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高校/政治
1848

諸国民の春(1848年革命)が起こる

(各国の自由主義者・ナショナリスト)
語呂
覚え方
嫌よはっ(1848)諸国民の春
いやよは(1848)諸国民の春

1848年、フランスのパリで起きた「二月革命」を皮切りに、ヨーロッパ各地で自由主義・国民主義(ナショナリズム)を掲げた革命が連鎖的に勃発しました。この一連の運動は「諸国民の春」と呼ばれます。フランスでは七月王政が打倒されて第二共和政が樹立され、オーストリアでは保守体制の象徴だった宰相メッテルニヒが失脚。ウィーン体制そのものが揺らぎました。ベルリン・ウィーン・ハンガリー・イタリア各地でも蜂起が相次ぎましたが、多くは同年中に鎮圧され、短期的には挫折に終わりました。しかし自由主義・国民国家形成への動きは止められず、その後のドイツ統一(1871年)やイタリア統一(1861年)へとつながっていきます。また同年、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表し、社会主義運動の理論的基盤も生まれました。

この記事のポイント

  • 1848年2月、フランスの二月革命で七月王政が倒れ、第二共和政が成立
  • 革命の波はウィーン・ベルリン・ハンガリー・イタリアなどヨーロッパ各地に連鎖
  • ウィーンでの三月革命でメッテルニヒが失脚し、ウィーン体制が崩壊に向かった
  • 多くの革命は同年中に鎮圧され短期的には挫折したが、自由主義・国民国家形成の流れを加速
  • 同年、マルクス・エンゲルスが『共産党宣言』を発表し、社会主義運動の理論的基盤が生まれた
ここが面白い

「自由を!」という叫びが、1848年のヨーロッパ中に一気に伝播した。パリで始まった革命の火は、わずか数週間でウィーン・ベルリン・ローマ・ブダペストへと燃え広がった。

ここに至るまでの流れ
背景

1848年の革命は突然起きたわけではありません。ウィーン体制成立後の30年間に積み重なった矛盾が、各地で同時に爆発した事件です。

ウィーン体制と保守的秩序

1814〜15年のウィーン会議でメッテルニヒ主導のもと構築されたウィーン体制は、フランス革命・ナポレオン戦争が持ち込んだ自由主義・ナショナリズムを抑圧し、旧来の君主制・貴族制を復活させた国際秩序でした。自由主義的な憲法制定運動や国民統一運動は、各国の王権・警察・検閲によって厳しく封じ込められていました。

経済的不満と食糧危機

産業革命の進行により都市の労働者が増加しましたが、劣悪な労働環境・低賃金・参政権の欠如が不満を高めていました。さらに1845〜47年のじゃがいも飢饉(アイルランドを直撃)や小麦不作がヨーロッパ全土に食糧危機をもたらし、民衆の生活は危機的状況に陥りました。

1830年革命の「先例」

1830年にもフランスで七月革命が起き、ベルギー独立などに波及した経験がありました。この「革命は伝播する」という先例が、1848年の各国指導者・民衆双方の行動心理に影響を与えていました。

通信技術の発展と情報の伝播

電信網の整備や新聞の普及により、パリで起きた出来事がウィーン・ベルリン・ブダペストに数日以内に伝わるようになっていました。「フランスで成功した」というニュースが各地の蜂起を後押しする連鎖反応を生みました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

フランス二月革命と第二共和政の成立

≒ 既存の政権打倒と新政府樹立

1848年2月、パリ市民と共和主義者が蜂起してルイ・フィリップの七月王政を打倒。第二共和政が宣言され、男性普通選挙権が導入された。

ウィーン三月革命とメッテルニヒの失脚

≒ 「保守体制の司令塔」が退場

3月、ウィーンで民衆が蜂起。ウィーン体制の要・宰相メッテルニヒはイギリスへ亡命し、ウィーン体制が事実上崩壊した。

ベルリン・ハンガリー・イタリアへの波及

≒ 各地で同時多発する「もっと自由を」の運動

3月のベルリン蜂起、ハンガリーのコッシュート率いる独立運動、イタリア各地(ミラノ・ヴェネツィア・ローマなど)での蜂起が連鎖。それぞれ自由主義的憲法制定や国家統一を要求した。

