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中学/政治
1861

イタリア王国が成立する

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世・カヴール・ガリバルディ
語呂
覚え方
嫌無い(1861)イタリア王国成立
いやむい(1861)イタリア王国成立

19世紀前半のイタリア半島は、オーストリア帝国の支配下にある北部、教皇が治める中部、ブルボン家の両シチリア王国が支配する南部など、数多くの国家に分裂していました。「イタリア」は地名であって国家ではなかったのです。この状況を変えたのが、サルデーニャ王国の首相カヴールの巧みな外交と、革命家ガリバルディ率いる義勇軍「千人隊(赤シャツ隊)」の軍事行動でした。カヴールはフランスとの同盟でオーストリアからロンバルディアを奪い、ガリバルディは南イタリア・シチリアを電撃征服してサルデーニャ王に献上しました。こうして1861年3月、トリノに初の全国議会が召集され、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を初代国王とするイタリア王国の成立が宣言されました。ただしヴェネツィアとローマはこの時点では未統合であり、真の「統一完成」は1870年のローマ併合を待たなければなりません。

この記事のポイント

  • 19世紀前半のイタリアは多数の国家に分裂し、北部はオーストリアの影響下に置かれていた
  • サルデーニャ王国の首相カヴールが外交・軍事でロンバルディアと中部イタリアを獲得
  • 革命家ガリバルディが率いる千人隊(赤シャツ隊)が両シチリア王国を征服し、サルデーニャ王に献上
  • 1861年3月にトリノで議会が開かれ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立
  • ヴェネツィア(1866年併合)とローマ(1870年併合)はこの時点では未統合であった
ここが面白い

「分裂したイタリアを一つに」――外交の天才・カヴールと剣の英雄・ガリバルディ、正反対の二人が手を結んで成し遂げた国家統一の物語。

ここに至るまでの流れ
背景

イタリア王国の成立は突然生まれたわけではありません。ナポレオンの遺産、ナショナリズムの高揚、サルデーニャ王国の台頭、そしてカヴールとガリバルディという対照的な二人の指導者の行動が積み重なって実現した出来事です。その背景を順に見ていきましょう。

分裂するイタリアとリソルジメント

19世紀前半のイタリア半島には、サルデーニャ王国・ロンバルド=ヴェネト王国(オーストリア直轄)・トスカーナ大公国・教皇領・両シチリア王国などが並立していました。ナポレオン戦争後のウィーン体制のもとでオーストリアの影響力は強まり、「統一」を求める知識人・商人らの間に「リソルジメント(復興・再生)」と呼ばれるナショナリズム運動が広がりました。1848年の革命運動(ローマ共和国樹立など)は鎮圧されましたが、統一への機運は消えませんでした。

カヴールの外交戦略――プロンビエールの密約

サルデーニャ王国の首相カヴール(在任1852〜1861年)は、武力だけではオーストリアに勝てないと判断し、外交で列強を引き込む戦略を選びました。1858年、カヴールはフランス皇帝ナポレオン3世と「プロンビエールの密約」を結び、オーストリアとの戦争でフランスが軍事支援する代わりにサヴォイアとニースをフランスに割譲することを約束しました。翌1859年のイタリア統一戦争(フランス=サルデーニャ連合軍対オーストリア)でオーストリアはマジェンタ・ソルフェリーノで敗れ、ロンバルディアをサルデーニャに割譲しました(ヴィッラフランカ条約・チューリヒ条約)。

中部イタリアの併合と住民投票

オーストリアとの戦争の混乱をついて、トスカーナ・モデナ・パルマ・ロマーニャ(教皇領の一部)では民衆がオーストリア系・教皇系の君主を追放し、サルデーニャとの合邦を求める住民投票を行いました。1860年3月、これらの地域が正式にサルデーニャに編入され、半島中部が統一圏に加わりました。

ガリバルディの千人隊と南イタリア征服

1860年5月、共和主義者で革命家のガリバルディは約1100名の義勇兵「千人隊(赤シャツ隊)」を率いてシチリアに上陸しました。島内の民衆蜂起と連携しながら両シチリア王国軍を圧倒し、8月にはナポリ本土に上陸。9月には首都ナポリに無血入城するという電撃作戦を成功させました。ガリバルディは共和国建設を望んでいましたが、政治的現実を考慮してヴィットーリオ=エマヌエーレ2世国王への領土献上を選択しました。

