高校/政治
1688
名誉革命が起こる
ウィリアム3世/メアリ2世
語呂
覚え方
色は母(1688)名誉革命
いろはは(1688)名誉革命
1688〜89年、イギリスでジェームズ2世が議会の支持をほぼ完全に失い、オランダから招かれたウィリアム3世が無血に近い形で王位を継承しました。翌1689年に制定された権利章典は「国王でも議会の同意なしに法を停止したり税を課したりできない」と明文化し、議会主権と立憲君主政の礎を築きました。この出来事は流血をともなわなかったことから「名誉革命」と呼ばれ、その後のアメリカ独立宣言やフランス革命に思想的な影響を与えた、近代民主主義の出発点とも言える事件です。
この記事のポイント
- 1688年、専制的なジェームズ2世をイギリス議会が追放し、オランダからウィリアム3世を招いた
- 流血がほとんどなかったため「名誉革命」と呼ばれる
- 1689年の権利章典により、国王は議会の同意なしに法の停止・課税・常備軍の維持ができなくなった
- 議会主権と立憲君主政が確立し、イギリス近代政治の原型が完成した
- ジョン・ロックの社会契約説がこの革命を思想的に正当化し、後の市民革命に影響を与えた
ここが面白いほぼ無血でクーデターが成功した。議会が国王を合法的に追い出し、新しい王を自ら選んだ世界初の政変だった。
名誉革命は突然起きたわけではありません。17世紀のイギリスは宗教対立と王権をめぐる紛争が繰り返されてきた歴史があります。その流れを押さえましょう。
ピューリタン革命(1642〜1651年)との違い
名誉革命より40年前、チャールズ1世と議会の対立が内戦(ピューリタン革命)に発展し、国王は処刑されてクロムウェルによる共和政(護国卿政治)が成立しました。これは流血をともなう大規模な内戦であり、共和政という急進的な体制変化でした。一方、1688年の名誉革命は「議会が新国王を選ぶ」という立憲君主政への移行であり、流血がなかった点でまったく性格が異なります。この2つを混同しないことが重要です。
王政復古(1660年)とチャールズ2世
ピューリタン革命後の共和政は国民の支持を失い、1660年にチャールズ2世が王政復古を果たしました。チャールズ2世は巧みに議会と妥協しながら統治しましたが、カトリック寄りの姿勢が議会との摩擦を生みました。
ジェームズ2世のカトリック政策
1685年に即位したジェームズ2世はカトリック信者であり、カトリック・非国教徒への弾圧解除と王権強化を同時に推し進めました。議会を無視した勅令(信仰自由宣言)の発布や、カトリック信者を要職に登用するなどの行動がプロテスタント議会・貴族の強い反発を招きました。
男子誕生が引き金に
1688年6月、ジェームズ2世の妃がカトリックの男子を出産しました。これにより「次の国王もカトリックになる」という確実な見通しが生まれ、議会の指導者7人がオランダ総督ウィリアム(ジェームズ2世の娘婿・プロテスタント)に招待状を送り、武力介入を要請しました。
ウィリアムの上陸とジェームズ2世の逃亡
≒ 選手交代の無血クーデター1688年11月、ウィリアムがオランダ軍を率いてイングランド南西部に上陸。軍と貴族がウィリアム側に次々と移り、ジェームズ2世はフランスへ逃亡した。
議会によるウィリアム3世・メアリ2世の擁立
≒ 議会が新リーダーを選ぶ人事権の行使議会が「王位は議会の同意によって継承される」という前例を作り、ウィリアム3世とメアリ2世(ジェームズ2世の長女・プロテスタント)を共同統治の国王として迎えた。
権利章典の制定(1689年)
≒ 憲法に相当するルールブックの策定議会が権利の宣言(権利章典)を起草し、国王が就任前に承認した。国王による法の停止・議会の同意なき課税・平時の常備軍維持の禁止などを明文化した。
1215マグナ・カルタジョン王が貴族に署名した大憲章。国王も法に従うという原則の起源。立憲主義の出発点として名誉革命につながる系譜の最初。
1642ピューリタン革命チャールズ1世と議会の対立が内戦に発展。1649年に国王処刑・共和政成立。名誉革命とは別の事件なので混同しない。
1660王政復古チャールズ2世が即位し王政が復活。議会との緊張関係は続いた。
1685ジェームズ2世即位カトリック信者のジェームズ2世が即位。議会を無視したカトリック優遇政策を推進。
1688革命(11月)ウィリアムがイングランドに上陸。ジェームズ2世がフランスへ逃亡し、ほぼ無血で政変が完了。
1689権利章典議会が権利章典(権利の宣言)を制定。ウィリアム3世・メアリ2世がこれを承認して共同統治国王に就任。立憲君主政が正式に確立。
1690ロック『統治二論』ジョン・ロックが名誉革命を思想的に正当化する『統治二論』を出版。社会契約説・抵抗権の理論がアメリカ独立・フランス革命に影響を与えた。
