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高校/政治
1877

インド帝国が成立する

ヴィクトリア女王
語呂
覚え方
嫌なな(いやなな)(1877)インド帝国
いやなな(1877)インド帝国の成立

1877年1月1日、ヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)を兼称し、「インド帝国」が正式に成立しました。これはイギリスの首相ディズレーリの提案によるもので、デリーで盛大な帝国宣言式典(デリー・ダルバール)が執り行われました。1857年のインド大反乱(シパーヒーの反乱)を経て、1858年にはムガル帝国が滅び、東インド会社が解散されてインドはイギリス本国政府の直接統治下に入っていました。インド帝国の成立はその仕上げであり、インドを大英帝国の最重要植民地として明確に位置づけるものでした。総督(副王)がデリーを拠点に統治し、イギリスはインドを綿製品などの市場・原料供給地として活用しながら、鉄道・電信・灌漑を整備しました。この体制は1947年のインド独立まで約70年間続きます。

この記事のポイント

  • 1877年1月1日、ヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)を兼称し、インド帝国が正式に成立
  • ディズレーリ首相の提案によりデリー・ダルバール(帝国宣言式典)が盛大に開催された
  • 1857年インド大反乱→1858年ムガル帝国滅亡・東インド会社解散の流れを受けた仕上げ
  • インドは大英帝国最重要の植民地として、市場・原料供給地・交通要衝に位置づけられた
  • 総督(副王)による直接統治が行われ、この体制は1947年のインド独立まで続いた
ここが面白い

「インドはイギリスの宝石箱」――そう呼ばれたほど豊かなインドが、1877年にヴィクトリア女王を皇帝に戴く「インド帝国」として正式に組み込まれた。大英帝国が世界の頂点に立った瞬間だった。

ここに至るまでの流れ
背景

インド帝国の成立は突然起きたものではありません。18世紀から続くイギリスのインド支配の深化、1857年の大反乱という転換点、そしてヨーロッパの列強外交という三つの流れが重なった結果でした。

東インド会社による支配とその限界

17世紀初頭に設立されたイギリス東インド会社は、ムガル帝国の弱体化につれてインド各地で政治・軍事的権力を拡大し、19世紀半ばには実質的にインドの大部分を支配していました。しかしこの「会社支配」は、本国政府による直接統治ではなく、インド人傭兵(シパーヒー)を多用した間接的なものでした。この矛盾が1857年の大反乱の一因となります。

1857年インド大反乱(シパーヒーの反乱)

1857年、新型ライフル銃の薬包に豚・牛の脂が使われているという噂をきっかけに、インド人傭兵(シパーヒー)が反乱を起こしました。反乱は北インドを中心に広がり、イギリスが最後のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立した反乱勢力と激しく戦いました。翌1858年にイギリスが鎮圧し、ムガル皇帝はビルマに追放・廃位され、ムガル帝国は300年余りの歴史に幕を閉じました。

東インド会社解散とイギリス直接統治の開始

反乱鎮圧直後の1858年、イギリス議会はインド統治法(インド統治改善法)を制定し、東インド会社を解散してインドをイギリス本国政府(インド省)の直接統治下に置きました。現地の最高権力者として総督(副王・バイスロイ)が任命され、ロンドンから送り込まれたイギリス人官僚・軍が支配機構を担いました。

ディズレーリとデリー・ダルバール

1874年に首相に就任した保守党のベンジャミン・ディズレーリは、大英帝国の拡張を積極的に推進しました。ロシアの中央アジア進出(グレート・ゲーム)を意識し、インドの確保を最優先課題とした彼は、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼称する法案を議会に通過させました。1877年1月1日、デリーで帝国宣言式典(ダルバール)が盛大に開催され、インド帝国の成立が内外に宣言されました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねた

≒ 国家元首が別の国の皇帝も兼ねる「同君連合」の形

イギリス国王とインド皇帝を同一人物が兼称することで、インドはイギリス帝国の一部として正式に組み込まれた。ヴィクトリア女王はイギリス女王でありながら、インド皇帝(エンプレス・オブ・インディア)の称号も持つこととなった。

総督(副王)による統治体制

≒ 本社(イギリス政府)から派遣された現地最高責任者

インドにはイギリス本国政府が任命した総督(バイスロイ)が置かれ、軍事・行政・外交をすべて掌握した。インド人は下位の官僚・軍として組み込まれたが、最上位の意思決定はイギリス人が握った。

経済的収奪と近代インフラ整備の両面

≒ 開発と搾取が同時に進む「植民地近代化」

イギリスはインドにアジア最大規模の鉄道網・電信網・灌漑設備を建設した一方、安価なイギリス製綿布の流入でインドの伝統的な手工業(綿織物)は壊滅的打撃を受けた。また農業構造の変化や重税が繰り返す飢饉の一因ともなった。

