中学/戦争
1904
日露戦争が始まる
東郷平八郎(連合艦隊司令長官)
語呂
覚え方
行くわよ(1904)日露戦争
いくわよ(1904)日露戦争
1904年、満州(現在の中国東北部)と朝鮮半島をめぐる利権争いから、日本とロシアの間で戦争が勃発しました。日本はイギリスとの日英同盟(1902年)を背景に、旅順攻囲戦・奉天会戦・日本海海戦などを戦い抜き、数々の激戦の末に優位に立ちます。1905年5月の日本海海戦では東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊をほぼ壊滅させました。両国とも国力を大きく消耗したため、アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領の仲介でポーツマス条約が締結され、日本は韓国での優越権・旅順・大連の租借権・南満州鉄道の利権・南樺太(サハリン南部)を獲得しました。しかし賠償金を取れなかったことへの不満から日本国内では日比谷焼打ち事件が起きました。一方、ロシアでは敗戦を背景に1905年革命が勃発し、アジア各地では非白人国家の勝利が民族運動を鼓舞しました。
この記事のポイント
- 満州・朝鮮半島をめぐる対立から1904年2月に日露戦争が勃発
- 日英同盟(1902年)を背景に日本は外交的孤立を免れた状態で開戦
- 1905年5月の日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊がバルチック艦隊をほぼ壊滅
- アメリカのローズヴェルト大統領仲介でポーツマス条約(1905年)が締結
- 賠償金なしへの不満から日比谷焼打ち事件が発生、国内政治への影響も大きかった
- 非白人国家の大国への勝利はアジア・アフリカ各地の民族運動に影響を与えた
ここが面白い「非白人の国が白人の大国を破った」――20世紀の幕開けに、小国と見られていた日本がロシア帝国を相手に勝利を収め、世界の歴史を塗り替えた。
日露戦争は突然起きたわけではありません。列強が中国分割を競う帝国主義時代の構造的矛盾、日本の朝鮮・満州への戦略的関心、そしてロシアの南下政策という三つの流れが絡み合って、戦争への道が開かれていきました。
帝国主義時代の東アジアと列強の競争
19世紀後半、欧米列強はアジア・アフリカの植民地化を競い合っていました。清(中国)は1894〜95年の日清戦争で日本に敗れて弱体化が露呈し、ドイツ・フランス・ロシア・イギリスなどが「中国分割」と呼ばれる租借地・権益獲得競争を繰り広げました。この過程でロシアは満州への影響力を急速に拡大します。
三国干渉とロシアへの反感
日清戦争の講和条約である下関条約(1895年)で日本は遼東半島を獲得しましたが、直後にロシア・フランス・ドイツが「東洋の平和を乱す」として返還を要求する三国干渉を行いました。日本は軍事力が不十分として受け入れましたが、国民の間にはロシアへの激しい反感が生まれました。「臥薪嘗胆」(苦難に耐えて力を蓄える)という言葉がこの時期に広まりました。
義和団事件と満州駐留
1900年、清で「扶清滅洋(清朝を助け西洋を滅ぼせ)」を掲げる義和団の乱が起き、列強は連合軍を派遣して鎮圧しました。事件後、諸国は軍を撤退させましたが、ロシアだけが満州に大兵力を残留させ、完全撤退に応じませんでした。これが日本との対立を一層深めました。
日英同盟の締結(1902年)
ロシアの南下を警戒していたイギリスは、清・朝鮮での利権を守るため日本との同盟を望みました。1902年1月、日英同盟が締結されました。これにより日本は「どちらか一方の同盟国が複数国と交戦した場合、他方が参戦する」という取り決めを得て、フランスがロシアを支援しにくい状況を作り出しました。外交的孤立を避けた上での開戦を可能にした同盟として、日露戦争の重要な前提条件となりました。
開戦―旅順港奇襲
日本はロシアとの交渉を続けましたが、満州からの撤退を巡り折り合いがつかず、1904年2月6日に国交断絶を通告しました。その2日後の2月8日夜、海軍は正式な宣戦布告前に旅順港のロシア太平洋艦隊を魚雷艇で奇襲し、戦艦2隻などを大破しました。翌9日には仁川沖の海戦も行われ、陸上部隊は朝鮮半島に上陸を開始しました。宣戦布告は2月10日付で行われました。
非白人国家が白人大国に勝利
≒ 国際政治での「下克上」が可能という証明当時の列強秩序では欧州の白人国家が軍事・経済的優位に立っていた。その中でアジアの日本がロシアに勝利したことは、植民地支配下にあったアジア・アフリカの民族運動に大きな希望を与えた。インド・ベトナム・エジプトなどで民族自決の機運が高まったとされる。