王国成立の宣言と残された課題

1861年2〜3月、トリノに初の全国議会が召集され、1861年3月17日にイタリア王国の成立が宣言されました。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がイタリア国王に就きましたが、ヴェネツィアはオーストリア領、ローマは教皇領(フランス軍が駐留して保護)のままであり、統一は未完成のままでした。カヴールは同年6月に急死しており、統一の仕上げを見ることなくその生涯を閉じました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

外交と軍事の二本立て統一

≒ 現代国家形成における「トップダウンの制度整備」と「ボトムアップの民衆運動」の融合

カヴールの列強外交(対オーストリア・対フランス)とガリバルディの草の根的な軍事遠征という、全く異なるアプローチが互いを補完して国家統一を実現した点が特徴的。

住民投票による合邦の先例

≒ 国境変更に際して住民の意思を問う「民族自決」の早期実践例

中部イタリア諸州がサルデーニャへの編入を住民投票で決定したことは、近代国際法における「住民投票による領土帰属」の先例の一つとして注目される。

リソルジメントと国民意識の形成

≒ 共通の言語・文化・歴史に基づく「国民」としての意識の創出

政治的統一と並行して、ダンテの文学語(トスカーナ方言)を基礎とするイタリア語の標準化が進められた。もっとも実際には統一後も地域差・方言差は大きく残り、真の「国民統合」には長い時間を要した。

前後のできごと
年表
1820
カルボナリ蜂起ナポリとピエモンテでイタリア統一を求める秘密結社カルボナリが蜂起。いずれもオーストリアの介入で鎮圧される。
1848
革命運動の高揚と挫折「諸国民の春」の波の中でローマ共和国が樹立されるが、フランス軍の介入で崩壊。サルデーニャのオーストリアへの単独挑戦(クストッツァの戦い)も敗北に終わる。
1852
カヴール首相就任サルデーニャ王国の首相にカヴール就任。親英・親仏路線で近代化・工業化を推進する。
1858
プロンビエールの密約カヴールがナポレオン3世と秘密会談。フランスの軍事支援と引き換えにサヴォイア・ニースの割譲を約束する。
1859
イタリア統一戦争フランス=サルデーニャ連合軍がオーストリアをマジェンタ・ソルフェリーノで破る。ヴィッラフランカ条約によりロンバルディアがサルデーニャへ割譲。
1860
中部イタリア編入・千人隊出発3月、住民投票を経てトスカーナ・モデナ・パルマ・ロマーニャがサルデーニャに編入。5月、ガリバルディが千人隊を率いてシチリアへ出発。9月、ナポリに入城。
1861
イタリア王国成立3月17日、トリノで議会がイタリア王国の成立を宣言。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代国王に就任。6月、カヴール急死。
1866
ヴェネツィア併合普墺戦争でプロイセンがオーストリアを破ったのに乗じ、イタリアはオーストリアと戦い(第三次独立戦争)、ヴェネツィアを獲得。
1870
ローマ併合・統一完成普仏戦争でフランスが敗北しローマ駐留軍を撤収。イタリア軍がローマに入城し、1871年にローマを首都と定める。ここで統一が完成。
結果とその後
結果
半島に分散していた諸国家が一つの国民国家「イタリア王国」に統合され、近代ヨーロッパの大国の一角を占めることになった。カヴールの外交とガリバルディの軍事行動が補完し合ったことで、比較的短期間での統一が実現した。
1861年の「王国成立」はあくまで統一の第一段階に過ぎず、ヴェネツィア(1866年)とローマ(1870年)は未統合のままだった。また南北の経済格差・文化格差・方言の違いは統一後も大きな課題として残り、真の国民統合には長期間を要した。カヴールは王国成立の3か月後に急死しており、その後の政治的安定は容易ではなかった。
登場人物
人物

カヴール(カミッロ=ベンソ)

サルデーニャ王国首相(1852〜1861年)

現実主義的な外交で統一を主導。フランスとの同盟・住民投票の活用など「現実政治(レアルポリティーク)」の実践者。1861年6月に王国成立から間もなく急死したため、後の統一完成は見ていない。

