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中学/戦争
1918

第一次世界大戦が終わる

ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)/フォッシュ元帥(連合国最高司令官)
語呂
覚え方
行く言は(1918)第一次大戦の終結
いくいは(1918)第一次大戦の終結

1914年に始まった第一次世界大戦は、1918年11月11日、ドイツが連合国との休戦協定に調印することで終結しました。アメリカの参戦(1917年)で優勢に傾いた連合国に対し、同盟国側は次々と崩れていきました。ブルガリア・オスマン帝国・オーストリア=ハンガリー帝国が相次いで休戦を申し入れ、最後に残ったドイツでは、キール軍港の水兵反乱をきっかけにドイツ革命が勃発。皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命し、ドイツは共和国を宣言して戦争を終えました。この大戦は約1600万人の命を奪い、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマンの四帝国を崩壊させ、翌1919年のヴェルサイユ条約で戦後の国際秩序が定められることになります。

この記事のポイント

  • 1917年のアメリカ参戦により連合国側が優勢となり、戦局が決定的に傾いた
  • ロシアは1917年の革命後、1918年のブレスト=リトフスク条約で単独講和・戦線離脱
  • 1918年秋、ブルガリア・オスマン・オーストリア=ハンガリーが相次いで降伏
  • キール軍港の水兵反乱をきっかけにドイツ革命が起こり、ヴィルヘルム2世が退位してオランダへ亡命
  • 1918年11月11日、ドイツが休戦協定に調印して第一次世界大戦が終結
  • 四つの帝国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマン)が崩壊し、翌年ヴェルサイユ条約で講和の枠組みが決まった
ここが面白い

1918年11月11日、午前11時――銃声がやんだ。4年以上にわたって世界を巻き込んだ「史上初の総力戦」は、この瞬間に幕を閉じた。

ここに至るまでの流れ
背景

第一次世界大戦の終結は、一つの出来事で突然訪れたのではありません。アメリカ参戦、ロシアの離脱、同盟国の崩壊、そしてドイツ国内の革命という、複数の大きな潮流が重なって初めて実現しました。その経緯を順に見ていきましょう。

アメリカの参戦(1917年)

ドイツが1917年2月に無制限潜水艦作戦を再開すると、中立を保っていたアメリカは同年4月に連合国側として参戦しました。さらにドイツがメキシコにアメリカへの宣戦を促す電報(ツィンメルマン電報)を送っていたことが発覚し、米国内の世論が一気に対独強硬論へ傾きました。兵員・物資・資金を豊富に持つアメリカの参戦は、消耗しきった連合国側にとって決定的な援軍となりました。

ロシアの革命と単独講和(1917〜1918年)

1917年3月(旧暦2月)にロシアで二月革命が起き、ロマノフ朝が倒れて臨時政府が誕生しました。同年11月(旧暦10月)にはボリシェヴィキがクーデターで政権を掌握(十月革命)。レーニン率いる新政府は戦争継続を放棄し、1918年3月にドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで単独講和しました。これによりロシアは東部戦線から離脱し、ドイツは東の戦線を縮小して西部戦線に兵力を集中することが一時的に可能になりました。

百日攻勢と同盟国の崩壊(1918年夏〜秋)

1918年3〜7月、ドイツは東部戦線から転用した兵力で春季攻勢(ルーデンドルフ攻勢)を仕掛け、パリ郊外まで迫りましたが突破には至りませんでした。7月からは連合国側が反攻に転じ、8月8日の「ドイツ軍にとって黒い日(アミアンの戦い)」以降、百日攻勢によってドイツ軍の戦線は急速に後退しました。9月にブルガリア、10月にオスマン帝国、11月初めにオーストリア=ハンガリー帝国が相次いで休戦を締結し、ドイツは事実上孤立しました。

ドイツ革命と皇帝退位(1918年11月)

1918年10月末、キール軍港でドイツ帝国海軍の水兵たちが、絶望的な特攻出撃命令を拒否して反乱を起こしました。この動きはたちまち全国に広がり、各地に労働者・兵士評議会が結成されるドイツ革命へと発展しました。11月9日、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を余儀なくされオランダへ亡命。同日、社会民主党の指導者シャイデマンがベルリンで共和国の樹立を宣言しました。そして11月11日、フランスのコンピエーニュの森で休戦協定が調印され、午前11時に全戦線で戦闘が停止しました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

総力戦の終結と人類史上初の世界規模の戦争の幕引き

≒ 国力全体を動員する現代戦の原型

産業革命後の軍事技術(毒ガス・戦車・航空機・潜水艦)と徴兵制による大規模動員が組み合わさり、国家の経済・社会・文化すべてが戦争に動員された。この「総力戦」の概念は現代の戦争観に根本的な影響を与えた。

