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1830

フランスで七月革命が起こる

パリの市民/シャルル10世
語呂
覚え方
嫌され(いやされ)(1830)七月革命
いやされ(1830)七月革命

1830年7月、フランスのシャルル10世が議会解散・言論弾圧・選挙権縮小という強権的な勅令を一方的に発したことに怒った市民がパリで蜂起し、わずか3日間(「栄光の三日間」)で国王を追放しました。これが七月革命です。革命後、ブルボン朝の専制的な国王に代わってオルレアン家のルイ・フィリップが「フランス国民の王」として即位し、立憲君主制にもとづく七月王政が始まりました。この革命はウィーン体制(保守反動の国際秩序)を大きく揺るがし、同年のベルギー独立やヨーロッパ各地の自由主義・国民主義運動を刺激した、近代史の重要な転換点です。

この記事のポイント

  • 1830年7月、シャルル10世の反動的な勅令(議会解散・出版弾圧・選挙権縮小)に反発したパリ市民が蜂起(七月革命)
  • 「栄光の三日間」と呼ばれるわずか3日間の戦闘で国王が追放され、ブルボン朝の復古王政が終焉
  • オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス国民の王」として即位し、七月王政(立憲君主制)が始まった
  • ウィーン体制(1815年以降の保守反動体制)を根底から揺るがし、同年のベルギー独立に直接影響した
  • ドラクロワの絵画「民衆を導く自由の女神」はこの革命を題材にした作品として世界的に有名
ここが面白い

「自由・平等・博愛」を掲げたフランス革命から40年。ふたたびパリの市民が銃を手に立ち上がり、王を玉座から引きずり下ろした。そのとき一人の画家が、煙硝と血の匂いを永遠にキャンバスへと刻み込んだ。

ここに至るまでの流れ
背景

七月革命は突然起きたわけではありません。1789年のフランス革命以降の激動、ウィーン会議による保守反動体制の復活、そしてシャルル10世の失政という積み重ねが爆発した出来事です。背景を順に見ていきましょう。

ウィーン会議とブルボン朝の復活(復古王政)

1815年のウィーン会議では、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を「革命前に戻す」保守反動体制(ウィーン体制)が確立されました。フランスではブルボン朝が復活し、ルイ18世が即位。一定の立憲主義を認める「欽定憲法(憲章)」のもとで政治が行われましたが、国民主権よりも王権・貴族の権威が優先される体制でした。

シャルル10世の反動政治

1824年に即位したシャルル10世は、亡命貴族への補償(10億フラン法)や聖職者への特権強化など、旧体制(アンシャン・レジーム)への回帰を強引に進めました。議会の自由主義派との対立は深まり、1827年の選挙でも反政府側が多数派を占めるようになりました。それでも国王は路線を変えず、ますます強権的な姿勢をとりました。

七月勅令の発令と市民の蜂起

1830年7月25日、シャルル10世は四つの勅令を一方的に発しました。内容は①新選出の議会の即時解散、②出版(言論)の自由の停止、③選挙権をさらに地主層に限定、④新たな選挙の実施です。これに激怒したパリの市民・労働者・学生が27日から武装蜂起を開始。27〜29日の激しい市街戦を経て(「栄光の三日間」)、シャルル10世はパリを追われて8月2日に退位を余儀なくされ、のちにイギリスへ亡命しました。

七月王政の成立とウィーン体制への影響

革命後、共和制を望む声もありましたが、議会の自由主義的な大ブルジョワジーはオルレアン家のルイ・フィリップを新国王に推しました。ルイ・フィリップは「フランス国民の王」の称号を得て即位し、七月王政が始まります。この革命の波及は大きく、同年8月にはベルギーがオランダから独立、ポーランドでも反乱(ポーランド蜂起)が起きるなど、ウィーン体制が大きく揺らぎました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

専制政治への市民の反乱

≒ 権力の乱用に対する市民の抵抗権行使

議会の意思を無視した四勅令という強権行為が直接の引き金。国王の専制に対し、市民・労働者・学生が街頭で抵抗した。わずか3日で国王を追放した点で、フランス革命(1789年)と並ぶ市民革命の象徴とされる。

ブルボン朝の終焉と七月王政の誕生

≒ 支配者を入れ替えることで政体を変革する立憲革命の実例

完全な共和制ではなく、より自由主義的なオルレアン家による立憲君主制(七月王政)が選ばれた。これは大ブルジョワジー(資本家・富裕市民層)が主導権を握った結果であり、労働者・下層市民の要求は十分に反映されなかった。

ウィーン体制の動揺とナショナリズムの拡散

≒ 一国の革命が近隣諸国の政治変動を連鎖的に引き起こす国際的波及効果

七月革命の成功はベルギーの独立(1830年)やポーランド・ドイツ・イタリアでの自由主義・国民主義運動に火をつけた。1848年の諸国民の春(二月革命など)への道筋をつけた革命として位置づけられる。

