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高校/政治
1815

ウィーン会議が締結される

メッテルニヒ(オーストリア外相)
語呂
覚え方
いや以後(1815)ウィーン会議
いやいご(1815)ウィーンかいぎ

1814年9月から1815年6月にかけて、オーストリアの首都ウィーンに欧州各国の代表が集まり、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を作り直すための国際会議が開かれました。議長はオーストリア外相メッテルニヒ。フランスのタレーランが主張した「正統主義」(革命前の王朝・国境に戻す)と、どの大国も突出しないよう力の釣り合いを取る「勢力均衡」の原則のもとで話し合いが進められました。この会議で生まれた国際秩序を「ウィーン体制」と呼び、保守・反動的な体制として自由主義・ナショナリズムを抑圧しました。その抑圧に対する各地の反発が積み重なり、1848年の革命(諸国民の春)へとつながっていきます。

この記事のポイント

  • 1814年9月〜1815年6月、ナポレオン失脚後のヨーロッパ再建を目的に開催
  • 議長はオーストリア外相メッテルニヒ、フランスはタレーランが出席
  • 「正統主義」(革命前の状態に戻す)と「勢力均衡」が基本原則
  • ウィーン体制(保守反動体制)が成立し、自由主義・ナショナリズムを抑圧
  • 神聖同盟・四国同盟が結成され、1848年革命まで欧州の大枠が維持された
ここが面白い

「会議は踊る、されど進まず」。大国の思惑が交錯し、舞踏会が連夜開かれながらも交渉は遅々として進まなかった。ナポレオンという嵐が去った後、ヨーロッパを「元通り」に戻そうとした会議の実態とは?

ここに至るまでの流れ
背景

ウィーン会議は突然招集されたわけではありません。ナポレオン戦争という約10年にわたる混乱の果てに、ヨーロッパの列強が「次こそ戦争を防ぎたい」と集まった歴史的な場です。その背景を見ていきましょう。

ナポレオン戦争とヨーロッパの混乱

フランス革命(1789年)後に台頭したナポレオン・ボナパルトは1804年に皇帝に即位し、ヨーロッパ各地に遠征を繰り返しました。最盛期にはイベリア半島からモスクワ近郊まで版図を広げ、各地で「革命の理念」を輸出しながら既存の王朝・国境を塗り替えました。1812年のロシア遠征の失敗を機に形勢が逆転し、1814年に連合軍がパリを占領、ナポレオンはエルバ島へ流刑となりました。

革命理念の拡散という脅威

各国君主にとって最大の問題は、ナポレオンが運んだ「自由・平等・国民主権」という革命の理念でした。これが各地に根づけば、既存の王朝支配が揺らぎます。ウィーン会議は戦後の国境を引き直すだけでなく、革命理念を抑え込み「古い秩序」を取り戻すことを目的としていました。

メッテルニヒとオーストリアの役割

議長を務めたクレメンス・フォン・メッテルニヒはオーストリア帝国の外相(のち首相)で、保守主義・反革命の象徴的人物です。多民族を抱えるオーストリアにとって、ナショナリズム(民族自決)の拡散は帝国崩壊につながる脅威であり、メッテルニヒは保守体制の維持に強い動機を持っていました。

タレーランとフランスの復権

敗戦国フランスからはシャルル=モーリス・ド・タレーランが出席し、「正統主義」(革命前の合法的な王朝・国境の復活)を原則として提唱しました。これはフランスが「革命を起こした国」ではなく「合法的な王国に戻った国」と認められれば、交渉の舞台に対等に立てるという外交戦略でした。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

正統主義

≒ 「革命前の“元通り”に戻そうという方針」

タレーランが主張した原則。フランス革命やナポレオンが塗り替えた国境・王朝を、革命前の「正統な」状態に戻す。ブルボン朝のフランス、オーストリア、プロイセンなどの王家の権威が回復された。

勢力均衡

≒ 「どの国も突出しないよう釣り合いを取る」

ひとつの国がヨーロッパを支配しないよう、大国間の力をバランスさせる原則。ナポレオンのような覇権国の再出現を防ぐ狙いがあった。領土の分配もこの観点から調整された。

ウィーン体制の成立

≒ 冷戦後の「現状維持」国際秩序に相当

会議の結果として生まれた保守的な国際秩序。神聖同盟(ロシア・プロイセン・オーストリアが主導)と四国同盟で体制を維持し、自由主義・ナショナリズム運動を監視・弾圧した。