前後のできごと
年表
1815
ウィーン体制ウィーン会議終結。メッテルニヒ主導で保守的な国際秩序(ウィーン体制)が確立される。
1830
七月革命フランスで七月革命。シャルル10世が退位しルイ・フィリップが即位(七月王政)。ベルギー独立へ波及。
1848
二月革命(仏)2月、パリで蜂起。七月王政のルイ・フィリップが退位し、第二共和政が成立。男性普通選挙権を導入。
1848
三月革命(墺・普)3月、ウィーンで蜂起。メッテルニヒが失脚・亡命。同月、ベルリンでも市民が蜂起しプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が改革を約束。
1848
ハンガリー・イタリアの蜂起ハンガリーでコッシュート・ラヨシュが指導する独立運動、北イタリア(ミラノ・ヴェネツィア)・ローマでの共和主義運動が相次いで勃発。
1848
『共産党宣言』2月、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』をロンドンで発表。「万国の労働者、団結せよ!」の言葉が生まれる。
1848
革命の鎮圧6月、フランスで「六月蜂起」が鎮圧される。オーストリアはロシアの援助を得てハンガリー独立運動を鎮圧(1849年)。各地の革命が次々と失敗に終わる。
1852
第二帝政フランスでルイ・ナポレオンがクーデタで権力を握り皇帝ナポレオン3世として即位。第二共和政が終わる。
結果とその後
結果
フランスで男性普通選挙権が導入されるなど、自由主義的な改革の方向性を示した。ウィーン体制の象徴・メッテルニヒが失脚し、保守的な国際秩序が崩れ始めた。
短期的には失敗に終わったが、自由主義・ナショナリズムの思想が広く社会に浸透し、その後のドイツ統一(1871年)・イタリア統一(1861年)への流れを加速させた。
多くの革命は同年中に保守勢力によって鎮圧され、革命指導者は処刑・亡命を余儀なくされた。フランスでは共和政がまもなく終わり、ルイ・ナポレオンの独裁(第二帝政)へと転じた。
登場人物
人物

ルイ・フィリップ

フランス国王(七月王政)

二月革命で退位してイギリスへ亡命。七月王政(1830〜1848年)の終焉を象徴する人物。

クレメンス・フォン・メッテルニヒ

オーストリア宰相

ウィーン体制の設計者。ウィーン三月革命で失脚しイギリスへ亡命。保守秩序崩壊の象徴となった。

コッシュート・ラヨシュ

ハンガリーの自由主義指導者

ハンガリー革命を指導し独立を宣言したが、オーストリア・ロシア連合軍に敗れてトルコへ亡命した。

カール・マルクス

哲学者・経済学者

エンゲルスとともに1848年2月に『共産党宣言』を発表。1848年革命の年に社会主義運動の理論的礎が置かれた。

フリードリヒ・エンゲルス

思想家・実業家

マルクスとともに『共産党宣言』を執筆。後にマルクスの研究を経済的に支援し続けた。

キーワード解説
用語
ウィーン体制
1815年のウィーン会議でメッテルニヒが主導して構築した保守的国際秩序。自由主義・ナショナリズムを抑圧し、旧来の君主制・貴族制を維持することを目的とした。1848年革命によって事実上崩壊した。
諸国民の春
1848年にヨーロッパ各地で同時多発的に起きた革命・蜂起の総称。自由主義(憲法・参政権)とナショナリズム(民族の自立・統一)を求める運動が春のように各国に芽吹いたことからこう呼ばれる。
二月革命(1848年)
1848年2月、フランスで起きた市民・共和主義者による革命。七月王政のルイ・フィリップを打倒し、第二共和政を樹立した。男性普通選挙権の導入をもたらした。
自由主義
個人の自由・憲法による政治・議会制民主主義を重視する思想。ウィーン体制下では弾圧されていたが、1848年革命の中心的スローガンとなった。
ナショナリズム(国民主義)
同一の言語・文化・民族を持つ人々が一つの国家を形成すべきだという考え方。ドイツやイタリアの分裂状態、オーストリア帝国内の多民族への支配への抵抗として噴出した。
『共産党宣言』
1848年2月、マルクスとエンゲルスが発表した文書。資本主義の矛盾を分析し、労働者階級による革命と社会主義社会の実現を訴えた。「万国の労働者、団結せよ!」の言葉で有名。
もっと知りたい
豆知識

1革命が「春」なのは比喩であり、実際は冬から始まった

「諸国民の春」という名称はあくまで比喩で、自由と希望の芽吹きを「春」に例えたものです。実際にはフランスの二月革命は冬(1848年2月)に始まり、その後の三月革命(ウィーン・ベルリン)も厳密には早春。夏には多くが鎮圧され、「春」は非常に短命でした。

2メッテルニヒは失脚後も80代まで長生きした

ウィーン体制の象徴として革命に打倒されたメッテルニヒですが、亡命先のイギリスから1851年には帰国を果たしています。外交の第一線からは退いたものの1859年まで生き、86歳で天寿を全うしました。「倒れた巨人」としては意外に長い余生を送りました。

3『共産党宣言』の初版は売れなかった

1848年2月にロンドンで発表された『共産党宣言』ですが、発表直後はほとんど注目されませんでした。1848年革命の高揚と鎮圧を経て、各国語に翻訳され広まるのは数十年後のことです。マルクス自身も革命の最中は実践的な政治活動に奔走しており、この文書が後世に与える影響を当時は誰も予測していませんでした。

