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1689

イギリスで権利章典が定められる

ウィリアム3世・メアリ2世/イギリス議会
語呂
覚え方
色白く(いろはく)(1689)権利章典
いろはく(1689)権利章典

1689年、イギリス議会は「権利章典(Bill of Rights)」を制定しました。前年の名誉革命でジェームズ2世を追放し、新たにウィリアム3世とメアリ2世を迎えた議会は、国王が守るべきルールを文書で明確にしました。内容は、議会の同意なしに法律を停止したり課税したりすることの禁止、議会内での言論の自由、常備軍の違法化(議会承認なしの場合)、議会の定期的開催の保障など多岐にわたります。これにより「王は君臨すれども統治せず」という近代イギリス政治の基礎が確立され、1215年のマグナ・カルタ以来続く議会主権・法の支配の流れが一つの到達点を迎えました。

この記事のポイント

  • 1688年の名誉革命で専制的なジェームズ2世を追放し、ウィリアム3世とメアリ2世を新国王として迎えた
  • 1689年、議会が提示した「権利の宣言」を国王夫妻が受け入れ、権利章典として法制化された
  • 議会の同意なしの課税・法律停止・常備軍の維持を禁止し、議会の優越を明確にした
  • 議会内の言論の自由や定期的な議会開催の保障など、近代議会政治の原則が成文化された
  • 立憲君主制と議会主権の確立により、その後のアメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも大きな影響を与えた
ここが面白い

「王様は議会の決めたルールに従わなければならない」――この原則を法律として明文化し、近代イギリスの立憲君主制を決定づけたのが1689年の権利章典だった。

ここに至るまでの流れ
背景

権利章典は突然生まれたわけではありません。17世紀を通じたイギリスの王権と議会の対立、ピューリタン革命と王政復古の経験、そして名誉革命という一連の流れの末に生まれた文書です。その背景を順に見ていきましょう。

17世紀の王権と議会の対立

17世紀のイギリスでは、チャールズ1世が議会を無視して専制政治を行い、清教徒革命(ピューリタン革命)によって1649年に処刑されました。その後オリバー・クロムウェルによる共和制が続きましたが、1660年にチャールズ2世のもとで王政が復古しました。しかし王権と議会の緊張は続き、課税権や信教の問題でたびたび衝突しました。

ジェームズ2世の専制とカトリック問題

1685年に即位したジェームズ2世はカトリック教徒であり、議会を無視して「信教の自由令」を一方的に発布し、カトリック教徒を軍や政府の要職に登用しました。プロテスタント国家であるイギリスでこうした行動は強い反発を招き、議会の有力議員たちはジェームズ2世の娘メアリとその夫・オランダ総督ウィリアムに支援を求めました。

名誉革命――ほぼ無血の政変

1688年11月、ウィリアムが大軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世の軍は次々と離反しました。ジェームズ2世はロンドンを脱出してフランスへ亡命し、議会はこの政変を「名誉革命」と称しました。ほとんど流血なく王が交代したことから「名誉(Glorious)」と呼ばれますが、実際には周到に計画された政治的クーデターでした。

権利の宣言から権利章典へ

1689年2月、議会はウィリアムとメアリに対して「権利の宣言」を提示し、これを受け入れることを条件として二人を共同統治の国王・女王として迎えました。同年12月、この宣言は議会制定法として「権利章典(Bill of Rights)」となりました。国王の権限を議会が明文で制約するという前例のない形で、立憲君主制の基盤が法的に確立されました。

やったこと(≒ 現代でいうと)
何を

議会の同意なしの課税・法律停止の禁止

≒ 増税や法律の変更は必ず議会で決める、という現代議会政治の原則

国王が議会の承認なしに課税したり、議会が定めた法律を停止・免除したりすることを明確に禁止した。これにより課税権は実質的に議会のものとなった。

常備軍の違法化(議会承認なしの場合)