◎議会主権と立憲君主政が確立し、国王は議会の同意なしに法の停止・課税・常備軍の維持ができなくなった。イギリス近代政治の基盤が完成した。
◎ロックの社会契約説・抵抗権の理論がこの革命を正当化し、アメリカ独立宣言(1776年)やフランス革命(1789年)の思想的礎となった。
△カトリック信者への差別(審査律)は名誉革命後も長く続いた。完全な宗教的自由や普通選挙権の実現にはその後さらに長い年月を要した。
ジェームズ2世
イギリス国王(1685〜1688年)カトリック信者。議会を無視したカトリック優遇政策と専制的統治により議会・貴族の支持を失い、名誉革命でフランスへ逃亡した。
ウィリアム3世
オランダ総督・イギリス国王(1689〜1702年)ジェームズ2世の娘婿でプロテスタント。議会の招きでイングランドに上陸し、メアリ2世とともに共同統治国王に就任。権利章典を承認した。
メアリ2世
イギリス女王(1689〜1694年)ジェームズ2世の長女でプロテスタント。ウィリアム3世の妻。議会の支持を受け夫と共同統治国王に就任した。1694年に死去。
ジョン・ロック
イギリスの哲学者1690年に『統治二論』を出版し、社会契約説・抵抗権の理論で名誉革命を正当化した。その思想はアメリカ独立宣言やフランス革命宣言に直接影響を与えた。
- 権利章典(権利の宣言)
- 1689年、議会が制定しウィリアム3世・メアリ2世が承認した文書。国王による法の停止・議会の同意なき課税・平時の常備軍維持を禁止し、議会主権・立憲君主政の基礎を明文化した。
- 立憲君主政
- 国王が憲法・法律の枠内で統治する政治体制。名誉革命により、イギリスでは国王が議会のルールに従うことが制度化された。現代でいうと「王でも議会の定めたルールに従わなければならない」仕組み。
- 議会主権
- 立法権が議会に属し、国王は議会の同意なしに法を制定・停止・課税できないという原則。名誉革命と権利章典によってイギリスで確立した。
- 社会契約説
- 人々が自然権を守るために契約を結んで国家を作るという政治理論。ロックはこの理論をもとに、政府が契約に違反すれば人民には抵抗権があると主張し名誉革命を正当化した。
- ピューリタン革命
- 1642〜51年のイギリス内戦。チャールズ1世が処刑され共和政が成立した。名誉革命(1688年・立憲君主政・ほぼ無血)とは時代・性格ともに異なる別の事件。混同しないこと。
1「名誉」革命の名は後世がつけた
「Glorious Revolution(名誉革命)」という呼び名は、ほぼ無血で政変が完了したことを称えて後世の歴史家が名付けたものです。当時の人々は単に「革命」や「大事件」と呼んでおり、「名誉革命」という表現が定着したのは18世紀以降のことです。
2ジェームズ2世は軍も逃げていった
ウィリアムが上陸すると、ジェームズ2世の軍の将軍たちが次々と離反しました。最も有名なのはジョン・チャーチル(後のマールバラ公爵)で、彼がウィリアム側に寝返ったことが決定打となりました。王自身も戦わず、最終的に指輪を川に投げ捨てながらフランスへ逃亡したと伝えられています。
3権利章典はアメリカ憲法のひな型になった
1689年の権利章典は、1791年に追加されたアメリカ合衆国憲法修正条項(権利の章典、Bill of Rights)の直接的なモデルとなりました。信仰の自由の保障、残虐な刑罰の禁止、陪審裁判の権利など、多くの条項が引き継がれています。
4ウィリアム3世の招待状には「7人の署名」があった
議会の有力者7人がウィリアムに武力介入を要請した書簡(いわゆる「不滅の七人の招待状」)を秘密裏に送りました。この7人は後に「不滅の七人」と呼ばれ、名誉革命の立役者として讃えられています。
5マグナ・カルタから473年越しの到達点
1215年のマグナ・カルタで芽生えた「国王も法に従う」という原則が、ピューリタン革命の試行錯誤を経て、1688年の名誉革命と1689年の権利章典でようやく制度として完成しました。立憲主義の確立に473年かかったことになります。

ここが出る博士のワンポイント
年号は1688年(名誉革命の勃発)。語呂は「色は母(1688)名誉革命」。権利章典は翌1689年。
ジェームズ2世を追放し、ウィリアム3世・メアリ2世を新国王に迎えた点を押さえる。
ピューリタン革命(1642年・内戦・共和政)と名誉革命(1688年・ほぼ無血・立憲君主政)は別の事件。年号・性格ともに区別する。
権利章典の内容:国王は議会の同意なしに法の停止・課税・常備軍維持ができない。議会主権の確立。
ジョン・ロックの社会契約説が名誉革命を正当化し、アメリカ独立・フランス革命への思想的影響を与えたことも頻出。
立憲主義の系譜:マグナ・カルタ(1215)→ピューリタン革命(1642)→名誉革命(1688)→権利章典(1689)。
語呂クイズ
「色は母(1688)名誉革命」= 名誉革命が起こるは西暦何年?