前後のできごと
年表
1815
ウィーン会議・復古王政ウィーン会議でブルボン朝が復活。ルイ18世即位。欽定憲法(憲章)のもとで立憲的な王政が始まる。
1824
シャルル10世即位ルイ18世の弟シャルル10世が即位。旧体制への回帰を強める反動的な政策を次々と打ち出す。
1825
亡命貴族補償法フランス革命で土地を失った亡命貴族へ10億フランを補償する法律を制定。自由派の強い反発を招く。
1827
議会選挙で反政府派が躍進下院選挙で自由主義派が多数を占める。シャルル10世は議会との対立を深める。
1830
七月勅令の発令(7月25日)シャルル10世が議会解散・出版の自由停止・選挙権縮小などの四勅令を発布。
1830
パリ市民の蜂起・栄光の三日間(7月27〜29日)パリの市民・労働者・学生が武装蜂起。3日間の市街戦でシャルル10世は王宮を脱出。
1830
シャルル10世退位・ルイ・フィリップ即位(7〜8月)シャルル10世がイギリスへ亡命。オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス国民の王」として即位し、七月王政が始まる。
1830
ベルギー独立(8〜11月)七月革命に刺激されたベルギーでも蜂起が起き、同年11月にオランダからの独立が宣言された。
1831
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」発表画家ウジェーヌ・ドラクロワが七月革命を題材にした絵画を発表。現在はルーヴル美術館に収蔵。
1848
二月革命・七月王政の崩壊ルイ・フィリップも選挙権拡大を求める市民の蜂起(二月革命)で退位。第二共和政が成立する。
結果とその後
結果
ウィーン体制の保守反動秩序を大きく揺るがし、フランスに立憲君主制(七月王政)が成立した。同年のベルギー独立や各地の自由主義・国民主義運動を刺激し、1848年のヨーロッパ革命への道筋をつけた。
七月王政はあくまで大ブルジョワジー(富裕市民層)主導の体制であり、選挙権は依然として財産に応じた制限選挙が維持された。労働者・下層市民の生活改善や普通選挙は実現せず、不満が蓄積して1848年の二月革命につながった点に注意が必要。
登場人物
人物

シャルル10世

フランス国王(在位1824〜1830年)

ルイ18世の弟。旧体制への回帰を目指す反動政治を推進し、七月勅令で市民の怒りを爆発させた。七月革命後にイギリスへ亡命し、ブルボン朝の復古王政は終焉。

ルイ・フィリップ

オルレアン家の公爵・七月革命後の国王(在位1830〜1848年)

自由主義的と見なされたオルレアン家の当主。七月革命後に「フランス国民の王」として即位し七月王政を樹立したが、次第に保守化し1848年の二月革命で退位した。

ラファイエット

国民軍司令官・自由主義派の象徴的人物

アメリカ独立革命・フランス革命でも活躍した老将。七月革命後の混乱期に国民軍を率い、共和制を求める声を抑えてルイ・フィリップの即位を支持する橋渡し役を担った。

ウジェーヌ・ドラクロワ

フランスのロマン主義画家

七月革命を題材に「民衆を導く自由の女神」(1830年)を制作。胸をはだけ三色旗を掲げる女神(自由の擬人化)と銃を手にした市民を描いた作品は、革命と自由の象徴として世界的に有名。現在ルーヴル美術館が所蔵。

キーワード解説
用語
復古王政
1815年のウィーン会議後にブルボン朝が復活したフランスの政体(1814〜1830年)。ルイ18世・シャルル10世が欽定憲法のもとで統治したが、旧体制への回帰を強めたシャルル10世が七月革命で打倒された。
ウィーン体制
1815年のウィーン会議で確立された、ナポレオン以前の秩序に戻すことを目的とした保守反動的な国際体制。自由主義・国民主義の抑圧を目指したが、七月革命や1848年革命によって次第に崩れていった。
七月王政
1830年の七月革命後にルイ・フィリップが打ち立てた立憲君主制の政体(1830〜1848年)。大ブルジョワジー(資本家・富裕市民層)が支持基盤で、制限選挙が維持された。1848年の二月革命で崩壊。
栄光の三日間
七月革命でパリ市民が蜂起してシャルル10世を追放するまでの1830年7月27〜29日の三日間を指すフランス語の表現(Les Trois Glorieuses)。わずか3日間で国王が退位に追い込まれた激闘の日々。
四勅令
シャルル10世が1830年7月25日に一方的に発した4つの勅令。①議会解散、②出版の自由停止、③選挙権の縮小(地主層限定)、④新選挙の実施。この専制的行為が七月革命の直接の引き金となった。
もっと知りたい
豆知識

1「栄光の三日間」はたった72時間の革命だった

シャルル10世が四勅令を発したのは7月25日で、翌26日に官報で公布された。これに反発した市民が27日から武装蜂起し、28・29日の激闘を経て国王は王宮を脱出。わずか3日でフランスの政体が変わってしまったのは驚異的な速さで、この27〜29日の3日間はフランスで「栄光の三日間(レ・トロワ・グロリユーズ)」と呼ばれる。

2ドラクロワ自身は革命に参加していなかった?

