高校/戦争
1804
ナポレオンが皇帝になる
ナポレオン・ボナパルト
語呂
覚え方
いばれよ(1804)ナポレオン皇帝
いばれよ(1804)ナポレオンこうてい
1804年(フランス革命暦12年)、ナポレオン・ボナパルトは国民投票の支持を経て皇帝ナポレオン1世として即位し、第一帝政を打ち立てました。同年には近代市民法の原型とされるナポレオン法典(民法典)を公布。革命が掲げた「自由・平等・所有権」の理念を法律の形に落とし込む一方、独裁的な権力を一手に握りました。ローマ教皇ピウス7世を戴冠式に招きながら、最後の瞬間に自ら冠を手に取って自分の頭にかぶせたとされるこの場面は、「私の権力は神にも教皇にも借りを作らない」という宣言として歴史に刻まれています。
この記事のポイント
- 1804年、国民投票を経てナポレオンが皇帝ナポレオン1世として即位(第一帝政の成立)
- 同年、ナポレオン法典(民法典)を公布。法の前の平等・所有権・契約の自由を明文化
- 戴冠式にはローマ教皇を招いたが、ナポレオン自ら冠をかぶったとされる
- フランス革命(1789年)→統領政府(1799年)→帝政(1804年)という権力集中の完成形
- 1812年のロシア遠征失敗、1815年のワーテルローの戦い敗北で最終的に失脚
ここが面白い戴冠式にローマ教皇を呼んでおきながら、ナポレオン自ら冠を自分の頭に乗せたとされる。「誰にも頭を下げない」という無言のメッセージだった。
ナポレオンの即位は突然起きたわけではありません。フランス革命から15年間の激動を経て、権力が徐々に一人の男に集まっていった必然の帰結でした。その流れを追ってみましょう。
フランス革命の爆発(1789年)
1789年、バスティーユ牢獄の襲撃をきっかけにフランス革命が始まりました。「自由・平等・博愛」を掲げた市民たちは王政を打倒しましたが、その後は派閥間の権力闘争と恐怖政治が続き、社会は混乱に陥りました。革命の理念は輝かしい一方、政治的安定は長く訪れませんでした。
ナポレオンの台頭と統領政府(1799年)
軍人として頭角を現したナポレオンは、イタリア遠征・エジプト遠征などで国民的英雄となります。1799年11月のブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、統領政府を樹立。自らが第一統領となって実権を握りました。形式上は三人の統領による合議制でしたが、実態はナポレオンの独裁でした。
革命の成果を法律に固める
第一統領として内政を立て直したナポレオンは、混乱した法制度の統一に取り組みます。各地でばらばらだった慣習法を整理し、1804年に民法典(ナポレオン法典)を公布。「法の前の平等」「所有権の不可侵」「契約の自由」を柱とする近代市民法の原型を作り上げました。
「皇帝」という形での権力確立
国内外の脅威が続くなか、ナポレオンは終身統領からさらに一歩踏み込み、世襲の皇帝位を求める動きを主導します。1804年の国民投票では99%超の賛成を得て(投票率や集計の問題を指摘する研究もある)、同年12月にノートルダム大聖堂で即位式が行われました。
国民投票による即位の正当化
≒ 「民意」を根拠にした独裁の完成直接民主主義の手続きを使いながら実質的な独裁権力を固めた。革命の「民主主義」を逆用した歴史の逆説ともいわれる。
ナポレオン法典(民法典)の公布
≒ 近代社会の「共通ルールブック」の原型法の前の平等・所有権の不可侵・契約の自由を明文化。フランスにとどまらず、ベルギー・オランダ・スペイン、さらに日本の明治民法にも間接的影響を与えた。
自らの手で戴冠
≒ 宗教権威からの独立宣言ローマ教皇ピウス7世を式典に招きながら、最後に自分で冠をかぶったとされる。「私の地位は神から与えられたのではなく、自分の力で勝ち取ったものだ」という姿勢を象徴する場面とされる。
1789革命フランス革命勃発。バスティーユ牢獄襲撃、人権宣言採択。
