高校/政治
1858
ムガル帝国が滅亡する
イギリス/最後の皇帝バハードゥル・シャー2世
語呂
覚え方
嫌ご破(いやごは)(1858)ムガル滅亡
いやごは(1858)ムガル帝国の滅亡
1858年、インド大反乱(シパーヒーの反乱)の鎮圧後、イギリスはムガル帝国を廃止しました。最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は退位させられ、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンに流刑となり、異国の地で没しました。イギリスはインドを支配してきた東インド会社を解散し、インドを本国政府の直接統治下に置きました。1526年から続いた帝国は、ここで完全に幕を閉じます。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねるインド帝国が成立し、インドはイギリス帝国主義の中核的植民地となりました。
この記事のポイント
- 1857年のインド大反乱(シパーヒーの反乱・セポイの乱)をきっかけに、イギリスはムガル帝国を廃止した(1858年)
- 最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は反乱軍に担ぎ出されたが、イギリスに捕らえられビルマのラングーンに流刑となった
- イギリスは東インド会社を解散し、インドをイギリス本国政府の直接統治下(英領インド帝国の前身)に置いた
- 1526年にバーブルが建国したムガル帝国は、330年以上の歴史を持ちながら実質的にはすでに名目だけの存在に成り下がっていた
- 1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立し、インドは正式にイギリスの植民地となった
ここが面白い1526年にバーブルが打ち立て、330年以上インドを支配したムガル帝国は、なぜ1858年にあっさりと消滅したのか。その終わりには、イギリスの野心と、一人の老いた皇帝の悲劇が絡み合っていた。
ムガル帝国の滅亡は突然の出来事ではありません。長い衰退の歴史と、イギリスによる植民地化の進展、そして1857年の大反乱という激動が重なり合った結果です。その背景を順に見ていきましょう。
ムガル帝国の建国と最盛期
ムガル帝国は1526年、ティムール朝の王子バーブルが北インドのパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝を破り、建国しました。3代皇帝アクバル(在位1556〜1605年)の時代にはインド亜大陸の大部分を支配し、ヒンドゥー教徒との融和政策(スルフ・クル)で安定した統治を実現しました。6代皇帝アウラングゼーブ(在位1658〜1707年)の時代には版図が最大となりましたが、厳格なイスラーム政策がヒンドゥー教徒の反発を招き、統治の亀裂が深まりました。
18世紀以降の急速な衰退
アウラングゼーブの死後、帝国は後継者争いで急速に弱体化しました。マラーター同盟・シク教徒・ラージプートなど地方勢力が自立を強め、1739年にはペルシャ王ナーディル・シャーがデリーを略奪するという屈辱的事件も起きました。18世紀後半には皇帝の実権は事実上消滅し、デリー周辺のみを名目上支配する存在に成り下がりました。
東インド会社によるインド支配の拡大
17世紀から活動を続けてきたイギリス東インド会社は、18世紀半ばのプラッシーの戦い(1757年)でベンガル太守軍・フランス連合を破って以降、インドへの勢力拡大を急速に進めました。会社は私的な軍隊(シパーヒー=インド人兵士)を組織し、傭兵制度によりインド各地を実効支配しました。1840年代〜50年代には併合政策が加速し、インド諸侯の領地が次々と東インド会社の直轄地に組み込まれました。
インド大反乱(1857年)とムガル帝国廃止
1857年、シパーヒー(インド人傭兵)たちが起こした大規模な反乱(シパーヒーの反乱)は、インド各地に拡大し、反乱軍はムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世をインドの君主として担ぎ出しました。イギリス軍は1年かけて反乱を鎮圧し、1858年に東インド会社を廃止してインドを本国政府の直接統治下に置きました。また、ムガル帝国の廃止を宣言し、皇帝を流刑に処しました。
ムガル帝国の廃止とイギリスの直接統治
≒ 植民地政府が現地の伝統的権威を消滅させた瞬間イギリスは1858年、東インド会社を解散し、インドを本国政府(インド省)の直接統治下に置いた。名目上の皇帝さえも認めない徹底した植民地支配の確立であった。
インド大反乱(シパーヒーの反乱)の鎮圧
≒ 植民地支配への組織的な抵抗運動が初めて大規模に起きた事件1857年の反乱はインドの民族的自覚を高めた点で重要だが、鎮圧の結果として直接統治が始まり、むしろ支配が強化された。後のインド独立運動の原点の一つとされる。
インド帝国の成立(1877年)
