高校/政治
1917
ロシア革命が起こる
レーニン
語呂
覚え方
行く一難(1917)ロシア革命
いくいな(1917)ロシア革命
1917年、ロシアでは1年に2度の革命が起きました。3月(ロシア暦2月)の革命でロマノフ朝300年の歴史が終わり、皇帝ニコライ2世が退位しました。しかし新たに成立した臨時政府も第一次世界大戦への参戦を続けたため、民衆の不満は消えませんでした。11月(ロシア暦10月)、レーニン率いるボリシェヴィキが「平和・土地・パン」を掲げて臨時政府を打倒し、史上初の社会主義政権を樹立しました。この出来事は20世紀の世界史を大きく塗り替え、米ソ冷戦や各地の社会主義運動の原点となりました。
この記事のポイント
- 第一次世界大戦の戦況悪化と深刻な食料難がロシア革命の直接の引き金になった
- 3月革命(ロシア暦2月革命)でニコライ2世が退位し、ロマノフ朝が崩壊した
- 11月革命(ロシア暦十月革命)でレーニンのボリシェヴィキが臨時政府を倒した
- 「平和・土地・パン」のスローガンのもと、史上初の社会主義政権が誕生した
- 1918年のブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和し第一次大戦を離脱した
- 内戦を経て1922年にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した
ここが面白い「ロシア革命」は1917年に2度起きた。皇帝を倒した春の革命と、その後の政府まで倒した秋の革命。どちらもレーニンが主役だったわけではない。
ロシア革命は突然起きたわけではなく、19世紀末から積み重なった矛盾が第一次大戦で一気に噴出した結果です。その背景を順に見ていきましょう。
ロシア帝国の矛盾と1905年革命
19世紀末のロシアは急速に工業化が進む一方、農民の大多数は貧しい土地不足に苦しんでいました。1905年、日露戦争の敗北をきっかけに「血の日曜日事件」(請願デモへの発砲)が起き、全国的なストライキと反乱が広がりました。ニコライ2世は議会(ドゥーマ)の設置を認める十月宣言を出して革命を抑えましたが、抜本的な改革はなされませんでした。
第一次大戦参戦とロシアの疲弊
1914年に第一次大戦が始まると、ロシアは連合国側として参戦しました。しかし工業力・鉄道網・兵器生産で遅れを取り、ドイツ軍に大損害を被り続けました。300万人超の戦死・捕虜に加え、物資不足で国内の食料・燃料も枯渇しました。皇帝の側近グリゴリー・ラスプーチンへの依存が宮廷の腐敗象徴として批判を浴び、支配体制への信頼は地に落ちました。
社会主義運動の成長
19世紀後半からロシアでは「人民の意志」など革命運動が盛んでした。マルクス主義を基盤とする社会民主労働党は1903年に「急進的な職業革命家組織」を主張するボリシェヴィキ(レーニン派・多数派)と、より穏健なメンシェヴィキ(少数派)に分裂していました。レーニンは亡命先のスイスで革命の機会を待ち続けていました。
3月革命(ロシア暦2月革命)
≒ 倒産寸前の会社でクーデターが起き、社長が辞任した状態1917年3月(ロシア暦2月)、ペトログラードでパン不足への抗議デモが総ストライキに拡大し、軍が鎮圧を拒否した。ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝が崩壊。貴族・自由主義者を中心とした臨時政府(ケレンスキーが後に首相)が成立した。
11月革命(ロシア暦十月革命)
≒ 新しい経営陣もダメだと判断した労働者が工場ごと乗っ取った状態1917年11月(ロシア暦10月)、ボリシェヴィキが労働者・兵士代表のソビエト(評議会)を組織して武装蜂起し、臨時政府を打倒した。「平和・土地・パン」を掲げ、史上初の社会主義政権(人民委員会議)が樹立された。
ブレスト=リトフスク条約と内戦
≒ 不利な条件でも戦争をやめ、国内の立て直しを優先した決断1918年3月、ボリシェヴィキ政権はドイツと単独講和条約を締結し、広大な領土を失いながら第一次大戦から離脱した。国内では旧体制を支持する「白軍」とボリシェヴィキの「赤軍」が内戦を戦い、1922年に赤軍が勝利してソ連が成立した。
1905血の日曜日日露戦争の敗北をきっかけに第1次ロシア革命。ニコライ2世は十月宣言でドゥーマ設置を約束して収拾。
1914第一次大戦参戦ロシアが連合国側として参戦。長期戦で兵士・物資・食料が枯渇していく。
19173月革命(2月革命)ペトログラードの総ストライキと軍の離反でニコライ2世が退位。ロマノフ朝崩壊・臨時政府成立。
191711月革命(十月革命)レーニン率いるボリシェヴィキが臨時政府を打倒。「平和・土地・パン」を掲げ社会主義政権樹立。
1918ブレスト=リトフスク条約ドイツと単独講和。ウクライナ・バルト諸国など広大な領土をドイツに割譲して第一次大戦を離脱。
