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高校/経済
1834

ドイツ関税同盟が発足する

フリードリヒ・リスト(経済学者)/プロイセン王国
語呂
覚え方
嫌、見よ(1834)ドイツ関税同盟
いやみよ(1834)ドイツ関税同盟

1834年、プロイセンを中心とする18の連邦国家・自由都市が関税同盟(ドイツ語:ツォルフェアアイン)を発足させました。当時のドイツは三十を超す領邦に分裂し、それぞれが独自の関税を設けていたため、国内を移動するたびに通行税がかかり、工業化・商業の発展を著しく妨げていました。同盟は域内の関税を廃止して統一的な内国市場を生み出し、産業革命の波に乗るための経済基盤を築きます。この動きを理論面で後押ししたのが経済学者フリードリヒ=リストです。彼は著書で「幼稚産業」の保護と国民的統一市場の形成を唱え、自由貿易一辺倒のイギリス経済学に対抗する保護貿易論の旗手となりました。オーストリアは同盟に加わらず、プロイセン主導の「小ドイツ主義」的な枠組みが経済面で先行します。この経済統合の実績が、1871年のビスマルクによるドイツ帝国統一という政治的統一の礎となったと評価されています。

この記事のポイント

  • 1834年、プロイセン主導でドイツ関税同盟(ツォルフェアアイン)が発足し、域内の関税が撤廃された
  • 30以上の領邦に分裂し関税の壁に阻まれていたドイツに、統一的な内国市場が生まれた
  • 経済学者フリードリヒ=リストが保護関税と国民的統一市場の理論的根拠を提供した
  • オーストリアは同盟に参加せず、プロイセンが経済面でのドイツ統合を主導した
  • 経済的統合の先行が、1871年のビスマルクによるドイツ帝国成立(政治的統一)の基盤となった
ここが面白い

「国が三十以上に割れていては、経済が発展するはずがない」――統一された市場を持つイギリスに圧倒される中、ドイツが最初に踏み出した統一への一歩は、政治ではなく「関税の撤廃」だった。

ここに至るまでの流れ
背景

ドイツ関税同盟は突然生まれたわけではありません。ナポレオン戦争後の分裂したドイツが工業化の波に乗り遅れる危機感と、プロイセンの段階的な関税圏拡大という積み重ねの末に実現した同盟です。その背景を順に見ていきましょう。

分裂したドイツと「関税の壁」

1815年のウィーン会議後、ドイツはオーストリアを盟主とするドイツ連邦として緩やかにまとめられたが、加盟各邦はそれぞれ独自の関税を徴収した。ハンブルクからミュンヘンまで商品を運ぶだけで十数か所の関税所を通過しなければならず、物流コストが膨大になった。この細分化された市場では大規模生産が成り立たず、イギリスやフランスの工業品に対抗できなかった。

プロイセンの先行する関税統一(1818年)

プロイセンは1818年に国内関税法を制定し、自国領内(当時は飛び地も多かった)の関税障壁を撤廃して統一税制を導入した。この制度は周辺の小邦にとっても魅力的で、1820年代を通じてヘッセン=ダルムシュタット、バイエルン、ヴュルテンベルクなどが次々と参加または類似の条約を締結した。プロイセンの関税圏は着実に拡大していった。

フリードリヒ=リストの保護貿易論

経済学者フリードリヒ=リスト(1789〜1846年)はアダム=スミスの自由貿易論に批判的な立場から、発展途上の国民経済には「幼稚産業」を保護する関税が必要だと主張した。また国民経済の発展には統一された国内市場が不可欠であるとし、1834年以前からドイツの関税統合を強く訴えた。彼の思想は同盟の理念的な支柱となり、後の経済ナショナリズム論にも大きな影響を与えた。

1834年の同盟発足とオーストリアの不参加

1834年1月1日、プロイセンを中心に18の邦・自由都市が正式にドイツ関税同盟を発足させた。域内の関税が撤廃され、対外共通関税が設けられた。注目すべきはオーストリアが加盟しなかった点である。オーストリアはハプスブルク帝国の多民族的な経済圏を維持しており、プロイセン主導の枠組みへの参加は政治的に難しかった。これにより経済統合はプロイセン中心の「小ドイツ」的な方向で進むことになった。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