4ハンガリー革命はロシア軍が鎮圧した

ハンガリーのコッシュート指導のもとでの独立運動は、オーストリア単独では抑えられませんでした。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はロシア皇帝ニコライ1世に援軍を要請し、ロシア軍の介入によって1849年にようやく鎮圧されました。「神聖同盟」による相互支援という保守秩序の原則が最後まで機能した事例です。

5フランクフルト国民議会は「紙の上だけの統一」に終わった

1848年のドイツでは、各邦の代表がフランクフルトに集まり「ドイツ国民議会」を開催し、統一ドイツ国家の憲法を起草しました。しかしプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が「民衆から差し出された王冠はかぶれない」と帝位を拒否。国民議会は実権なく解散し、ドイツ統一は20年以上先に持ち越されました。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
1848年の語呂は「嫌よはっ(1848)諸国民の春」。二月革命→第二共和政の流れを押さえる。
フランス:七月王政(ルイ・フィリップ)打倒→第二共和政成立→後にナポレオン3世の第二帝政へ。
ウィーン三月革命でメッテルニヒが失脚し「ウィーン体制が崩壊した」という表現が頻出。
1848年は『共産党宣言』(マルクス・エンゲルス)発表の年でもあることを関連づけておく。
革命の多くは鎮圧・失敗に終わったが、その後のドイツ統一(1871)・イタリア統一(1861)への伏線となった点を把握する。
フランクフルト国民議会(1848):ドイツ統一を審議したが失敗に終わった議会。プロイセン王の拒否が原因。
語呂クイズ
「嫌よはっ(1848)諸国民の春」= 諸国民の春(1848年革命)が起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 「諸国民の春」とはどういう意味ですか?
A. 1848年にヨーロッパ各地で同時多発的に起きた革命・蜂起の総称です。自由と希望が春のように各国に芽吹いたことを比喩した呼び名で、フランス・オーストリア・プロイセン・ハンガリー・イタリアなどで連鎖的に起きました。
Q. 二月革命はなぜフランスで起きたのですか?
A. 選挙権の制限・言論弾圧・経済格差に加え、1847年の不況が民衆の不満を爆発させました。改革派の集会(宴会運動)を政府が禁止したことが引き金となり、パリ市民が蜂起して七月王政を打倒しました。
Q. メッテルニヒはなぜ重要なのですか?
A. ウィーン体制を設計・維持してきた保守外交の中心人物だからです。その失脚はウィーン体制の象徴的な崩壊を意味し、ヨーロッパの国際秩序が大きく変化する転換点として歴史上重要です。
Q. 1848年の革命はなぜ失敗したのですか?
A. 革命勢力内部の分裂(自由主義者と急進的民主主義者・社会主義者の対立)、農民・農村部の保守的な支持、ロシアなど保守大国の軍事介入などが主な原因です。組織力・軍事力の点で旧体制側が依然優位でした。
Q. 『共産党宣言』と1848年革命はどう関係しますか?
A. 偶然ではなく同じ時代の産物です。マルクス・エンゲルスは1848年2月に『共産党宣言』を発表し、「万国の労働者、団結せよ!」と呼びかけました。ただし当時の革命は主に中産階級(ブルジョワジー)が主導しており、社会主義運動への直接的な影響は後年に現れます。
Q. 1848年革命はその後の歴史にどう影響しましたか?
A. 短期的には失敗しましたが、自由主義・ナショナリズムの思想を広く社会に浸透させました。その後のイタリア統一(1861年)・ドイツ統一(1871年)は、1848年の経験と挫折を踏まえて進められた国民国家形成の延長線上にあります。
まとめ

1848年の「諸国民の春」は、ウィーン体制という保守秩序への全ヨーロッパ規模の反乱でした。フランスの二月革命を起点に、ウィーン・ベルリン・ハンガリー・イタリアへと革命の波が連鎖し、メッテルニヒの失脚によってウィーン体制は事実上終焉を迎えました。多くの革命は鎮圧されて短期的には失敗しましたが、自由主義・ナショナリズムという時代の流れは止められず、その後の国民国家形成(ドイツ・イタリア統一)へと結実します。語呂「嫌よはっ(1848)諸国民の春」とともに、二月革命→第二共和政・メッテルニヒ失脚・ウィーン体制崩壊・『共産党宣言』という四点セットを確実に押さえましょう。

編集メモ(ファクト)
「ウィーン体制の崩壊」は1848年のメッテルニヒ失脚で象徴的に起きたとされるが、体制の完全な解体はクリミア戦争(1853〜56年)を経て進む。ここでは「崩壊に向かった」として記述した。
ハンガリー革命の鎮圧は厳密には1849年であるが、1848年革命の帰結として一括して説明した。
フランスの第二共和政からナポレオン3世への流れ(1851年クーデタ・1852年第二帝政)は本記事の主題から外れるため概略にとどめた。
イタリア統一の年は1861年(統一王国成立)を採用した。ローマ教皇領編入(1870年)まで含めると複数の説があるため、一般的な表記に従った。