≒ 軍の維持・展開には議会の承認が必要、という文民統制の原点

平時に議会の承認なしで国内に常備軍を置くことを違法とした。これはジェームズ2世が議会を無視して軍を用いたことへの直接の反省を踏まえたものである。

議会内の言論の自由と定期的な議会開催の保障

≒ 国会議員が自由に議論できる権利と、定期的に国会が開かれる仕組み

議会内での言論・討論は議会外(裁判所など)で問われないと定めた。また議会が定期的に開催されることを保障し、国王が恣意的に議会を閉じることを防いだ。

前後のできごと
年表
1628
権利の請願チャールズ1世に対して議会が「権利の請願」を提出。不当な課税・不当逮捕の禁止などを求め、王がこれを承認した。
1649
チャールズ1世の処刑ピューリタン革命(清教徒革命)でチャールズ1世が処刑され、共和制(コモンウェルス)が樹立される。
1660
王政復古チャールズ2世のもとで王政が復古。ただし王権と議会の対立は解消されなかった。
1679
人身保護法不当な逮捕・拘禁を禁じる人身保護法(ハビアス・コーパス法)が制定される。
1685
ジェームズ2世即位カトリック教徒のジェームズ2世が即位。議会を無視した専制政治を進め、カトリック教徒を要職に登用する。
1688
名誉革命議会がウィリアム(オレンジ公)を招集。ウィリアムが上陸するとジェームズ2世はフランスへ亡命した(ほぼ無血の政変)。
1689
権利章典の制定議会が「権利の宣言」をウィリアム3世とメアリ2世に提示し、受け入れを条件として即位を認めた。同年12月に権利章典として法制化。
1701
王位継承法権利章典を補完する王位継承法が制定され、カトリック教徒の王位継承を禁止。イギリスのプロテスタント国家としての性格が固まった。
1776
アメリカ独立宣言権利章典の精神がアメリカの建国文書に影響。1791年制定のアメリカ合衆国権利章典(Bill of Rights)はその名称も直接受け継いだ。
結果とその後
結果
立憲君主制と議会主権の原則が法的に確立され、「王は君臨すれども統治せず」という近代イギリス政治の基礎が生まれた。マグナ・カルタ(1215年)から続く議会の権利拡大の流れが一つの到達点を迎え、その後の民主主義・人権思想にも大きな影響を与えた。
権利章典が保護した権利は当時の財産ある成人男性・プロテスタントが中心であり、女性・カトリック教徒・貧民などには十分に及ばなかった。また王権は制限されたが廃止されたわけではなく、真の意味での民主主義が確立されるのはさらに後の時代(選挙権拡大など19〜20世紀)のことである。
登場人物
人物

ウィリアム3世(オレンジ公ウィレム)

オランダ総督・イギリス国王(在位1689〜1702年)

ジェームズ2世の娘メアリの夫。議会の招きでイギリスに上陸し、名誉革命を成功させた。権利章典を受け入れる条件で王位に就き、議会主権の原則を認めた。

メアリ2世

イギリス女王(在位1689〜1694年)

ジェームズ2世の長女でプロテスタント。夫ウィリアム3世と共同統治の形でイギリス女王となる。1694年に天然痘で死去し、以後はウィリアム3世の単独統治となった。

ジェームズ2世

イギリス国王(在位1685〜1688年)

カトリック教徒の専制君主。議会を無視した政策がプロテスタント貴族の反発を招き、名誉革命で王位を追われてフランスへ亡命した。

ジョン・ロック

イギリスの哲学者・政治思想家

権利章典と同年の1689年に『統治二論』を発表し、社会契約論・抵抗権・自然権を論じた。権利章典の精神と共鳴し、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に大きな影響を与えた。

キーワード解説
用語
権利章典
1689年にイギリス議会が制定した法律。議会の同意なしの課税・法律停止・常備軍維持の禁止、議会内の言論の自由、定期的な議会開催の保障などを定め、立憲君主制・議会主権の基礎を確立した。
立憲君主制
憲法や法律によって国王の権限が制限される政治体制。権利章典によってイギリスで確立され、「王は君臨すれども統治せず」という原則の基盤となった。
議会主権
議会が国家の最高権力機関であるという原則。権利章典により、課税・立法・軍事などの重要事項には議会の承認が必要とされ、国王の権力が実質的に議会のコントロール下に置かれた。
名誉革命
1688年にイギリスで起きた、ほぼ無血の政変。専制的なジェームズ2世が議会の招いたウィリアム(オレンジ公)の上陸によってフランスへ亡命し、ウィリアム3世とメアリ2世が即位した。
権利の宣言
1689年2月に議会がウィリアム3世とメアリ2世に提示した文書。国王が守るべき権利・原則を列挙し、これを受け入れることを即位の条件とした。同年12月に権利章典として法律化された。
もっと知りたい
豆知識

1ほぼ無血の革命なのに「名誉」革命と呼ばれた理由

1688年の政変は、ジェームズ2世の軍が次々とウィリアムに離反し、王がほとんど抵抗せず亡命したことで流血をほぼ伴わなかった。イギリスでは17世紀前半のピューリタン革命で王が処刑されるという激しい経験があったため、血を流さずに政体を変えたことを誇らしく「名誉(Glorious)」と称した。ただし、アイルランドやスコットランドでは戦闘があり、完全に無血だったわけではない。

2アメリカの「権利章典」は名前を直接引き継いでいる

1791年に制定されたアメリカ合衆国憲法の最初の10条修正条項は「Bill of Rights(権利章典)」と呼ばれ、イギリスの権利章典から名称を直接継承している。言論・宗教の自由、不当な捜索の禁止、適正手続きの保障など、その内容にもイギリスの権利章典の影響が色濃く見られる。