前後のできごと
年表
1789
フランス革命フランスで革命勃発。自由・平等・国民主権の理念がヨーロッパへ拡散し始める。
1804
ナポレオン即位ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位。以後ヨーロッパ各地に遠征を展開。
1812
ロシア遠征失敗モスクワ遠征が失敗に終わり、ナポレオンの勢力が急速に後退し始める。
1814
ナポレオン退位・会議開始ナポレオンが退位しエルバ島へ流刑。同年9月、ウィーン会議が開幕(議長:メッテルニヒ)。
1815
百日天下と最終議定書3月にナポレオンがエルバ島を脱出し「百日天下」を開始。各国は会議を急ぎ、6月9日に最終議定書に調印。同月ワーテルローの戦い(6月18日)でナポレオンが最終的に敗北し、セントヘレナ島へ流刑。
1815
神聖同盟・四国同盟ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した神聖同盟(ロシア・プロイセン・オーストリア)と、イギリスを加えた四国同盟が結成され、ウィーン体制を支える枠組みが整う。
1848
1848年革命(諸国民の春)ウィーン体制への反発が各地で爆発。フランス・プロイセン・オーストリアなどで革命が同時多発的に勃発し、ウィーン体制は実質的に動揺し始める。
結果とその後
結果
1815年以降約40年間、ヨーロッパ列強間の全面的な大戦争が回避された。「ヨーロッパ協調(コンサート・オブ・ヨーロッパ)」という大国間の協議による秩序維持の仕組みが機能した。
自由主義・ナショナリズムの運動が組織的に弾圧され、各地で政治的抑圧が続いた。1830年の七月革命や1848年革命など、体制への反発が繰り返された。
「正統主義」による国境再編は民族の分布を必ずしも反映しておらず、ドイツ・イタリアなどの統一運動やポーランド問題など、19世紀を通じて民族問題が尾を引いた。
登場人物
人物

クレメンス・フォン・メッテルニヒ

オーストリア帝国外相(のち首相)

ウィーン会議の議長。保守主義・反革命の象徴的人物で、自由主義・ナショナリズムを抑圧する「メッテルニヒ体制」の主導者。1848年革命で失脚し国外逃亡した。

シャルル=モーリス・ド・タレーラン

フランス外相

「正統主義」を会議の基本原則として提唱し、敗戦国フランスを主要交渉国の地位に押し上げた。外交の達人として知られる。

アレクサンドル1世

ロシア皇帝

神聖同盟の提唱者。キリスト教的友愛を基盤とした君主間の連帯を訴えた。

カスルリー子爵(ロバート・スチュワート)

イギリス外相

イギリスを代表して会議に参加。勢力均衡を重視し、四国同盟の結成を主導した。

フリードリヒ・フォン・ゲンツ

会議書記長

「会議は踊る、されど進まず」という言葉の伝達者とされる人物。会議の実務を支えた。

キーワード解説
用語
正統主義(レジティミスム)
フランス革命・ナポレオンが変更した国境・王朝を、革命前の「正統な」状態に戻すべきとする原則。タレーランが提唱し、会議の基本理念のひとつとなった。
勢力均衡(バランス・オブ・パワー)
ヨーロッパの大国間で力の均衡を保ち、ひとつの国が覇権を握らないようにする外交原則。ウィーン会議ではナポレオンのような覇権国の再出現を防ぐ狙いで採用された。
ウィーン体制
ウィーン会議の結果として生まれた保守的・反動的な国際秩序。自由主義・ナショナリズムを抑圧し、神聖同盟・四国同盟によって維持された。1848年革命で動揺し始める。
神聖同盟
1815年にロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱し、ロシア・プロイセン・オーストリアが結成した同盟。キリスト教精神に基づく君主間の連帯を掲げ、革命運動の抑圧を実質的な目的とした。
四国同盟
1815年にイギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアが結成した同盟。ウィーン体制の維持と、フランスの動向を監視することを目的とした。
百日天下
1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出してパリに帰還し、再び帝位についた約100日間。ワーテルローの戦い(同年6月18日)で敗北し終わった。ウィーン会議の最終議定書はこの期間中に調印された。
もっと知りたい
豆知識

1「会議は踊る、されど進まず」の真相

この言葉はウィーン会議の書記長ゲンツが言ったとも、参加者の一人シャルル=ジョゼフ・ド・リーニュ公が言ったとも伝えられ、出典には諸説ある。舞踏会や宴会が連夜開かれ、大国の思惑が交錯して交渉が難航した様子を端的に表した言葉として世界史の名言に数えられている。

2ナポレオンの「百日天下」が会議を急かした

1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出してパリへ帰還したため、交渉を引き延ばしていた各国代表は一致団結し、6月9日に最終議定書を急いで調印した。皮肉にも、ナポレオンの「百日天下」が難航していた会議を決着させる引き金となった。最終議定書の調印はワーテルローの戦い(6月18日)の9日前のことだった。

3タレーランの逆転外交

フランスはナポレオン戦争の「敗戦国」として、本来なら制裁を受ける立場だった。しかしタレーランは「正統主義」を提唱することで「フランスは革命・ナポレオンの被害者であり、正統な王国に戻った」と主張し、フランスを主要交渉国として会議の中心に引き戻した。領土の大幅な割譲を免れたのはこの外交の成果とされる。

4舞踏会の費用は莫大だった

ウィーン会議の期間中、オーストリア皇帝は参加国の代表や随行員約10万人をもてなしたとされる。連夜の舞踏会や晩餐会の費用は膨大で、オーストリア国庫を大きく圧迫したと伝えられている。「会議は踊る」という言葉はまさに文字通りでもあった。

