中学/政治
1870
イタリア王国がローマを併合し統一を完成する
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(イタリア王国初代国王)
語呂
覚え方
嫌、直(1870)イタリア統一
いやなお(1870)イタリア統一
1870年9月、普仏戦争でフランス軍がローマから撤退すると、イタリア王国軍はポルタ・ピア(ピア門)を砲撃して教皇領のローマに進駐しました。こうして長年分裂していたイタリア半島はついにひとつの国家のもとに統一され、翌1871年にローマが新たな首都と定められました。この統一劇は、首相カヴールの巧みな外交、ガリバルディ率いる「千人隊(赤シャツ隊)」の南進、そして周辺列強の動向をうまく利用したサルデーニャ王国の戦略が複雑に絡み合って実現したものです。統一後も教皇ピウス9世はヴァチカンに閉じこもり「ヴァチカンの囚人」と称して抗議を続け、教皇とイタリア政府の対立は1929年のラテラノ条約まで解消されませんでした。
この記事のポイント
- サルデーニャ王国の首相カヴールが外交・軍事でイタリア統一の推進役を担った
- ガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)が1860年に両シチリア王国を征服し、サルデーニャ王に献上した
- 1861年にイタリア王国が成立し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代国王に即位した
- 1866年の普墺戦争の結果、ヴェネツィアがオーストリアからイタリアに割譲された
- 1870年の普仏戦争中にフランス軍が撤退し、イタリア軍がローマを占領・統一を完成させた
- 教皇ピウス9世はローマ併合に抗議し、ヴァチカンに閉じこもる「ヴァチカンの囚人」問題が生じた
ここが面白い「ローマなくしてイタリアは完成しない」――統一運動の指導者たちが長年夢見たその瞬間は、遠くフランスとプロイセンが戦火を交えるさなか、突然訪れた。
イタリア統一は一夜にして成し遂げられたわけではありません。ウィーン体制による抑圧、1848年革命の挫折、そして外交と武力を組み合わせた15年以上にわたる段階的な統一運動の末に実現しました。その経緯を順に見ていきましょう。
ウィーン体制とリソルジメント
1815年のウィーン会議でナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序が再編されると、イタリア半島は再び分裂状態に戻りました。オーストリアが北部を直接・間接に支配し、各地に旧支配者が復帰しました。これに反発して「リソルジメント(復興・再生)」と呼ばれる民族統一運動が広がり、マッツィーニらが指導する急進的な共和主義運動と、サルデーニャ王国を中心とした現実路線の統一運動が並行して展開されました。
カヴールの外交とクリミア戦争参戦
1852年にサルデーニャ王国の首相に就任したカヴール(カミッロ=ベンソ)は、工業化・鉄道建設・自由貿易といった内政改革を進める一方、巧みな外交でフランスのナポレオン3世を統一運動の支援に引き込もうとしました。1855年にはクリミア戦争に参戦してサルデーニャの存在感を列強に示し、1858年のプロンビエール密約でナポレオン3世とオーストリアへの共同出兵を密約しました。
対オーストリア戦争と北部・中部の統合
1859年、サルデーニャ=フランス連合軍はオーストリアと開戦し(第二次イタリア独立戦争)、マジェンタの戦い・ソルフェリーノの戦いで勝利しました。ヴィッラフランカの和約でオーストリアからロンバルディアを獲得しました。翌1860年には、サヴォイアとニースをフランスに割譲する代わりに、トスカーナなど中部諸国の併合を認めてもらいました。
ガリバルディの千人隊と南部統合
1860年、民族主義的英雄ジュゼッペ=ガリバルディは約1000名の義勇兵(赤シャツ隊、千人隊とも呼ぶ)を率いてシチリア島に上陸し、またたく間に両シチリア王国を征服しました。ガリバルディは共和主義者でしたが、現実的判断からヴィットーリオ=エマヌエーレ2世にこの征服地を献上し、南部がサルデーニャ王国に編入されました。
イタリア王国の成立とヴェネツィア・ローマ問題
1861年3月、イタリア王国が成立し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代国王となりました。しかし北東部のヴェネツィアはオーストリアが支配し、ローマとその周辺の教皇領はフランス軍が駐留して守護していました。1866年の普墺戦争でイタリアはプロイセン側に立って参戦し、軍事的には敗れたものの外交交渉の結果ヴェネツィアを獲得しました。残るはローマのみとなりました。