1918ニコライ2世処刑前皇帝ニコライ2世と家族がエカテリンブルクでボリシェヴィキにより銃殺される。
1918内戦激化旧体制支持の白軍・外国の干渉軍に対し、赤軍(ボリシェヴィキ軍)が内戦を戦う。
1922ソ連成立内戦に勝利した赤軍のもと、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立。
◎史上初の社会主義政権が誕生し、土地の農民への再分配や貴族特権の廃止など、長年の農民・労働者の要求が制度的に取り入れられた。
△内戦・飢饉・赤色テロ(反革命分子の弾圧)により数百万人が死亡し、社会は長期にわたって混乱した。
△その後スターリンが権力を握り、恐怖政治・強制収容所・大粛清が広がった。レーニンが掲げた理想と現実の乖離が大きかった。
◎20世紀の世界史において、米ソ冷戦・東欧社会主義諸国・アジア・アフリカの独立運動に多大な影響を与えた歴史的転換点となった。
ウラジーミル・レーニン
ボリシェヴィキ指導者・初代人民委員会議議長マルクス主義を基盤に職業革命家組織論を展開。亡命先のスイスからドイツが手配した「封印列車」でロシアへ帰国し、十月革命を指導した。1924年死去。
ニコライ2世
ロシア帝国最後の皇帝(ロマノフ朝)3月革命で退位を強いられ、ロマノフ朝300年の歴史が終わった。1918年に家族とともにボリシェヴィキに銃殺された。
アレクサンドル・ケレンスキー
臨時政府首相(後期)社会革命党員。臨時政府の首相として第一次大戦継続を選択したことが民衆の支持を失う主因となり、十月革命で打倒された。
レフ・トロツキー
ボリシェヴィキ指導者・赤軍創設者十月革命の実務的指導者の1人。赤軍を組織して内戦を勝利に導いた。レーニン死後にスターリンとの権力闘争に敗れ追放・暗殺された。
グリゴリー・ラスプーチン
皇帝一家の側近・怪僧皇太子の血友病を「治癒」したとして皇后アレクサンドラの信頼を得、宮廷政治に介入した。1916年に貴族らに暗殺され、ロマノフ朝崩壊を象徴する人物とされる。
- ボリシェヴィキ
- ロシア語で「多数派」の意。レーニンが率いる急進的な社会民主労働党の分派。職業革命家による前衛党組織を主張し、十月革命を実行した。のちに共産党に改称。
- ソビエト
- ロシア語で「評議会」の意。工場の労働者代表・兵士代表が集まる民主的な意思決定機関。ボリシェヴィキはソビエトを通じて民衆の支持を組織し権力を掌握した。
- ユリウス暦とグレゴリオ暦
- 当時のロシアはヨーロッパより13日遅いユリウス暦(旧暦)を使用していた。そのため、グレゴリオ暦(新暦)で3月の革命はロシア国内では「2月革命」、11月の革命は「十月革命」と呼ばれる。現在の教科書では新暦(3月・11月)で記述されることも多い。
- 臨時政府
- 3月革命後に成立した政府。自由主義的な貴族・ブルジョワジー・社会主義穏健派で構成され、戦争継続を選択したため民衆の支持を失った。十月革命で打倒された。
- ブレスト=リトフスク条約
- 1918年3月、ボリシェヴィキ政権がドイツと結んだ単独講和条約。ウクライナ・フィンランド・バルト諸国・ポーランドなど広大な領土を失ったが、第一次大戦からの離脱に成功した。
- 社会主義
- 工場・土地などの生産手段を私有せず国や社会全体で共有し、平等に分配することを目指す思想・体制。「土地や工場を私有せず、国・みんなのものにしようとした」考え方。
1レーニンはドイツの「封印列車」で帰国した
1917年3月革命当時、レーニンはスイスで亡命生活を送っていた。ドイツはレーニンがロシアに帰れば革命を起こして戦争から離脱すると計算し、特別な「封印列車」(車内でロシア人が外部と接触できないよう封鎖した列車)を用意してドイツ領内を通過させた。ドイツの「作戦」は的中し、十月革命後にロシアは大戦を離脱した。
2「十月革命」は実は11月に起きた
ロシアが当時使っていたユリウス暦(旧暦)では10月25日の出来事だったため「十月革命」と呼ばれる。しかし現在世界標準のグレゴリオ暦(新暦)では11月7日にあたる。2月革命も同様で、新暦では3月の出来事だ。試験では「ロシア暦(旧暦)か新暦か」に注意が必要。
3ロマノフ朝はなんと300年以上続いた王朝だった
ロマノフ朝は1613年に成立し、1917年のニコライ2世退位まで304年間続いた長命な王朝だ。最後の皇帝ニコライ2世とその家族(皇后・5人の子ども)は1918年にエカテリンブルクでボリシェヴィキに銃殺された。2000年、ロシア正教会は一家を列聖(聖人に認定)している。
4ラスプーチンは何度殺そうとしても死ななかった伝説がある