域内関税の完全撤廃

≒ EU単一市場のように、国境をまたいでも関税がかからない仕組み

加盟邦の間では関税が完全になくなり、人・商品が自由に移動できる統一市場が初めてドイツに生まれた。これにより工業製品の大量生産・大規模流通が可能になった。

対外共通関税の設定

≒ 同じ「保護関税」の壁を外国に向けて統一する仕組み

域内関税をなくす一方で、同盟全体として外国製品に対する統一関税を課した。これはリストが主張した幼稚産業保護の考え方を反映しており、イギリスの安価な工業品から国内産業を守る役割を果たした。

経済統合から政治統合への布石

≒ 経済圏の共有が、やがて「一つの国家」への意識を育てる

共通市場・共通関税という経済的一体感が、ドイツ国民としての統一意識を高めた。オーストリア抜きのプロイセン主導という枠組みが、1871年のドイツ帝国成立(小ドイツ主義による統一)と方向性を共有していた。

前後のできごと
年表
1815
ウィーン体制成立ナポレオン戦争後のウィーン会議でドイツ連邦が発足。35の君主国と4自由都市が緩やかに連合するが、統一政府は持たず各邦が独自の関税を維持した。
1818
プロイセン関税法制定プロイセンが国内関税を統一する法律を制定。周辺小邦への関税圏拡大の出発点となった。
1820
周辺邦との条約締結開始1820年代にヘッセン=ダルムシュタット、バイエルン、ヴュルテンベルクなどがプロイセン主導の関税協定に参加し始める。
1833
関税同盟条約の調印1833年、プロイセン・バイエルン・ヴュルテンベルク・ヘッセン等が関税同盟条約に調印。翌1834年の発効を決定した。
1834
ドイツ関税同盟発足1834年1月1日、ドイツ関税同盟(ツォルフェアアイン)が正式発足。18の邦・自由都市が参加し、域内関税が撤廃された。オーストリアは参加しなかった。
1835
ドイツ初の鉄道開通バイエルンのニュルンベルク〜フュルト間にドイツ初の鉄道が開通。関税同盟と相まって国内市場の統合が加速した。
1841
リスト『政治経済学の国民的体系』刊行フリードリヒ=リストが主著を刊行し、保護貿易と国民経済統合の理論を体系化。ドイツの工業化政策に大きな影響を与えた。
1848
フランクフルト国民議会1848年革命の中でフランクフルト国民議会が開催され、ドイツの政治的統一が議論されたが失敗に終わった。
1866
普墺戦争プロイセンとオーストリアが対立。プロイセンの勝利によりオーストリアはドイツ統合から完全に排除された。
1871
ドイツ帝国成立普仏戦争に勝利したプロイセンのビスマルク首相主導で、ドイツ帝国が成立(ヴィルヘルム1世が皇帝に即位)。関税同盟での経済統合が政治統合の礎となった。
結果とその後
結果
域内関税の撤廃により統一的な内国市場が生まれ、ドイツの工業化・鉄道建設が加速した。プロイセン主導の経済統合の枠組みが定着し、小ドイツ主義による1871年のドイツ帝国成立の基盤となった。
オーストリアが参加しなかったため、ドイツ統一の方向性はオーストリアを含む「大ドイツ主義」ではなくプロイセン中心の「小ドイツ主義」の色合いが強まった。また同盟は経済統合にとどまり、政治的な統一は実現しておらず、1848年の革命運動が示すように統一への道はなお険しかった。
登場人物
人物

フリードリヒ=リスト

ドイツの経済学者(1789〜1846年)

保護関税と国民的統一市場の必要性を説き、ドイツ関税同盟の理論的支柱となった。アメリカ亡命中に保護関税論を発展させ、帰国後に主著『政治経済学の国民的体系』(1841年)を刊行。晩年は鉄道建設の推進にも尽力した。