ガリバルディ(ジュゼッペ)

革命家・千人隊(赤シャツ隊)の指揮官

共和主義者でマッツィーニの思想に共鳴したが、統一実現のためにヴィットーリオ=エマヌエーレ2世への領土献上を選択。大衆的な英雄として今日でもイタリアの国民的象徴の一人。

ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世

サルデーニャ国王・イタリア王国初代国王(在位1861〜1878年)

カヴールの政策を支持し、イタリア統一運動の象徴的君主となった。1861年にイタリア王国の初代国王となり、死去まで在位した。

マッツィーニ(ジュゼッペ)

革命的ナショナリスト・「青年イタリア」創設者

共和主義的なイタリア統一を夢見た思想家・活動家。実際の統一は王国という形で実現したため、最終的に彼の理想は部分的にしか達成されなかった。統一運動の思想的な先駆者として評価される。

ナポレオン3世

フランス皇帝

プロンビエールの密約でカヴールと協定を結び、1859年のイタリア統一戦争でオーストリアと戦った。サヴォイア・ニースの割譲と引き換えに軍事支援を提供。後にローマ防衛のためフランス軍を派遣し、ローマ併合を遅らせる一因ともなった。

キーワード解説
用語
リソルジメント
イタリア語で「復興・再生」を意味する。19世紀のイタリア統一運動全体を指す言葉として用いられる。文化的・政治的に統一されたイタリア国民国家の建設を目指した運動。
カルボナリ
19世紀初頭から活動したイタリアの秘密結社。炭焼き職人の組合を模した組織形態をとり、外国支配からの解放と立憲主義の実現を目指した。1820〜30年代に各地で蜂起を試みたが、いずれも鎮圧された。
千人隊(赤シャツ隊)
ガリバルディが1860年に組織した約1100名の義勇軍。赤いシャツを制服としたためこの名がある。シチリアに上陸して両シチリア王国を征服し、その領土をサルデーニャ王に献上した。
プロンビエールの密約
1858年にカヴールとナポレオン3世がフランスのプロンビエール(現プロンビエール=レ=バン)で結んだ秘密協定。フランスがオーストリアとの戦争でサルデーニャを軍事支援する代わりに、サルデーニャはサヴォイアとニースをフランスに割譲することを約束した。
両シチリア王国
イタリア南部(ナポリ)とシチリア島を支配した王国。スペイン系ブルボン家が君主で、ガリバルディの千人隊による征服後にサルデーニャに合併された。
もっと知りたい
豆知識

1ガリバルディはカヴールを嫌っていた

共和主義者のガリバルディと保守的な王政派のカヴールは激しく対立していた。ガリバルディは、カヴールがニースをフランスに割譲したことに激怒した。ニースはガリバルディの生まれ故郷だったからである。統一という大目標のためにかろうじて協力関係が保たれたが、個人的な反目は深刻だった。

2統一直後、イタリア語を話せたのは人口の数パーセントだった

王国成立時、標準イタリア語(フィレンツェ方言を基礎とする文語)を日常的に話せたのは人口の2〜5パーセント程度に過ぎなかったとされる。大多数の国民はそれぞれの地方方言を使っており、統一後の言語統一・国民教育は大きな課題となった。

3ガリバルディは千人隊の実数を演出した可能性がある

「千人隊(ミッレ)」という名称は出発時の人数(約1千人)に由来するが、作戦中に参加者は増え続け、シチリア・ナポリ制圧のころには数万人規模に膨らんでいたとされる。「千人」という数字は英雄譚を際立たせるシンボルとして強調されたという見方もある。

4ローマはすぐには首都にならなかった

1861年の王国成立時、首都はトリノ(サルデーニャ王国の旧首都)に置かれた。1865年にフィレンツェに遷都し、1870年にローマを占領・併合して初めてローマが首都となった。今日イタリアの首都であるローマは、王国成立から9年後に首都になった計算である。