≒ 大英帝国の植民地支配を象徴するインド帝国の誕生1858年の直接統治開始から約20年後の1877年、ヴィクトリア女王がインド女帝を兼ねるインド帝国が正式に成立した。インドは大英帝国の「王冠の宝石」と称された。
1526ムガル帝国建国バーブルがパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝を破り、ムガル帝国を建国。
1600東インド会社設立イギリスがインドとのアジア貿易を目的に東インド会社を設立。
1707アウラングゼーブ死去最後の強力な皇帝アウラングゼーブが死去し、帝国は急速に分裂・衰退に向かう。
1739ナーディル・シャーのデリー略奪ペルシャ王ナーディル・シャーがデリーを占領・略奪。ムガル帝国の無力さを世界に示す。
1757プラッシーの戦い東インド会社がベンガルの戦いに勝利し、インド東部への支配を確立。インドへの本格的な植民地化が始まる。
1837バハードゥル・シャー2世即位ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世が即位。詩人として名高かったが、実権はなかった。
1857インド大反乱シパーヒー(インド人傭兵)が反乱を起こし、各地に拡大。反乱軍はバハードゥル・シャー2世を皇帝として担ぎ出す。
1858ムガル帝国滅亡イギリスが反乱を鎮圧し、東インド会社を解散。インドを本国政府の直接統治下に置き、ムガル帝国を廃止。バハードゥル・シャー2世はラングーンへ流刑。
1862バハードゥル・シャー2世死去最後の皇帝がビルマ(現ミャンマー)のラングーンで没する。享年87歳。
1877インド帝国成立ヴィクトリア女王をインド女帝に戴くインド帝国が成立。インドは正式にイギリスの植民地となる。
◎1857年の大反乱はインド民族意識の目覚めを促し、後のインド国民会議派(1885年結成)に代表される独立運動の原点となった。ムガル帝国滅亡の悲劇は、インド人が植民地支配に抵抗する精神的な拠り所となった。
△バハードゥル・シャー2世は反乱を積極的に主導したわけではなく、反乱軍に担ぎ出された側面が強い。また、1857年の反乱は各地の不満が同時発生した「インド人の団結した民族運動」とは言い切れず、地域・宗教・階層ごとに参加動機が異なっていた点に注意が必要である。
バハードゥル・シャー2世
ムガル帝国最後の皇帝(在位1837〜1858年)詩人としても名高い文化人だったが、実権を持たない名目上の皇帝だった。1857年の反乱軍に担ぎ出され、鎮圧後にイギリスに捕らえられてビルマのラングーンに流刑となり、1862年に没した。
バーブル
ムガル帝国初代皇帝(在位1526〜1530年)ティムール朝の王子。1526年のパーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝を破りムガル帝国を建国。その帝国が1858年に滅亡するまで330年以上続いた。
ヴィクトリア女王
イギリス女王・インド女帝(在位1837〜1901年)1858年のインド直接統治開始を宣言し、1877年にはインド女帝の称号を得た。彼女の治世にイギリス帝国は全盛期を迎え、インドは「王冠の宝石」と呼ばれた。
アクバル大帝
ムガル帝国3代皇帝(在位1556〜1605年)ムガル帝国の最盛期を築いた皇帝。ヒンドゥー教徒との融和政策(スルフ・クル)で各宗教を尊重し、安定した統治を実現した。インドの文化的・経済的繁栄を象徴する。
- シパーヒー(セポイ)
- 東インド会社が雇用したインド人傭兵のこと。ヒンドゥー教徒やムスリムが多く含まれていた。1857年に彼らが起こした反乱が「シパーヒーの反乱(セポイの乱・インド大反乱)」と呼ばれる。
- 東インド会社
- 1600年にイギリスが設立したアジア貿易を目的とする株式会社。17〜18世紀にインドへの支配を拡大し、事実上の植民地統治機関となったが、1857年の反乱の責任を問われ1858年に解散した。
- インド大反乱(1857年)
- 1857年にシパーヒーが起こし、各地に拡大した大規模な反乱。インドの農民・諸侯なども加わり、イギリスの支配に対する広範な抵抗運動となった。日本では「セポイの乱」「シパーヒーの反乱」とも呼ばれる。
- インド帝国
- 1877年に成立したイギリスの植民地体制。ヴィクトリア女王がインド女帝を兼ね、イギリス本国政府の直接統治下にインドを置いた。1947年のインド・パキスタン分離独立まで続いた。
- ムガル帝国
- 1526年にバーブルが建国したインドの帝国。イスラーム系王朝だがヒンドゥー教徒との融和政策を進め、3代アクバルから6代アウラングゼーブの時代に最盛期を迎えた。1858年のイギリスによる廃止まで続いた。
1バハードゥル・シャー2世は詩人だった
最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は政治的実権を持たなかったが、ウルドゥー語の詩人として高名だった。流刑先のラングーンでも詩を書き続け、その詩は現在もインドやパキスタンで広く親しまれている。流刑地で詠んだ「私は二ヤードの土地すら得られなかった」という詩が有名。