アメリカの仲介によるポーツマス条約
≒ 大国間の仲介外交・国際秩序形成の先例アメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領がロシア・日本双方を説得して講和会議を実現した。ローズヴェルトはこの功績で1906年にノーベル平和賞を受賞した。大国が直接対決から外交交渉へ転換する契機として国際政治史上も重要な事例となった。
ロシアで1905年革命が勃発
≒ 戦争敗北が国内政治を揺るがす典型例戦争中の1905年1月、民衆がツァーリ(皇帝)への請願のため冬宮前に集まったが軍隊に発砲された(血の日曜日事件)。これをきっかけに革命運動が拡大し、ニコライ2世は国民の政治参加を認める「十月宣言」を余儀なくされた。1917年のロシア革命への布石となった。
1895三国干渉下関条約で獲得した遼東半島をロシア・フランス・ドイツの干渉で返還。日本国民のロシアへの反感が高まる。
1900義和団事件清で義和団の乱が起き列強が出兵。事件後もロシアは満州に大軍を駐留させ続けた。
1902日英同盟締結1月、日本とイギリスが同盟を結ぶ。ロシアへの牽制とフランス参戦抑止の効果をもった。
1904開戦・旅順奇襲2月8日夜、日本海軍が旅順港のロシア艦隊を奇襲。2月10日に宣戦布告。陸軍が朝鮮半島へ上陸開始。
1904旅順攻囲戦難攻不落の旅順要塞を巡る激戦。乃木希典率いる第三軍が多大な犠牲を払いながら1905年1月に陥落させた。
1905血の日曜日事件1月、サンクトペテルブルクで請願行進中の民衆に軍が発砲。ロシア国内で1905年革命が本格化。
1905奉天会戦3月、満州の奉天(現・瀋陽)で大規模な陸上決戦。日本軍が制したが双方に甚大な損害が出た。
1905日本海海戦5月、対馬沖で東郷平八郎の連合艦隊がバルチック艦隊をほぼ壊滅。世界海戦史上最大の艦隊決戦の一つとされる。
1905ポーツマス条約締結9月、アメリカのポーツマスで講和条約が調印。日本は韓国優越権・旅順・大連租借権・南満州鉄道利権・南樺太を獲得したが賠償金は得られなかった。
1905日比谷焼打ち事件9月、賠償金なしの講和に怒った民衆が日比谷公園での集会後に暴動を起こし、東京各地で新聞社・交番などを焼き打ちにした。桂太郎内閣は戒厳令を布告。
◎日本は韓国での優越権・旅順及び大連の租借権・南満州鉄道の利権・南樺太(サハリン南部)を獲得し、東アジアにおける大国としての地位を確立した。アジア諸民族の民族独立運動にも大きな影響を与え、「有色人種の白人大国への勝利」として広く認識された。
△日本は賠償金をまったく得られず、膨大な戦費と数万人規模にのぼる死者という犠牲は国民に重くのしかかった。「勝利したのに賠償金がゼロ」という不満が日比谷焼打ち事件につながった。また満州・朝鮮への支配拡大はその後の中国・朝鮮との緊張を生む遠因ともなった。ロシアでは敗戦が1905年革命を引き起こし、政治体制の動揺につながったことも見逃せない。
東郷平八郎
連合艦隊司令長官日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した海軍提督。「T字戦法(丁字戦法)」と呼ばれる戦術で敵艦隊の先頭に対し直角に艦列を走らせ、砲撃を集中させた。世界的に英雄視され、イギリスではネルソン提督と並び称された。
乃木希典
第三軍司令官難攻不落の旅順要塞攻略を指揮。肉弾突撃を繰り返し多大な犠牲を出したが1905年1月に陥落させた。明治天皇崩御の際に殉死した。
小村寿太郎
外務大臣・全権大使ポーツマス講和会議での日本全権。賠償金を取れなかったため帰国後に国民の激しい非難を受けたが、外交交渉の困難な状況の中で最大限の条件を引き出したとも評価される。
セオドア=ローズヴェルト
アメリカ大統領日露講和の仲介を行い、ポーツマス条約実現に貢献。この功績により1906年にノーベル平和賞を受賞した。アジアでの勢力均衡を維持することがアメリカの国益に合致するとの判断で動いたとされる。
ニコライ2世
ロシア皇帝(ツァーリ)日露戦争を主導したが敗北し、国内では1905年革命を招いた。「十月宣言」で立憲政治への移行を約束せざるを得なくなった。後に1917年のロシア革命で退位し、翌年処刑された。
- 日英同盟
- 1902年1月に締結された日本とイギリスの軍事同盟。「同盟国が1か国と交戦中に第三国が介入した場合、もう一方が参戦する」という内容で、ロシアの同盟国フランスの参戦を抑止する効果をもった。日露戦争の重要な外交的前提となった。
