシントン体制は1930年代に崩壊した

1931年の満州事変、1933年の日本の国際連盟脱退、1936年の日本によるワシントン・ロンドン海軍軍縮条約への不参加宣言によって、ワシントン体制は事実上崩壊した。その後の日中戦争・太平洋戦争への道が開かれていった。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1921年。語呂は「行く兄(いくにい)(1921)ワシントン会議」。
提唱はアメリカのハーディング大統領、主導したのは国務長官ヒューズ。
3条約の内容:①海軍軍縮条約(主力艦比率5:5:3:1.67:1.67)、②四か国条約(太平洋現状維持・日英同盟廃棄)、③九か国条約(中国の主権尊重・門戸開放)。
四か国条約で日英同盟が廃棄(解消)された点は頻出。1902年締結・1923年失効。
会議の結果として成立した「ワシントン体制」はヴェルサイユ体制と並ぶ戦間期の国際秩序の柱。1930年代に日本の行動で崩壊した。
語呂クイズ
「行く兄(いくにい)(1921)ワシントン会議」= ワシントン会議が開かれるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ワシントン会議はなぜ開かれたのですか?
A. 第一次大戦後も米・英・日の三国が海軍拡張競争を続けており、新たな戦争への懸念が高まっていたためです。アメリカが中心となって軍縮と太平洋の秩序安定を話し合う場を設けました。
Q. 海軍軍縮条約で日本は5:5:3の「3」になったのはなぜですか?
A. アメリカとイギリスは大西洋・太平洋両方に海軍力を分散させる必要があるのに対し、日本は太平洋だけに集中できるため、実質的な防衛力は同等に近いというのがアメリカ側の説明です。一方、日本国内ではこの比率を屈辱的と感じる声も強くありました。
Q. 四か国条約で日英同盟が廃棄されたことで日本にどんな影響がありましたか?
A. 20年以上続いた強力な後ろ盾を失うことになりました。1920年代はアメリカ・イギリスとの協調(協調外交)で外交を進めましたが、1930年代に日中関係が悪化すると日本は孤立していく状況を招く遠因の一つとなりました。
Q. 九か国条約は中国に有利な内容でしたか?
A. 中国の主権や領土保全を約束した点では有利に見えますが、列強がすでに持つ租界や鉄道利権などの既存権益の撤廃は認められませんでした。また条約に執行力がなかったため、後に日本が中国に侵攻した際も有効に機能しませんでした。
Q. ワシントン体制はいつどのように崩壊しましたか?
A. 1931年の満州事変で日本が中国東北部を武力占領し、1933年に国際連盟を脱退、1936年に海軍軍縮条約への不参加を宣言したことで、ワシントン体制は事実上崩壊しました。その後は日中戦争(1937年)・太平洋戦争(1941年)へと続きます。
まとめ

ワシントン会議は、第一次大戦後の世界が「もう戦争を繰り返さない」という思いのもとで、海軍軍縮とアジア・太平洋の秩序作りを実現した重要な出来事です。3つの条約で構築された「ワシントン体制」は、1920年代の国際協調の基盤となりました。しかし日本にとっては海軍力の制限と日英同盟の廃棄という不満も残り、1930年代の軍部台頭・協調外交の崩壊へとつながる複雑な遺産を残しました。「行く兄(1921)ワシントン会議」の語呂とともに、3条約の内容と日英同盟廃棄の事実をしっかり押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
海軍軍縮条約の保有比率の数値(5:5:3:1.67:1.67)は教科書によって小数点以下の表記が異なる場合があるが、実質的には米英5・日3・仏伊各1.67で統一されている。
日英同盟の失効は四か国条約締結(1921年12月)後の1923年8月とするのが通説。本文ではワシントン会議での「廃棄決定」という表現にとどめた。
「建艦休日」の説明は用語の補足として trivia に記載したが、高校入試・センター試験レベルでは主力艦比率と日英同盟廃棄・九か国条約の内容を優先して覚えること。
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