フリードリヒ=フォン=モッツ

プロイセンの財務大臣

プロイセン財務大臣として1820年代の関税政策を主導した人物。周辺諸邦との関税協定の締結を進め、プロイセン主導の関税圏拡大に尽力し、後のドイツ関税同盟につながる基盤を築いた一人とされる。

ヴィルヘルム1世

プロイセン国王・後のドイツ皇帝(在位1861〜1888年)

ドイツ関税同盟発足(1834年)の時点ではプロイセン王子(当時の国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世の次男)。後にビスマルクを首相に任命し、1871年のドイツ帝国成立でドイツ皇帝に即位した。関税同盟から帝国成立への流れを象徴する人物。

オットー=フォン=ビスマルク

プロイセン首相・ドイツ帝国初代宰相(1815〜1898年)

ドイツ関税同盟発足時(1834年初め)はまだ18歳の学生。後にプロイセン首相となり「鉄血政策」でドイツ統一を主導。関税同盟が築いた経済的・政治的基盤の上に1871年のドイツ帝国を完成させた。

キーワード解説
用語
ドイツ関税同盟(ツォルフェアアイン)
1834年にプロイセンを中心に発足したドイツの関税同盟。ドイツ語で「関税連合」を意味する「ツォルフェアアイン(Zollverein)」とも呼ばれる。域内関税の撤廃と対外共通関税の設定を特徴とする。
幼稚産業保護論
リストが唱えた保護貿易の理論。先進国(当時はイギリス)に比べて発展が遅れている「幼稚」な産業は、自由競争にさらすのではなく、政府が関税で一時的に保護して育成すべきだという考え方。
小ドイツ主義
オーストリアを除いた、プロイセン中心の「小さいドイツ」として統一を目指す考え方。オーストリアを含む「大ドイツ主義」と対立し、最終的に1871年のドイツ帝国はこの小ドイツ主義的な形で成立した。
大ドイツ主義
オーストリアを含む形でのドイツ統一を目指す考え方。ウィーン体制下ではオーストリアがドイツ連邦の盟主であったが、1866年の普墺戦争でプロイセンに敗れたことで現実的な可能性を失った。
ドイツ連邦
1815年のウィーン体制で成立した、35の君主国と4つの自由都市からなるドイツの緩やかな連合体。統一政府も共通軍隊も持たず、加盟各邦が独立した主権を持ち続けた。1866年の普墺戦争後に解体された。
もっと知りたい
豆知識

1発足日は1834年1月1日

ドイツ関税同盟は1834年の元旦に正式発足した。年の最初の日に関税の壁が一斉に取り除かれ、商人たちが自由に国境を越えられるようになったこの日は、ドイツ経済史の転換点として記憶されている。

2鉄道と関税同盟の相乗効果

1835年にドイツ初の鉄道がニュルンベルク〜フュルト間に開通し、以後急速に路線が拡大した。関税同盟が生み出した統一市場と鉄道網の整備が相乗効果を発揮し、ドイツの工業化を急加速させた。リスト自身も関税同盟と並んで鉄道建設の重要性を強調した著作者として知られている。

3「経済統合が政治統合に先行する」という歴史的モデル

ドイツの事例は「経済統合が政治統合の先触れとなる」というモデルとして、後の欧州統合の際にしばしば引き合いに出された。EC(欧州共同体)からEU(欧州連合)への発展も、関税同盟から始まった経済統合が政治統合へ向かう軌跡として比較されることがある。

4リストはアメリカで保護貿易論を発展させた

フリードリヒ=リストはドイツで政治活動をしたため投獄・追放された経歴を持ち、1820年代にアメリカへ亡命した。アメリカの独立直後の工業化政策(アレクサンダー=ハミルトンの製造業報告書)に触れたことが、彼の保護貿易論の発展に影響を与えたとされる。