3ウィリアム3世とメアリ2世は二人で「共同統治」をした

通常、王位は単独統治だが、1689年のイギリスでは夫婦のウィリアムとメアリが共同統治者として即位するという異例の形が取られた。議会はメアリだけを女王にしてウィリアムを王配(配偶者)にすることを検討したが、ウィリアムが単独の王権を要求したためこの形に落ち着いた。メアリは1694年に死去し、その後はウィリアム単独の統治となった。

4権利章典と同年にジョン・ロックが『統治二論』を発表

1689年は権利章典の年であると同時に、哲学者ジョン・ロックが『統治二論(Two Treatises of Government)』を出版した年でもある。ロックは自然権(生命・自由・財産)と社会契約論・抵抗権を論じ、権利章典の精神と共鳴した。この理論は後にアメリカ独立宣言(1776年)やフランス人権宣言(1789年)に直接影響した。

5「王は君臨すれども統治せず」という言葉の由来

「王は君臨すれども統治せず(The king reigns but does not govern)」というフレーズは、権利章典によって確立された立憲君主制の本質を端的に表している。国王は国家の象徴として存在するが、実際の政治は議会と内閣(大臣)が担うという原則で、現在の日本の「象徴天皇制」と似た考え方の源流にもなっている。

世界史の博士
ここが出る博士のワンポイント
年号は1689年。語呂は「色白く(いろはく)(1689)権利章典」。
制定された背景は1688年の名誉革命。ジェームズ2世が追放され、ウィリアム3世とメアリ2世が即位した際に議会が提示した条件が法律化されたもの。
主な内容:①議会の同意なしの課税・法律停止の禁止、②議会内の言論の自由の保障、③常備軍の違法化(議会承認なしの場合)、④議会の定期的開催の保障。
権利章典によって「立憲君主制」と「議会主権」が確立された。マグナ・カルタ(1215年)から続く議会の権力拡大の流れの到達点として位置づけること。
後のアメリカ独立宣言(1776年)・フランス人権宣言(1789年)・アメリカ合衆国権利章典(1791年)に影響を与えた点が問われることがある。
語呂クイズ
「色白く(いろはく)(1689)権利章典」= イギリスで権利章典が定められるは西暦何年?
よくある質問
FAQ
Q. 権利章典はなぜ制定されたのですか?
A. 1688年の名誉革命でジェームズ2世が追放された後、議会が新国王ウィリアム3世とメアリ2世に対して「国王が守るべきルール」を文書で示し、これを受け入れることを即位の条件としたためです。翌1689年にこの「権利の宣言」が権利章典として法律化されました。
Q. 権利章典の最も重要な内容は何ですか?
A. 議会の同意なしに国王が課税したり法律を停止したりすることの禁止です。これにより課税権と立法権が実質的に議会のものとなり、立憲君主制・議会主権の原則が確立されました。
Q. マグナ・カルタと権利章典の違いは何ですか?
A. マグナ・カルタ(1215年)は、主に貴族が自分たちの権利を守るために王に認めさせた文書で、当初は一般庶民への権利保障を意図したものではありませんでした。権利章典(1689年)は、議会全体が国王に対して議会の優越を確立した文書で、立憲君主制・議会主権という近代的な政治原則を法律として定めた点で大きく発展しています。
Q. 「名誉革命」と権利章典はどう関係していますか?
A. 名誉革命(1688年)は権利章典成立の直接のきっかけです。名誉革命でジェームズ2世を追放した議会が、新国王に対して提示した条件文書が「権利の宣言」であり、これが翌1689年に権利章典として法制化されました。名誉革命と権利章典はセットで「立憲君主制確立」の出来事として覚えるとよいでしょう。
Q. 権利章典は現在も有効ですか?
A. はい。権利章典は現在もイギリスの法律として有効です。イギリスには一般的な意味での成文憲法がありませんが、マグナ・カルタ・権利の請願・権利章典などの歴史的文書が憲法的な役割を果たしています。議院内閣制や言論の自由など、現在のイギリス政治の基本原則の多くはこれらの文書に由来しています。
まとめ

権利章典は、「国王といえども議会の決めた法律に従わなければならない」という原則を法律として確立した、イギリス史上最も重要な文書の一つです。1215年のマグナ・カルタから約470年の時を経て、議会主権・立憲君主制という近代的な政治の仕組みがここで一つの形になりました。「色白く(いろはく)(1689)権利章典」の語呂とともに、名誉革命とセットで「立憲君主制の確立」として押さえ、その後のアメリカ独立宣言・フランス人権宣言への影響まで流れをつかんでおきましょう。

編集メモ(ファクト)
権利章典の正式名称は「臣民の権利および自由を宣言し、また王位継承を定める法律(An Act Declaring the Rights and Liberties of the Subject and Settling the Succession of the Crown)」。
「名誉革命」はスコットランド・アイルランドでの戦闘を伴っており、完全に無血ではないが、イングランド本国では流血がほぼなかったためこの名で呼ばれる。
ジョン・ロックの『統治二論』出版年(1689年)は権利章典と同年だが、内容はそれ以前から準備されていたとされる。
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