四帝国の崩壊と新国家の誕生

≒ 国境線の大規模な書き換えと民族自決の波

ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマンの四つの帝国が崩壊し、その廃墟からポーランド・チェコスロバキア・ユーゴスラビアなど多くの新国家が生まれた。民族自決の原則(ウィルソン14か条)が国際政治の原則として登場した。

ヴェルサイユ体制への序章

≒ 「勝者の平和」が次の戦争の種を蒔く

休戦協定は戦争の停止であり、正式な講和ではなかった。翌1919年のヴェルサイユ条約でドイツに課された多額の賠償金・領土割譲・軍備制限は、後のドイツ国内の不満を高め、第二次世界大戦への遠因の一つとなったとされる。

前後のできごと
年表
1914
開戦サラエボ事件(オーストリア皇位継承者暗殺)をきっかけに第一次世界大戦が始まる。独・オーストリア=ハンガリー・オスマン(同盟国)対英・仏・露(連合国)の構図で展開。
1917
米参戦・ロシア革命4月、アメリカが連合国側として参戦。3月に二月革命、11月に十月革命(ボリシェヴィキ革命)が起きロシアが混乱。
1918
ブレスト=リトフスク条約(3月)ソヴィエト・ロシアがドイツと単独講和。ロシアは東部戦線から離脱し、多大な領土を失う。
1918
ルーデンドルフ攻勢(3〜7月)東部転用兵力を活かしたドイツの最後の大規模西部攻勢。パリ郊外まで迫るも決定打を欠き失敗。
1918
百日攻勢(8〜11月)連合国が総反攻。アミアンの戦い(8月8日)でドイツ軍が大打撃を受け戦線が崩壊し始める。
1918
同盟国の相次ぐ降伏(9〜11月)ブルガリア(9月)、オスマン帝国(10月)、オーストリア=ハンガリー(11月3日)が休戦。ドイツが孤立。
1918
キール軍港の反乱(10月末)海軍水兵が特攻出撃命令を拒否して反乱。ドイツ革命の火蓋が切られ、全国に労働者・兵士評議会が広がる。
1918
ヴィルヘルム2世退位・共和国宣言(11月9日)皇帝が退位してオランダへ亡命。シャイデマンがベルリンで共和国(後のヴァイマル共和国)の樹立を宣言。
1918
休戦協定調印(11月11日)フランスのコンピエーニュの森で、ドイツが連合国との休戦協定に調印。午前11時に全戦線で戦闘停止。第一次世界大戦終結。
1919
ヴェルサイユ条約パリ講和会議の結果としてヴェルサイユ条約が調印され、ドイツへの賠償・領土割譲・軍備制限が決定。新たな国際秩序(ヴェルサイユ体制)が成立。
結果とその後
結果
四年以上にわたる大量殺傷をもたらした戦争が終結し、国際連盟(1920年)の設立など、戦争の再発を防ぐための国際的な仕組みづくりへの機運が高まった。また民族自決の原則が国際政治に持ち込まれ、多くの新興国家が誕生した。
ドイツに課されたヴェルサイユ体制の過酷な条件(賠償金・領土喪失・軍備制限)は、ドイツ国民の強い不満と「背後からの一突き(ドルヒストースレゲンデ)」伝説を生み、後のナチズム台頭・第二次世界大戦へ繋がる遠因となったとする評価が有力である。また国際連盟にはアメリカが不参加で実効性が制限された。
登場人物
人物

ヴィルヘルム2世

ドイツ皇帝(在位1888〜1918年)

開戦を推進したドイツ皇帝。1918年11月のドイツ革命で退位を余儀なくされ、オランダへ亡命。以後はオランダのドールン邸で過ごし、1941年に死去した。

フェルディナン・フォッシュ

連合国軍最高司令官(フランス元帥)

1918年の百日攻勢を指揮してドイツ軍を敗走させた。休戦協定の連合国側代表として調印に臨んだ。「これは平和ではない。二十年間の休戦だ」と言ったとされる言葉が有名。

ウッドロウ・ウィルソン

アメリカ合衆国大統領

1917年のアメリカ参戦を決断。1918年1月に「14か条の平和原則」を発表し、民族自決・国際連盟設立などを提唱。パリ講和会議で主導的役割を果たしたが、国内の反対により米国の国際連盟加盟は実現しなかった。

フィリップ・シャイデマン

ドイツ社会民主党指導者

1918年11月9日、ベルリンの帝国議会議事堂の窓からドイツ共和国の樹立を宣言した。後にヴァイマル共和国初代首相となる。

レーニン(ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)