5ガリバルディはナポリ入城後に自ら鉄道に乗って国王を出迎えた

ガリバルディはナポリを征服した後、1860年10月にヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がカプア近郊まで南下してきたのを迎えに行き、鉄道に乗って国王と対面した。この「テアーノの出会い」でガリバルディは征服した南イタリアを国王に献上した。歴史的な瞬間だが、会見の詳細については史料間で食い違いがある。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1861年。語呂は「嫌無い(1861)イタリア王国成立」。
統一の中心となったのはサルデーニャ王国。首相カヴールの外交とガリバルディの軍事行動が両輪。
カヴールの外交:プロンビエールの密約(1858年)→イタリア統一戦争(1859年)→ロンバルディア獲得。
ガリバルディの行動:千人隊(赤シャツ隊)で両シチリア王国征服(1860年)→領土をサルデーニャ王に献上。
1861年3月17日にイタリア王国成立、初代国王はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世。
1861年時点でヴェネツィア(オーストリア領)とローマ(教皇領)は未統合。ヴェネツィアは1866年、ローマは1870年に併合されて統一完成。
ドイツ統一(1871年プロイセン主導)と対比させて問われることが多い。両者は「鉄血政策のビスマルク」対「外交のカヴール+武力のガリバルディ」という比較でよく出題される。
語呂クイズ
「嫌無い(1861)イタリア王国成立」= イタリア王国が成立するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. イタリア統一の中心となった国はどこですか?
A. サルデーニャ王国です。北イタリアのサルデーニャ・ピエモンテ地方を支配していた小国ですが、首相カヴールの指導のもとで近代化と外交を進め、統一運動の中核となりました。
Q. カヴールとガリバルディはどう違いますか?
A. カヴールは現実主義的な政治家・外交家で、フランスとの同盟など列強を利用する路線をとりました。ガリバルディは共和主義の革命家で、民衆を率いた軍事行動が得意でした。二人は政治的に対立していましたが、イタリア統一という目標のために協力しました。
Q. 1861年のイタリア王国成立と1870年の統一完成は何が違うのですか?
A. 1861年の王国成立時には、ヴェネツィア(オーストリア領)とローマ(教皇領)が未統合でした。1866年にヴェネツィアを、1870年にローマを併合して初めて「完全な統一」が達成されました。王国成立と統一完成の年号は別物として整理することが重要です。
Q. ガリバルディはなぜ征服した南イタリアを自分のものにしなかったのですか?
A. ガリバルディは本来は共和主義者でしたが、独立した南イタリア共和国を作ればイタリア統一が遠のくと判断しました。また、カヴールやサルデーニャ軍の圧力もありました。統一という大義のために個人の理想(共和制)を妥協した形です。
Q. イタリア統一運動とドイツ統一運動は似ていますか?
A. どちらも19世紀の国民国家形成の代表例で、同時代に進行しました(イタリア統一完成1870年、ドイツ統一1871年)。ドイツはプロイセンのビスマルクによる「鉄血政策」(武力中心)が主導したのに対し、イタリアはカヴールの外交とガリバルディの軍事の組み合わせが特徴です。
まとめ

イタリア王国の成立は、外交の天才カヴールと剣の英雄ガリバルディという全く異なる二人の指導者が、それぞれの手法でイタリア統一に貢献した結果です。1861年3月のトリノでの宣言は、長年の夢だった「一つのイタリア」への大きな一歩でしたが、ヴェネツィアとローマを取り残した「未完の統一」でもありました。「嫌無い(1861)イタリア王国成立」の語呂とともに、1866年のヴェネツィア併合、1870年のローマ併合という統一完成の流れもセットで整理しておきましょう。

編集メモ(ファクト)
イタリア王国成立の日付は1861年3月17日が通説。議会召集は2月18日で、国王の勅令発布が3月17日であるため、この記事では3月を成立時期として記述した。
「テアーノの出会い」(ガリバルディとヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の会見)の詳細については史料間で食い違いがあるため、trivia欄でその旨を付記した。
カヴール急死の時期は1861年6月6日が通説。王国成立から約3か月後にあたる。
related に記載の 1870-italian-unification および 1871-german-unification は世界史サイト内の想定IDであり、実在しない場合は削除すること。
ガリバルディの千人隊の実数については出発時約1千人、作戦中に増員という通説に従った。具体的な最終人数は史料によって幅があるため本文では断定を避けた。