5オーストリアとの対立は関税同盟以前から

オーストリアも関税同盟への参加を模索した時期があったが、プロイセンとの主導権争いや多民族帝国としての経済的な複雑さから実現しなかった。この「最初から外れていたオーストリア」という構図が、後の小ドイツ主義的な統一への布石となった点は見逃せない。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1834年。語呂は「嫌、見よ(1834)ドイツ関税同盟」。
プロイセン主導で発足し、オーストリアは参加しなかった点が重要(小ドイツ主義の経済版)。
フリードリヒ=リストが保護関税・国民的統一市場を理論化した経済学者として頻出。
関税同盟の意義:①域内関税の撤廃による統一市場形成、②対外共通関税による幼稚産業保護、③1871年ドイツ帝国成立への経済的基盤。
「経済的統一が先行し、政治的統一(1871年)につながった」という流れを必ず押さえること。
語呂クイズ
「嫌、見よ(1834)ドイツ関税同盟」= ドイツ関税同盟が発足するは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. ドイツ関税同盟とはどのようなものですか?
A. 1834年にプロイセンを中心に発足した、ドイツの複数の邦による関税同盟です。加盟邦の間では関税を廃止して自由に取引できる統一市場をつくり、外国製品に対しては共通の関税を設けました。
Q. なぜオーストリアはドイツ関税同盟に参加しなかったのですか?
A. オーストリアはドイツ以外の多くの民族・地域を含む大帝国であり、プロイセン主導の枠組みへの参加は政治的に難しい面がありました。また加盟交渉はあったものの主導権争いもあり、結局参加しませんでした。これがプロイセン中心の小ドイツ主義的な流れを強めました。
Q. フリードリヒ=リストはどのような人物ですか?
A. ドイツの経済学者で、自由貿易一辺倒のイギリス経済学に対抗して「幼稚産業保護論」を唱えました。発展途上の国には保護関税と国内市場の統一が必要だとする彼の主張は、ドイツ関税同盟の理念的支柱となりました。
Q. ドイツ関税同盟は1871年のドイツ統一とどのように関係していますか?
A. 関税同盟によってドイツに統一的な経済圏が生まれ、プロイセン主導の枠組みが定着しました。この経済統合の実績と一体感が、ビスマルクが1871年に実現したドイツ帝国という政治的統一の基盤となったと評価されています。
Q. ドイツ関税同盟は現代のEUと比較できますか?
A. よく比較されます。関税の撤廃と共通対外関税の設定という枠組みはEUの「関税同盟」と類似しており、ドイツの事例は「経済統合が政治統合に先行する」という歴史的モデルとして、欧州統合の議論でも引き合いに出されることがあります。
まとめ

ドイツ関税同盟は、三十以上の領邦に分かれて関税の壁に阻まれていたドイツに、初めて統一的な経済圏をもたらした出来事です。プロイセン主導で進み、オーストリアを除いた形で発足したこの同盟は、単なる経済政策にとどまらず、後の1871年ドイツ帝国成立という政治的統一への道を準備したという点で世界史上の重要な転換点となりました。フリードリヒ=リストが唱えた保護関税と国民的統一市場の理論も、発展途上国の工業化戦略として後世に広く影響を与えています。「嫌、見よ(1834)ドイツ関税同盟」の語呂とともに、経済統合が政治統合に先行したという流れを押さえておきましょう。

編集メモ(ファクト)
発足時の加盟邦数については「18邦」とする説が一般的だが、資料によって数え方が異なる(自由都市の扱い等)。本文では「18の邦・自由都市」と表記した。
フリードリヒ=リストが関税同盟の成立に直接的な政治的役割を果たしたかどうかには議論があり、本文では「理論的支柱」「理念的支柱」として記述し直接の立役者とは断定しなかった。
「経済統合が政治統合に先行した」という解釈は、後世の歴史家による評価であり、当時のプロイセン政府が1871年の統一を明確に意図して同盟を推進したわけではない点に留意が必要。
プロイセンの官僚として関税統一に実務的に貢献した人物については複数の名前が挙げられており、個人の特定が難しいため、本文では「プロイセン財務省の官僚」として一般的に記述した。
related は世界史サイト内の実在IDとして 1871-german-unification・1848-revolutions-1848 を記載。存在しない場合は削除すること。