2反乱の引き金になった豚・牛の脂伝説
1857年の反乱の直接的な引き金の一つとして、新型ライフル銃の薬包に豚と牛の脂が塗られているという噂があった。豚を忌むムスリムと、牛を神聖視するヒンドゥー教徒の双方にとって許しがたいものであり、シパーヒーたちの怒りに火をつけたとされる。
3東インド会社は世界初の株式会社の一つ
東インド会社(1600年設立)は、世界最初期の株式会社の一つ。最盛期には私兵を26万人以上抱え、インド亜大陸の広大な地域を支配した。国家的な統治機関と化した私企業が1858年の反乱責任を取る形で解散したのは、歴史上きわめて稀な出来事だった。
4330年以上続いた大帝国の最期
ムガル帝国は1526年の建国から1858年の廃止まで332年間続いた。ただし実質的な帝国支配は18世紀半ばには瓦解しており、後半の100年以上は名目上の存在だった。歴史家の中には「実質的な滅亡は18世紀末」と評価する者もいる。
5反乱鎮圧後の大弾圧
イギリス軍は1857年の反乱鎮圧後、組織的な報復を行った。多くのシパーヒーや反乱参加者が処刑され、デリーでは住民の多くが追放された。この弾圧の過酷さはインド人の反イギリス感情をさらに高め、20世紀の独立運動につながる遺恨を残した。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1858年。語呂は「嫌ご破(いやごは)(1858)ムガル滅亡」。
ムガル帝国滅亡の直接的なきっかけは1857年のインド大反乱(シパーヒーの反乱・セポイの乱)。
最後の皇帝はバハードゥル・シャー2世。反乱軍に担ぎ出され、イギリスによってビルマのラングーンに流刑となった。
イギリスは東インド会社を解散し、インドを本国政府の直接統治下に置いた。1877年にはインド帝国が成立しヴィクトリア女王がインド女帝となった。
ムガル帝国は1526年(バーブル建国)から1858年まで続いた。ムガル帝国の建国と滅亡の年号をセットで押さえる。
語呂クイズ
「嫌ご破(いやごは)(1858)ムガル滅亡」= ムガル帝国が滅亡するは西暦何年?
- Q. ムガル帝国はなぜ滅亡したのですか?
- A. 直接のきっかけは1857年のインド大反乱です。反乱鎮圧後、イギリスは名目上の存在だったムガル帝国を廃止し、東インド会社を解散してインドを本国政府の直接統治下に置きました。根本的な原因はアウラングゼーブ以後の内部分裂と、東インド会社によるインド支配の拡大にあります。
- Q. バハードゥル・シャー2世はなぜビルマに追放されたのですか?
- A. 1857年の反乱軍に皇帝として担ぎ出されたため、イギリスは彼を反乱の象徴とみなしました。処刑せずにインドに留め置けば再び反乱の旗頭になる恐れがあったため、遠く離れたビルマのラングーンに流刑としました。
- Q. 東インド会社とはどんな組織ですか?
- A. 1600年にイギリスが設立したアジア貿易のための株式会社です。インドに商館を設け、次第に軍事力も持って植民地支配を拡大しました。1858年の反乱後に解散し、インドの統治はイギリス本国政府(インド省)に移りました。
- Q. インド帝国とムガル帝国はどう違いますか?
- A. ムガル帝国はインド人(イスラーム系)の王朝で、1526年から1858年まで続きました。インド帝国は1877年にイギリスが設立したもので、ヴィクトリア女王(イギリス人)が皇帝を兼ねる完全なイギリスの植民地体制です。
- Q. 1857年の反乱はなぜ「シパーヒーの反乱」と呼ばれるのですか?
- A. 反乱を起こしたのが東インド会社に雇われたインド人傭兵「シパーヒー(セポイ)」だったためです。薬包の脂問題が引き金となり、ヒンドゥー教徒とムスリムの双方のシパーヒーが反乱を起こしました。その後農民や諸侯も加わり大規模な反乱となりました。
1526年にバーブルが建てたムガル帝国は、1858年にイギリスによって廃止され、330年以上の歴史に幕を下ろしました。最後の皇帝バハードゥル・シャー2世の悲劇的な末路は、植民地支配の非情さを象徴しています。「嫌ご破(いやごは・1858)ムガル滅亡」の語呂とともに、インド大反乱→東インド会社解散→直接統治という一連の流れを押さえておきましょう。のちのインド独立運動は、このムガル帝国滅亡とインド大反乱の記憶を抵抗精神の原点として引き継いでいます。
編集メモ(ファクト)
バハードゥル・シャー2世の関与については、積極的に反乱を主導したというよりも担ぎ出された側面が強いという研究上の見解を本文に反映した。
1857年の反乱を「民族運動」と断定する表現は避け、地域・宗教・階層ごとに動機が異なることをresultのcaution項で補足した。
relatedは指定の2件(1526-mughal-empire・1857-indian-rebellion)のみ記載。
インド帝国成立年(1877年)はtimelineとleadに記載し、1858年との区別を明確にした。