ローマ占領とイタリア統一の完成
≒ 分断された国がひとつにまとまる「国民国家」の完成1870年9月20日、普仏戦争でフランス軍が撤退した隙をついてイタリア軍がポルタ・ピアを突破し、ローマを占領。翌1871年にローマが首都となり、古代ローマ帝国以来となるローマを中心とした統一国家が誕生した。
カヴールの外交路線の勝利
≒ 現実的な外交と同盟戦略で大国を動かす政治手法「理想」より「現実」を重んじたカヴールの外交は、クリミア戦争参戦→フランスとの密約→普墺戦争の利用という段階的な戦略の積み重ねで統一を実現した。ビスマルクと並ぶ19世紀リアルポリティークの典型例とされる。
ガリバルディと民衆の力
≒ 政治家が動かせなかった部分を民衆の熱狂が補完する千人隊による南部征服は正規軍でなく義勇兵が成し遂げた快挙であり、民衆の民族主義的熱意が統一の重要な推進力だったことを示している。後世の民族運動や革命運動にも繰り返し参照されるモデルとなった。
1815ウィーン会議ナポレオン戦争後の講和会議でイタリア半島の再分裂が確定。オーストリアが北部に強い影響力を持つ体制が成立。
1848革命の挫折ヨーロッパ各地で革命が起き、イタリアでも統一・独立運動が高揚。しかしオーストリアの鎮圧などで失敗に終わる。
1852カヴール首相就任カヴールがサルデーニャ王国の首相に就任。近代化と外交による統一路線を推進。
1855クリミア戦争参戦サルデーニャがクリミア戦争に参加し、列強の講和会議(パリ会議)に席を得てイタリア問題を提起。
1858プロンビエール密約カヴールとナポレオン3世がプロンビエールで密約を結び、対オーストリア共同出兵に合意。
1859第二次イタリア独立戦争サルデーニャ=フランス連合軍がオーストリアを破りロンバルディアを獲得。中部諸国も次々と統合。
1860ガリバルディの千人隊ガリバルディが約1000名の義勇兵を率いてシチリアに上陸し、両シチリア王国を征服してヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上。
1861イタリア王国成立3月17日、イタリア王国が正式に成立。ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代国王に即位。首都はトリノ(後にフィレンツェへ移転)。
1866ヴェネツィア併合普墺戦争でプロイセン側に立って参戦し、敗戦したものの外交交渉でオーストリアからヴェネツィアを獲得。
1870ローマ占領・統一完成9月20日、普仏戦争でフランス軍が撤退した後、イタリア軍がポルタ・ピアを突破してローマに進駐。教皇領を併合。
1871ローマ首都化ローマが正式にイタリア王国の首都となる。教皇ピウス9世はヴァチカンに閉じこもり抗議。
1929ラテラノ条約ムッソリーニ政権とヴァチカンの間でラテラノ条約が締結され、教皇とイタリア政府の対立がようやく解消。ヴァチカン市国が独立国家として承認される。
◎イタリア半島の政治的統一が達成され、ヨーロッパ列強の一員として新生イタリア王国が誕生した。リソルジメントは後の民族自決の思想にも大きな影響を与えた。
△統一後も南北の経済格差、方言・文化の違いは大きく、真の意味での国民統合には長い年月を要した。また、オーストリア支配下に残った「未回収のイタリア」(トレント・トリエステなど)問題は解決されず、後の第一次世界大戦参戦の動機の一つとなった。教皇との対立(ローマ問題)も1929年まで尾を引いた。
カヴール(カミッロ=ベンソ)
サルデーニャ王国首相(1852〜1861年)外交の天才と称される。フランスとの同盟、クリミア戦争参戦、普墺戦争の利用など巧みな策略でイタリア統一を推進した。1861年の王国成立直後に死去し、ローマ統一を見ることはなかった。
ガリバルディ(ジュゼッペ=ガリバルディ)
統一運動の武人・民族的英雄共和主義者だったが、統一のために君主制のもとでの現実的選択を取った。千人隊による南部征服はイタリア統一史上の最大のロマンとして後世に語り継がれる。
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世
サルデーニャ王(1849〜1861年)/イタリア王国初代国王(1861〜1878年)イタリア統一を政治的にまとめた国王。「イタリアの父」と称され、死後は全国各地に騎馬像が建てられた。
ナポレオン3世
フランス皇帝(在位1852〜1870年)プロンビエール密約でカヴールと合意し、対オーストリア戦争でイタリアを支援した。しかしイタリアが強大化しすぎることを恐れ、ヴィッラフランカで単独講和するなど行動に一貫性がなかった。最終的に普仏戦争でプロイセンに敗れたことがローマ撤退の直接原因となった。
ピウス9世