前後のできごと
年表
1600
東インド会社設立イギリス東インド会社がエリザベス1世の勅許を得て設立。インドとの貿易独占権を持つ。
1757
プラッシーの戦い東インド会社がベンガル太守とフランス連合軍を破り、ベンガルの実効支配を確立。イギリスのインド支配の転換点。
1857
インド大反乱(シパーヒーの反乱)インド人傭兵シパーヒーが薬包問題をきっかけに反乱。北インドに拡大し最後のムガル皇帝を担ぎ出すが、翌年鎮圧される。
1858
ムガル帝国滅亡・東インド会社解散ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世がビルマに追放・廃位。イギリス議会がインド統治法を制定し東インド会社を解散。インドはイギリス本国政府の直接統治下に入る。
1874
ディズレーリ首相就任保守党のベンジャミン・ディズレーリが首相に就任。帝国主義的拡張政策を積極推進。
1876
王室称号法成立イギリス議会がヴィクトリア女王にインド皇帝の称号を与える王室称号法を制定。
1877
インド帝国成立1月1日、デリーでダルバール(帝国宣言式典)が開催され、ヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)を兼称。インド帝国が正式に成立。
1885
インド国民会議派結成インド知識人・弁護士・ジャーナリストらがインド国民会議派を結成。当初はイギリスへの協力的姿勢だったが、やがて独立運動の母体となる。
1905
ベンガル分割令総督カーゾンがベンガルをヒンドゥー教徒多数派地域とムスリム多数派地域に分割。民族運動を分断しようとする政策に反発が高まり、民族運動が激化。
1947
インド独立インドとパキスタンがイギリスから独立。インド帝国は解体され、約70年間のイギリス植民地支配が終わる。
結果とその後
結果
鉄道・電信・灌漑などの近代インフラが整備され、インド亜大陸の統一的な行政・交通網が形成された。また英語教育を受けたインド人知識人層が育ち、後の独立運動の指導者を生み出す基盤ともなった。
インドの伝統的な綿織物産業は安価なイギリス製品に圧倒されて壊滅し、農村経済が疲弊した。重税と農業構造の変化は繰り返す飢饉の一因となり、多くの人命が失われた。イギリスによる支配がインドの富を本国に流出させた「収奪」の側面は、インド独立運動の大きな動機となった。
登場人物
人物

ヴィクトリア女王

イギリス女王・初代インド皇帝(在位1837〜1901年)

在位64年に及ぶ「大英帝国の全盛期」の象徴的君主。インド皇帝の称号を与えられることをディズレーリから提案され、これを喜んで受け入れたとされる。インドには一度も訪れなかったが、インド人の侍女を傍に置くなどインドへの関心は持ち続けた。

ベンジャミン・ディズレーリ

イギリス首相(保守党、在任1874〜1880年)

ユダヤ系出身の政治家で帝国主義の推進者。ヴィクトリア女王にインド皇帝の称号を与えることを立案・実現した。スエズ運河株買収(1875年)も彼の業績で、インドへの海路確保に大きく貢献した。女王との親密な関係でも知られる。

バハードゥル・シャー2世

最後のムガル皇帝(在位1837〜1857年)

1857年のインド大反乱で反乱軍に擁立された皇帝。詩人でもあったが、実権はすでになく象徴的存在だった。反乱鎮圧後にイギリスに捕縛され、ビルマのラングーンに追放されて没した。彼の廃位をもってムガル帝国は完全に滅亡した。

リットン卿(第1代リットン伯爵)

インド総督(在任1876〜1880年)

ディズレーリに任命されたインド総督で、デリー・ダルバールを主催してインド帝国成立を現地で宣言した人物。詩人エドワード・ブルワー=リットンの息子。在任中のアフガン政策やインド飢饉への対応は批判も多い。

キーワード解説
用語
インド帝国
1877年から1947年まで存在したイギリスの植民地支配下のインドの国家体制。ヴィクトリア女王(以後の歴代イギリス国王)がインド皇帝を兼ね、イギリス本国政府が任命する総督(副王)が統治した。
シパーヒー(セポイ)
東インド会社に雇用されたインド人傭兵。1857年の反乱の主体となったことから「シパーヒーの反乱」とも呼ばれる。反乱後はイギリス軍の直接指揮下に再編成された。
総督(副王・バイスロイ)
インド帝国においてイギリス本国政府を代表してインドを統治した最高権力者。ロンドンのインド省の指揮下に置かれ、軍事・行政・外交を掌握した。
グレート・ゲーム
19世紀を通じてイギリスとロシアがアフガニスタンや中央アジアをめぐって繰り広げた勢力圏争い。イギリスがインドを重視した背景の一つで、インド帝国成立もこの文脈と深く関わる。
ダルバール
ペルシア語・ウルドゥー語で「王の謁見」を意味する言葉。インド帝国成立時(1877年)、エドワード7世の戴冠記念(1903年)、ジョージ5世の戴冠記念(1911年)の三度、デリーで盛大な式典として開催された。
もっと知りたい
豆知識