「民衆を導く自由の女神」はあたかも目撃証言のような迫力があるが、ドラクロワ本人が実際に蜂起に参加したかどうかは不明。革命後に制作された絵画であり、中心に描かれた女性像はマリアンヌ(フランス共和国の擬人化)として後世に引き継がれ、現在の50フラン紙幣などにも使われた(旧紙幣時代)。

3ベルギーはフランスの革命ニュースを聞いてわずか3か月で独立した

1830年8月25日、ブリュッセルのオペラ座でオランダ支配に反発するベルギー人が蜂起。七月革命のニュースが直接の火つけ役となったとされ、同年11月にはベルギーの独立が宣言された。七月革命の国際的波及の速さと強さを示す事例として頻繁に取り上げられる。

4七月革命の勝者は「市民」ではなく「ブルジョワジー」だったという評価

革命を実際に戦ったのは労働者・職人・学生だったが、政権を握ったのは大ブルジョワジー(銀行家・実業家など富裕市民層)だった。選挙権は依然として財産による制限選挙のまま。「市民が血を流して、利益を得たのはブルジョワ」という構図が、後の1848年二月革命への不満の種となった。

5シャルル10世は「フランスで最後のブルボン朝国王」

1830年に退位したシャルル10世の後はオルレアン家に王権が移ったため、ブルボン朝本流(正統ブルボン)のフランス国王はシャルル10世が最後となった。ルイ・フィリップはブルボン家の傍系(オルレアン家)であり、「フランス国民の王」という称号はこれ以前の「神の恩寵による王」という称号とは意味合いが大きく異なる。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1830年。語呂は「嫌され(いやされ)(1830)七月革命」。
直接の原因:シャルル10世が出した四勅令(議会解散・出版の自由停止・選挙権縮小)への市民の反発。
結果:ブルボン朝の復古王政が終焉し、オルレアン家のルイ・フィリップが即位して七月王政(立憲君主制)が成立。
国際的影響:同年のベルギー独立やヨーロッパ各地の自由主義・国民主義運動を刺激し、ウィーン体制を動揺させた。
関連文化:ドラクロワの絵画「民衆を導く自由の女神」は七月革命を題材にした作品として入試でも問われることがある。
語呂クイズ
「嫌され(いやされ)(1830)七月革命」= フランスで七月革命が起こるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 七月革命はなぜ起きたのですか?
A. ウィーン会議後に復活したブルボン朝のシャルル10世が、議会の意思を無視して言論の自由を弾圧・選挙権を縮小するなどの四勅令を一方的に発したことに怒ったパリの市民が武装蜂起したためです。
Q. 七月革命の「七月」とはいつのことですか?
A. 1830年7月のことです。7月25日に四勅令が発せられ、26〜29日の「栄光の三日間」の市街戦を経て、国王が退位した出来事を指します。
Q. 七月革命の後、フランスはどんな政体になりましたか?
A. 共和制にはならず、オルレアン家のルイ・フィリップが「フランス国民の王」として即位した七月王政(立憲君主制)になりました。ただし選挙権は引き続き財産による制限選挙が維持されました。
Q. 七月革命とウィーン体制はどう関係しますか?
A. ウィーン体制は1815年以降の保守反動的な国際秩序で、自由主義・国民主義の動きを抑えようとするものでした。七月革命はその体制下で起きた最初の大きな自由主義革命で、ベルギーの独立など各地への波及により体制が大きく動揺しました。
Q. 「民衆を導く自由の女神」とはどんな絵画ですか?
A. フランスの画家ドラクロワが1830年の七月革命を題材に描いた油彩画です。胸をはだけ三色旗(トリコロール)を高く掲げた女神(自由の擬人化)が倒れた死体を越えて前進し、市民・労働者が続く場面を描いています。現在ルーヴル美術館に収蔵されています。
まとめ

1830年の七月革命は、ウィーン体制という保守反動の時代にあって、フランスの市民が再び立ち上がって専制的な王を追放した事件です。革命のきっかけは四勅令というシャルル10世の強権行為でしたが、その背景には1815年以降の復古王政への積もり積もった不満がありました。革命後は共和制ではなく七月王政という大ブルジョワジー主導の立憲君主制が生まれましたが、それでもウィーン体制を揺るがし、ベルギーの独立やヨーロッパ中の自由主義・国民主義運動に火をつけた点で近代史の重大な転換点でした。「嫌され(いやされ)(1830)七月革命」の語呂とともに、フランス革命から1848年の二月革命へとつながるフランス近代史の流れの中に位置づけて理解しましょう。

編集メモ(ファクト)
四勅令の内容は諸資料で若干の表現差があるが、中核は議会解散・出版の自由停止・選挙権縮小の3点としてまとめた。
「民衆を導く自由の女神」の完成・発表は1831年のサロン(1831年5月)とする資料が多いが、制作は1830年中なので「1831年発表」として記載した。
ラファイエットの七月革命での役割については諸説あるが、ルイ・フィリップへの橋渡しという点は概ね史料に裏付けられた定説として記載した。
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