ローマ教皇(在位1846〜1878年)イタリア軍のローマ占領に強く抗議し、ヴァチカン宮殿に閉じこもって「ヴァチカンの囚人」と自称した。イタリア国民にカトリック信者として選挙参加を禁じる「非エクスペディト」を出したことでも知られる。
マッツィーニ(ジュゼッペ=マッツィーニ)
統一運動の思想家・共和主義者「青年イタリア」を結成し、共和主義的な統一を訴えた。カヴールの君主主義的路線とは対立したが、リソルジメントの精神的支柱となった。
- リソルジメント
- イタリア語で「復興・再生」を意味する。19世紀のイタリア統一・独立運動の総称。マッツィーニの共和主義的運動からカヴールの現実路線まで様々な潮流を含む。
- 千人隊(赤シャツ隊)
- 1860年にガリバルディが率いた約1000名の義勇兵部隊。赤いシャツを着て戦ったことから「赤シャツ隊」とも呼ばれる。シチリアから両シチリア王国を制圧した。
- 教皇領
- イタリア中部に存在したローマ教皇を君主とする世俗国家。8世紀から続く歴史を持ち、ローマを含む広大な領土を有していたが、1870年のイタリア軍によるローマ占領で消滅した。
- 未回収のイタリア(イタリア語でイタリア・イレデンタ)
- 統一後もオーストリア支配下に残ったトレント・トリエステなど、イタリア系住民が多く住む地域のこと。第一次世界大戦でイタリアが協商国側に加わる動機の一つとなった。
- ヴァチカンの囚人
- ローマ併合後、イタリア政府との和解を拒否してヴァチカン宮殿の外に出ることを拒んだ教皇の自称・俗称。ピウス9世から始まり、1929年のラテラノ条約締結まで歴代教皇がこの立場を維持した。
- ラテラノ条約
- 1929年にムッソリーニのイタリア政府とヴァチカンの間で締結された条約。ヴァチカン市国のイタリア国内における独立主権国家としての地位を認め、約60年続いた「ローマ問題」を解決した。
1カヴールはローマ統一を見ずに死んだ
イタリア統一の立役者カヴールは、1861年6月にイタリア王国成立からわずか3か月後に死去した。ヴェネツィアもローマも未回収のままであり、彼が夢見た完全な統一を自らの目で見ることはなかった。享年50歳だった。
2ポルタ・ピアの砲撃は20分で終わった
1870年9月20日のローマ進攻でイタリア軍が城壁を砲撃したポルタ・ピア(ピア門)の戦闘は、わずか20分ほどで決着したとされる。教皇軍の抵抗は象徴的なものにとどまり、流血は最小限に抑えられた。この日(9月20日)は後にイタリアの祝日「9月20日祭」となったが、ファシスト政権期に廃止された。
3ガリバルディはイタリアの父か、それとも邪魔者か
ガリバルディの千人隊は南部を制圧した後、ローマ進軍を試みたが、カヴールはこれを阻止した。カヴールにとってガリバルディの熱狂的な行動は外交的に扱いにくいものであり、二人の関係は複雑だった。統一後のガリバルディは国会議員となったが、政治には馴染めず、故郷のカプレーラ島に引き込もった。
4「イタリアは作られた、今度はイタリア人を作らなければならない」
統一直後、政治家マッシモ=ダゼリオが述べたとされる「我々はイタリアを作った、今度はイタリア人を作らなければならない」という言葉が有名である。当時のイタリアでは識字率が低く、イタリア語を話せる国民は人口の数パーセントにすぎなかったとされる。
5統一直後の首都はローマではなかった
1861年のイタリア王国成立当初の首都はトリノ(サルデーニャ王国の旧首都)であり、その後1865年にフィレンツェに移され、ローマが首都となったのは1871年のことである。首都移転のたびに民衆の反発があり、トリノでは暴動も起きたとされる。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1870年。語呂は「嫌、直(1870)イタリア統一」。1870年にローマを占領して統一完成、翌1871年にローマ首都化が試験頻出。
統一の三大人物:カヴール(外交・首相)、ガリバルディ(武力・千人隊)、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(国王)のセットで覚える。
1861年のイタリア王国成立の時点ではヴェネツィア(1866年)とローマ(1870年)はまだ統一されていなかった点に注意。
ローマ問題:教皇がヴァチカンに閉じこもる「ヴァチカンの囚人」状態→1929年のラテラノ条約で解消。
「未回収のイタリア」(トレント・トリエステ)はオーストリア領のまま残り、第一次世界大戦参戦の原因の一つとなった。
1871年のドイツ統一(ドイツ帝国成立)とほぼ同時期であり、「国民国家形成の時代」の文脈でセットで問われることが多い。
語呂クイズ
「嫌、直(1870)イタリア統一」= イタリア王国がローマを併合し統一を完成するは西暦何年?