1799クーデタブリュメール18日のクーデタ。統領政府を樹立し第一統領に就任。
1804即位ナポレオン法典公布。12月にノートルダム大聖堂で皇帝即位式。第一帝政成立。
1805勝利アウステルリッツの戦いで対仏大同盟軍を撃破。ヨーロッパの覇者に。
1812失敗ロシア遠征。モスクワ占領後に退却を余儀なくされ、大軍の大半を失う。
1814退位パリ陥落。ナポレオンは退位しエルバ島に追放される。
1815百日天下・敗北エルバ島脱出後に復位するも、ワーテルローの戦いで敗北。セントヘレナ島へ追放。
◎ナポレオン法典は近代市民法の原型となり、法の前の平等・所有権・契約の自由という理念を西洋諸国さらにアジアの法体系にまで広めた。
△大陸支配の拡大とともに各地でナショナリズムが高まり、スペイン・ドイツ・ロシアでの抵抗が激化。1812年のロシア遠征失敗が帝国崩壊の決定的な転機となった。
△ナポレオンの敗北後のウィーン体制(1815年)は正統主義・勢力均衡を原則とし、革命前の秩序への巻き戻しを図った。しかし一度芽吹いたナショナリズムと自由主義の火は消えなかった。
ナポレオン・ボナパルト
フランス皇帝ナポレオン1世コルシカ島生まれの軍人。革命期に頭角を現し、統領政府を経て皇帝に就任。法制・行政・教育を大規模に改革した。
ピウス7世
ローマ教皇戴冠式のためパリに赴いたが、最後にナポレオンが自分で冠をかぶったとされる場面に立ち会ったとされる。のちにナポレオンによって幽閉される(1809年)。
ジョゼフィーヌ
皇妃ナポレオンの最初の妻。戴冠式で皇妃の冠を授けられた。1809年に離婚(世継ぎ問題のため)。
ジャック=ルイ・ダヴィッド
宮廷画家戴冠式の様子を描いた大作「ナポレオン1世の戴冠式」(ルーヴル美術館蔵)を制作。この絵が戴冠式の場面のイメージを後世に伝えた。
- 第一帝政
- 1804年から1814年(および1815年の「百日天下」)まで続いたナポレオンによる帝政。フランス史ではその後の第二帝政(ナポレオン3世)と区別するためこう呼ぶ。
- ナポレオン法典(民法典)
- 1804年公布のフランス民法典。「法の前の平等」「所有権の不可侵」「契約の自由」を三本柱とする近代市民法の原型。現在のフランス民法にも引き継がれている。
- 統領政府
- 1799年のブリュメールのクーデタ後に樹立された政府。3人の統領が執政するが実権はナポレオン(第一統領)が握った。1804年の帝政移行まで続いた。
- ウィーン体制
- ナポレオン戦争後の1815年、ウィーン会議で構築されたヨーロッパの国際秩序。正統主義と勢力均衡を原則とし、フランス革命・ナポレオンが広めた変化に対抗しようとした。
- ブリュメール18日
- フランス革命暦の月名「ブリュメール(霧月)」の18日にあたる1799年11月9日に起きたナポレオンのクーデタ。共和国の終焉と統領政府の始まりを告げた。
1戴冠式は「自分でかぶった」のか?
ナポレオンが最後に自分で冠を取って頭にかぶったとされる場面は、ダヴィッドの絵画には明示的に描かれていない。絵では皇妃ジョゼフィーヌへ冠を授ける瞬間が中心に描かれている。「自分で冠をかぶった」という逸話は広く語られているが、詳細については諸説あり、「〜とされる」と断ったうえで理解するのが適切だ。
2ナポレオンの身長は低くなかった?
「ナポレオンは小柄だった(約157cm)」という話は有名だが、当時のフランスの単位「プース(pouces)」で記録された身長を英国の単位に誤変換したことが原因とも言われる。実際は約168〜170cmで当時の平均的な成人男性と同程度だったとする研究もある。ただしこれも諸説ある。
3ナポレオン法典の日本への影響
明治政府は近代国家建設のため西洋の法制度を参照した。フランス法学者のボアソナードが日本の民法典起草に関与し、ナポレオン法典の思想は明治民法に間接的な影響を与えたとされる。「所有権」「契約の自由」など現在の日本民法の基本概念もこの流れに連なる。
4戴冠式の費用は現在の数百億円規模?