1ヴィクトリア女王はインドに一度も行かなかった

「インド皇帝」を名乗りながら、ヴィクトリア女王は生涯一度もインドを訪れなかった。それでもインドへの関心は強く、晩年にはインド人侍従アブドゥル・カリムを傍に置き、ウルドゥー語を習ったという逸話も残っている。

2スエズ運河株買収との連動

ディズレーリはインド帝国成立の前年1875年、エジプトのスエズ運河会社株をイギリス政府が買収することも実現している。スエズ運河はヨーロッパとインドを結ぶ最短航路であり、インドを支配するためにスエズ運河の確保が不可欠だった。

3デリー・ダルバールには女王本人は出席しなかった

1877年のデリー・ダルバール(帝国宣言式典)には、インド帝国の主役であるヴィクトリア女王本人は出席せず、代わりに総督リットン卿が式典を主催した。インドの藩王(マハラジャ)たちが集い、象が練り歩く壮大な式典は世界中に報じられた。

4イギリス製綿布がインドの織物産業を壊滅させた

かつてインドは世界最高品質の綿織物(ムスリン)の産地だった。しかし産業革命で安価な綿布を大量生産できるようになったイギリスは、インドに高い関税をかけずに輸出し、インドの伝統的な手織り産業を衰退させた。マハトマ・ガンジーが後に手紡ぎ運動(チャルカー運動)を展開したのは、この歴史への直接的な抵抗だった。

5インド帝国は直接統治と藩王国が混在していた

インド帝国の版図は均一ではなく、イギリスが直接統治する「イギリス領インド」と、表面上は独立を保ちながらイギリスの宗主権下に置かれた「藩王国(プリンシパリティ)」が混在していた。藩王国はピーク時に500以上存在し、インド全体の面積の約4割、人口の約4分の1を占めていた。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1877年。語呂は『嫌なな(いやなな)(1877)インド帝国』。
インド帝国成立を提案したイギリス首相はディズレーリ(保守党)であることを押さえる。
1857年インド大反乱→1858年ムガル帝国滅亡・東インド会社解散→1877年インド帝国成立という流れを時系列で整理すること。
インド統治の仕組み:ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼称し、総督(副王)が現地を統治した。
インドはイギリスにとって最重要植民地で、綿製品の市場・原料(綿花)供給地として機能したが、その結果インドの伝統的手工業が衰退したことも重要。
語呂クイズ
「嫌なな(いやなな)(1877)インド帝国」= インド帝国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. インド帝国はいつ、どのようにして成立しましたか?
A. 1877年1月1日、ディズレーリ首相の提案によりヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)を兼称することが正式に宣言されて成立しました。デリーでは盛大な帝国宣言式典(ダルバール)が開催されました。
Q. なぜ1877年よりも前に「インド帝国」は成立しなかったのですか?
A. 1858年のインド統治法によりイギリス本国政府の直接統治は始まっていましたが、その段階では帝国称号を掲げる動きは具体化していませんでした。1874年に就任したディズレーリが帝国主義路線を明確にして初めて、女王をインド皇帝に戴く提案が実現しました。
Q. インド大反乱(シパーヒーの反乱)とインド帝国成立はどう関係しますか?
A. 1857年のインド大反乱を受けて、翌1858年にムガル帝国が滅び東インド会社が解散されました。インドはイギリス本国政府の直接統治下に入り、その体制を完成させる形で1877年にインド帝国が正式に成立しました。つまり反乱→会社解散→帝国成立という一連の流れです。
Q. インド帝国の支配によってインドにとってよい面はありましたか?
A. 鉄道・電信・灌漑などの近代インフラが整備されたことや、英語教育によってインド人知識人層が育ったことは事実です。しかしこれらは主にイギリスの支配・収奪を効率化するためのものであり、その恩恵がインド全体に行き渡ったとはいえません。伝統産業の壊滅や飢饉による多くの犠牲も忘れてはならない側面です。
Q. インド帝国はいつ終わりましたか?
A. 1947年8月15日、インドとパキスタンがイギリスから独立したことでインド帝国は解体されました。約70年間続いたイギリスの植民地支配が終わり、インドは独立共和国として歩み始めました。
まとめ

インド帝国の成立は、1857年のインド大反乱からの連鎖を締めくくり、大英帝国が世界の覇権を確立した象徴的な出来事です。ヴィクトリア女王をインド皇帝に戴くこの体制は、インドに鉄道などの近代インフラをもたらす一方で、伝統産業の壊滅や富の収奪という深い傷跡も残しました。この矛盾が後のインド独立運動の原動力となっていきます。「嫌なな(1877)インド帝国」の語呂とともに、ディズレーリの提案・ムガル帝国滅亡からの流れ・総督による統治という三点を軸に整理しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
ヴィクトリア女王の称号は英語で Empress of India(インドの女帝)。日本語では「インド皇帝(女帝)」と表記した。
1877年1月1日のデリー・ダルバールは史料によって確認できる事実として記述した。
シパーヒーの反乱(1857年)とインド大反乱は同一事件の異なる呼称であるため、併記して混乱を避けた。
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