- Q. イタリア統一はいつ完成したのですか?
- A. 1870年9月にローマが占領された時点で実質的に完成し、翌1871年にローマが正式に首都と定められてイタリア統一が完結しました。なお、イタリア王国の成立は1861年ですが、その時点ではヴェネツィアとローマは未統合でした。
- Q. カヴールとガリバルディはどう違うのですか?
- A. カヴールは外交を重視したサルデーニャ王国の首相で、君主主義・現実路線の政治家です。一方ガリバルディは共和主義者で、民衆の熱狂を背景に千人隊を率いた軍人的英雄です。両者は方法論で対立しながらも、結果として統一を補完し合いました。
- Q. なぜ教皇はローマ統一に反対したのですか?
- A. 教皇は数百年にわたってローマを含む教皇領を世俗的な国家として統治していました。イタリア軍によるローマ占領はその権力と財産を一方的に奪うものであり、教皇は激しく抗議して「ヴァチカンの囚人」と称し、イタリア政府との和解を拒み続けました。
- Q. 「未回収のイタリア」とは何ですか?
- A. 1870年の統一完成後もオーストリア支配下に残ったトレント・トリエステなどイタリア系住民の多い地域のことです。イタリアはこれらの地域の回収を目指し、第一次世界大戦に協商国側(英仏露)として参戦する際の主な要求の一つとしました。
- Q. ラテラノ条約とはどのような内容ですか?
- A. 1929年にムッソリーニ政権とヴァチカンの間で結ばれた条約で、ヴァチカン市国の独立主権国家としての地位をイタリアが承認し、教会への補償金を支払うことなどが定められました。これにより1870年以来続いていた「ローマ問題」が解消されました。
イタリア統一は、カヴールの冷静な外交、ガリバルディの熱狂的な行動力、そして周辺列強の動向を巧みに利用したサルデーニャ王国の戦略が重なり合って実現した、19世紀最大の民族統一劇のひとつです。1861年の王国成立から1870年のローマ占領まで約10年をかけて完成したこの統一は、同時期のドイツ統一とともに「国民国家形成の時代」を象徴する出来事です。「嫌、直(1870)イタリア統一」の語呂とともに、カヴール・ガリバルディ・ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の三者の役割と、1861年統一→1866年ヴェネツィア→1870年ローマという段階的完成の流れをしっかり押さえておきましょう。
編集メモ(ファクト)
ポルタ・ピア突破の日付「1870年9月20日」は史料上確認されている。試験では「1870年ローマ占領・統一完成」として出題される。
カヴールは1861年6月に死去しており、ヴェネツィアもローマも彼の存命中には回収されていない。この点は誤解されやすいため注記する。
ガリバルディの「千人隊」の正式名称はイタリア語でミッレ(Mille、千を意味する)だが、「赤シャツ隊」「千人隊」の両表現が使われる。日本の教科書によって表記が異なるため、両方の名称を本文に記載した。
「未回収のイタリア」のイタリア語原語はイタリア・イレデンタ(Italia irredenta)。日本語表記として「未回収のイタリア」が一般的。
ラテラノ条約の締結年(1929年)はムッソリーニ政権下であることを背景として押さえておくとよい。
related に記載の「1871-german-unification」「1815-vienna-congress」は当サイト内の実在IDを想定している。存在しない場合は削除すること。