- ポーツマス条約
- 1905年9月、アメリカのニューハンプシャー州ポーツマス海軍造船所で調印された日露講和条約。日本は韓国での優越権・旅順・大連租借権・南満州鉄道利権・南樺太を獲得したが、賠償金の取得には失敗した。
- バルチック艦隊
- ロシアのバルト海艦隊を中心に編成された艦隊。極東に派遣され、アフリカ南端の喜望峰を回る約3万キロメートルの航海を経て日本海に入ったが、1905年5月の日本海海戦でほぼ壊滅した。
- 南満州鉄道(満鉄)
- 旅順・大連から長春(寛城子)を結ぶ鉄道路線。ポーツマス条約でロシアから日本へ権益が譲渡され、後に「南満州鉄道株式会社(満鉄)」として経営された。日本の満州支配の経済的基盤となった。
- 血の日曜日事件
- 1905年1月22日(旧暦1月9日)、サンクトペテルブルクで神父ガポンに率いられた数万人の労働者・市民がツァーリへの請願のため冬宮前に向かったところ、軍隊が発砲した事件。多数の死傷者が出て、ロシア全土での革命運動のきっかけとなった。
- 日比谷焼打ち事件
- 1905年9月5日、ポーツマス条約で賠償金が得られなかったことへの怒りから、日比谷公園での講和反対集会後に暴動に発展した事件。東京の警察署・交番・親政府系新聞社などが焼き打ちされた。政府は戒厳令を布告した。
1バルチック艦隊は約3万キロの大航海の末に壊滅した
バルチック艦隊はバルト海から出発し、大西洋・インド洋・南シナ海を経由して約7か月・3万キロメートル以上を航海した後、対馬沖で東郷艦隊と激突した。長距離航海で艦のコンディションも落ちており、補給や寄港地の問題も抱えていた。日本海海戦では戦艦を含む多数の艦艇が沈没・拿捕され、艦隊の大半が失われるとともに数千人規模の戦死者・捕虜が出たとされる。
2ローズヴェルトはノーベル平和賞を受賞した
日露講和を仲介したアメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領は、この功績で1906年のノーベル平和賞を受賞した。現職のアメリカ大統領としては初の受賞であった。ローズヴェルト自身は仲介の動機としてアジアにおける勢力均衡の維持を挙げており、純粋な人道的動機のみではなかったとする見方もある。
3「アジア各地を鼓舞した」は多様な受け取られ方をした
日本の勝利がアジアの民族運動に影響を与えたことはインド・トルコ・中国など各地で記録されている。インドの独立運動家ネルーは後に著書でこの影響を述べている。ただしその後の日本の植民地政策が明らかになるにつれ、「アジアの解放者」という評価は大きく変わっていった。
4旅順要塞攻略では多くの犠牲が出た
旅順要塞はロシアが整備した近代的な要塞であり、乃木希典率いる第三軍は1904年8月から翌1905年1月まで約5か月かけて攻略した。日本側の死者数については諸説あるが、旅順攻囲戦全体で数万人の死傷者が出たとされ、当時の新聞や文学(与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」など)で反戦・厭戦の声も上がった。
5与謝野晶子が反戦詩を発表した
1904年9月、歌人の与謝野晶子は「君死にたまふことなかれ」(雑誌「明星」掲載)を発表した。旅順攻囲戦に出征した弟に宛てた詩で、「旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ」と戦場での命を惜しむ内容は当時大きな議論を呼んだ。近代日本文学における反戦表現の代表作として今日も読まれている。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1904年(開戦)・1905年(講和)。語呂は「行くわよ(1904)日露戦争」。
開戦前提として日英同盟(1902年)を押さえること。
主な戦闘は旅順攻囲戦・遼陽会戦・奉天会戦・日本海海戦(1905年5月)。
日本海海戦の指揮官は東郷平八郎(連合艦隊司令長官)。バルチック艦隊を撃破。
講和はポーツマス条約(1905年9月)。仲介者はアメリカのセオドア=ローズヴェルト大統領。
日本の獲得:韓国優越権・旅順・大連租借権・南満州鉄道利権・南樺太。賠償金なし。
国内反応:日比谷焼打ち事件(賠償金なしへの不満)。
ロシア国内への影響:1905年革命(血の日曜日事件)。
意義:非白人国家が白人大国に勝ったことでアジア各地の民族運動を鼓舞した。
語呂クイズ
「行くわよ(1904)日露戦争」= 日露戦争が始まるは西暦何年?