1804年12月2日のノートルダム大聖堂での戴冠式は数カ月かけて準備された大規模な式典で、衣装・装飾・招待客の費用は当時の国家予算に匹敵するほどだったと言われる。ダヴィッドが描いた記録画は縦約620cm・横約980cmの巨大作品で、200名近い人物が描き込まれている。

ここが出る博士のワンポイント
即位の年は1804年。語呂「いばれよ(1804)ナポレオン皇帝」で覚える。
同じ1804年にナポレオン法典(民法典)を公布。「法の前の平等・所有権・契約の自由」が三本柱。
前段階:1789年フランス革命→1799年ブリュメールのクーデタ(統領政府)→1804年帝政の流れを整理する。
ロシア遠征失敗(1812年)・ワーテルローの戦い(1815年)・セントヘレナ島追放という末路もセットで押さえる。
ナポレオン戦争の後始末として1815年のウィーン体制(ウィーン会議)が試験に頻出。
語呂クイズ
「いばれよ(1804)ナポレオン皇帝」= ナポレオンが皇帝になるは西暦何年?
- Q. ナポレオンはなぜ皇帝になれたのですか?
- A. フランス革命後の混乱が続くなかで軍事的な英雄として人気を集め、1799年のクーデタで政権を握りました。その後、国民投票で99%超の賛成を得て皇帝に即位しました。革命の「民意」という形式を用いながら権力を集中させたのが特徴です。
- Q. ナポレオン法典とは何ですか?
- A. 1804年に公布されたフランスの民法典です。「法の前の平等」「所有権の不可侵」「契約の自由」を柱とし、中世的な身分制に代わる近代市民法の原型となりました。フランスだけでなく、ヨーロッパ各国や日本の明治民法にも影響を与えたとされます。
- Q. ナポレオンはなぜ失敗したのですか?
- A. 複数の要因が重なっています。1812年のロシア遠征での大敗(厳寒・焦土作戦・兵站の限界)が最大の転機です。また支配地域の拡大に伴い各地でナショナリズムによる抵抗が激化し、イギリスを中心とした対仏大同盟が継続して組まれ続けたことも大きな要因でした。
- Q. 戴冠式でナポレオンが自分で冠をかぶったというのは本当ですか?
- A. 広く語られている逸話ですが、詳細については諸説あります。ダヴィッドが描いた記録画では皇妃ジョゼフィーヌに冠を授ける場面が中心で、ナポレオンが自分でかぶる瞬間は明示されていません。「〜とされる」という表現で理解しておくのが適切です。
- Q. ウィーン体制とナポレオンはどう関係しますか?
- A. ナポレオン戦争終結後の1815年、ヨーロッパ列強はウィーン会議を開いてナポレオンが広めた革命の影響を抑え込もうとしました(正統主義・勢力均衡)。ナポレオンの敗北が「ウィーン体制」という19世紀ヨーロッパの国際秩序を生み出したと言えます。
1804年のナポレオン即位は、フランス革命が生み出した「民意による支配」という概念を逆手に取った歴史的事件です。革命の理念を法律(ナポレオン法典)として世界に広める一方、独裁的な権力を正当化した矛盾は、その後の歴史家たちが繰り返し問い直してきたテーマです。「いばれよ(1804)ナポレオン皇帝」の語呂で年号を固め、法典公布・戴冠式・そして1812年ロシア遠征失敗という流れとセットで押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
国民投票の賛成率「99%超」については、集計の恣意性を指摘する研究もあり、額面どおりには受け取れないという歴史家の見解がある。
「自分で冠をかぶった」逸話は広く流布しているが、記録画には明示されておらず諸説あるため「〜とされる」と断って記述した。
ナポレオン法典の日本民法への影響はボアソナードを介した間接的なものであり、直接の翻訳・継受ではない。