5メッテルニヒは1848年に失脚し国外逃亡

「メッテルニヒ体制」の象徴として長年権勢を誇ったメッテルニヒだが、1848年の革命(ウィーン三月革命)で民衆の怒りが爆発し、オーストリアを脱出してイギリスへ亡命した。彼が抑え込もうとした自由主義・ナショナリズムの波に、結局飲み込まれた形となった。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
開催年は1814〜1815年。語呂は「いや以後(1815)ウィーン会議」(最終議定書の1815年で覚える)。
議長はメッテルニヒ(オーストリア外相)。正統主義を提唱したのはタレーラン(フランス)と混同しないこと。
二大原則は「正統主義」と「勢力均衡」。正統主義=革命前の状態に戻す、勢力均衡=大国間の力の釣り合い。
会議の結果成立した保守体制を「ウィーン体制」という。自由主義・ナショナリズムを抑圧→1848年革命へつながる流れを押さえる。
神聖同盟(ロシア・プロイセン・オーストリア)と四国同盟(上記3国+イギリス)の違いを区別しておく。
「百日天下」とウィーン会議は同じ1815年の出来事だが別事象。ワーテルローの戦い(6月18日)は最終議定書調印(6月9日)の後。
語呂クイズ
「いや以後(1815)ウィーン会議」= ウィーン会議が締結されるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ウィーン会議はいつ開かれたのですか?
A. 1814年9月から1815年6月まで開かれました。最終議定書の調印は1815年6月9日です。入試では最終議定書の年である「1815年」で覚えるのが一般的です。
Q. メッテルニヒとタレーランの役割の違いは何ですか?
A. メッテルニヒはウィーン会議の議長を務めたオーストリア外相で、保守体制(ウィーン体制)の主導者です。タレーランはフランスの外相で、「正統主義」を提唱してフランスを主要交渉国として復帰させた人物です。混同しやすいので注意してください。
Q. 正統主義と勢力均衡の違いは何ですか?
A. 正統主義は「革命前の正統な王朝・国境に戻す」という原則で、タレーランが主張しました。勢力均衡は「大国間で力の釣り合いを保ち、ひとつの国が覇権を持たないようにする」という原則です。二つはセットで覚えましょう。
Q. 神聖同盟と四国同盟の違いは何ですか?
A. 神聖同盟はロシア・プロイセン・オーストリアの3国同盟で、キリスト教的友愛と保守体制の維持を掲げました。四国同盟はこれにイギリスを加えた4国同盟で、ウィーン体制の監視とフランスへの対応を目的としました。
Q. 「会議は踊る、されど進まず」はどういう意味ですか?
A. ウィーン会議では各国の利害が複雑に絡み合い交渉が難航する中、連夜の舞踏会や宴会が開かれていた様子を表した言葉です。「議論は進まないのに遊んでばかりいる」という皮肉が込められています。
Q. ウィーン体制はなぜ崩れたのですか?
A. 保守・反動体制への反発から、自由主義・ナショナリズムの運動が各地で高まりました。1830年の七月革命を経て、1848年の革命(諸国民の春)でフランス・プロイセン・オーストリアなど各地で同時多発的に革命が起き、ウィーン体制は実質的に動揺しました。
Q. 百日天下とウィーン会議の関係は?
A. 百日天下(1815年3〜6月)はナポレオンがエルバ島を脱出して再び帝位に就いた期間で、ウィーン会議(1814〜1815年)と同じ年に重なります。ナポレオンの復帰で危機感を持った各国代表が交渉を急ぎ、最終議定書(6月9日)を調印しました。ワーテルローの戦い(6月18日)はその9日後の出来事です。
まとめ

ウィーン会議(1814〜1815年)は、ナポレオン戦争後のヨーロッパを「革命前の状態に戻す」ことを目的に開かれた国際会議です。メッテルニヒが議長を務め、タレーランが提唱した「正統主義」と「勢力均衡」の原則のもとでウィーン体制が成立しました。この保守反動体制は自由主義・ナショナリズムを抑圧しましたが、その反発が1848年革命へとつながっていきます。語呂「いや以後(1815)ウィーン会議」で年号を覚え、議長メッテルニヒとタレーランの役割の違い、神聖同盟・四国同盟の構成国、「会議は踊る、されど進まず」の意味をセットで押さえましょう。

編集メモ(ファクト)
会議の開幕は1814年9月であり、最終議定書の調印は1815年6月9日。試験では1815年で問われることが多いため、goro・yearともに1815年を基準とした。
ワーテルローの戦い(1815年6月18日)と最終議定書調印(同年6月9日)は同じ1815年だが別事象。混同を避けるため、timelineおよびfaqで明示的に区別した。
「会議は踊る、されど進まず」の出典(ゲンツ説・リーニュ公説など)には諸説あるため、triviaで複数説を併記した。
タレーランの「正統主義」提唱は、フランスの外交的利益と一致する戦略的主張であるが、中学教科書レベルでは「フランスが提唱」という事実関係を押さえることを優先し、動機の詳細は背景セクションに収めた。