- Q. 名誉革命はなぜ「名誉」と呼ばれるのですか?
- A. ほぼ流血なしに政変が完了したことを後世の歴史家が称えて「名誉革命」と命名したからです。ピューリタン革命のような大規模な内戦にならず、議会が合法的に国王を交代させた点が「名誉ある」とされました。
- Q. ピューリタン革命と名誉革命の違いは何ですか?
- A. ピューリタン革命(1642〜51年)はチャールズ1世と議会の内戦で、国王処刑と共和政成立にまで至った流血の大変動です。名誉革命(1688年)はジェームズ2世の逃亡・議会によるウィリアム3世擁立という形でほぼ無血に終わり、共和政ではなく立憲君主政を確立しました。
- Q. 権利章典とはどんな内容ですか?
- A. 1689年に議会が制定した文書で、(1)国王は議会の同意なしに法を停止できない、(2)議会の同意なく税を課せない、(3)平時に常備軍を維持できない、(4)議会選挙の自由を保障する、などを定めました。現代でいえば「王でも議会のルールに従わなければならない」と明文化した憲法的文書です。
- Q. 名誉革命はなぜ世界史上重要なのですか?
- A. 議会主権と立憲君主政が法的に確立した最初の事例だからです。またジョン・ロックの社会契約説がこれを正当化し、アメリカ独立宣言(1776年)やフランス革命(1789年)の思想的基盤となりました。近代民主主義の出発点として位置づけられています。
- Q. ジェームズ2世はどうなりましたか?
- A. フランスへ逃亡し、ルイ14世の庇護を受けました。その後アイルランドで王位回復を試みてウィリアム3世と戦いましたが(ボイン川の戦い、1690年)敗北し、フランスで亡くなりました(1701年)。
- Q. マグナ・カルタと名誉革命はどう関係しますか?
- A. 1215年のマグナ・カルタは「国王も法に従う」という原則の出発点です。その原則が議会の発展を経て成熟し、1689年の権利章典で立憲君主政として完成しました。マグナ・カルタ→ピューリタン革命(試行錯誤)→名誉革命・権利章典という立憲主義の系譜として理解するのがポイントです。
1688年の名誉革命は、議会がほぼ無血でジェームズ2世を追放し、ウィリアム3世・メアリ2世を新国王に迎えた政変です。翌1689年の権利章典により「国王でも議会のルールに従わなければならない」という議会主権・立憲君主政がイギリスで確立しました。ピューリタン革命(1642年・内戦・共和政)とは別の事件であることを必ず区別してください。ロックの社会契約説がこの革命を正当化し、アメリカ独立・フランス革命への思想的橋渡し役となった点も頻出です。「色は母(1688)名誉革命」の語呂とともに、権利章典の内容・立憲君主政の確立・ロックとの関係を押さえましょう。
編集メモ(ファクト)
ピューリタン革命(1642〜51年)と名誉革命(1688年)は別の事件であり、年号・性格ともに明確に区別して記述した。
権利章典は1689年の制定だが、名誉革命の年号は1688年(勃発年)を採用するのが日本の教科書の慣例に沿った扱いのため、yearフィールドは1688とした。
ジョン・ロックの『統治二論』は名誉革命の正当化のために書かれたとされるが、出版は1689〜90年。思想的背景として記述した。
result の負の側面として、名誉革命後もカトリック差別が続いた点を中立的に記述した。