ボリシェヴィキ指導者・ソヴィエト政府指導者

十月革命でロシア臨時政府を打倒し、「平和・土地・パン」を掲げて政権を掌握。ブレスト=リトフスク条約でドイツとの単独講和を強行し、ロシアを戦争から離脱させた。

マティアス・エルツベルガー

ドイツ側休戦協定代表

1918年11月11日、コンピエーニュの森の鉄道車両内で休戦協定に調印した。この行為が「戦場で戦いながら背後から刺された」とする陰謀論(ドルヒストース伝説)の標的にされ、1921年に右翼勢力に暗殺された。

キーワード解説
用語
総力戦
国家の軍事力だけでなく、経済・産業・人的資源・宣伝など国力のすべてを動員して戦う戦争形態。第一次世界大戦で初めて本格的に現れ、民間人も戦争遂行に深く組み込まれた。
ブレスト=リトフスク条約
1918年3月、ソヴィエト・ロシアとドイツ(および同盟国)との間に結ばれた単独講和条約。ロシアはウクライナ・バルト海沿岸など広大な領土を失い、東部戦線から離脱した。ドイツ降伏後は事実上無効となった。
百日攻勢
1918年8月8日のアミアンの戦いから11月11日の休戦までの連合国軍による大規模反攻作戦。イギリス・フランス・カナダ・オーストラリア・アメリカ軍が協調してドイツ軍を連続的に攻撃し、戦争の帰趨を決した。
ドイツ革命
1918年10〜11月にドイツで起きた政変。キール軍港の水兵反乱を機に全国に広がり、皇帝退位・共和国宣言に至った。ロシア革命と異なり、ソヴィエト型の政権には移行せず、社会民主主義的な共和国(ヴァイマル共和国)が成立した。
ヴァイマル共和国
ドイツ革命後の1919年に成立したドイツの民主共和国。ヴァイマル憲法(1919年)に基づく議会制民主主義国家だったが、賠償問題・インフレ・政治的不安定が続き、1933年にヒトラーの政権掌握で事実上崩壊した。
コンピエーニュの休戦協定
1918年11月11日、フランス北部のコンピエーニュの森に停車した鉄道車両内でドイツと連合国が調印した休戦協定。午前11時に全戦線で戦闘停止が命じられた。正式な講和条約(ヴェルサイユ条約)は翌1919年に締結された。
14か条の平和原則
1918年1月にウィルソン米大統領が議会演説で提唱した戦後平和構想。秘密外交の廃止・航海の自由・民族自決・国際平和機構(国際連盟)の設立などを含む。ドイツが休戦交渉の基礎として受け入れた。
もっと知りたい
豆知識

1「11月11日11時」に込められた意味

休戦発効の時刻は1918年11月11日午前11時。月・日・時すべてが「11」に揃えられたこの時刻は、連合国側が意図的に設定したとされる。フランスをはじめ多くの国では現在も11月11日を戦没者追悼の日(休戦記念日)として祝日に定めている。

2休戦から発効まで6時間、その間も戦死者が出続けた

休戦協定は1918年11月11日午前5時に調印されたが、発効時刻(午前11時)まで6時間の猶予が設けられた。この間も戦闘は継続し、多くの兵士が命を落とした。休戦当日だけで数千人が戦死したとも言われ、「なぜすぐに停戦しなかったのか」は今日でも批判の対象となっている。

3フォッシュの予言「二十年の休戦」

休戦協定の調印後、連合国軍最高司令官フォッシュ元帥はヴェルサイユ条約の内容に不満を示し、「これは平和ではない。二十年間の休戦だ」と語ったとされる。実際に第二次世界大戦は1939年に始まり、この「予言」は的中する形となった(ただし発言の正確な出典については諸説ある)。

4コンピエーニュの鉄道車両は二度使われた

1918年の休戦調印に使われた鉄道車両は、ドイツがナポレオン的な屈辱への復讐として1940年にフランスを降伏させた際、同じコンピエーニュの森に運び込んで再利用した。フランスは同じ場所・同じ車両でドイツに降伏させられた。この車両はその後ドイツに持ち去られ、第二次世界大戦末期に破壊された。