1916年12月、皇帝の側近であるラスプーチンを快く思わない貴族グループが彼を暗殺しようとした。毒入りのケーキと酒を飲ませても死なず、銃で撃っても死なず、最終的にネヴァ川に沈めてようやく死亡したという逸話が残る。「殺されても死なない怪僧」として現代でも語り継がれている(ただし一部は誇張されているとする研究もある)。
5「平和・土地・パン」は完璧すぎるスローガンだった
レーニンが掲げた「平和・土地・パン(戦争をやめろ・農民に土地をよこせ・食べ物をくれ)」はロシア民衆の切実な要求を3つに集約した。臨時政府が戦争を続けるなか、これ以上ない政治的メッセージとして機能した。シンプルかつ具体的なスローガン設計は現代の政治・マーケティングでも参照される。

ここが出る博士のワンポイント
年は1917年。語呂は「行く一難(1917)ロシア革命」。
1917年に革命が2度あることを整理する:3月革命(ロシア暦2月革命)でロマノフ朝崩壊→11月革命(ロシア暦十月革命)でボリシェヴィキが社会主義政権を樹立。
「二月革命」「十月革命」はロシア暦(ユリウス暦)の呼び方。新暦では3月・11月にあたる点を押さえる。
ボリシェヴィキのスローガンは「平和・土地・パン」。指導者はレーニン。
1918年のブレスト=リトフスク条約で第一次大戦を離脱した点と、1922年のソ連成立の年号を区別して覚える。
社会主義政権の性格:土地・工場を私有せず国・社会全体で管理しようとした体制。
語呂クイズ
「行く一難(1917)ロシア革命」= ロシア革命が起こるは西暦何年?
- Q. ロシア革命はなぜ1917年に起きたのですか?
- A. 第一次大戦の長期化による兵士の大量死と食料不足が直接の引き金です。ペトログラード(首都)でパン不足への抗議デモが起き、軍も鎮圧を拒否して民衆側についたことで皇帝が退位しました。
- Q. 「二月革命」と「十月革命」はどう違いますか?
- A. どちらも1917年の出来事ですが、起きた時期と主体が異なります。二月革命(新暦3月)は市民・軍が皇帝を退位させた革命、十月革命(新暦11月)はレーニンのボリシェヴィキが臨時政府を倒した革命です。「二月・十月」はロシア暦(旧暦)での呼び方で、新暦では「三月・十一月」にあたります。
- Q. ボリシェヴィキとは何ですか?
- A. レーニンが率いた急進的な社会主義政党の一派です。ロシア語で「多数派」を意味します。少人数の職業革命家が前衛として運動を指導するという組織論を持ち、十月革命で政権を取った後に共産党に改称しました。
- Q. 社会主義とは現代でいうとどういうものですか?
- A. 土地や工場を個人が私有するのではなく、国・社会全体のものにして平等に管理・分配しようとする考え方です。「工場を経営者ではなく働く人みんなのものにしよう」というイメージが近いです。
- Q. ロシア革命とソ連(ソビエト連邦)の関係は?
- A. 1917年のロシア革命でボリシェヴィキが政権を取り、内戦を経て1922年にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が正式に成立しました。ロシア革命はソ連誕生の出発点です。
- Q. ニコライ2世はどうなりましたか?
- A. 3月革命で退位を強いられた後、ウラル地方のエカテリンブルクに移送されました。1918年、内戦中にボリシェヴィキによって皇后・5人の子どもとともに銃殺されました。これによりロマノフ朝は完全に断絶しました。
1917年のロシア革命は、第一次大戦の戦況悪化と食料難を背景に、1年のうちに2度の政権転覆が起きた劇的な出来事です。3月革命でロマノフ朝300年が終わり、11月革命でレーニンのボリシェヴィキが史上初の社会主義政権を樹立しました。「二月・十月」はロシア暦の呼び名で、新暦では「三月・十一月」にあたる点の混同に注意しましょう。「行く一難(1917)ロシア革命」の語呂とあわせて、2度の革命の違い・ボリシェヴィキの「平和・土地・パン」・1918年のブレスト=リトフスク条約・1922年のソ連成立を順番に整理しておくことが大切です。
編集メモ(ファクト)
革命の呼称について:日本の教科書では「二月革命・十月革命」(ロシア暦)と「三月革命・十一月革命」(新暦)の両表記が混在している。本記事では新暦の月を本文に使いつつ、ロシア暦の呼び名を括弧で併記した。
ロシア暦(ユリウス暦)と新暦(グレゴリオ暦)のずれは当時13日。二月革命:ロシア暦2月23〜27日=新暦3月8〜12日、十月革命:ロシア暦10月25日=新暦11月7日。
「社会主義政権」の現代的説明は中高生向けに平易化したもので、理論的厳密さより理解しやすさを優先している。
ラスプーチン暗殺の逸話は一部誇張・後世の脚色が含まれるとの研究があるため、triviaでその旨を補足した。
1922年のソ連成立は別ページ(1922-soviet-union)で詳述するため、本記事では概要にとどめた。