- Q. 日露戦争はなぜ起きたのですか?
- A. 満州(現在の中国東北部)と朝鮮半島をめぐる日本とロシアの対立が主な原因です。ロシアの南下政策に危機感を持った日本は、三国干渉(1895年)後から国力増強を進め、日英同盟(1902年)を背景に1904年2月に開戦しました。
- Q. 日本はなぜロシアに勝てたのですか?
- A. 軍事的には日本海海戦での大勝利が決定的でした。外交面では日英同盟でフランスの参戦を抑止し、アメリカからの借款で戦費を確保したことも重要でした。ただし陸戦では双方ともに消耗しており、「完全な勝利」ではなく両国の疲弊が講和への道を開いたという側面もあります。
- Q. ポーツマス条約で日本が得たものは何ですか?
- A. 韓国における優越権、旅順・大連の租借権、南満州鉄道(長春以南)の利権、南樺太(北緯50度以南)の4つが主な成果です。一方で賠償金は取れませんでした。
- Q. 日比谷焼打ち事件とは何ですか?
- A. 1905年9月5日、ポーツマス条約に賠償金条項がなかったことへの怒りから日比谷公園での集会後に民衆が暴動を起こした事件です。東京の警察署・親政府系新聞社などが焼き打ちされ、政府は戒厳令で鎮圧しました。
- Q. 日露戦争はアジアにどのような影響を与えましたか?
- A. 「非白人の小国が白人大国のロシアに勝った」という事実は、当時ヨーロッパ列強の支配下に置かれていたインド・ベトナム・エジプトなど各地の民族運動に大きな心理的影響を与えたとされています。民族自決・独立への機運が高まる一因となりました。
- Q. ロシアでは日露戦争後にどんな変化がありましたか?
- A. 戦争中の1905年1月に「血の日曜日事件」(冬宮前での民衆への発砲)が起き、全国に革命運動が広がりました(1905年革命)。ニコライ2世は国民の政治参加を認める「十月宣言」を出さざるをえなくなり、専制政治への不満が蓄積されていきました。これが1917年のロシア革命への布石となりました。
日露戦争は、明治日本が国家の存亡をかけて戦った対外戦争の中でも最大規模のものでした。旅順・奉天の陸戦から日本海海戦の海上決戦まで、国力を極限まで絞り出した戦いの末、日本は大国ロシアに対して有利な形で戦争を終わらせることに成功しました。ポーツマス条約で得た韓国優越権・旅順・大連・南満州鉄道・南樺太という権益は、日本の東アジア進出の足がかりとなりました。一方で賠償金なしへの国民の怒り(日比谷焼打ち事件)、ロシアでの1905年革命の勃発、そしてアジア各地の民族運動への影響など、その波紋は世界中に広がりました。「行くわよ(1904)日露戦争」の語呂とともに、非白人国家による白人大国への勝利という歴史的意義、そしてその後のロシア・アジアへの影響を合わせて押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
開戦の経緯については「宣戦布告前の奇襲」という点を記述したが、当時の国際法上の評価には諸説あるため断定的な評価は避けた。
日本海海戦における「T字戦法(丁字戦法)」の詳細な戦術評価は専門的議論があるため、概略のみ記述した。
旅順攻囲戦の日本側死傷者数には資料によって大きな幅があるため、「数万人の死傷者」という表現にとどめた。
「アジア民族運動への影響」については後世からの評価も含まれるため、「とされる」「鼓舞した」という表現を用いた。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1894-sino-japanese-war・1917-russian-revolution を記載。存在しない場合は削除すること。
与謝野晶子の詩の掲載誌は「明星」(1904年9月号)であり、旅順攻囲戦に出征した弟・鳳籌三郎に宛てたものとされる。