5四つの帝国が同時に崩壊した

第一次世界大戦の終結によって崩壊した帝国はドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマンの四つに上る。いずれも19世紀まで大陸や地域を支配していた多民族帝国であり、これらの崩壊がヨーロッパ・中東の国境線を根本から書き換えた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1918年。語呂は「行く言は(1918)第一次大戦の終結」。
休戦協定の調印日は1918年11月11日(午前11時発効)。場所はフランスのコンピエーニュの森。
ロシアが単独講和したブレスト=リトフスク条約(1918年3月)はドイツとの条約である点に注意。
ドイツ革命のきっかけはキール軍港の水兵反乱(1918年10月末)。皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダへ亡命。
四つの帝国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマン)が崩壊した点は論述頻出。
ウィルソン14か条の内容(民族自決・国際連盟設立など)とアメリカが国際連盟に不参加だった点もあわせて押さえる。
翌1919年のヴェルサイユ条約でドイツへの賠償・領土割譲・軍備制限が決まり、第二次世界大戦の遠因となった。
語呂クイズ
「行く言は(1918)第一次大戦の終結」= 第一次世界大戦が終わるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 第一次世界大戦はなぜ1918年に終わったのですか?
A. アメリカの参戦(1917年)で連合国側が優勢となり、1918年夏から秋にかけての百日攻勢でドイツ軍の戦線が崩壊しました。同盟国が次々と降伏し、ドイツ国内でも革命が起きて皇帝が退位したため、ドイツは休戦交渉に応じざるを得なくなりました。
Q. ロシアはなぜ途中で戦争をやめたのですか?
A. 1917年の二月革命と十月革命でロシアの体制が大きく変わり、ボリシェヴィキ政権(レーニン指導)が「即時平和」を公約に掲げて政権を握りました。戦争継続よりも革命の維持を優先したため、1918年3月にドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して単独講和・戦線離脱しました。
Q. ドイツ革命とはどういうことですか?
A. 1918年10月末にキール軍港で海軍水兵が反乱を起こしたのをきっかけに、全国で労働者・兵士評議会が結成された政変です。11月9日には皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、共和国が宣言されました。ただしロシア革命とは異なり、共産主義革命には至らず、社会民主主義的な議会共和国(ヴァイマル共和国)が成立しました。
Q. 休戦協定と講和条約はどう違うのですか?
A. 休戦協定は「戦闘をやめる」という暫定合意であり、正式な和平ではありません。第一次世界大戦の場合、1918年11月11日の休戦協定で戦闘が停止しましたが、賠償・領土・軍備などの正式な取り決めは翌1919年のヴェルサイユ条約(講和条約)によって決められました。
Q. ヴェルサイユ条約はなぜ第二次世界大戦に繋がったのですか?
A. ヴェルサイユ条約でドイツは巨額の賠償金(当初約1320億金マルク)・アルザス=ロレーヌなどの領土割譲・軍備の大幅制限を課されました。ドイツ国民はこれを屈辱と感じ、「戦場では負けていなかったのに政治家が背後から刺した」という「ドルヒストース伝説」が広まりました。この不満がナチズムの台頭を下支えし、第二次世界大戦の遠因となったとされています。
まとめ

1918年11月11日の休戦協定調印をもって終結した第一次世界大戦は、人類が初めて経験した世界規模の「総力戦」でした。約1600万人の命が失われ、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア・オスマンの四帝国が崩壊し、ヨーロッパの地図が大きく塗り替えられました。「行く言は(1918)第一次大戦の終結」の語呂とともに、アメリカ参戦・ロシア離脱・ドイツ革命という三つの流れが重なって戦争が終わった経緯をしっかり押さえておきましょう。また翌年のヴェルサイユ条約が次の戦争の種を蒔いた点も、第二次世界大戦の理解へつながる重要な視点です。

編集メモ(ファクト)
ブレスト=リトフスク条約の表記について:「ブレスト=リトフスク」は現在のベラルーシのブレスト(旧称ブレスト=リトフスク)で締結された。日本語の教科書では「ブレスト・リトフスク」「ブレスト=リトフスク」の両表記が混在するが、本稿では「ブレスト=リトフスク」で統一した。
休戦協定の調印時刻と発効時刻について:協定の調印は1918年11月11日午前5時、発効(戦闘停止)は午前11時。本文では「調印」と「発効」を文脈に応じて使い分けた。
シャイデマン(Scheidemann)の表記について:日本語では「シャイデマン」「ショライデマン」などの表記ゆれがあるが、本稿では「シャイデマン」で統一した。
フォッシュの「二十年の休戦」発言の出典については、実際に発言したとされるが正確な一次資料に基づく直接引用の確認が困難であるため、trivia欄に「とされる」「諸説ある」と注記した。
ドルヒストース伝説(背後からの一突き伝説)はナチスが宣伝・利用した陰謀論であり史実ではないが、ドイツ国民の心理と政治動向に与えた影響を説明する上で重要なため言及した。
related は世界史サイト内の指定IDとして 1914-wwi・1919-versailles を記載。存在しない場合は削除すること。